「ありがとう」 ―ある日の出来事―

はくすや

ありがとう

 それは火曜日の昼下がりでした。

 私は月に二度、文化会館でストーリーテリング教室に通っておりまして、ちょうどその日が教室の日に当たっておりました。

 開始は午後二時ですが、なにぶんにも私は目が不自由で赤い印の入った杖をついている身です。遅れないように十分余裕をもって電車に乗りました。

 月に二度ではありますがもう二年も通っております。私はひとりで文化会館に行けるくらい道は覚えておりました。

 いつものように駅の改札を出たあとは文化会館に向けて歩きます。平日の午後ですので人の歩く速さもゆったりとしています。杖をつく音も珍しくはありません。

 そうして駅ビルを通り抜け、バチンコ屋の賑やかな音を聴きながら二階デッキからエスカレーターを使って下へ降りて商店街を突き抜けたところの大型ビルが文化会館になっているのです。

 ところがその日思いもかけないことになりました。エスカレーターの点検が行われていたのです。

「ご迷惑をおかけいたします。ただ今エスカレーターの点検をしております。誠に恐れ入りますが階段をご利用下さい……」

 定型文が繰り返し流れてきます。そこに誘導する人員は配置されていないのでしょう。

 私は困りました。階段と言われてもエスカレーターのすぐ隣にあるわけではないのです。少し離れたところにあるにはあるのですが、勾配が急な上にステップの幅が狭く、目が不自由でなくても私のような年齢層が使うには向いていないと息子に言われた階段でした。

 これは困ったことになったとしばたたずんでいましたら、すぐ横から若い人の声がかかりました。

「あの……だ、大丈夫……ですか?」

 何年も耳を頼りにする暮らしをしておりますと、話し方に敏感になります。その人はおそらく見も知らぬ人と話すのが苦手な人なのだと思いました。

「良かったら、あ、案内します……」

 エスカレーターが使えずに戸惑っている私に勇気をふりしぼって声をかけてくれたのだと私は思いました。

「ありがとうございます、文化会館へ行きたいのですが、いつも使うエスカレーターが今使えないようで困っておりました……」

 私はその若い人の好意に甘えることにしました。

「ど、どうぞこちらです。僕と一緒に行きましょう」

 若い人が私の手を引いてくれます。そのぎこちない手のとり方からその人がこうしたことに慣れていないこともわかります。

「お時間は大丈夫なのですか?」

「すぐそこですからたいしたことではありません」

 その人の手はやわらかく、それほど大きくもありません。どことなく中性的な声で、私ははじめ男女の区別がつきませんでしたが、「僕」という一人称を使うので殿方なのでしょう。

「ここから階段になっています。手すりがあります」

 私は彼に杖をあずけて、右手で手すりをつたい、左手は彼の手をとり、ゆっくりと階段を下りました。

「少し急ですから気をつけて」彼の言葉もなめらかになってきました。

 確かに階段は急でした。目がはっきり見えていたとしても私のような年代には勇気が要るでしょう。しかし彼の手助けにより私は安心して下りることができました。

 ただ、そのひとつ、気になることが。

 すぐ隣にいる彼からほのかな芳香がする気がします。そして私の膝のあたりに時おり衣類が擦れる感覚がしました。

 何度も歩行介助された経験からそれがスカートらしきものであることを私は悟りました。

 彼は女性だったのでしょうか。最近は女性でも自分のことを「僕」と言う人が増えていると聞いたことがあります。

 この人もそうなのかしら。気にはなりましたが、さすがに女性ですか?と訊くことはできませんでした。

 声は若い男の子のように聞こえるのです。声のする方向を考えるとそれほど背丈があるようではなく、少し背の高い女性なのかもしれません。

 どうにか階段を下りることができました。

「ありがとうございました」私は丁重に礼を言いました。

「い、いえいえ、どういたしまして」彼は少しほっとしたようです。「よろしかったらもう少しお供します」

 彼は文化会館の前まで私を案内してくれると言いました。私は彼の好意に甘えました。

 それから百メートルくらいは歩いたと思います。商店街のアーケードの下ですから周囲をランダムに人が歩きます。

 前から来た足音は私たちを避け、後ろから来る足音は私たちを抜いて行きます。私にとってはいつものことです。

 しかし後ろから聞こえる足音の中にいつもとは違うものがありました。

 二人分の足音。それが私たちの後ろをぴったりとついてくるのです。およそ五メートルほど間をとっていたでしょうか。

 何だか足音も忍ばせているように思います。これが尾行というものなのでしょうか。

 私には尾行された経験はありません。後ろの二人は私の横にいる彼の後をつけているのでしょうか。この尾行者の存在を彼に教えてあげた方が良いのでしょうか。

 そうしているうちに私たちは文化会館の前まで来てしまいました。

「ほんとうにありがとうございました」私は彼に深く頭を下げました。

「いえいえ、どういたしまして」と言う彼が何かに気づいたようです。

「い、いつから?」彼は驚きの声をあげます。

 それを聞いて私は、やはり彼は若い男性なのだと思いました。

「アハ、バレたか」やんちゃそうな若い女の子の声がしました。

「少年よ、良きことをしたな。一日一善」殿方風に語る声も女性です。

「お知り合いでしたか」私は彼に微笑みかけました。

「え」と彼は驚きます。

「ご婦人のほうが気づいていらっしゃったか」その語り口は歌劇団の男役のようでした。

 彼は二人のことを大学のサークルの先輩方と私に紹介しました。

「まあ、どのようなサークルですの?」

「劇団で~す」明るい声が答えました。

「もしや、それでそのような格好をされているのですか?」とうとう私は訊いてしまいました。

「え?」と彼は驚くばかりです。

「見えませんがスカートの裾が私の脚に当たっていたので女性の格好をされているのだと思いました」

「男だとバレてやんの、ミケ」やんちゃで明るい声が彼をいじります。

「ミケが見破られるのも珍しい」男役の女性は笑っているようです。

 彼は先輩方に「ミケ」と呼ばれているようです。きっと見事な毛並みの猫なのでしょう。私は「スカートをはいた猫」を想像してちょっぴり幸せになりました。

「どうもありがとうございました」

 私は再度礼を言い彼らと別れました。何でもない一日でもちょっとしたことで幸せに感じたりするものです。

 私に幸せをくれた彼に今一度ありがとう、と言いたいです。


 以上です。ご静聴ありがとうございました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「ありがとう」 ―ある日の出来事― はくすや @hakusuya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