第8話 可塑の真実
拡務は不思議と清々しい顔をしていた。
ここに来る途中、頭の中でこの場面をシミュレートしていたときは、不快な表情を浮かべながら「気でも触れたか、旅人?」と返される想像しかできなかった。やや肩透かしを食らった気分だが、事ここに至って、真実を否定するつもりも無いということだろう。
「……旅人。お前はつい一週間前、凛本人とラインで話したんだろう?」
そう語るのは、もはや話を前に進めたい俺への助け舟でしかない。俺は腿の上で右の手のひらを固く握った。
「あれは、お前のなりすましだった。だからあの『藤定凛』は、事件について俺がお前に話した全てを知っていたんだ」
「その可能性は否定できないが、じゃあその前だ。俺と凛がリアルタイムでチャットしている様子をお前も見ていたじゃないか。そもそも、八歳の時に死んでいたのなら、そこに立ててある写真はどうなる。どうみても小学生には見えないと思うがな」
「八歳のときの凛ちゃんの写真をもとに、加齢したあとの写真を出力する。今のAI技術ならば容易いことなんじゃないか?」
拡務は何も言わない。
「人間とそれらしい会話をすることができる文章生成AIが既に実現している。これもお前が俺に教えてくれたことだ。そいつを搭載したチャットボットをライン上で動かせば、実在しない人間とのチャットを装うことくらい造作もないはずだ」
一週間前の何も知らない俺なら、そんな疑いを持つことすら不可能だった。でも、今は知ってしまっている。全ては目の前で座る男のおかげで。
十一年前。最愛の妹である凛ちゃんを失った拡務の傷は、三か月間の登校拒否程度では済まないほど深かった。きっと現実のことだと受け入れられなかったはずだ。
幸か不幸か、俺や拡務と凛ちゃんは学校が違ったし、藤定家に交友関係が広い人物はいなかったので、拡務の身内に不幸があったという事実は俺の学校では教員より先に広がらなかった。俺はその時何も知らなかったし、心配になってかけた電話口で「病気でしばらく学校に行けない。感染すと悪いから見舞にも来るな」と聞かされたのをそのまま信じていた。思えばその時点で拡務は、俺に対して「妹の死」を隠そうとしていたのだ。
年明け、けろっと登校してきた拡務は以前と変わらない様子だった。それまでずっと喪に服していたことなど、小学生の俺に気づける由もない。雑談の中で凛ちゃんの話が出ても、拡務は当然のように生きているものとして話していた。その話しぶりに矛盾や違和感は一切なかったと思う。ついさっき答え合わせが完了するまで、七割方は俺の思い違いなんじゃないかと期待していたくらいだ。それほどに拡務の嘘は完璧だった。
いつごろ、その発想に至ったのかは分からない。もしかすると、進学先を選ぶより前から全ては計画のうちだったのかもしれないし、研究が形になった後にたまたま思いついただけなのかもしれない。とにかくある時点で拡務は、AIを使って嘘を真実にすることを目指し始めた。
作りものの写真、作りものの人格。「LYN」の名前を用いたプロジェクトへの参加。あらゆる手段を用いて、拡務は若き天才科学者・藤定凛という存在を本当に作り出してしまったのだ。
モニターに映し出れた『悲願』が、タイプ音とともに最小化される。
その代わりに映し出されたのは、幼い女子児童の画像だった。
「…………これが“元ネタ”だ」
低い声で拡務が言う。画像の中の藤定凛は、無邪気ながらも落ち着いた雰囲気で笑っていた。
目尻の切れ方や鼻筋の通り、笑くぼのでき方に至るまで、全て写真立てに飾られた「十七歳の藤定凛」とそっくりだ。この二枚だけ見せられて、どちらかがフェイクだと見破ることができる者などごく僅かだろう。バストアップの構図は顔以外の余計な部分が見切れていて、当然ながらAIの苦手とする手先なども見えていない。
「これは……確かにすげえな」
何の身にもならない感想をこぼす。
「チャットボットは、俺が全て想像で“教育”した。まずは生前の凛とのやりとりを思い出せる限り思い出して、データとして残っているものも片っ端から食わせたな。年齢が違う分は、同年代の女子の会話データをネットで集めて補完データにして、そのあと凛の性格に合うように微修正した。デフォルトの設定では30秒から5分の間でランダムに間隔を置いて返信するようになっているが、まだあまり難しい指示は処理できないからな。お前の頼みでラインを送ったときは、こっそり返信機能をオフにしておいた訳だ」
「あぁ……だから俺に飲み物を取りに行かせたのか」
そういうことだ、と拡務は軽く呟いた。
そのまま拡務はエナドリを一気に飲み干した。空になった缶が高い音を立てて机に置かれる。相変わらず、表情はいやに透き通っている。
「どうだ? 気色が悪いと思うか?」
俺は回答に窮した。
「俺のことを、死体を操って人形遊びしている、不気味なネクロマンサーだと思うか?」
「…………いや」
気持ちはわかる、とは言えなかった。俺にとってその心理が理解しがたいものであることに違いはなかった。その先のセリフは出てこなかったが、でも俺は拡務を倫理的に非難したいわけではない。そのことだけは分かってほしかった。
葛藤を誤魔化すように、俺は疑問をぶつけた。
「どうして、TOUMEI111001なんていうプロンプトを仕込んだんだ。あの事件がふたたび注目されたら、凛ちゃんの死も白日の下に晒されるかもしれない。お前にとってはリスクでしかないはずだ」
