第7話 覚悟の再訪
「よう、旅人。久しぶりだな」
「……ああ。実に一週間ぶりか?」
ドアを開けた俺を迎えたのは、拡務のそんな軽口だった。
前に訪れた日からわずか一週間とはいえ、九月ももう中旬だ。最高気温は落ち着き始め、日が傾く頃には涼しげな風が吹くようになった。室外とのギャップは前ほど大きくなかったものの、やはり拡務の部屋の空調設定には肌が驚く。念のため長袖のパーカーを羽織ってきて正解だったようだ。
手狭な六畳間の主は、相変わらず根が生えたような様子でゲーミングチェアにすっぽりと鎮座している。こちらも特に断らず座椅子に腰かけようと膝を折っていると、いつに増して皮肉めいた声が聞こえてきた。
「全く、お前はいつからそんなに嘘が上手くなったんだ?」
「……嘘?」
「ラインでもツイッターでも『課題とバイトに追われる苦学生』を演じていたから、てっきりそうなんだと信じ込んでいたが。二週連続で名古屋と東京を反復横跳びできるほど、金も暇も有り余っていたとは知らなかったな」
口元に浮かぶにやけた表情は、容易に本心を読み取らせてくれない。
せめてもの反意として、俺はわざとらしく溜め息をついた。
「そう思われても仕方ないんだがな。まあ、毎週入ってたデートの予定がなくなった分が浮いたんだと思ってくれ」
「なんだ、振られたのか。後輩の何某さんに」
「フラれたというか何というか……、そこは察せるだろ。事の顛末は伝えたはずだぞ」
「概略だけはな。まさか、盗作絵師とAI絵師のすれ違いが事件の真相だったなんてな」
やはり、今日の拡務はいささか言葉尻が刺々しいように感じる。もっとも、高校時代の記憶を掘り返してみると、元々このくらいの物言いをする奴だったような気もしてくる。先日の拡務がたまたま、久々の再会だったこともあって特別優しかっただけなのかもしれない。
「なんにせよ、大事になる前に解決できたのはお前のおかげだ。まずは礼を言わせてくれ」
頭を下げる。
少しだけ間が空いて、
「俺は別に何もしていない。感謝なら凛に……妹に言ってくれ」
どこか覚束ない口調で、拡務はそう言った。
「凛ちゃんに、か」
「ああ。詳しくは知らないが、あいつの助言のおかげで真相に気づけたんだろう?」
「…………」
そのとおりだ、本当に助かった。でも、それもこれも全部、何の義理もないはずのお前が俺と凛ちゃんを繋げてくれたからじゃないか。そもそも、画像生成AIとは何たるかを俺に分かりやすく説明してくれたのはお前だ。お前たち兄妹のどちらが欠けても、俺は手詰まりでどうすることもできなかった。心の底から感謝している。ありがとう。
そう言って、それだけを伝えて、立ち去ることも考えた。
少し前までの俺ならば、そうしたかもしれない。
他人とはっきり対峙するのには勇気が要る。今まで気楽に付き合ってきた人間が相手ならば尚更だ。そんな機会を、しかし、俺は最近二度も経験した。成長といえるほどの変化ではないけれど、場数を踏んだことで、勝手に引いた人との関係の一線を越えることに少しだけ慣れてきたような実感があった。
「……旅人?」
「凛ちゃんから、最初にラインが来たときにさ」
そう口火を切ると、もうそれまでだった。言いたいことがとめどなく脳裏に溢れ、まずどれを言葉にするのか判断するのに時間がかかった。
「『こんにちは』って、言われたんだ」
「…………、」
明らかに沈黙が変質する。
頭の良い拡務は、俺の短い言葉だけで全てを察したのだろう。
「あの時、こっちは昼の二時。彼女がいるアメリカの東海岸は深夜だったはずなのに、だ。……もちろん、賢い凛ちゃんのことだから、こっちの時間に合わせて挨拶を変えてくれたのかもしれない。これだけでは何一つ、確かなことは言えない」
藤定凛は天才だ。俺は昔から拡務にそう言い聞かされていた。疑う必要もなかったし、実際に彼女の名前はUnCarnationの開発者陣に名を連ねている。俺にとって彼女の才能は所与だったし、所与だったからこそ、それをどこか無限なものだと思っていた。思わされていた。
いま、肉体を持つ一人の人間として、藤定凛のことを考えてみたい。
違和感のある部分は、最初の挨拶だけだっただろうか。
