暗月の街

天鬼 創月

暗月の街

「満月の日が怖いんだよね。

だから、今日お泊まり会が出来てよかったの」


常夜灯のオレンジの明かりを眺めながら、幼馴染のそんな声を真央まおは聞いていた。

女の子同士のお泊まり会、変なことを言うなと思って、興味を持って聞き返した。


「えー? なんで?

月なんて、ただ光ってるだけじゃん。

むしろ、明るくてよくない?

私はテンションあがるなあ」


「へへへ……。

満月の時だけ、行けないところがあってさ……」


「えっなにそれ! ロマンチックだねー!

満月の時だけ行けるんじゃなくて、逆なんだ、へんなの。

あれ……でも、私、花那かなちゃんと同じようなこと言ってる子、知ってる。

なんだったっけ……転校しちゃった……鶴田さん!」


その名前を出すと、花那かなちゃんは、みるみる真顔になっていった。

なにか、変なことを言ったかなと思った真央まおは、聞き返して尋ねる事にした。


「あれ、居たよね、鶴田さん。

ほら、先月転校しちゃった……。

なんか、満月の日の前に気分を悪くしちゃう……」


「そうだったっけ?

もう眠くなっちゃった。

寝ようよ、真央まおちゃん」


「う、うん……」


これ以上は話さないという、暗に感じる拒絶感。

得も言われぬ不安を覚えた真央まおは、常夜灯を眺めながら、とりとめもない疑問を泳がせる。


だが、何を考えてもわからない。

この問題は、放っておいたら時間が解決するのだろうか。

きっと、そうだ、今までいっぱいあった、よくわからない事の一つ過ぎないんだろう。

そのうち、ゆっくり分かってくるはずだ。

今はほっぽり投げておくのが吉だろう。

今は、眠い……。



――浅い眠りから起きると、気だるい気分のまま、夜に光る星型の壁飾りを眺めていた。

日の出が近いのか、もう光ってなかった。


転校してしまった鶴田さん。

どうして彼女は満月の日を前にして、あれほど狼狽したのだろう。


根暗で、あまり友達の多くない鶴田さん。

最初気づいた時は、小さくつぶやく程度だった。


でも、転校する前には、隣の席で頭を抱えて、今にも暴れ出しそうだった。


隣で寝ている花那かなちゃんも、そうなるんだろうか。

でも、花那かなちゃんは友達が多く、成績も優秀で、中学受験までするそうだ。

いつも明るく、元気で、鶴田さんとは似ても似つかない。


――それでも。


不安が拭いきれず、適当にSNSを眺めていたスマホの画面を、たまらずメッセージアプリに切り替える。

クラスの相談窓口になっていた、学級委員の白沢しらさわさんに、鶴田さんの事を聞いてみる事にした。


白沢しらさわ疋乃ひつのさんは、とても話しやすく元気で、くせっ毛で顔の丸い女の子。

だけど、とっても良いお家の子みたいで、両親から仲良くしなさいと言われるようなお嬢様のようだ。

運動も勉強も出来て、リーダーシップがあって、優しい女の子。

ちょっとくせっ毛でも、顔が丸い子でも、その温和で他人に物怖じしない態度は、クラスの皆を惹きつける存在だった。


小学六年の卒業式を待たずに、転校が決まってしまって、相談をするなら、最後のチャンスなのかもしれない。

こんな時間に、そんないい子が起きてるとも思えないけど。

メッセージを送っておいて損なことはないだろう。

せめて、不安を汲んで優しい言葉をかけてくれるだけでもいい。

すぐ返事が来たら嬉しいけど、それが望めなくとも、今何もしないのはどうしても虫の居所が悪い。


〈こんな時間にごめんね、白沢しらさわさん。

転校しちゃった鶴田さんの事、何か知らない?

鶴田さん、なんだか転校する前、とても辛そうにしてて。

関係ないとは思うんだけど、私の友達も、鶴田さんと同じような事を言ってて、とっても気になったの。

何か知ってたら、いつでもメッセージちょうだい。〉


打ったメッセージで何か良くないことは書いてないかと何度か確認していると、視界を白い光がつんざいた。


「ばあ!

