第一章 雪月華 前編

天描島てんびょうとうの四つの区画の一つ、北地区の春は、雪が降り積もったまま迎える。陽の光を浴びようと障子を開くと、寺社に囲まれた北地区の清涼な空気を感じた。神の恩恵を受ける天描島の中でも特に信心深い者たちが集うこの地区で、立法の後継者は生まれた。

はなきみ、お目覚めのお時間ですよ」

「ああ」

艶っぽい女中の声に、既に目覚めていた杠は冷たく返す。

「まあ、雑用はわたくしがやりますから」

自分のことは自分でできる。その言葉は、畳んでいる途中の布団を奪われて言う気が失せた。

「華の君は早起きでいらっしゃいますね」

丁寧に畳んだ布団を崩されて、また畳まれる。

「そんなことはない。見てみろ、もう八時だ」

時計を指差す。女中のことを信用していないゆずりはは、寝顔を見られることをひどく嫌う。若干の眠気を感じている中話しかけられて、杠は機嫌が悪い。

「では、髪を結いましょう。化粧台にお座り下さい」

「何処にも出かけやしないのに何故なぜ着飾る必要がある」

「何を仰います! 次代立法である華の君を誰よりも美しく磨くことがわたくしの仕事です!」

耳がキンキンする。

「大きな声を出すな。どうせまた母上の命令だろ」

溜め息を吐く。

杠の両親は、神は勿論、三権大師さんけんだいしや島の長という立場のある者に心酔するまさに北地区らしい人間だ。北地区の中でも特に信心深い両親の杠に対する執着は異常だった。杠に専属の女中を複数人つけて、常時杠のことを監視し、杠の行動を制限し、衣服や食事も決まった物しか出さなかった。

「すべては華の君の為でございます。今、着ていらっしゃる着物も奥様の好みではありませんので着替えて頂きますね」

今杠が着ている藍色の生地に百合の花があしらわれている着物は、清楚な綺麗さが特徴だ。杠の母はそれを許さない。

「また、赤か……」

「華の君の綺麗な純白の髪と黄金瞳が映える色は赤色以外に御座いません!」

杠は青や緑などの色を好んでいるが、母は杠が最も映えると言い張っている赤色を勧めてくる。赤色の着物だけで幾つあるかわからない。杠用の大きな箪笥たんすは赤でいっぱいだ。

「この着物は私の血と涙で染まっているのかもしれないわね」

望んで着ていない衣服で着飾ったところで華が綺麗に咲くわけがないだろう。鏡に向かって誰に向けるでもなく嘲笑うと、女中は狼狽うろたえた。

しかし、赤を着るのも今だけ。一五歳になると三権大師の後継者は東地区で後継者教育を受けるようになる。それと同時に住まいも東地区に移す。後継者たちは現在一〇歳。あと五年もすれば杠は自由になるのだ。

「冗談だ。早く髪を梳いてくれ、結わなくていい」

しかし、と止める女中を無視して、杠は鮮やかな赤い着物の袖と梳かれた長い髪を靡かせて自室を出て行った。


「うわ……」

邸を抜け出して南地区の温かい春の風を浴びてこようか、と考えていた杠は目の前に天敵を見つけて動揺した。この黄金瞳は長い廊下の奥にいる人物の顔をはっきりと捉えてしまう。思わず出した声に、地獄耳はその狐のような目を杠に向けた。

「華の君、おはようございます。本日も赤が良くお似合いで」

大きくて狐のように吊り上がった目。濃い化粧、遠くからでもよく見える綺麗に引かれた紅。不自然なほどに上げられた口角。

「母上……」

「華の君、母と呼ぶのはお控え下さい。わたくしは華の君を立派に育てる為に遣わされた使用人の一人です!」

お腹を痛めて産んでくれた母。そんな人にも娘として見てもらえない。それに、

「……一度も名前も呼んで下さらないですね」

「お名前を呼ぶなど恐れ多い」

華の君――次代立法である杠に与えられた愛称。自然の美しさを象徴する〈雪月華〉に由来するこの名は、華のように輝くからという安易な理由から付けられた、杠の両親に。個人的に付けられた愛称だからこそ、他の地区の住民には知られていないが、知られていないが故にこの名が蔑称として杠を蝕む。

更に、杠の両親は、挨拶もしたことのない少し顔を見たくらいのたちばなさかきの愛称も決めているというから驚きだ。橘は雪の君、榊は月の君。勝手にそう呼んでは勝手に人柄を想像する。失礼極まりないその思考。杠は、両親に対して憤っていた。

