モンパルナスのキス
九月ソナタ
モンパルナス墓地のキス
パリには有名な墓地が3つある。
ペール・ラシエーズ墓地、モンパルナス墓地、そしてモンマルトル墓地で、バルザック、ドラクロア、ショパン、モディリアーニ、オスカー・ワイルドなどの墓はペール・ラシェーズに、サルトル、ボーヴォワール、モーパッサンの墓はモンパルナス、天才ダンサーニジンスキーと妻はモンマルトル墓地で眠っている。
フランスを初めて訪れた時、パリに在住の知人が、墓巡りに連れていってくれた。エッフェル塔より、凱旋門より先に、というか彼は長いこと住んでいるせいもあるのか、いわゆる観光名所には興味がなかった。そういう名所へは、自分で行けばよいという態度。
画家は私の友人の紹介で、彼とは初対面だった。何やら妖しい空気が漂っている人で、繊細と親切と投げやりが入り混じっていた。
魅力的だが、近寄りがたい。
私はこういう日本人には会ったことがなかった。パリで長く暮らすと、こういう雰囲気になるのだろうかと思った。
彼はパリでは墓こそが見るべき場所で、さまざまな作家が眠っているのだと言った。
「みんな、同じところに集まっている。すごいだろ」
この画家を目指している日本人は、過去の作家たちがまだ生きていて、会いに行くような調子で話した。
モンパルナス墓地には「キス」の彫刻が置かれている墓があるそうだ。ロダンの「キス」ではなく、ブランクーシという彫刻家の作品である。
私はちょうどモディリアーニについて勉強しているところだった。あの首の長い女性の絵で有名なモディリアーニが、パリに来た当初は彫刻家になりたくて、ブランクーシに弟子入りをしたことを知っていた。
弟子を取らないブランクーシだったが、モディリアーニだけはすぐに弟子にしたという。私はそのブランクーシの「キス」をぜひ見たいと思った。
ブランクーシ(1876-1957)について少し書いてみよう。
彼はルーマニア人で、ブカレスト国立大学を卒業後、1904年にパリにやってきた。憧れていたロダンの下で働いたが、彼のようにはなれないとすぐにやめて、自分のスタイルを追及することにした。
彼の写真を見ると、ヨガマスターか、インドの修行者のようで、独特の雰囲気がある。
モンパルナスにある「キス」は、ブランクーシがまだ売れていない時代の作品である。その作風はとてもシンプルで、モディリアーニの絵を彫刻にしたような感じであるが、ブランクーシのほうが師匠なのである。
そのモンパルナスの「キス」の墓に近づいた時、ブロンドの女性がその墓の前に、放心したようにたたずんでいるのが見えた。
画家は私が墓に行こうとするのを手で制止し、霊廟の陰に隠れて、その女性が立ち去るのをじっと待った。
恋に慣れているように見えるパリジェンヌが、どんな気持ちでこのお墓に来ているのかしら。もしかして失恋をして、ひどく傷ついたのかしら。それとも恋をかなえてと祈っているのかしら、などと私は勝手に想像した。
知人を見ると、両手を後ろに組んで、靴の先をじっと見ていた。
えっ。
「知っている人?」
と私が訊くと、彼はあいまいに首を傾げた。イエスともノーとも取れる仕種だった。おやっとは思ったが、それ以上は訊ける雰囲気ではなかったし、そんな必要もないと思った。
ブロンドの女性が去った後、墓に行くと、その墓の上には男女が固く抱き合っている立体長方形の石像があった。
「よほど愛し合っていたのね」
と言ったら、友達がそうかなという態度をした。
「お墓の人はだれ」
「ロシア人の女性で、失恋自殺をしたんだ」
それならどうして自殺者の墓の上に、キスの像が置かれているのかしら。
「ここに埋葬されている人はね」
と友達は墓に顔を近づけて、
「タニアナは、」
その名前を読んで、次のような話をしてくれた。
タニアナはパリには勉強をするためにロシアからやってきた。
彼女はキエフの上流階級のご令嬢だったが、社会運動に加わり、投獄されてしまった。そこで両親が手を回して、彼女を国から逃し、パリに送ったということらしい。
パリでは、ルーマニア人のソロモンという医師からフランス語を学ぶことになった。彼女はもともと情熱的な人だったようで、今度はありあまるエネルギーがその医師に向かったらしい。医師と恋に落ちてしまった。
彼女は真剣だったのだが、ソロモンのほうにはその気がなかった。悲嘆したタニアナは1910年の11月のある日、アパートの窓から飛び降り、わずか22歳で、あの世に旅立ってしまったのだった。
ソロモン医師はそのことをすまなく思い、自分に何ができることはないかと考えた。そこで、彼と同郷の彫刻家ブランクーシのところへ行き、彼が前年に作ったという「キス」の大理石の彫刻を買い、彼女の墓上に置いたのだった。