おはよーなの、真央まおちゃん!」


カーテンをガッツリと広げて朝日を思い切り部屋に迎え入れた花那かなちゃんがそこにはいた。

スマホに置いていた指は送信ボタンをすでに押していて、いつも通りで安心してしまったと同時に、グツグツとした不安に塗れたメッセージは放たれてしまった。


このメッセージアプリは、消しても相手からは消えないので、腹をくくるしかない。

まあ、ほぼ確認は終わっている。

とんでも無い事は書いてないはずだし、どうせ同情と心配で事は終わってくれるだろう。

白沢しらさわさんなら、無遠慮に踏み込んでくる心配もない。

だから、深く考えない事にした。


「ちょっ! 眩しいよー!」


「私もなんにもみえないの~」


やっぱり、いつも通り。

いつも通りの花那かなちゃんがそこにはいた。


眩しい朝日の後光の中。

彼女の顔が、暗く、見えてこない。


それが不安で、部屋の電気を点けて、いつも通りの朝の支度を済ませた。



斎藤花那かな

ちょっと天然で、世話が焼けるけど、勉強の出来るいい子。

話しかけるといつもにこにこしていて、一緒に居ればとくに理由もなく楽しい気持ちになれる。

突拍子もない事をいっぱいするトラブルメーカーだが、決して他人を傷つけたり、嫌な思いをさせることはしない女の子。


「おはよー!」


白んだ遠い青空の下、霜柱を踏みつけて遊びながら、挨拶も欠かさず登校する彼女は、思い返してみれば、そんなへんちくりんな不安を口にするようなタイプではない。


昨夜のあれは、なんだったんだろうか。

こうして思い返すと、ほんの少しいつもの日常から逸脱した、違和感のある言葉。

花那かなは天然だが、周囲の欲しい物を悟る事が不得意なタイプではない。

どちらかと言えば、その逆だ。


「岸くんこれみて!

凍ってる! ミミズ!」


集団登校のメンバーの岸君は二年生。

虫が大好きで、よく歩調を乱しがちな男の子。


でも花那かなは一緒に見ては拾い上げて、お話しして、班の歩みを遅くしないように気を使っている。


いつもそんな彼女は、日々の生活に疲れているんだろうか?

でも、目に映る彼女はいつも通り。


杞憂。


きっとそうなんだろう。

考えるのも面倒になるし、これ以上ぐだぐだと考えなくてもいい。

きっと、大変な事になったら教えてくれるか、何か気付ける事だろう。

それに、あの子はあれで要領がいいから、心配しすぎても大抵は杞憂だろう。


考える必要なんかない。

今から悩んだって、何も思いつかないんだから。


最近、受験とかどんな調子なの?

そんな事を、言うタイミングを探るのも、必要無い事だろうし。

正直、聞いたとして、暗い返事を返されても、困ってしまうだけだ。

聞く事で良いことなんて、一つもない。



昼休み、私は白沢しらさわさんとご飯を一緒にする事にした。


〈鶴田さんの事は私も詳しく聞いてないんだよね。

でも、それ初耳だな、お話聞いてもいいかな?

他にも、鶴田さんの突然の転校に思うことがある子がいて、少しでもお話聞きたいんだって。

だから、私に話してくれるとうれしいな。〉


という形で頼まれたのだ。


「満月の日が怖い……かあ」


空き教室の窓の外をぼんやりと眺めて、一通り出来事を聞いた白沢しらさわさんは考え込む。

もちろん、それが花那かなの事だということは伏せて伝えた。


白沢しらさわさんは、どう思うの?」


杞憂だと言ってよ。

私は暗にそう言った。

白沢しらさわさんは、察してか、向き直って温和な顔で答えてくれる。


「いろんな不安がその時、重なっただけ、なのかもね。

鶴田さん、お別れを言う間もなく転校したけど、先生の話だと、元気にやっているそうだよ」


「……そうだよね!」


これにてこの問題に終止符が撃たれた!

よーし、もう気にしなくて済むぞ!


