波打つ窓際、沈黙する頬
飯田華
波打つ窓際、沈黙する頬
人の家のシャワーを借りていると、なぜだかすごく遠い場所へ辿り着いてしまったかのような感覚に陥るのはなんでだろう。
三十八度ほどの、細かい雫たち。それを頭のてっぺんから爪先まで滴らせているうち、胸中から沸き上がってきたのはそんな疑問だった。
別に、非日常的な景色が広がっているわけではない。ただ温水を浴びて、頭皮を絶妙な力でもみほぐして、粒のような汚れを取り払うだけ。
それでも、心は降りしきる雨を強かに受け入れる水溜まりのように踊って、浮足立つ感覚が背筋を昇って脳に活力を与える。
濡れた前髪の隙間から窺うバスルームの鏡に映る自分の頬を見つめて、
「違うな」
と、ぽつりと呟いた。
人の家じゃなくて、もっと重要な理由がある。
それは。
「美紅ちゃん、タオルここに置いておくねー」
答えに届きそうだった刹那、バスルームの引き戸の向こうから、柔らかな声が降りかかる。
パッと振り返って目を細めると、摺りガラス製の扉に見慣れたシルエットが映っていた。
腰までの長さの長髪が、ざらついた材質のそれに繊細な影を落としている。
「あ、ありがと」
その姿を認めた途端、言葉がつっかえる。バスルームの密閉性が震えた声を無遠慮に反響させて、まるで舌先が千鳥足になっているみたいだった。
「シャンプーとか自由に使っていいからね。それじゃごゆっくりー」
そんなわたしを気にも留めずに、彼女の息遣いはだんだんと遠ざかっていった。
摺りガラスには何も映らなくなり、自身の頬に差した朱色ともう一度向き合ったわたしは、「分かりやすいなぁ」と、自嘲の笑みを零した。
頬が朱くなっている理由は、明白だった。
その後は気恥ずかしさを払うようにシャンプーの泡を髪全体に浸み込ませて、シャワーで二度、髪質を痛めない程度に濯いだ。シャワーの水を留めてバスルームから出て、用意してくれたタオルで濡れた髪と身体を満遍なく拭く。
服を着て、洗面台に向かってドライヤーの風を髪に当てていると、華やいだ匂いが鼻先を掠めた。
「あ」
叔母の、恋歌さんの匂いだった。
今日はここ最近で一番、物事がうまくいかない日だったように思う。
寝坊で遅刻するし、現国の小テストは勉強したのに赤点ギリギリだったし、おまけに天気予報で『午後からは通り雨に注意』という情報を仕入れていたはずなのに、スクールバッグに折り畳み傘を入れるのを失念していた。
その結果、運悪く降り出してきた雨を全身に浴びて、帰り道の途中にあるバス停の庇で雨宿りしているところを助けてくれたのが、たまたま通りがかった、学校からほど近いマンションで暮らしている恋歌さんだった。
「びしょ濡れじゃん。うち寄ってシャワーでも浴びる?」
こうして、恋歌さんの提案を甘んじて受け入れたわたしは薄桃色の傘の左半分を分けてもらい、彼女のマンションにお邪魔することになったのだった。
リビングは恋歌さんの淹れてくれた紅茶の匂いに満ちていた。ワンルーム中央のテーブルに二つ置かれたマグカップからはもくもくと湯気が立ち昇り、天井に向かって細々とした軌跡を描いている。
入口に近い方の椅子に腰かけていた恋歌さんが、こっちも見た後ひょいひょいと手招きしてきた。
その誘導に従って対岸の席に腰を下ろすと、目の前には耳にかかる髪を指で掬う恋歌さんがいて、つい「ひゅっ」と喉元がひくつく。最近は学校が忙しくて会えていなかったから、久しぶりの体面に息が詰まりそうだった。
できるだけ自然にこほんと息を整える。そんなわたしを、恋歌さんは終始落ち着いた微笑みを浮かべながら見つめていて。
当分、冷静にはなれそうにない。
メトロノームのように視線を左右に揺すりながら、恋歌さんと向き合う。
「紅茶、適当に淹れたけどアールグレイで良かった?」
「うん、ありがと。シャワーも……助かった」
「いえいえ、大事な姪が風邪ひくのは言語両断だからね」