祖国から駆けつけたタニアナの家族は、墓の上の彫刻が気にいらなかったのだが、取り外すことはしなかった。
だから墓の上で男女は「キス」を続けたまま、100年以上の時が流れた。
「さっきのマドモアゼルが、その話をしてくれたんだ」
ああ。やはり知り合いだったんだ。
「あいつ、なんでここにいたんだろう」
と彼はつぶやいて、顔をしかめた。近くの木から大きな枯れ葉が落ちていたから、あれは秋だった。
そういえば、女性が赤いセーターを、ポニーテールの彼は黒いトレンチコートを着ていたことを、今思い出した。
*
その後で、私は時々考えることがあった。
ルーマニア人の医師が、ロシア人にフランス語を教えることがあるだろうか。ルーマニア語はラテン系言語だから、フランス語やイタリア語は簡単に習得できるのかもしれないけれど。
ルーマニア人の医師ということだったが、インターンかもしれないし、もしかして、バリで生まれて育った人かもしれない。よくはわからないが、ソロモン医師は心のやさしい人だったと思った。
でも、墓の上に、恋人ふたりがキスをしている彫刻を置くというのは大胆ではないか。
ソロモンさんはとても思いやりのあるやさしい人で、こういう彫刻を買って置くというガッツもあると思った。
ソロモンさんには何か惹かれるものがあった。タニアナが好きになったのも、わかる気がした。
*
それから10数年以上もたって、私はある本に出会った。
本の著者というのはイリヤ・エレンブルグ(1891-1967)という作家で、キエフ生まれのユダヤ系ロシア人である。
モスクワに移った後、15歳から地下運動をし、ロシア革命が終わるまで、1891年から 1917年までバリで亡命生活をしていた。
彼はそのメモワールに、当時のパリを書いている。
私はそれまで彼のことを知らなかったが、かなり有名な作家であるようだ。私は別の目的でこの古本を購入した。
その本を読み終わってから、モンパルナスの「キス」のタニアナのことを思い出した。
あのキスのタニアナもイリヤと同じキエフ生まれのロシア人だし、パリで自殺をしたのは1910年なので、彼がパリにいた年月と一致している。もしかして、彼女のことがこの本に書かれているかもしれない。
最初に読んだ時には、そのことには注意を払っていなかったから、気がつかなかった。なぜもっと早く気がつかなかったのだろうと後悔した。
もう一度、英語本を読み直すのかと思うと気が重かったが、どうしても知りたくて、やれやれと思いながら、読み直した。
再び読み直した時に、その記載を見つけた。私は何につけても見つけるのはうまいほうではないから、文章の中にその記事見つけた時はうれしかった。
そこには、パリで自殺した3人のロシア人のことが書かれていた。
そこあたりを引用してみよう。
*
自分(イリヤ)にとって、フランス人は他人行儀で、誠実さに欠け、計算高いように見える。
ここの連中は、突然、心を開いて、友人になるっていうことは起こらない。
誰も通りを歩いていて、友達の部屋の明かりがついているのを見ても、ひょっと立ち寄る、なんていうことはしない。
パリではだれもが、酔っぱらっていた。
しかし、誰も、その週の悲しみを忘れるために飲むなどということではない。
誰も飲むためになら、最後のシャツの1枚を売る、なんてこともしない。
フランス人は、たぶん、だれも、首を吊ったりなどはしないだろう。
ロシア人で自殺した者を何人か知っている。
ヴィタリーは首を吊った。
トラブルや借金が重なって、誰かの詩を盗作したりしたと人々が言っていた。彼はおれに「パリがぼくを病ませる」としばしば言っていた。
おれは、時々、タマラ・ナドルスカヤに会いに行った。
彼女は痩せていて、眠そうな目をしていた。おれ達はロシアのこと、感情の大切さ、生きる目的なんかを話し合った。
彼女は屋根裏に住んでいて、その小さな窓からは、空が見えた。彼女はこれまで思い描いてきたことを、何ひとつ、実現できていないと言っていた。
彼女はある日、その窓から通りに身を投げた。
タニヤ(Tanya Rashevskaya)のことはモスクワにいた頃から知っていた。
タニヤはおれの小学校時代の友達ベスヤの妹だった。
タニヤは母国でしばらく監獄にいれられていたが、その後パリに行って、医学学校に入った。そして、ハンサムなルーマニア人と出会い結婚した。
でも、ある日、毒を飲んだ。
母親がモスクワからやってきて、葬式を執り行った。母親が司教を説得して、カトリックの葬式をあげた。参列者はみんなロウソクをもち、助祭が「すべての罪は許される」と歌った。
*