と、思いたい。


というのも、白沢しらさわさんの遠くを見る目は、まだ、何か考え事をしている、真剣な表情だったのだ。


真央まおちゃん。

私はもう今週には大陸にお引越しするけど、もしこの件で、やっぱり悩んでる事が解決しなかったら穹羽くば君に相談してみて」


穹羽くば君。

下の名前は覚えてないけど、この学校では、ある種の有名人だ。

彼は、学校で起きた事件の大抵近くに居る。

喧嘩を起こした教室の中に居たり、飛び降り自殺を一番最初に発見したり。


危ない人なのかと聞かれれば、それは分からない。

悪運があるのか、そういう面倒事や、闇深い出来事に、気づけば近いところに居るクラスメイト。


普段は明るく、穏やかな優しい男の子。

ちょっとした冗談も言えるサッカー少年といった感じの人だ。

そんな爽やか少年なのでそれなりに人気者である。

陰気な雰囲気……という程のものではないが、他人に対して積極的ではない雰囲気で、自分から誰かを誘ったり、といった能動的な感じはない。

でも、誘われれば快く返事するし、いつもどこかの和に自然と収まっているけど、仲良しグループを持たない、ミステリアスな人。


通称、禍津の穹羽くば君。

本人はそんな雰囲気はないのに、常にそういう事柄の隣に居る運の悪いぱっとしない男の子。


「なんで穹羽くば君?」


「……うん、ただのカンなんだけど。

穹羽くば君は、満月の日の事について、調べてる……っぽいんだよね」


「……」


調べる……?

満月の日に、調べる事は、あまり普通なことではない。

白沢しらさわさんが気にかかるのも頷ける話だ。


「でも、私穹羽くば君とそんなに親しくないからな」


「うん、変な男の子だよね。

でも、この学校にいる間、いっぱい助けてもらったんだ。

いろんな相談事を話される立場の私だけど、事によっては、穹羽くば君に解決して貰ってたの。

もう転校しちゃうから言っちゃった、秘密にしてね」


そうやって穹羽くば君の事を話す彼女は、やはりどことなく楽しそうだった。

友達だからなのか、どうなのか、私には判別がつかなかったが。

どちらにせよ、その顔からにじみ出る情緒は不自然な程ではなかった。

というか、どことなく、寂しさのようなものも感じる、困り笑顔だった。


穹羽くば君がいつも変な出来事の近くに居たのって……」


「うん、私が相談したから。

そうじゃないのもあるけどね。


なんにしても、とても優しい人だよ、相談の詳細が彼から漏れてるところも、聞いたことないでしょ?

安心していいと思うんだ」


「うん……わかった……」


白沢しらさわさんが解決してくれればいいのに。

不安になる事を言わないでいてくれればいいのに。

そう思ってすこし口先が尖るが、白沢しらさわさんは少し大げさめに明るく声をかけてくれる。


「……まあ、関係ないかもしれないしね!

もしもの奥の手だって思っておいたらいいよ。

私も、何かあれば教えてあげるから」


「ありがとう、白沢しらさわさん」


ニッコリと、屈託なく、幸せそうな笑顔で返事をしてくれる白沢しらさわさんを見ていると、自然と言わなくてはと思った。


「引っ越しで忙しい時に、相談乗ってくれてありがと!

大陸でも、元気に過ごしてね。

連絡、待ってるから、向こうの事教えてね」


「うん!」


花那かなにも、このくらい、思うことを言えたらいいのに。

今から疎遠になる友達にこんな都合の良いことを言える私は、ちょっとずるい子なんだろう。



それから少しして、次第に花那かなは元気がなくなっていった。

いつから、なんてのはあまりはっきりしない。

ある時、ぼけーっと通学していると、花那かながいつも気にかけてあげていた岸くんが、虫を見て立ち止まる事が増えていた。


花那かなちゃんに話しかけてもどことなく上の空。

私は、一人になったとき、大陸に引っ越してしまった白沢しらさわさんのメッセージプロフィールを開いて、ため息をついては閉じる事が多くなった。


話に出ていた穹羽くば君に話す程、切羽詰まった気分でもなく。

仲がいい訳では無い壁を超えるのも少し面倒だった。


白沢しらさわさんがいなくなってからというもの、クラスはどことなく味気なくなっていた。

あの子が多くの人の間に入って、いかに人を取り持ってくれていたのかを実感する。

きっと、なにか致命的なことがあれば、今まで以上にクラスに歪みが姿を表すんだろう。


というか、クラスの雰囲気が変わったのは、白沢しらさわさんがいなくなった以上に、もうすぐ中学生になることに対しての皆の浮ついた気持ちや、落ち着かない感じがあったのもある。