更に言えば、それを俺に教えたのも不可解でしかない。バレるリスクを上げるだけなのではないか。旧友のよしみで俺の問題解決に協力してくれたところまではよいとしても、あのプロンプトを仄めかすことは必須ではなかったはずだ。
「まあ、俺だって人間なのさ」
拡務は自嘲するように肩をすくめて、
「世の中には忘れられる権利なんていう言葉があるらしい。おかしな話だよな。あの事故のせいで、死んだ凛はもう二度と帰ってこない。こっち側にはあの事故を忘れる権利なんてない。にもかかわらず、あの男はたった10年、臭い飯を食うだけで自分のしでかしたことを忘れていいらしい。世間なんてのはもっと薄情だ。報道が出て三日も経てば、誰も交通事故の事なんて覚えてなかった」
そこまで言って、そして深い溜め息が聞こえる。
「矛盾してることは理解してるよ。でも、俺はアピールせずにいられなかった。『凛は死んでなんかいない』ということにしたい癖に、それと同じくらい、『凛が死んだ』という事実をあっけなく忘れてしまうこの世界が許せなかった」
俺は黙るしかなかった。
これほど感情的になる拡務を見たことがなかったからだ。
「もう少しなんだ」
「……え?」
ゲーミングチェアがくるりと九十度回転する。
モニターに向けられていた男の身体が、まっすぐこちらに向けられる。
「今話している相手はタンパク質の塊なのか? それとも0と1の塊なのか? そんなこと判別できなくなる。いや、判別する必要なんかなくなる時代が来るんだ。
もう少しだ、もう少しなんだよ。既に殆ど人間と変わらない精度で会話ができるAIは現実になってる。より応用的な自律思考ができるようになれば、それはもう『知性』と見分けがつかなくなる。今は気色の悪い墓荒らしかもしれないが、AIを用いて故人の思考回路をトレースする技術は今に一般化していくさ。いや、俺がそうさせる。
AIが人間の仕事を奪う? 知るか。AIは可能性だ。凛を永遠に奪ったこのクソみたいな世界から、あいつを取り戻せるかもしれない唯一の可能性なんだよ」
力強い言葉。それを実現させる才覚が拡務にはあることを、俺は嫌というほど思い知っていた。
UnCarnationはあらゆる面で世界に衝撃を与えた。
だが、この男にとってそれは、一つの目的を―――藤定凛の
「……だから、お願いだから放っておいてくれ」
言葉が止む。
顔を伏せた藤定拡務とは、もうそれ以降一度も目が合わなかった。
にわかに雲が出てきて、夕方に差し掛かった空は驚くほど暗くなっていた。風も出てきて涼しい。アパートのすぐ隣にある小さな児童公園からはコオロギの鳴き声が聞こえ、そろそろ夏も終わるらしいと沁々感じさせられる。
色々なことがあった夏だった。
創作の世界に波風が立ち、それは俺の身の回りで特に高波となった。彼女は蒸発するし、サークル内での立ち位置もよくわからないことになってしまっている。それで更に十年来の知己までも喪ったら、俺はいよいよ立ち直れないかもしれない。そう思って、駅に着いてすぐ、俺は藤定拡務にラインを飛ばした。
中津川旅人: 名古屋戻ってきたら、声かけてくれよ。この前そう言ってたよな?
すぐに既読がついたが、返事は来ない。
ふと、もしかしたらこのメッセージのせいで決定的に嫌われたかもしれないな、と思った。しかし今さら後悔しても後の祭りだ。そもそも俺は、暴かなくていい拡務の嘘をわざわざ暴きに東京まで来たのだ。どう思われようと文句を言える立場ではない。
過ごしやすい気温とはいえ、十五分も歩けば喉が渇いてくる。
改札口の脇に並ぶ自販機でオレンジジュースを買って、当たった試しのないスロットゲームが今回も無事に外れるのをぼうっと見届ける。
「…………」
酸っぱい味が口に広がっている間も、俺は拡務のことを、そして藤定凛のことを考えずにはいられなかった。
拡務が作り出した「飛び級でアメリカの大学院に進んだ藤定凛」は架空の産物だったけれど、存命の時、彼女が拡務よりも優秀だったことは嘘じゃないはずだ。事実、凛ちゃんは拡務よりも将来を期待され、金のかかる私立学校に一人だけ通わされていた。
きっと拡務は「こうあってほしい」と願ったとおりの人生を、想像の中の凛ちゃんに歩ませていたのだろう。性格も何もかも、自分の思うがままにして。
だとすれば……。「想像の中の藤定凛」を形作ることは、「決して想像を越えてこない藤定凛」を具現化することと同義だ。拡務を越える天才だった凛ちゃんを、そんな形で再生させることに、あの男は果たして満足していたのだろうか。
否、と思う。
理性では「これしかない」と思っていても、きっと心のどこかにはそれを拒否したい気持ちがあったはずだ。
……もしかしたら、その一欠けらの気持ちが、俺を真実に導いてくれたのかもしれない。そんな風に思った。
―――嘘をつくのは、いつも人間。
そのメッセージを放つときの気持ちはどんなものだっただろうか。
全ては想像で、確かめる気にもなれない。
それでも俺は、凛になり替わった拡務が凛の人格でそれを言わせたことに、何かしらの自虐的な意味を感じざるを得なかった。
晩夏の東京。
何の気なしに空を見渡すと、ひときわ目立つ電波塔がビル街の向こうに聳え立っているのを見つける。
「…………スカイツリーでも行くか」
二人で行くはずだった未来が、どうしてこうなったんだろうか。
自棄気味の失笑をひとしきり零してから、俺は押上行の電車を調べることにした。
Reincarnation ――偽りのマスターピース @winter_island
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