第一章 雪月華 後編

ふみを開く音。文机に積みあがった処理した文書とあと数枚の書きかけの文書。大きな椅子に座って文を開くあるじの前に立つ側近。

「なあ、これ如何どう思う」

主である立法は側近の江雪こうせつに問いかけた。

「如何、とは?」

ゆずりはから文が届いたのだ。しかし、どうも元気がない様子でな」

「失礼します」

一言告げて江雪が文を読み上げた。


立法りっぽう様、お久しぶりです。つい、この間会ったばかりだというのにあの日がもう何年も前のような心地がします。先月は蹴鞠けまりをしましたが、今月は何をしましょうか。一五歳になれば勉学に励まなければなりませんので、今のうちにやりたいことはすべてやっておこうと思うのです。しかし、私は島民たちの流行に疎いもので、何をすればよいのかわからず、立法様が私としたいことを考えて下さいませんか。きっと立法様と一緒であればなんでも楽しいのでしょうね。明後日を楽しみにしております。   杠』


「立法様」

「なんだ」

「この文章を読むだけで杠様の体調まで感じ取れるのですか。特に、異常な点はないように見えましたが」

江雪はよくわからないという風に首を傾げる。

「いや、私の勘はよく当たる。これは計画を速めた方がよさそうだ。杠が一五になるまで待てないかもしれないな」

四年前から密かに広まっているある噂。

「まさか、」

その噂の根源を絶つために、立法は機会をうかがっている。しかし、

「あの狐どもが、杠に余計なことを吹き込んだな」

化け狐が本性を現そうとしている。早めに手を打った方が良いと判断し、とりあえず杠の安全を確保することにした。

「俺が、杠様に会いましょうか?」

「いや、私が行く。秘密裏より真正面から行った方が驚くだろう」

「承知しました」


   ❖❖❖


翌日、徐々に寒さも落ち着いて、北地区にも遅咲きの桜の蕾がついてきた頃、今日も今日とて真紅の着物を着せられたゆずりはは、何回読んだかわからない絵本を読み返していた。他にも読みたい本は山のようにあるが、自室にある五〇を超える本は既に読み終えていて、本屋に買いに行くくらいの外出も許されない杠は暇を持て余していた。

今日だけで何度したかわからない溜め息をまた吐いたとき、障子とガラス戸の向こう――外から足音がした。さくっ、さくっ、という雪を踏みしめる音と、その後にざっ、ざっ、という土の上を歩く雪駄の音。これは、

立法りっぽう様?」

杠のあまりにか細い呟きは誰にも届かない。

その足音はまっすぐ杠の住む邸の玄関に向かった。もしかしたら、忙しい合間を縫って会いに来てくれたのかもしれない。杠の心は浮足立った。

迎えに来てくれたのだと歩調から感じ取ったから。


はなきみ! 立法様が、お見えになりました!」

自室から耳を澄まして玄関の様子をうかがっていると、女中が血相を変えて襖を引いた。

「知っている」

「へ?」

それだけ告げて、杠は放心の女中を置いて玄関へ向かった。


   ❖❖❖


玄関の引き戸をわざと音を立てるように引くと、予定のない客の訪問に女中たちは動揺した。その中にいたやたらと目立つ赤い紅を引いた女狐。

立法りっぽう様、本日はどのようなご用件で……。まさかまた邸へおで頂けるとは」

心底感動したというような身振りと潤んだ瞳。厚化粧のきつい匂いが漂ってくる。引き攣りそうになる表情を穏やかな微笑に戻す。

ゆずりはの母君、久しいな。どのような、とは、私がこちらへおもむく理由はただ一つ。杠を借りていくぞ」

そう、それだけ。あくまで大事なのは後継者。その母などに興味はない。母という役割に努めていたならば感謝は惜しまなかっただろうが。

「お、お待ち下さい。華の君とのお約束は明日では? 華の君も驚いていることでしょう。わたくしが呼んで参りますので、どうぞ中へ」

時間稼ぎでもするつもりか。娘と思っていないのにいざ手元から離れようとすると抗おうとする。それは、愛情ではない。立法には、自らの品位を上げる相手が欲しかったようにしか考えられなかった。しかし、抗うなど不可能だ。長年の経験から足音で人を判別できるようになった自慢の後継者がいるのだから。

「その必要はない」

「華の君⁉」

冷静な一言が、すがめていた目を驚きで見開かせた。特に持っていきたい物がないらしい杠は身一つで現れた。

「というわけだ。借りる、いや、預かるぞ。杠、行こう」

「はい、立法様」

玄関には呆然と座り込む一人の女と貴い二人の微笑みが残された。


   ❖❖❖


「今日からはこの部屋を使ってくれ」

檻から脱したゆずりは立法りっぽうの屋敷にやってきた。

よわい一五になった後継者は、齢二五で三権大師さんけんだいしを継ぐまで、当代の屋敷の隣にある小さな屋敷を拠点として使う。しかし、基本的には住人がいないわけで、その小さな屋敷は現在ネズミの住処と化している。そこで、屋敷の準備が整うまで立法の屋敷に住むことになったのだった。

「広くないですか……」

立法に案内された部屋は屋敷の中で二番目に広い部屋だった。実家で使用していた部屋の何倍の大きさなのか想像すらできない。因みに、一番広いのは四年前にお泊り会をしたときに当代三人、後継者三人で寝起きし、朝食を食べたあの広間だ。