マグカップの縁を唇に近づけつつ、恋歌さんがそう口にする。
…………大事な姪、か。
「どうしたの?」
頬を緩ませたわたしに、恋歌さんが「私、何か面白いこと言った?」と首をかしげる。わたしは慌ただしく「なんでもないよ」と取り繕った後、
「恋歌さんは、最近どう?」と、苦し紛れに世間話の火蓋を切った。
「どう……と言われても、真面目に社会人やってるよ。ま、リモートワークが多めだけどね」
恋歌さんはウェブデザイナーとして働いているらしく、仕事形態は在宅が多いようだった。そのため、平日の午後は大抵自宅にいる恋歌さんの家に、邪魔にならない程度に寄り道するようになっていた。恋歌さんの仕事が終わるまでは読書をしたり課題をしたりして時間を潰して、終業時間になれば二人で晩御飯を食べる。
高校に上がる前は、そんな生活を送っていた。
「美紅ちゃんの方はどうなの? 百人くらい友達出来た?」
「うーん、百人とまではいかないけど、そこそこできたよ。お昼を一緒に食べる人もできたし」
高校生になってから、交友関係も学業も、中学に比べて随分と過密になった気がする。
中学校とは違い、小学校からの顔見知りがほとんどいなくなったからだろうか。出会う人全員が初めましてで、神経を余分に使ってしまう。
桜咲く四月から二ヶ月、梅雨入りを果たした人間関係は良好と言えるけれど、その分恋歌さんと過ごせる時間は目減りしていた。
心の底から安寧だと言える空間からも遠ざかっていて、だからこそ今、面と向かって話せている時間に幸福を感じる。
さっきの通り雨はもしかして、わたしの背中を押してくれたのかもしれない。
「ふーん……」
わたしの受け答えを訊いた後、恋歌さんが意味ありげに目を細める。右のほうに頭が傾いて、枝垂れた髪のはためきに目を奪われた。
「寂しくなるなぁ」
「え?」
「だって、放課後に友達と遊ぶことが増えるだろうから、なかなか遊びには来てくれなくなるなぁって」
「そ、そんなことないよ」
「ほんとにぃ~?」
恋歌さんが、さきほどの笑みとは異なる、少々揶揄いの混じった表情を浮かべる。
茶目っ気のあるというか、離れた歳を感じさせない距離感のそれにどぎまぎとして、表情筋の身動きが取れなかった。
「ま、冗談だけどね」
はっはっはっと笑って、恋歌さんがこちらに指を差し向けてきた。
ふに、と。頬を突かれて、彼女の指の腹の感触が一瞬肌の上を弾ける。
「えっ、あっ」
つい変な声を出してしまったわたしを、恋歌さんが再び笑う。
「美紅ちゃんは私の家に来るよりも、友達と思い出をたくさん作ったほうがいいよ」
「え」
「高校のときの思い出ってのは、意外と大人になっても手近に手繰り寄せられる記憶でね。あのときはあんな馬鹿なことしたなぁ~とか、仕事が面倒なときに思い出して気が休まることもある。だから、できるだけ遊んでたほうがいいよ」
いきなり真面目な話をし始めた恋歌さんの瞳は、どこか遠くの景色を見つめているようだった。
「だから、こんなしがない叔母さんより、友達とハッピーに過ごしなさい……なんか、親でもないのに真面目ぶった話しちゃったね」
えへへ。
そう濁した後、取り繕うような笑みを浮かべた恋歌さんに、わたしはすぐに言葉を返せなかった。
でも。一呼吸おいて。
「しがなくないよ」
これだけは違うと、胸を張って言える。
「恋歌さん、美人だし……」
けれど、自信満々に放ったはずの言葉は気恥ずかしさでだんだんと萎んでいった。
恋歌さんの瞳が一瞬見開かれて、そこに映るわたしが波打つ。
降りしきる雨の中、恋歌さんが「そっかぁ」と言った後、リビングには静寂が訪れた。
恋歌さんの頬が、心なしか朱色に染まっている。
「ははは、お世辞が上手だね」と、照れ笑いをする恋歌さんを見つめて、口をもごもごとさせる。
冗談じゃないよと言ってしまえば、心の奥に潜ませた本心すら言い放ってしまいそうだった。
