鳳雛の立つとき

胡姫

鳳雛の立つとき

――早く来い。


酒ばかり飲んでいると自分が酒で出来ているような気になってくる。感覚は皮膚の内に鈍く沈み、代わりに頭が過敏なほど冴えて刃のように脳内を傷つける。


乾いた風が足元を吹き抜ける。冬が近い。


龐統ほうとうが襄陽の酒場に入り浸るようになってからひと月たったが、誰からも顧みられない日々が続いていた。常宿を訪ねて来る者もなく、文をよこす者もなく、ましてや仕官の誘いなど露ほどの気配もない。


否。訪ねる者が、一人だけいた。


「士元。いつまでそうしている気だ。」


龐統は酔眼を上げた。敏捷そうな体つきをした男が、龐統の徳利を押さえていた。


司馬徽門下で同窓だった、徐庶である。


「…元直かい。」


徐庶は勝手に龐統の隣に座り、今度は盃を取り上げた。


「鳳鄒ほうすうと言われた男がこのざまは何だ。ふらりと旅から帰ってきたと思えば…」


「お前さんも暇だねえ。」


「仕官する気なら自分から動けよ。仕官する気はないのか?このまま埋もれる気か?」


「さあねえ。」


「士元!」


龐統は徐庶の手にある酒を名残惜しげに眺め、酒臭い息をふうっと吐いた。


「お前さんこそ何で俺に構う?俺を手土産に、劉備殿のもとに帰参するのを狙っているのかい?」


「…違う。」


徐庶の顔がさっと赤くなったのを龐統は見逃さなかった。母を人質に取られて曹操のもとへ行った徐庶だが、彼が未だに劉備を慕っていることは誰が見ても明らかだった。初めて劉備の軍師になった頃の徐庶は生き生きしていた。今は見る影もない。こうして襄陽の町はずれまで友を訪ねてくるのも、魏での鬱屈うっくつがあるからだと龐統は見抜いている。


劉備という男には、それだけの魔力があるのだろう。


一体どんな男なのか。龐統もずっと劉備を観察してきた。徐庶が惚れこみ、諸葛亮が身をなげうつ男。自分が仕えるに足る君主か否か。


そして結論を得た。だから今ここで酒を飲んでいる。


――土産にされてもよいが、時期というものがある。


派手な舞台演出を龐統は待っていた。自分を売り込むための最高の状況を。酒でなめらかになった口から呟きが漏れた。


「…待っているんだよ。」


「何を。」


「戦乱を。」


龐統の酔眼に、一瞬、炎のような光が灯るのを徐庶は見た。


「この顔じゃあ、まともに仕官を頼んでも門前払いさ。俺には、戦乱が必要なんだよ。それもとびきり大きな。」


龐統は異相である。慣れればことさら醜いとも思わないのだが、初対面の者はよい印象を持たぬであろう。それが龐統の美質を少なからず損なっている。彼の並はずれた才能は、龐徳公に会うまで正当に評価されてこなかった。理不尽な話だが、生れついた容貌はどうしようもない。才で補う以外の手段を龐統は持たなかった。だがそれも、正当な評価をしてくれる君主を得なければ話にならない。


だから龐統は待っている。戦乱を。窮地を。不利な状況であればあるほど己の価値が上がる。


劉備に己の才を見出されなければならない。そのために。


――待っているんだよ。俺は。


――あの人が、俺を迎えに来るのを。


――早く。早く来い。


しかし心中はおくびにも出さず、龐統はのんびりと言った。


「近く呉で大きな戦乱がある。場所は赤壁。三国の君主が一堂に会する絶好の機会じゃないか。」


徐庶は探るように龐統の酔眼を覗きこんだ。


「士元お前、誰につくつもりだ?孫権か?劉備殿か?まさか曹操ってことはないよな。」


「ふふん。」


龐統は徐庶から徳利を奪い返し、直に口をつけて飲み始めた。行儀が悪い。士大夫のすることとは思えない。しかし徐庶は咎めなかった。徳利は瞬く間に空になった。


「愚な事を聞くねえ。お前さんだって同じだろう。選択肢が他にあるかい。」


――劉備殿以外にいない、か。


徐庶は自分と同じ意思を龐統の目の色から読み取った。最初から分かっていたような気がした。徐庶が龐統を訪ねていたのは、確認のためだったのかもしれない。


「それじゃ、俺が何か言う必要はないな。」


徐庶は腰を上げた。龐統の本心が見えた今、長居は無用だった。龐統を手土産に劉備に会いに行く魂胆もないではなかったが、見透かされていた以上彼が応じるとは思えなかった。これ以上自分にできることはない。劉備のもとに行ける友人にかすかな羨望を覚えつつ、徐庶は酒場を去ろうとした。


すると龐統が、徐庶の袖を引いた。


「まあ待ちな。ここまで聞いたからには協力してもらうよ。」


「協力?」


「赤壁で、元直にもひと芝居打ってほしいのさ。」


龐統は徐庶をもう一度座らせ、酔眼をひたと据えた。


否、もはや酔眼ではなかった。酔いのかけらも見えない明敏な眼が徐庶を射ぬいていた。鳳の眼だった。


「うまくすれば、お前さんの望みも叶うかもしれないぞ。…劉備殿に会わせてやるよ。」


徐庶は動けなくなった。徐庶の最も弱いところを龐統は突いてきた。龐統のだらしなく酒酔いした口元に、凄みが見えた。徐庶の背がぶるりと震えた。


「どうせ魏に帰ったってつまらねえんだろう?協力しろよ。今よりはましな夢を見せてやる。」


鳳の眼が徐庶を見ている。徐庶が断るとは露ほども思っていない眼だ。その眼は徐庶を通り越し、もっと遠い何かを映していた。はるかな戦場と、そこに待つ一人の男を。


――劉備殿は俺を見つけるだろうか。


――必ず見つける。見つけさせる。


――でなければ待った甲斐がない。


「雛ひなの巣立ちを手助けする気はないかい?兄弟子さん。」


気圧されたように徐庶は頷いた。龐統は、最初から酔っていなかったのかもしれない。自分はまんまとはめられたのか。徐庶も、龐統の計画の一部に組み込まれていたのか。


しかしこれで劉備と繋がる細い糸ができた。それだけでも来た甲斐はあったのだろう。そしてその想いすらも、龐統の手の内だったのかもしれなかった。


乾いた風が足元を吹き抜けた。赤壁からの風だ、と徐庶は思った。




その日以来、襄陽の町から、酒の化身のような男の姿が消えた。


208年(建安13年)11月末。大決戦の火ぶたが切られる少し前のことである。




         (了)

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