「せっかくの広い部屋なのだが、私は使わないからな。是非、杠に使ってほしい」

立法は一〇もある部屋のうち三部屋しか使用していないらしい。

「立法様は使わないのですか?」

「私は物が少ないからな。それに使い過ぎると掃除が大変だからこれくらいがちょうどいい」

天描島屈指の大金持ちで大きな屋敷に住んでいる三権大師の一人が、この島では一番庶民的なのかもしれない。

「そうだ、杠。これから生活するのに必要な物を買いに行かないか」

「そうですね。でも、お金をあまり持っていなくて」

「それは私が出すから気にしなくてもよいが、両親からお小遣いは貰っていないのか」

「お金を持たされることがほとんどありませんでした。実家で過ごすことが多かったですし、出かけても用事が終わるとすぐ帰宅するように言われて、自分で何かを買ったことがありません」

お金の数え方は教育として受けているが、食材や雑貨、本等を自分で買いに行ったことのない、買いに行かせてもらえなかった杠は当然、お金を持たされたこともない。

「……そうか。なら、今日は好きなものを選びなさい。何を選ぶか迷うなら好きな色や柄で選んでもよい。あと、明日から少しだがお小遣いを渡そう」

溜め息を吐いた立法は、当然のようにそう言った。杠にとっては当たり前ではないお小遣いというものが、杠ほどの年齢になると持たされることもあるのだと、初めて知った。

「そ、それは、よいのでしょうか……」

「ああ、そなたの両親がその責任を果たさないなら私が果たそう」

「あ、ありがとうございます」

杠は、父親代わり、と思っていいのだと言ってもらえたように感じた。


南地区で食材を買い、今度共に料理を作ろうと言いながら、洗濯も料理も実家ではやったことがないと言う杠に、立法は何度でも教えてやると約束した。家具や着物を買いながら、立法は杠の好きな色を聞いた。

「赤ばかり着ていただろう。赤が好きなのか?」

「赤は嫌いです。見飽きたというのもありますが、あまり良い思い出がありません。色は緑と青が好きです」

「嫌いなのに何故……」

「両親が勧めるので、赤は鮮やかで目立つからはなきみには相応ふさわしい、と」

「では、緑や青で気に入った物を買おう。杠の美しさが色で損なわれるわけがない」

「はい‼」

杠は初めて買い物をした。初めて店に入り、商品を吟味した。並ぶ商品は全てがきらきらと眩しく、中には見たことのない物もあった。

「あ、これ、」

「なんだ?」

気になって手に取ったのは空色の生地だった。

あさひに似合いそうだな、と」

「弟君とは仲が良いのか?」

「仲が良いかはわかりませんが、あの子を過ごす時間は、私が唯一安らげる時間でした」

「そうか。それを贈ろう」

流石に申し訳ない、と生地を返そうとすると、立法はそれを制した。

「よいのだ。共に暮らすことはできないが、気遣うことくらいはできる」

「……ありがとうございます」

毒の針に脅かされていた杠と同じような状況かもしれない旭を、立法は気がかりにしているのだろう。

「まあ、近いうちに会えるだろうがな」

え、と顔を上げた杠に、立法はにこにこと微笑んだ。


「何か気がかりなことはないか」

屋敷への帰り道。立法は言った。

「何か、ですか」

「何でもいい。両親が乗り込んでくるかもしれない、とか。これからの生活について不安なことはないか」

「えっと、あ、あの、立法様は自分の両親を想ったことはありますか?」

「は……?」

立法は口をあんぐりと開けた。どうやら思っていた質問と違ったようだ。

「血の繋がった家族とは想い想われる関係だと本に書いてあって、でも、私は家族のことを想えたことがないのです。それは、私が人間としての感情に欠陥けっかんがあるのかな、と」

「それは違う。杠は少々大人っぽいところがあるが、まだ齢一〇になったばかりの女の子だ。……しかしな、これは三権大師になる者が皆通る道だ。……三権大師になる者は両親や兄弟とは違う存在になるのだ。想えないというのはそういうことだ」

「違う、存在……?」

「厳密に言うと、神からたまわる食材をよく食べるから神に近くなるってことだな」

この島は神に魅入られている。つまり、神からの恩恵があるということだ。しかし、島民全員に恩恵が行き渡らないこともしばしば。そこで、島の長と三権大師、後継者に優先的に恩恵が与えられ、後は島民の共用施設等に与えられるように島の法律で定められている。

神から賜る食材も恩恵の一部で、それは例え家族といえども食べることは許されない。三権大師や後継者は人間だが、食材を食べることで神に近くなり、血の繋がりという何よりも強い絆を無くすのだ。絆というのは、家族だけではなく様々なものに影響していて、三権大師の婚期が遅れているのもこれが原因だと思われる。

しかし、三権大師にとっては後継者、後継者にとっては三権大師が自分に限りなく近い存在の為、家族以上に関係性が深いことも多い。

「つまり、私たちは孤独なのですか」

「そうかもしれないな。しかし、司法のように妻を迎えた者もいるし、似た存在は六人もいるのだ。それでも、虚しくなることはあるが、居ないよりはマシだ」

立法は懐かしそうに微笑んだ。かつて自分も同じように悩んだのだと、同じように先代に聞いたのだと、立法は杠に伝えた。

「神からの食材を食べ続けると寿命が延びる。私たちが生きている間、多くの島民が亡くなる。中には誕生から逝去を見届ける者もいる。杠、〈三権大師〉とはそういう存在だ。決して、島民とは同じ時を生きられない。それでも共に在りたいと渇望してしまう。志を強く持て」

「はい‼」

新たな生活が落ち着いたら後継者教育が始まる。杠は特例として五年早く。

新月の夜、立法の〈三権大師〉としての心構えの一端を見られた気がして、杠は嬉しかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

箱庭の杠 守屋丹桂 @moriyanika

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