紅茶を飲み終えた頃になっても、窓の外の風景は変わり映えしなかった。通り雨かと踏んでいたけれど、どうやら本降りとなったらしい。
傘を借りれば帰ることができる。
そう思って視線を動かすと、
「あ」
傘を借りるのは、当分先になりそうだった。
「すぅ…………はぁ…………」
小気味いい寝息を立てながら、恋歌さんがすやすやと眠っている。
ときおり頭で舟を漕ぐ姿は成人女性というよりは授業中に居眠りをする同級生のようで、やっぱり歳の差を感じない。
…………そういったところが、その、好きになった理由なんだろうか。
ぐぐっと、覗き込むように恋歌さんに顔を近づけながら、そんなことを考えてみる。
いや、違う。理由はそれだけじゃない。
というか、理由を挙げて説明できるものではないのだと思う。
好きは、好きなのだ。そこに余分な文章はいらなくて、ただただ仄明るい感情が先行するだけ。
気持ちに身体を引っ張られて、わたしはいつも平常を失う。
今も。
「起きて、ないよね」
じっと、息を潜めて恋歌さんの様子を窺う。
俯いた姿勢で寝ているせいか、前髪で目元が隠れていて、閉じているかそうかが確証が得られない。
試しに、「恋歌さーん」と小さめの声で尋ねてみると、返ってきたのは口から漏れる微細な息遣いだけ。
本当に、寝てる。
ゆっくりと椅子から立ち上がって、慎重に足を運んで、今度は真横から見下ろしてみる。
波打つ窓から差し込むささいな光に濡れた黒髪が、独創的な艶やかさを纏ってつむじから下へと流れ落ちていた。
思わず、「きれい」と、呟く。
髪の隙間から覗く、頬に視線が吸い寄せられた。
気がつけば身体を屈めて、鼻先が彼女の髪を掻き分ける程度の距離まで近づいていた。目の前には、眠っている恋歌さん。
出来心が、雨に打たれて動き出した。
起こさないよう、指で彼女の髪束を持ち上げて、隠れていた頬をあらわにする。
殺した息を、口内で渦巻かせて。
もう一歩、踏み込んだら。
鮮明な熱が、唇の先を彩った。
「はっ!」
一秒も経っていないと思う。思いつきで行った口づけは鋭い衝撃となってぶつかってきて、わたしは後ずさることとなった。
唇にはまだ、熱が残っている。
とんでもないことをしてしまったと今更ながらに振り返って、元いた席へと戻る。
ちらちら、と、恋歌さんのほうを盗み見るようにして窺ったけれど、まだ起きてくる気配は感じられなかった。
起きてきたら、どんな顔をして話せばいいんだろう。
頭の中はそのことばかりになって、窓の外の雨模様なんて、全く耳へ届かなくなっていた。
姪からの好意のことは、ちゃんと気づいていた。
熱を孕んだ視線で、たどたどしい口調で、ときおり繊細に震える唇で。
姪の所作全てに淡い感情が込められているのに気づいて、私はどうすればよいのか分からなくなっていた。
跳ねのけようとしても、その行動自体、自分はあまりしたくなくて。社会人となって、誰かから純粋な好意を抱かれるのは初めてのことで、ついその輝かしくて繊細な心に、甘えてしまっていたのだ。
受け止められるかどうか、定かではないくせに。
髪を掻き分けられる感触を覚えた頃には、頬にじんわりとした熱が走っていた。
姪をびっくりさせようと狸寝入りしていた私は最初、何が起きたのかすんなりと理解することができなかった。
姪の荒い息遣いがパッと遠のいて、前方の席に戻ったことを足音で察知しつつ、目蓋の裏の暗闇を見つめる。
思考が、ぼぉっとして。それでも、頬に残る熱は冷めやらなくて。
うなじからせり上がってくる興奮を何とか押しとどめて、目蓋を上げるかどうか、迷う。
どんな顔をして姪と向き合えばいいのか。窓の外の雨模様なんて気にならないくらい、そのことばかりが脳裏を巡った。
波打つ窓際、沈黙する頬 飯田華 @karen_ida
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