第二部

第二部:哲学史における「怒り」の再検討


三.人間の本性としての怒り


 「宣言」にて言及されていたように、「怒り」という感情は古来哲学者によって議論され、その性質について、また向き合い方について、数多の主張がなされてきた。本稿では宣言が引用している、アリストテレス、セネカ、トマス・アクィナス、デカルト、アーノルドの知見を引用しながら、「怒り」が技術という外的要因によって乗り越えられるべき人間精神の瑕疵ではなく、人間が主体的に向き合うべき本性であることを主張する。

 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第四巻において、怒りに言及した。アリストテレスは人間の徳について、感情・行為をめぐりその極端、すなわち超過と不足を避け、その中間性を示しているものとしているが、怒りの感情もまた中間性を示すとき、人柄の徳のうちに位置づけられる。さてその怒りの中間性については、アリストテレスによると「しかるべき事柄について、しかるべき相手に対して怒りを覚え、さらにはまたしかるべき仕方で、しかるべき時に、しかるべき時間のあいだ怒る人が、称賛される」。怒りの極端な不足はその人をまるで奴隷のように見せることになるし、逆に怒りの超過は常にその人に報復や警戒の心を持たせることになる。ここで注目すべきは、アリストテレスは、怒りという感情について、その中間性が示されるとき――彼はこのような中間性の規定について「容易ではない」としているからこそ――肯定しているということである。

 一方、セネカが著した『怒りについて』はレームブルックの『怒りと理性』が出版される以前のアンガーマネジメントの教則本のようにみなされており、セネカは「どうしたら怒りを和らげられるか」を主体に持論を展開している。そのため怒りを完全に悪しきものとしており、第一巻第二章では「この情念のもたらす結果と害悪に目を向けると、人類にとってどんな悪疫も、これほど高くついたためしはない」と述べるほどである。彼の怒りに対する見解はある種の矛盾をはらみ、第一巻第三章で「怒りは、理性に敵対するとはいえ、理性に場所があるところ以外、決してどこにも生じない」、「動物に衝動、狂暴、獰猛、攻撃性はある。だが、怒りが存在しないのは奢侈がないのと大差ない」と述べながら、第五巻では「そうした欲望(筆者註:直前で怒りは離散、加害、懲罰を欲すると述べている)がこの上なく平和な人間の胸にもとから内在するというのは、人間の本性に即したことではありえない」ものとしている。つまり怒りは(セネカに言わせれば)「物言わぬ(alogos:理性を欠いた)動物」には備わっていない情念でありながら、その情念は人間に本来備わっているものではないということである。とはいえこのような発言は、本書がノウァートゥスに向けた書簡の形をとっていることから、怒りを克服すべき対象として捉えざるを得ず、したがって随所で辻褄の食い違いが生じざるを得なかったのかもしれない。このような怒りに対しては、第一章で取り上げたような主体の思考方針によって、また第二巻第二十一章に見られる子供の教育環境によって遠ざけることが可能であるとしている。いずれにしても、セネカは怒りについて、人間にのみ備わった情念の形であり、それゆえに子供の場合は教育、大人の場合は心構えといった、人の心に注視した方法によって対処可能だと述べている。

 トマス・アクィナスは大著『悪について』第十二章で「怒りについて」という章を設けており、この時点で既に怒りを悪しきものとして捉えたものと思われるが、実際は怒りが非常に実地的に解釈されており、筆者も彼の主張に大いに賛同するところである。トマスは「すべての怒りは悪いと思われる」という命題を立て、その理由となる異論をいくつか並べた後で、自らの考えを展開するという形式をとっている。トマスによれば、怒りの形相的側面――すなわち欲求的な魂に由来し、「報復への欲求」と呼ばれるもの――に着目すると、怒りは感覚的欲求のうちにも、また知性的欲求=意志のうちにも存在しうるものであるとしたうえで、意志に基づく怒りは善でも悪でもありうるとしている。というのも、法の秩序を守りつつ、罪を裁くために報復を求めればそれは善であるし、人が私的に報復を求めれば悪であるからである。また、怒りは感覚的欲求の働きだが、これは理性によって秩序立てられるものであり、またトマスによれば「人間の自然本性の条件は感覚的欲求が理性によって動かされることを要求する」ものである。つまりその後で彼が述べているように、怒りが「理性に服従する」場合は「善いものである」とされている。このような彼の思想は、異論1、2、またそれらに対する回答に顕著に表れている。



異論一 ……真正な諸写本の分は明瞭であり、怒りは全面的に退けられている。実際、私たちが迫害者たちのために祈るよう命じられるとき、怒りのあらゆる機会が取り去られる。……なぜなら、人の怒りは神の正義を成し遂げないからである。それゆえ、すべての怒りは悪いものであり、禁じられている。

