みんな知らない
01
矢沢梓はその夜も、勝手口からひっそりと家を抜け出した。
ドアを閉める瞬間、家の中から何かが割れる音が聞こえた。また母親がなにか――皿とかコップとか、割れそうなものを投げたのだろう。こうなると夫婦喧嘩は更にヒートアップする。自室にこもっていても物騒な叫びや物音が聞こえてくるだろうから、夜だろうがなんだろうが外に逃げるのが一番よかった。
(でも早めに帰って、ちゃんと寝ないとなぁ。明日学校だもん)
梓にとっては、自宅より学校の方がよほど心が休まる。だから家で何が起きても、学校ではそれを表に出さず、常に明るく振る舞うようにしていた。それが一番楽で、気が紛れる方法だった。
三月のはじめ、夜はまだ冬の寒さだ。深夜に近い住宅街に人通りはない。
一人歩きを誰かに見咎められる心配は今のところなさそうだが、それでもほど近い場所に交番がある。もしも警官に見つかったら、中学生の梓は間違いなく補導されるだろう。幸いまだそういうことになった試しはないけれど、もしそうなったら両親はさらにひどい喧嘩をするに決まっている。
あてもなく歩いた。自分のスニーカーの音が耳に届く。やがて公園の近くに差しかかった。その前の道をずっと行くと、通っている中学校がある。
梓はため息をついた。本来なら楽しい場所であるべきそこは、今は憂鬱な記憶と結びついている。
つい先日、担任教師の有澤亜希が急死したという。
学校からは事故だと説明されたが、どうやら自殺らしいという噂がどこかから出て――真偽はともかく、学校は今その話でもちきりになっている。若くて親しみやすかった担任の突然の死は、梓の心に暗い影を落とした。
歩きながら、梓はふと夜空を見上げた。この辺りでは珍しいほど星がよく見えた。
そういえば「死んだ人はお星さまになる」みたいな話がなかっただろうか。夢みたいな話だけど、もしかすると有澤亜希の星も、夜空のどこかに浮かんでいたりしないだろうか。
(本当に自殺なんかしちゃったの? ありちゃん)
梓は夜空を見上げて、心の中で話しかけてみる。
(自殺するほど辛いことがあったの? それとも事故だった? ねぇ、ありちゃん)
無論、星から答えが返ってくることはない。
去年の十二月に、梓のクラスではもう一つ事件があった。その余波もまだ彼女の心をざわつかせている。
冬休みの前、ちょうど期末テストが終わった日に、梓のクラスメイトの泉美鈴が失踪した。そのことについてもよくわかっていない。こちらは徹底的に情報が伏せられているらしい。少なくとも、梓の耳には何も入ってこなかった。
美鈴は転校してきてまだ三か月ほどしか経っていなかったから、いなくなっても「元に戻った」という感じが否めない。今ではもう、彼女のことを語るクラスメイトはほとんどいない。
しかし、梓は美鈴のことを、未だに気にかけていた。たまたま隣の席に座ったのがきっかけで、美鈴とはよく話すようになった。活発ではないが、穏やかで接しやすい子だと思い、友人として好意を持っていた。
そういえば失踪する少し前、美鈴は様子がおかしかった。ひどく体調が悪そうにしていたし、ぼーっとしてもいた。あのとき、何か悩んでいたのだろうか? 自分が話を聞けていれば――そんなことを考えながら歩き続けていると、やがてゆく手に中学校の正門が見えてきた。その前に、だれかが立っている。
「――泉ちゃん?」
梓は思わず声をあげた。
街灯に照らされて浮かび上がったのは、行方不明になっているはずの泉美鈴の姿だった。
梓が駆け寄るよりも早く、美鈴は逃げ出した。
「ちょっ、待って!」
梓はあわてて美鈴を追いかけた。運動は得意な方だ。少し走ったところで、梓は美鈴の腕をつかんで捕まえた。
そこは中学校の裏手だった。やはり人気はない。
「ねぇ、泉ちゃんだよね……どうしたの? どこにいたの?」
美鈴は荒い息を吐きながら、「なんで、追いかけてきたの」と言った。
「そりゃ追いかけるよぉ。心配してたんだよ」
「だめだよ……」
「何?」
「ごめん、ごめんね矢沢さん、わたしたちふたりだけじゃもう限界になった……」
美鈴は泣きそうな声で続ける。
「わたしたち、最初は有澤先生の家に行ったんだ。色々手伝ってほしくて……でも先生、耐性があるはずなのに一月ももたなかった。やっぱり厄をちゃんと捨てなきゃだめなの。でもすごく増えて、もうわたしだけじゃ全然手が足りない。だから――でも、なんで矢沢さんなの? なんでこんな時に会っちゃったの?」
「ねぇ、何の話? やく?」
梓は美鈴に近づいて手を握った。氷のように冷たかった。
「ごめん、矢沢さん、帰って」
「いや、泉ちゃんをほっといて帰れないってば。大丈夫?」
「大丈夫。ありがとう」
突然、美鈴の口調が変わった。
ぎょっとして見つめ直した美鈴の顔が、奇妙に歪み始めていた。泣きそうだった顔が、まるで見えない手で笑顔に整えられつつあるみたいに見えた。
「矢沢さん、わたしたちのこと、手伝ってくれる?」
そう言いながら、美鈴は手を強く握り返してくる。その目は梓ではなく、梓の背後を見ていた。
小さな足音が背後から近づいてくることに、梓は気づいた。美鈴が絞り出すような声で、ごめんなさいと言った。
小さな足音は、梓のすぐ後ろでぴたりと止まった。腰のあたりをとんとんと叩かれた。小さな手だった。
「運命だよ」
透き通った声が聞こえた。
「今日偶然ここで出会えたってことが、あなたと私たちの運命なの。あなたは元々そういう星の下に生まれたってこと。もしくは、そういう誰かの星の引力に、たった今引き寄せられたところなのかもしれない。とにかくあなたはここにいるべくしているのであって、何にも心配することはない。私たちは、あなたにちょっとしたアルバイトをお願いしたいの」
美鈴の手が離れた。
梓は後ろを振り返った。小さな女の子が立っていた。その子と目が合った瞬間、梓はそこから動けなくなった。
女の子の小さな手が、梓の服の端を掴んだ。
「私は咲坂かなえ。お話しましょう」
そのとき三人の遥か頭上で、寿命を終えた星がひとつ、瞬いて流れた。
〈了〉
もしくはだれかの冷たい星 尾八原ジュージ @zi-yon
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