「今回の騒動は、終わってみれば意外と複雑だった。海玖のほうにも、ことりちゃんのほうにも事情があって、それがたまたま嚙合わせ悪く問題を引き起こしてしまった。……いや、どちらも問題のある行動をしていたのは事実だから、その言い方は正しくないかもしれないな。なんにせよ、問題が起きて、俺はその問題をこの部屋に持ち込んだ。そのとき、俺はお前にどんなことを頼んだか、覚えてるか?」
拡務はほんの少しだけ悩んで、
「忘れるわけはない。ほんの一週間前のことだからな」
と言った。
「それは何だったかな」
「……『とあるイラストが、人の描いたものなのか、UnCarnationで描かれたものなのか。それを判断してほしい』」
そんなところだったか、と拡務は投げやりそうに付け加えた。そのとおり、と俺は肯く。
「そして、そのイラストがことりちゃんの描いた『悲願』だ。結果としてお前は、AIによって描かれたイラストとそうでないものを見分けることの原理的な難しさを説明してくれたし、凛ちゃんはさらに踏み込んで、具体的なプロンプトに関するヒントを教えてくれた。そこまでは分かる。何千枚のUnCarnationによる生成画像を見てきただろう凛ちゃんからすれば、瞳に浮かぶ特徴的なデザインから『TOUMEI111001』なるプロンプトに心当たることは、きっとソシャゲの周回よりも簡単なことだっただろう」
何度も舌を噛みそうになりながら、俺は喋りつづけた。
「ただ、それならば凛ちゃんは、それだけを教えてくれればよかったんだ。俺が頼んだのはさっきも言ったとおり、『悲願』にAIが使われているかの判別だ。それを拡務、お前からラインで依頼するところまではっきりと見た。真実は存外複雑だったけれど、この話が彼女に到達した段階では、この事件はシンプルな一問一答だったはずなんだ」
しかし。彼女の返答は、イエスでもノーでも、それにまつわるヒントでもなかった。
―――AIは嘘をつかない。
―――嘘をつくのは、いつも人間。
『TOUMEI111001』は、凡夫の俺がどうしてもとせっついたから、仕方なく示してくれた特別ヒントだ。彼女が真っ先に俺に伝えたのは、俺の設けた質問を超越した、「真実」に関する示唆であった。
藤定凛は本当に天才なんだと、俺は痛感した。彼女の持つ無尽蔵な頭脳が、それを可能にさせたのだと、無邪気にそう思った。
今になって振り返れば、俺が拡務に伝えた情報の中にも、真相に関するヒントはあった。まずは『悲願』、そして『あの雨の日』という絵のタイトル。海玖が高一の時、あるイラストレーターに憧れて絵を描き始めたのだという情報。そこから推察できる彼女の絵の才能。ことりちゃんと海玖のパーソナリティについても、俺はある程度拡務に伝えた。俺が真実に気づく直接のきっかけとなった、海玖が最初に『悲願』を目にしたときのリアクション。指摘までにタイムラグがあって、それが集計の後になったことでより事態がこじれたのだという経緯。さまざまな断片が、あの日の話には含まれていた。
「あの問いかけを投げてから、凛ちゃんが詳しい経緯に興味を持つのは自然なことだ。だからあの後、お前が凛ちゃんに色々と周辺情報を語って聞かせたんだろう。もしかしたら海玖の描いた絵も送信したのかもしれない。そこから推理を進めれば、『あの雨の日』が盗作であったことに辿り着くのは、理論上は可能だったんだと思う。
そして、理論上可能なことであれば、藤定凛がやり遂げるのは何ら不思議なことではない。俺はいつの間にか、そう信じて疑わなくなっていた。お前にそう仕向けられていたからだ」
でも。
と、今の俺は考える。
「やっぱり、そんなことができたとは思えないんだ。第一に、拡務、お前がそんなに一言一句、俺の話を凛ちゃんに伝えたとは思えない。お前は昔から長い文章を書くのが嫌いだった。それに長く話すのもだ。問われていることは『悲願』がAIか人間か、その一点だけなんだから、そのQさえ投げておけばとりあえず義理は果たせる。それ以上の余計な情報を、わざわざ渡してくれるものだろうか?
あるいは凛ちゃんの方から積極的に聞き出したのなら、あり得るかもしれない。でも、彼女がそれほど今回の騒動に興味を持つ理由こそ、どこにもないと思わないか?