その上、

中学受験する花那かなちゃんが憂鬱なのは、不思議なことではない。

ナイーブな時期である事には変わりないのだから。


と、思いたい。


テストの点数が悪くても、花那かなちゃんが凹んでるところは見たことがない。

あまりそういう点数は取らないが、テスト時期を忘れて遊び回っていたころ、彼女の点数はすこし低かった。

でも、いつもと変わらない調子だった。


真央まおちゃん、ちょっといいかな」


気づくと、花那かなが声をかけてきていた。

いつもと違う、ちゃんとしたお話の雰囲気に、体が勝手にこわばる。


「なに?」


「うん、あのね、真央まおちゃんに相談があるの。

放課後、私の家に来て、お話聞いてほしいんだ」


「うん、いいよ」


ほっとした。

どことなく余裕のない花那かなからのヘルプがやっと来た。

今までの不安や、気の重さが晴れるような開放感。

ちゃんと隠せていたのだろうか?


「じゃあ、また放課後ね」



「実はね。

最近流行ってるおまじないがあるの。

でも、不安だから、一緒にやってほしくて」


相談とは、このような内容だった。


血の気が引けていく。

いつもの顔で居られてるのかわからない。


ついに気がふれてしまったのだろうか?

どうしていいかわからない。

言って良いのかどうか、わからないまま、口をついて質問を投げる。


「え……その……、危ないやつじゃないの?」


「大丈夫、佐野さんもやってたの」


共通の友人だった。

特別陰気なところとか、情緒不安定とか、そんな様子はない共通の友人。

嘘……をつくには、少し難しい言い訳だ、私にとって、確認しやすい仲の良い友達である。


それに、目の前に居る幼馴染は、今にも不安定で、どうにかなってしまいそうな影があった。

こうなるまで、なにかあれば聞けば良い。

そう思っていた。


これは、まだ遅くない。

……よね?


でも、ここで拒否して、間延びさせる勇気が、私には無かった。

人の意に背いて取った決断が、彼女を更に苦しめたら。

私は、言い訳のしようがない。


「……わかった」


拒否する選択肢は選べなかった。

どうしてこんな事になっているのだろう。

これからどうなるのだろう。

漠然とした不安の中、ただただ一つ一つのおまじないの工程に変なものがないかを確認しながら言われるままにこなしていく。


「なんか、ワクワクするね、真央まおちゃん」


ニコニコと、不健康な、それでも心の底からの笑顔に、胸が苦しくなる。

そういえば、こんな笑顔を見たのはいつぶりだろうか。

そういえば、最近はあまり話さなかったな。

そんな、今更なことばかりが頭を滑り落ちていく。


「そうだね……」


上手に返事、できているんだろうか。


花那かながスマホを少しいじっている。

工程を確認しているのかと思ったが、床に下ろしたその画面が映したのは、通話画面のようにも見えた。


「それでね、最後の工程。

こうするんだ」


話しながら、きちきちと、カッターの刃が出る音がする。


「――え?」


ブン、と振られる花那かなの腕。

少しの間のあと、痛みが来る事に身構え始めたら、体は、浮遊感を覚えた。


「なに……これ?」


今まで見ていた視界が、遠くに消え、視界が黒一色に染まっていく。

風は感じないまま、落下してる感覚のみが身体を襲う。

次第に、何かの明かりが遠くに見えてきた。


摩天楼の街。

視界の隅からビルが天高く伸びていく。

自分は落ちていた。

さっきまで自室に居たのに。

2月の寒い頃のはずなのに、ほんのりと温かい、暗く、落ち着く町並み。


真っ黒な黒に、穏やかで温かい黄色いアウトラインだけで構成された、シックな街。

影がなく、光が当たっている様子もない。

服もとてもシンプルな、真っ黒と黄色いラインの雨合羽のようなサイバーチックな洋服が一つだけ。


気づくと、ゆっくりと減速して、床に寝そべっていた。

体に衝撃は無かった。

まるで身体はもとからここにあって、そういう映像を見せられていただけのような感覚。


空にはもうすぐ満月になる月。

現実では見たこともないような、巨大な月。

まるで世界の中心であるかのように、夜空の真ん中にぽっかりと浮かんでいる。

その月から地上に向かって伸びている、数多の月光の流星。

地上へと音もなく降り注ぎ、時には月に戻っていくものもある……。


「なに……ここ……」


周りを見渡すと、細い路地に真央まおは落ちたらしい事を知る。

通りには、大勢の少年少女達、稀に大人の行き交う姿が見える。

その人混みの中に、穹羽くば君らしき姿を見つけた。


……なんでここに?