異論解答一 ……しかし、この種の怒りがすべて悪いわけではなく、既に述べた通り、罪に対抗する怒りは善いものである。

異論二 ……怒りは犬には自然本性的だが、人間の自然本性には反している。ところで、人間の自然本性に反するものは悪であり罪である。これはダマスケヌスの『正統信仰論』第一巻からも明らかである。それゆえ、すべての怒りは悪である。

異論解答二 理性を支配するような怒りは人間にとって自然本性的ではなく、怒りが理性に服従することが人間にとって自然本性的である。



 また『神学大全』でも怒りに対する複合的な見解が展開されている。彼は怒りに対して非常に肯定的である。というのも、怒りの感情は相手の悪に対して、善という特質に基づいて報復を欲求するからである。とはいえキリスト教哲学者たるトマスにおいて、全ての報復が是認されるわけではなく、「正義の保全」「罪を犯した者の矯正」「神の尊崇」といった「善」の志向が基盤になっている限り、許容されるのである。このような理性に服従する形で意志された怒りが目指す「善」が実現したとき、そこで達成されるのは、自己と他者の間に存在する否定的な関係性さえも内包した、融和的な関係性への発展的な超回復であり、そういった観点において、彼は怒りを鮮やかな論調で肯定的に捉えなおしているのである。

 続いて近代哲学の父デカルトの知見に触れるにあたり、『情念論』にて情念を引き起こすとした「動物精気(esprits animaux)」と情念の関連性について触れる必要がある。動物精気とは人間のあらゆる運動を媒介する微小な粒子である。また、人間の精神は身体と不可分なものでありながら、身体から切り離されたものであって、その機能は能動すなわち意志と受動すなわち知覚の二つである。そして情念は、ある知覚を受けて引き起こされる精気の運動によって精神に生じる、と説明される。



……私がここで精気と名づけるものは、物体にほかならないのであり、松明から出る焔の粒子と同様、きわめて微小できわめて速く動く物体である……。そこで精気はどの場所にも静止することがなく、またある精気が脳の空室にはいるにしたがって、他の精気は、脳の実質の中にあいている多くの孔によって脳からでてゆき、これらの孔は精気を神経に導き、神経からさらに筋肉に導く。かくて精気は、身体を、それによって可能なあらゆる異なった運動の仕方で、運動させるのである。(第十節)

……これに反して一般に精神の受動と読んでよいものは、われわれのうちにあるあらゆる知覚、いいかえれば認識である。(第十七節)

すなわちそれは、「精神の知覚または感覚または感動であって、特に精神自身に関係づけられ、かつ精気のある運動によってひき起こされ維持され強められるところのもの」である。(第二十七節)



 そして、情念は身体(ここでは「心臓のうちに起こるなんらかの激動」とされる)を伴う精気の運動に依るため、精神は情念を完全には支配できないとされる。しかしながら、善と悪との認識についての決然たる判断をもって情念に流されず、真理の認識を持つことによって、デカルトは「みずからのすべての情念に対して、ほとんど絶対的な支配を獲得できる」と結んでいる。

 さて、デカルトは第一章で触れたように、高邁の心をもつことで過度の怒りを防ぐことができるとしている。この高邁の心を持つための前提条件となるのが、「驚き」である。愛を伴う驚きは「尊重」の情念を引き起こし、そのような情念を引き起こす精気の運動は「顔つきや身振りや歩きぶりまでも、一般に彼らの行動すべて」を変える。このような尊重の情念を自己に正当に向けることで、「高邁」の心を持つことができるのである。高邁の心を持った人間は、自由意志をよく行使し続けるという決意を持つのみならず、それを自己自身のうちに感じることができるようになるとされる。このように、自己を正当に尊重し、高邁の心を持った人間は、他人をむやみに軽視することがなくなるために、過度の怒りを抱かずに済む。デカルトにおいても、怒りは避けるべきものと位置づけられるのである。

 このようにアリストテレス以降、「判断の結果として現れる情動」の一つとして位置づけられた怒りは、デカルトの機械論的な情念理論によって否定された。ところが、情動を再び思考の一つとしてとらえなおす動きが認知心理学に見られるようになる。マグダ・アーノルドは欲求の目的という、トマス・アクィナスと同種の構造によって情動を捉えつつも、その役割を「障害物を取り除く」という小さな役割にとどめている。彼女の目的はセラピーであり、しかしフロイト派のように攻撃的な動機の結果としてもたらされつつも、社会的に抑圧(Verdrängung)された怒りを解放するというものではなく、正しく怒りを誘発することにあった。攻撃=怒りによってさらに深刻な脅威がもたらされるとき、怒りの感情はその脅威を「恐怖」という感情=状況判断に取って代わられる。この恐れを誤りだと認識させ、怒りこそが正しい感情だと判断させることを目指しており、構造的にはアリストテレスに回帰しているように見える。