拡務、お前はたしかに、俺が東京にまでやってきてこんな頼みごとをする理由に多少興味があったかもしれない。それがとどのつまり俺の彼女が起こしたトラブルが原因なんだと知って、愉快な気持ちにもなっただろう。ただ、それは俺とお前の仲あってのことだ。俺からすれば殆ど他人に近い凛ちゃんが、そんな与太話に興味を持つとはどうしても考えられない」
喋りながら、ずいぶんと主観の混じった推測だ、と思った。事件の捜査をしている警察がこんな推測を口にすれば、きっと上官に叱られるだろう。しかし俺にはこの程度が限界だった。
拡務は真顔を崩さないまま、
「……何が言いたい。はっきりと言え」
と毒づいた。これまで意識していなかったが、手元にはやはりモンスターのロング缶がある。
「すまん。でも趣味で勿体つけてる訳じゃないんだよ。俺の中でもまだ信じきれてない部分があるから、お前に忌憚ない意見を聞きたくて、一つ一つなぞってるんだ」
「ふん。突っ込み所なんて既に何十個もあるが、一つ一つ指摘していったらキリがない」
まあそうだろう、と俺も思った。それを口にしないということは、とりあえず先を聞かせろ、ということなのだろう。俺はそれに甘えることにした。
「今まで言った『おかしい部分』は、でも、こう考えたら全て解決する。あの場での会話を、藤定凛も一緒に聞いていたのだとしたら。そうすれば、枝葉末節を把握していることもおかしくないし、それで真相に辿り着くことも、きっと現実的に可能だっただろう」
ふう、と俺は軽い溜め息をついた。一人だけで話し続けるのは、想像よりもずっとしんどい。自分が喋らなければたちまち静寂が訪れるのが辛い。何でもいいから、BGMとして音楽をかけてほしいと思った。そんなことを頼める空気ではなかったけれど。
モニターの脇にある何の音も発さないスピーカーをなんとなく眺めながら、俺はさらに続けた。
「でも、まさかこの六畳間にもう一人、十九の女の子が潜んでいるだなんて思えない。実はこの部屋に盗聴器が仕掛けられていて常に凛ちゃんに傍聴されている……っていうのも、ちょっとドラマの見すぎな推理だよな」
「現時点のお前の講釈だって、十分ドラマの見すぎだと思うがな」
そう言われたら敵わないな。しかし、ここで話をやめるわけにはいかなかった。皮肉に笑う拡務の横顔をまっすぐ見つめる。
拡務が座るチェアの正面にあるメインモニターには、いつのまにか『悲願』が映し出されていた。一週間前、俺がこの家に事件を持ち込んだ時と同じだ。気を利かせたわけではなく、純粋に話の流れで立ち上げてくれただろうけれど。
祈りの所作を行う見目麗しいシスターの、その瞳の奥。
まるで弱い人間の心の迷いのように、ゆらゆらと不安定に揺蕩う碧の炎が、そこにはあった。
「ところで、この“TOUMEI111001”ってプロンプト、何なんだろうな」
「………何、って?」
「この文字列だよ。だって、プロンプトって普通は『apple』とか『girls』とか、描く対象そのものを表すだろ? それ以外にも『beautiful photograph』とか『masterpiece』とか、クオリティや雰囲気に作用させるために入れるものもあるらしいが、それだって、生成結果にどういう効果を及ぼしているのかは見ればわかる。けど、“TOUMEI111001”は違う。これを見ただけじゃ何のことを言ってるのか全く分からないじゃないか」
透明、と入れて瞳の透明感が増すのは、百歩譲って理解できる。でもそれにしたってローマ字ベタ打ちなどではなく、『Clear』とか『Transparent』とか、透明に相当する英単語になっているのが自然だろう。おまけに、後ろの“111001”はなんだ? まるでパスワードではないか。
「まあ、AIの学習過程は人間に理解できるものじゃないからな。『なぜかそうなる』としか言えないことは、深層学習じゃ日常茶飯事だ」
「それはそうなんだろうが……」
まずい。このまま技術的な話をしていれば、知見のない俺が拡務を言い負かすなんてできっこない。とにかく言いたいことを言わなければ。
「偶然にしたって、こんな妙ちくりんなプロンプトに自力で辿り着く奴がいるかな。何のヒントもなく、リリースから一ヶ月も経たずにだぜ」
「……UnCarnationほど世界中の人間に弄りまわされてたら、大数の法則でそんなこともあるんじゃないか」
「その可能性も否定できない。でも、ネットではこんな意見も見かけた。『開発者が何らかの方法で画像とテキストの紐づけを偏らせ、意図的に仕込んだキーワードなんじゃないか』ってさ。そうだとすると、最初から知ってた開発者が、一ユーザーのフリをしてこのプロンプトの情報をネットに流したんだと考えれば、リリースから発見までの早さは説明できる」
拡務は「……はぁ」と、明らかにわざとらしい溜め息をついた。