「勝手に愛称を決め、呼ぶことの方が恐れ多いと思わないのか」

女中に向けるときと同じように威厳を込めて語気を強めると、その狐の目が揺らいだ。

「わ、わたくしは尊敬の意を込めて呼んでいるのです。華の君――」

「――呼ぶな。私は、貴女に、母に、愛情を以って接してほしいのだ。……そうでなくとも、名くらい、呼んでくれてもよいではないですか!」

「……っ!」

本音を零したのは初めてだった。心に留めておくこともできただろうに。しかし、杠の心は既に留めていたものでいっぱいだった。

本当に久しぶりの大声で若干の喉のつかえを感じつつ、母の反応を待っていると、

「……しかし、わたくしは」

ああ、これは母ではない。信者だ。

泳ぐ目。渋る様子。母ならば己の娘の名前を喜んで呼ぶだろう。――これも理想か。

「もうよい」

「へ……?」

「愛などなかったのだな、お前は。これからは、母と呼ぶこともしないし、お前に名を呼ぶように頼むこともしない」

「……華の君? 何を仰っているのです」

「ああ、私は……華の君だ。お前の好きにすればよい」

「!」

絶望? 失望? いや、理想を押し付けただけだ。信者に名を呼んでほしいなど、はなから杠の方が間違っていた。そう思わないとその場に立っていることもままならなかった。

「お待ち下さい! お待ち下さい、華の君‼」

その場に居たくなかった。俯いて、裾と髪を振り乱して自室に逃げ、籠った。

「――華の君、文が届いております」

籠ってすぐ、女中が訪ねてきた。荒れた息と髪型を整え、返事をする。

「誰からだ」

「立法様からです。もうすぐひと月が過ぎますからね。……何かあったのですか?」

「何もないが、どうしてそう思うのだ」

「疲れた様子でしたから、午後はゆっくりお休みくださいませ」

そうは言われても、女中が、形だけの両親が、この邸にいると思うだけで心から休めるはずもない。そもそも、豪華に飾り立てられたこの邸自体居心地が悪い。

女中に、下がるように言って一人になってから文を開く。


『久しぶりだな、杠。もうすぐ約束の日が来るぞ。また、杠は大きく、賢くなっているのだろうな。そなたの成長が、唯一、退屈な公務の中での私の楽しみだ。明後日、会えることを楽しみにしているぞ。   三権大師 立法』


師匠と言っても過言ではない、当代の立法。その彼からの文。毎月、一度送られるそれを杠は楽しみにしていた。そして、文が送られた数日後には、休暇の立法と遊ぶ約束を取り付けている。ああ、待ち遠しい。名を呼んでくれる数少ない一人。杠に対して時に厳しく、時に優しく立法の在り方を享受きょうじゅしてくれる当代。

杠は、肉親にはどれだけ冷たくされていても、娘だと思われていなくても情を捨てきることはできないものだと思っていた。しかし、それは間違いだった。もう、杠は立法こそが父であり師匠だと心から感じられるほど立法からの愛情を享受していた。それは嬉しい反面、そう思うのは肉親に情が湧かない冷たい人間だからではないか、と杠を思わせた。

だからこそ、立法に「困ったら言え」と「相談に乗る」と言われても自身の家の問題は決して立法には言えなかった。言う勇気がなかった。冷たい人間なのだと、情も何もないのだと知られてしまえば立法は杠に冷たく接するようになってしまうだろうから。杠がほんの数年我慢すれば良い話なのだ。

決して立法の優しさを疑っているわけではない。悲観的に考えるほど杠の心は、肺にまみれた狐に蝕まれていたのだ。

「返事を書かなければ」

震える手を押さえて筆を執った。


「姉上?」

「ん、なんだ? そろそろ昼寝の時間だろう、あさひ

文を届けるよう女中に頼んだ後、部屋の天井の染みを数えていたとき、その子は現れた。おずおずと襖を引いて飴色の髪を覗かせた少年。齢六になったばかりの杠の弟。

杠の機嫌をうかがうように襖の前から動かない旭に、杠は快く迎え入れた。

「母上がいらだっていたんだ。それで――」

「逃げてきた?」

「……うん」

血が繋がっているとはいえ、杠と旭では置かれている状況が違う。杠と旭は、お互いに姉弟らしく接したいと思いつつもそうはいかないというのが現状だ。その主な原因は、杠と旭の両親。だからこそ、こうやってこそこそと旭が訪ねてくることもしばしば。

「すまないな、旭。私が怒らせてしまったから」

「父上と母上と姉上はなかよしになれないの?」

幼子の純粋な疑問が胸に突き刺さる。

「……そうかもしれないな」

旭の頭を優しく撫でた。

「昼寝は私の部屋でしていくと良い」

「姉上、」

その言葉と同時に襖が引かれた。

「旭! 何をやっている‼」

容赦なく怒鳴りつける、威圧的な声。――父親だ。

「華の君のお部屋へお邪魔しては駄目だと言っただろう!」

また、華の君。ああ、ついに忍んで旭に会うこともできなくなるのか。

「で、でも、ぼく姉上と――」

「――姉上と呼ぶんじゃない! 華の君に恐れ多い‼」

「ち、ちちうえ……」

姉に対して姉と呼んで何が悪い。

幼い旭は泣きそうになっている。それでも父の怒鳴り声は止まない。

「華の君、旭が失礼致しました」

「……誰の許しを得て私の部屋に入っているのだ?」

「えっ……」

作り笑いをたたえて杠に謝る、腰の低い父親。この人が華の君らしさを求めるのならその通り演じるのも悪くない。

「私の許しを得ていないのに勝手に襖を引いていたな。旭でもできたことが良い大人ができないだなんて、そのようなことはないだろう?」

「も、勿論でございます。しかし、旭がお邪魔をしているのでいてもたってもいられず、」

「おや、自分の非礼を幼子おさなごのせいにするのか」

「っ……」

ばつが悪そうに縮こまる父親。よわい何十も年下に言い負かされてどうするのだか。嘆かわしい。

「旭、私と昼寝をしよう。起きたら旭の好きなことをしよう」

「へ、は、はい、華の君」

「違うぞ」

「……あね、うえ?」

「ん」

微笑み合う。その中に父親が入る隙はない。

「あ、あの、華の君……」

「出ていけ。私の許しを得ることなく私の部屋に入るな。ああ、そういえば母上が苛立っているそうですよ。慰めに言ってはどうでしょう?」

皮肉はついつい敬語になってしまう。敬語はまだ家族に希望を持っていたときの口調だったから。今は、もう、旭だけ。

「さあ、旭。布団を敷こう」

父親の姿をした信者は、真っ赤な顔で去っていった。

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