信仰している神様も教義もないけれど、クリスマスやお正月は謳歌する。
ごく普通の日本人に見える作者だが、実は信仰についてひと悶着あったようで……?
信じることって何だろう、読者に問いを残すエッセイ。
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「宗教を「信じる」とはどういうことか」(著・石川明人)という本にこのような一節があります。
一般に、人は、本当に心から何かを信じきっていたら、「疑う」という発想自体がなくなるので、実際には「信じます」とか「信じましょう」という言葉は口から出てこなくなるものではないでしょうか。
例えば、わざわざ現金を手にして「私はこれら貨幣の価値を信じています」と口に出す人はいません。なぜなら、ほぼ全ての日本人は貨幣の価値を本当に信じきっているからです。
このエッセイには「信仰の押しつけ」に関する作者の考えや行動が示されています。
信仰の何が複雑かは二つあると見ています。
一つは熱心に布教する人物でも善人の可能性がある点でしょう。お金や権力が目的でなく、本当に良いものを勧めようとしている。否定することが一概に正しい選択だとは限らない。
そしてもう一つは、無神論者もまた、数多くの信仰を無意識的にしているという点です。貨幣も科学も伝統も精神も、究極的には一つの「考え方」であり、皆が選んだ信仰だという点です。
常識というのはしばしば転倒を繰り返します。
天動説が1500年近くも代表的な宇宙の姿として信じられてきたのは代表的ですが、
昔の内容を引っ張りださなくとも、70年前にはEXCELどころか電卓もなく、今まで有用に思われた治療法がプラシーボ効果だった、という事象は多々あります。
皆が正しいと断言したものですら上記の通りなのですから、個人の人生における経験や判断の評価がどれだけ揺れ動くかは語るまでもないでしょう。
「信じる者は救われる」という言葉がありますが、磔になった際のイエス様は「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と発しました。
この矛盾にも似たような状態が、宗教に限らず、何かを信じている全員にかかっているのだと思います。
その上で、信じ続けるか、それとも止めて、別の何かを信じ直すのか。
お約束事の多い、年末年始にふさわしいエッセイでした。