「なあ旅人。こんな言い方をするのは本意じゃないが、お前のためだと思って言わせてくれ。そうやって事実の断片だけを恣意的に切り抜いて、その裏に誰かの思惑があるんじゃないか、そうに違いない、なんて言い出す奴のことを、世間では陰謀論者と呼ぶんだ。自分が困ってるのは悪い奴のせいだと断罪して気持ちよくなるのは勝手だが、それで得た一時の快感に続きは無いぞ。もうお前も大人なんだから、いい加減信じていい情報かどうかの取捨選択くらいはできるようになってくれよ」
拡務の瞳には明らかな失望が浮かんでいた。
胸のあたりに鈍い痛みが走る。前にもこんなことがあったっけな。昔から情報リテラシーが低かったのは俺の方で、風説に影響されて珍妙な意見を嬉々と話す俺を、拡務はいつも冷ややかな目で見つめていた。
でも、拡務。今回だけは話が違うんだ。
なぜならこれは、俺のネットリテラシーの問題じゃない。AIと創作性をめぐるグローバルな問題なんかでもない。俺とお前の、個人的な問題だからだ。
「111001っていう数字だけどさ」
だから俺は言った。
「十一万千飛んで一、って読むこともできるし、二進数で五十七と解釈することもできる。考えようはいくらでもあるが、こう読むこともできるよな。―――2011年10月1日。つまり、年月日の六桁表示って」
「……っ!」
エナドリを握る拡務の手から、水滴が落ちる。缶の表面の結露か、それとも汗か。
俺は酸素をたっぷりと吸った。
「思い出したのは本当に偶然だった。今から十一年前……俺たちが小四の頃だったかな。あの頃、お前、三か月くらい学校を休んだことがあったよな」
「………………ああ」
口の隙間から空気が漏れただけ、とでも言いたいのかというほど気の抜けた返事だった。
「あの時のことがあったから、今でもお前に病弱のイメージがなんとなくあったんだ。記憶の限り、あれは確か秋から冬にかけてのこと。ついでに言えば―――俺が最後に凛ちゃんの姿を直接見た記憶があるのも、その頃なんだ」
拡務は何も言わなかった。
藤定凛。拡務の妹で、拡務よりも優秀な、飛び級でアメリカの大学院に留学するほどの天才。
思えば俺は、彼女について驚くほど何も知らなかった。幼い頃を除いて彼女に直接会ったことがなかった。一個下だが、彼女は兄と違い小学校の頃から私立の有名校に通っていて、俺とは学校も何もかもが違った。兄である拡務の口からは頻繁に話を聞かされていたが、実のところそれだけなのだ。
俺が真ん中に腰を下ろす、この狭い六畳間を改めて見渡す。
机の上には前と変わらず、藤定凛が映るバストアップの顔写真が写真立てに飾られていた。十六歳か、十七歳の頃だろうか。記憶の中で無邪気に笑う八歳の藤定凛が、そのまま順調に成長したのであろう姿が、その写真にはばっちりと映し出されている。
不思議な艶めかしさで笑みをたたえる藤定凛を見つめながら、俺は更に言った。
「もし、この記憶と“TOUMEI111001”に関係があるとしたら……そう思って、ネットで検索してみたんだ。このプロンプトをそのまんま。ただし、対象期間を2021年以前に限定してな。
当然UnCarnationはリリース前だから、画像生成AIに関することは何一つヒットしない。だけど検索結果はゼロじゃなかった。とあるニュースサイトが引っかかったんだ。
ニュースサイトと言っても、新聞社がやってるようなちゃんとした奴じゃない。そういうサイトは古い記事をいつまでも残しておくようなことはしない。けど、ニュースに対するネットの反応をまとめてるような二次的なサイトであれば、権利だの容量だのは関係なく昔の記事がずっと残っていたりする。そういうのの一つに、『TOUMEI111001.png』と名付けられた画像ファイルが含まれていたんだ」
検索エンジンは画像ファイルの名前を拾うことも当然ある。そのサイト自体に、何か思い当たるようなことは特段なかった。問題は、その画像が使われていた記事の内容だ。
「ニュースの内容はこうだ。2011年―――」
「2011年10月1日」
突然、拡務の声に割り込まれた。
驚いて口をつぐむ俺を歯牙にもかけず、目の前の男は流暢に話す。
「東名高速道路で、乗用車同士の追突事故があった。
幸いにしてその他の車は巻き込まれなかったが、追突された方の車に乗っていた八歳の女児が死亡した。追突した方の車を運転していた三十代の男からは、アルコールが検出された。……ま、よくある交通事故だな。被害者が幼い女の子だったからか、一日二日ほどはワイドショーも騒ぎ立てたが、当然ながらただの事故にそれ以上何の進展もない。あとはすっかり世間からも忘れ去られてお仕舞い。
それ以上でも以下でもない、ありふれた悲劇に関する記事だ」
そこまで言って、そして小さな舌打ちが聞こえる。
沈黙。
もはや、答え合わせに意味はなかった。
「このとき亡くなった八歳の女の子。この子が、藤定凛だな」
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