 このようにアリストテレス以降、多くの哲人が怒りという複雑な情念の構造について議論を重ねてきたが、そのいずれにも怒りは自然なものであるという思考が通底している。セネカ、トマス、アーノルドにおいて怒りは欲求的なものであり、デカルトにおいて怒りは身体に基づくものである。したがって、それぞれの付き合い方に対する解釈において多少の差異は見られるものの、怒りは人間に本質的な感情であり、我々が主体的に向き合わねばならないものなのである。



おわりに


 さて、簡潔に西洋哲学史における怒りの概念とその対処についていくつかの例を挙げてきたが、ここで「宣言」に立ち返ると、その脆弱性が改めて認識されるであろう。たしかにこれまでのアンガーマネジメントは心づもりとか対症療法的なものであり、感情そのもののメカニズムに目を向けたものでなかったことは確かだ。そうはいってもそれは「怒り」そのものが我々の生来備わった自然な感情であり、取り除くとか克服するとかいった対象ではないという先人の明晰な判断によるものであり、したがってデカルトの機械論的人間観を都合よく解釈し、技術によって感情そのものに干渉しようとする試みがいかに愚劣で幼稚な発想であるかが理解されるであろう。彼ら学会が我々人類に対して残した遺産――とはいえそれは負の遺産である――は非常に大きい。AAL投与が始まって既に四半世紀が経過しており、人類の半数近くはその狂気の産物を脳内に宿している。おお、これほどまでに恐ろしくかつ恥ずべき事実がこれまで存在しえたであろうか! マンハッタンも、アウシュヴィッツも、いかに狂気に満ちていたとはいえ、人間の本質に錆びた釘を打ち込むようなことはしなかった。オーウェルの夢想した世界で人々は怒りに打ち震えていたが、それもテレスクリーンの映像を見た時に生じる習慣的な感情であって、直接的なものではなかった。今や人々の心は不安と絶望に苛まれ始めている。私はこの原稿を通じて、人の心という聖域に土足で足を踏み入れた傲岸不遜の哲人もどきを永遠に断罪することをここに誓う。私にも自覚症状が現れ始めている。既に時間が迫っているのだ。この原稿を書きながら、幾度となく爆発直前の火山のような情動の揺らぎを覚えることがあった。それはまぎれもなく怒りだ。何に対する怒りか? 人の本質を軽んじた科学者たちに対するものか? 新興宗教の暴走を止めることができなかった自分自身の無力さに対してか? それは両方だ。両面から私の心をじわじわと蝕んでいるのである。もはや私の目は闇に覆われてひsまっている。イリアスで似たような表現があったのを思い出す。両目が闇に覆われるころほど無力なことはない。ブラインドタッチが学生時代と久井田多賀、いま私は真っ暗闇の荒野の中で感情をつづっている。死後の私の脳を解剖yしてみたまえ。きっと灰色の虫けらどもが鎧のように倭t氏の大脳新皮質を覆っていることであろう。願わくばこの原稿がどこも主性yと構成を施すことなく日の目を見ますように。我々の感情を軽んじたbタスを神はお与えになったのだから。我々はこの罰を甘んじて受け入れる必要がある。それでは皆様、さようなら。編集の皆様、あとは頼みました。




参考文献

・アリストテレス、渡辺邦夫・立花幸司訳(2015)『ニコマコス倫理学(上)』(光文社)

・ジョージ・オーウェル、高橋和久訳(2020)『一九八四年』(早川書房)

・セネカ、兼利琢也訳(2008)『怒りについて 他二篇』(岩波書店)

・デカルト、井上庄七・森啓・野田又夫訳(2002)『省察 情念論』(中央公論新社)

・山本芳久(2014)『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶応義塾大学出版会)

・豊岡めぐみ(2009)「デカルトの心身合一体における「動物精気」の位置づけ」『筑波哲学』筑波大学哲学研究会編,(17), 154~172.

・松根伸治(2022)「トマス・アクィナス 『悪について』 第 12 問・怒り (翻訳)」『アカデミア』人文・自然科学編,(24), 315-340.

・GIZMODO ”Why Your Brain Can’t Let Go of a Grudge”(https://gizmodo.com/why-your-brain-cant-let-go-of-a-grudge-1828421174 最終閲覧2023/08/29)

・NCNP病院「双極性障害(そううつ病)」

(https://www.ncnp.go.jp/hospital/patient/disease02.html 最終閲覧2023/08/29)

・東京横浜TMSクリニック「TMS治療とは?」(https://www.tokyo-yokohama-tms-cl.jp/about-tms/tms-treatment/ 最終閲覧2023/08/29)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

禁忌的アンガーマネジメント:哲学史における位置づけに基づく考察 有明 榮 @hiroki980911

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