小走りで、何かを探しているかのような彼は、私を見ると、足を止め、顔を向けたまま止まる。

ものの、2、3秒のことだったろうか。

そのまま、真央まおに声をかけるでもなく、走り去ってしまった。


「居たの!

真央まおちゃーん!」


反対方向、路地の奥の方から、花那かなちゃんが走ってきた。

真央まおは呆然として花那かなを見上げる。

何も理解が追いついてないまま、受け入れがたいと思っていたのが顔にでていたのか、元気よく走り寄るのをやめた花那かなは、少し離れたところで、申し訳無さそうな顔をして止まった。


「あ……その……。

いやだった……?」


消え入りそうな口調で、ふらつきながら体を縮め、顔がうつむいていく。


どう、答えればいいんだろう?

全く理解できない。

きっとカッターで切られたのだろうけど、その痛みは今も当時も感じていない。

というか、傷がない。


「えっと……よく、わかんない。

なんなの、これ」


「怒ってない……?」


「……状況に、よるかな?」



それから、花那かなとこの街を歩いた。

大通りに出ると、色んな人が話している、和気あいあいとした空間だった。


「ここはね、オツキ様が作ってくれた世界なの。

オツキ様はね、大陸にある不思議な力に目覚めて、この世界を作れるようになったんだって。


オツキ様にお願いすると、ものが増えていくんだ。

最近の映画とか見るのは、時間がかかるんだけど、ゆっくり映画館のラインナップも増えてるの。


でね、ここは食べなくても、働かなくてもいいんだ。

勉強もお仕事もないの。

傷つけられても傷まなくて、みんなが優しいんだ。

傷つけたがるような人も居ないし、何かを強制する人もいない。

ここに居る人が傷つけられると、傷つけた人は追い出されるの」


「優しいところ……なんだね」


「うん……騙してごめんね、私はここに来るのは、初めてじゃないんだ。

でも、どうにかして、ココのことを花那かなちゃんに教えたくて。

あ、こっち!」


遠くで人を見つけたのか、花那かなちゃんは駆け足になって、私を呼ぶ。


温かい暖色の明かりに照らされた、カフェテリアに、高校生くらいの男と、スーツを着て、仮面をつけている男が居る席に、彼女は吸い寄せられるように走り込んでいった。


「紹介します! まおちゃん。

オウリ君と、木下さん!」


オウリ君と呼ばれた彼は、絵に描いて人畜無害といった雰囲気の、垂れ目で穏やかな笑顔をした男の人だった。


「よろしく、真央まおさん。

色々戸惑ってて、落ち着かないよね。

ひとまず、何か飲むのがいいよ」


そう言って、すっと立ち上がると真央まおの座る席を引いてくれる。


「えっと……どうも」


花那かなちゃん、ホントに何も説明せずに連れてきたんだね……」


スーツ仮面の男性、木下からも、聞くに温和で落ち着く声がした。


「えへへ……」


思えば、ここに来るまで、誰もが温和で、優しい雰囲気の人が多かった。

気味が悪い程、暖かく穏やかな世界。

今この状況を受け入れがたい真央まおにとっては、それは嬉しい状況だった。

きっと、こんな場所で無ければ、もっと取り乱していただろう。

ひとまず、有害な事が起こっているのをどこにも見かけない。


「何が良いかな?