イリヤ・エレンブルグの本では、この部分はパリの人情の薄さが原因で、鬱になって自殺したロシア人の友人たちというくくりになっている。
私の知人が語ってくれた話には、窓から飛び降りたタマラと、医師と結婚したタニヤの話が入り混じっているようだ。
このタニアのほうが、キスの墓に眠るタニアナのことだと思われる。
苗字はRashevskayaとRachewskaia、微妙に違うのだが。
知人の話では、タニアナはキエフ生まれ、ソロモンが医師で、彼にフランス語を習っていた。しかし、恋が実らないで、投身自殺をした、ということだった。でも、イリヤの本によるとそういうことではなく、うつ病のようである。
またイリヤの本によると、実際には墓の上に彫刻を置いたのはソロモンではなくて母親で、イリヤがルーマニア人の友達で彫刻家ブランクーシを紹介したということになっている。
母親が司教を説得したと書いてあるのは、自殺をすると教会での葬式はできないから、母親は娘が自殺死ではなく、薬の誤飲だとか、そういうふうに言って説得したのだろう。墓石の上に、十字架が彫られている。
もうひとつわかったことは、当時、あの「キス」の代金が200フランで、それを支払ったのは母親だったということである。
イリヤ・エレンブルグはその頃、家からの仕送りは133フランだと書いている。生活は苦しくて、詩を書いても売れず、翻訳、ガイド、いろんな仕事につくが、食べられない日が続くことがあったそうだ。
仕送りが133フランで、「キス」が200フラン、
これをどのように考えたらよいのか。
今の感覚にしたら、5万円くらいではなかったかと思うが。
というわけで、タニアナの自殺は悲劇ではあったけれど、恋がかなわなかったからという話ではなかった。事実というものは、往々にそういうものだ。
*
2005年、ブランクーシの「空間の鳥」(メトロポリタン美術館にあるのと同じような彫刻。少し小さい)がクリスティーズのオークションで、27億円という記録的高額で売られた。買ったのは「レオン・ブラック」という投資家で、この高値な落札によって、ブランクーシの作品がにわかに注目され始めたのだった。
お金というのはすごいもので、高額落札の直後、あるパリの画商がウクライナに住むタニアナの子孫と連絡を取った。それで子孫の6人が、モンパルナスの「キス」の所有権を主張して名乗りでた。
ギョーム・デュアメルというパリの敏腕ディラーは、パリ市に対して、彫刻をレプリカと替え、オリジナルを子孫に返すべきだと裁判に訴えた。
しかし、2006年、裁判所は墓と彫刻は一体のもので、これは文化的建造物として、墓と彫刻を別々に離すことはできないという判決を下した。
しかし、デュアメルは諦めない。
彫刻はタニアナが亡くなる前年の作品であり、この墓のために作られたものではないから、ふたつは一体ではない。別々にしてもかまわないはずだと再び訴えた。
2018年に、パリ市は再び拒否をした。
ブランクーシの作品の価値がますます上がっていく中で、パリ市は盗難を心配して、墓に木の箱をかぶせた。
市としてはセキュリティのためにもこの墓石と彫刻を分離して、安全な美術館に運びたいのだろうが、墓から「キス」を離すと、やり手の画商の手にわたってしまうので、こんな木の箱で囲むしか方法がないようだ。
この一連のニュースから、あの墓の「キス」を購入したのはソロモンではなく、タニアナの親族だったと、はっきりとわかったのだった。
それはパンデミックの前の話で、今はあの「キス」がどうなっているかわからない。
あの案内してくれた画家の知人に訊いたら、わかるかもしれない。
友達からメールアドレスをもらい、画家に連絡するついでに、墓の人やソロモンのことを教えてあげようかと思った。が、急に彼があの女性を「あいつ」と呼んだことが蘇った。
画家はあれから結婚したと聞いた。
相手はフランス人だと別の知人が教えてくれたが、相手があの墓のマドモアゼルかどうか確かめようとしているうちに、ふたりは別れてしまった。
墓の上のキスに、今でも箱がかぷせられているのかどうか、そんなこと、画家には訊かないほうがよいだろう。
このままにしておこうと私は書き始めたメールをデリートした。クリックすると文字は後ろから消えていき、何もなくなった。
あの赤いセーターのマドモアゼルのことも気になるのだが、私が知ることはたぶんないと思う。
でも、墓の上の「キス」は今も、あの暗い箱の中で抱き合い、キスを続けていることだろう。
完
モンパルナスのキス 九月ソナタ @sepstar
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