20XX年の晩餐

納戸丁字

20XX年の晩餐

 けぶるような薄靄のなか、エロスとプシュケーが天使と少女に姿を変え、抱擁を交わしていた。と、そんな様子を描いた絵画が金色の額に収められ、キャラメル色の壁に掲げられている。作り付けの燭台が灯り、絵画と壁に柔らかな光輪を投げかけていた。それらの一切を背に、男は食事をとっている。目元には陰りがあり、表情もそれに見合った陰鬱なものだった。卓上にひしめく料理にはほとんど手を付けず、赤ワインでしきりに口を湿らせていた。


「お料理をお持ちしました」


 男はグラスを置き、音もなくやって来た給仕を睨みつける。

 黒色のワンピースと染み一つないエプロンを身に着けた給仕が、エスカルゴの皿を捧げ持って佇んでいた。男は待ち、しかし給仕は微動だにせず、そこでようやく男の眼前が料理の皿で埋め尽くされていることに気が付く。どれもが半端に手を付けられ、空の皿はひとつもない。


「どかせってのか? 俺が?」


 給仕は男の嫌味混じりの問いかけに答えようとはしなかった。男は鼻を鳴らし、ガチャガチャと耳障りな音を立てながら小皿たちをあちこち動かしてやる。給仕はすかさず、今しがた発生した隙間にへエスカルゴのオーブン焼きの皿をねじ込んだ。


「ご注文は以上でよろしいですか?」

「流石に教育が行き届いているな。俺は『よろしかったですか』みたいな崩れた言い回しには虫唾が走るんだ」

「恐れ入りますがもう一度お申し付けください」

「帰れ」

「たいへん申し訳ございません。『カエレ』というお料理は提供しておりません」

「いいから帰れ――帰れ、戻れ、Uターンしろ」


 何事かを言いかけた給仕の言葉を遮って、男は矢継ぎ早に命令を下す。しかし給仕は、陶器のようにつるりとした顔に何の感情も乗せずに佇んでいた。

 男は深酒して久しい。ただでさえ忍耐力に難のある人物であったが、ボトルを空にしつつある酒量が拍車をかけていた。彼の背後では、絵画の少女が憂いた表情で下界を睥睨していた。まるで男の中で憤怒が膨れ上がり、あたりの空気にビリビリとした緊張感が漂いだすのを気遣うかのように。


「上手く聞き取れませんでした。恐れ入りますが、もう一度お申し付けください」


 男の忍耐は限界に達した。彼がほとんど吠え猛るように物騒な言葉を発しだすと、ようやっと奥の間からギャルソン姿の男が慌てた様子でやって来た。


「大変失礼致しました! このメイドは現在試験期間中で……」


 胸に差した厚手のプラスチック名札に『マネージャー』と刻印してある男が、そう言って深々と頭を下げた。男は尚も憤然とした様子で彼に給仕の不備を言い募る。それらの全てにマネージャーは慇懃に対応し、全面的に非を認めて謝罪を繰り返した。しかしその視線は一方で、自分の隣の給仕……一台あたり数百万円はくだらない新型の給仕用ロボット、通常マシンメイドに疵でもついてはいないかと気遣っていたのだが。

 怒鳴り散らしていた男はようやく、これが全くの茶番であり、自分が振り上げた拳を収めない限り終わらないやり取りであることを悟った。マネージャーは男の言葉に屈従し、絞り出すような謝罪の言葉も散々耳にしている。落としどころとしてはこんな所だろう。

 男は気まずさを押し殺すかのように、敢えての素振りを見せつつ手元の紙片に視線を落とすと、それっきり店員たちを見ようとはしなかった。そこにはこう書かれている。


 『みぎひだりでまちがいが10コあるよ』

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