わたしたちのことを

01

 まぶたの裏が明るい。


 気づいたら真っ白な天井を眺めていた。どこかに寝かされているらしい。周囲が騒がしく、消毒液の匂いがして、まるで病院みたいなところだと思った。

 知らないひとが何人かわたしを見下ろしていた。一番近くに立っていた人の口が動いた。

「あなた、有澤亜希さん? 大丈夫ですか、お加減は?」

 それでわたしは、ここが本当に病院であること、そして自分が死ななかったことを悟った。


 わたしは泉家の玄関で、首を締められて倒れていたらしい。そう、そこまでは覚えている。賀古さんを止めようとして、反対にすごい力で首を締められたところまで。その後のことはみんな他人から聞いた。

 賀古さんはわたしの首を締めたあと、泉家の玄関を飛び出した。マンションの非常階段を駆け上がり、一番高い踊り場から身を投げ、約十五メートル下の舗装道路に激突したらしい。辺りには百円玉が飛び散っていたというから、きっと倒れたわたしから厄を遠ざけようとして、結果自分が死ぬことになったのだろう。妙に静かな心で、わたしはそう推測した。

 泉家には変死体が二つもあったのに、わたしはろくに取り調べも受けずに済んだ。咲坂かなえの助力がどこかにあったのだと思うが、それを確かめるすべはないし、確かめたくもない。賀古さんが死んだあの日から、彼女とは連絡がとれない。

 泉美鈴も、行方不明になっている。


「ありちゃん先生、おはよー。首どしたの? だいじょぶ?」

「おはよう。大丈夫、ちょっと擦りむいちゃってね。心配してくれてありがとう」


 冬休みが終わり、年を越して、新学期が始まった。わたしにしたっていつまでも入院している必要はなく、首に包帯を巻いて早々に職場復帰した。

 賀古さんも、泉美鈴もいない。心穏やかではないけれど、咲坂かなえからの仕事の依頼がない以上、教員として働かなければならない。この仕事に対する責任感だって、ないわけじゃない。

 わたしが周囲に撒く厄は、ほんのわずかだ。普通の人間として、人間の中に混じって生活していてもほとんど問題はない。普通の人間として、生きていくことができる。

 ずっとなりたかった「ふつう」が手に入ったことに、わたしは戸惑いを覚える。

 ふつうに暮らせることは、わたしにとって喜ばしいことだ。でもその「ふつう」の中には、賀古さんが一緒にいてほしかった。


 突然失踪した泉美鈴のことを、生徒たち――特に席の近い矢沢さんは気にかけていたけれど、すぐに話題にも上らなくなった。目の前から消えてしまったものは、どうしたってだんだん存在感を失っていく。そしてそのうち、日常に埋もれてしまうのだ。

 わたしは泉美鈴に対して、申し訳ないと思っている。

 彼女のことを恨んでいたのは事実だ。でも恨んだって仕方がないということを、わたしは、頭のどこかではちゃんとわかっていた。

 そうでなかったらあのとき、賀古さんと一緒に彼女を連れて、どこまでも逃げてやろうなんてこと、思いつきもしなかっただろう。


 愚かなことをしたわたしを、せめて泉美鈴が呪ってくれたらいいと思った。


 一月の終わり、寒い日のことだった。いくつかのクラスが、インフルエンザのため学級閉鎖になることが決まり、学年全体がバタバタと騒がしかった。

 その日、わたしは夜の九時近くにようやく職場を後にし、車に乗って帰宅した。

 一人暮らしには広すぎる家だ。帰宅後、しばらくは寒い思いをしなければならないのもいただけない。暗い窓を見上げながら、わたしは玄関の鍵を取り出した。そのとき、

「ありちゃん先生」

 と、声が聞こえた。


 ふり返ると、いつの間にか門柱のそばに、あの泉美鈴が立っていた。

 その隣に、小さな女の子の姿が見えた。

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