僕は少し前に追加されたココアとか好きだよ、落ち着くから」


「じゃあ、それで……」


うん、と笑顔で返してくれたオウリは、影のようにシルエットしか分からない透けた店員に代わりに注文してくれている。

仕事がない……ということは、あれは住人ではないのだろう。

他の皆は透けたり影みたいな存在ではないし。


注文するオウリを横目に、テーブルに肘を置いて手を組み、顎を乗せた仮面にスーツの木下さん。

真央まおをまっすぐ、イタリアの舞踏会でつけるような仮面の顔で見つめる。


真央まおさん、ここはある一人の人が作った、理想郷なんだ。

素性はわからないけど、通称オツキ様って呼ばれてる。

ここは、現実に疲れた人々の、最後の理想郷なんだ」


「……たしかに、みんな幸せそうですね」


「そうだろう。

私も、時々ここに来ては余暇を過ごしていてね。

ここには、仕事はなく、ありとあらゆる娯楽が揃っている。

好きな趣味に没頭する事も出来るし、好きな人と穏やかな時間を過ごしていられるんだ。


なにか辛いことが起きたり、誰かに傷つけられても、オツキ様から教育がある。

人を傷つけるような事をすると、オツキ様から、ここから出るか、改めるかを聞かれるんだ」


「え……ディストピア? とかいう?」


「そうだね、ちょっと穿った言い方だけど、そういうことになるんだろう。

だからここには、僕らを傷つける人は存在できないんだ。

そういう人は現実に返される」


ココアが目の前に出される、本当にココアの感覚だ、熱も、匂いも、舌に残るちょっとした粉感も。


それを差し出したオウリが、続けて説明する。


「ここはね、真央まおちゃん。

現実と同じように時間が経過していて、ここに居る間の体は熟睡しているんだ。

最初は体のどこかに傷を作らなくちゃいけないんだけど、オツキ様に追放されない限りは次からは望んだ時に来ることが出来るんだ。

……満月の日以外はね」


それをきいて、真央まおは飲んでいたココアをむせかけて、体をガタッと動かすが、持ち直した後、むりやり飲み込んだ。


「……な、なんで満月の日だけ?」


「分からない、こればかりはオツキ様の都合なんじゃないかな?」


「きっとね、おやすみが必要なの」


「……そういう?」


「この世界に居る時、現実世界の体は眠っていてね、帰ろうと思った時、ちゃんと睡眠した事になっているんだよ。

だから、皆深夜にここに集まるんだ。

でも、僕はいつでもいるからね」


オウリはそう言って、穏やかに笑っている。


「……え? それじゃあ、現実でオウリさんの体はどうなってるんですか?」


「オウリ君の体は、もう死んでいるんだよ」


木下さんが、俯き気味に話す。


「彼は末期癌でね、余命宣告を受けて、死期を悟った頃から、ずっとここに居るんだ。

この世界にいる間に体が死ねば、私達はずっとこの世界の住人になれる。

今日真央まおさんを呼んだのは、それ絡みのお話なんだ」


――嫌な予感がした。

血の気が引けて、めまいがする。

オウリと木下が、花那かなを見ている、哀愁をたたえた笑みで。


彼女に目を向けると、恥ずかしそうにしながらうつむいている。


「そのぉ……ね、私……ここの住人になろうかなって……思うんだ。

二人には、勇気が出なくて、一緒に説明してもらえるようにお願いしたの。

だから、真央まおちゃんとお別れになるのはなんか、気が引けて、お別れにせよ、一度お話しなきゃって。

一緒にいてくれるなら、嬉しいんだけど、ほら、おっきな事だから。

ひとまず、説明して、会いに来てくれたらうれしいなって。

もしよかったら、他のお友達に声をかけてくれてもいいから……」


花那かなが、死のうとしている。

ニコニコと、照れながらのろけ話でもしてるかのような風でそんな事を言っている。

その事実を咀嚼し、私が反応するまで、花那かなはずっと話し続けていた。


「……なんで?

どうしてそうなるの?」


花那かなは、はっとしてから、俯き気味に話し始めた。


「私、勉強が嫌いなんだよね。

花那かなちゃんと、みんなと一緒の学校に行きたかったの。

でも、私のお父さんとお母さんは、絶対学業で結果を求めているの。

ためになるからって。

でも、ためになるって、なんなんだろうね。

好きな友達と一緒にいれない以上に、良いことなのかな?

これから一生懸命勉強し続けて、真央まおちゃんやみんなとまたカラオケ行ったり、遊園地行ったり、プール行ったりできるのかな?

修学旅行は点数足らないからって塾だったし、わたし、ずっとこうなのかなって思ったの。

でも、お父さんお母さんは何言ったって聞いてくれなくて」


「言ってくれたら……」


そこまで口をついて言ってから思った。

言ってくれても、困ると思って、聞かなかったのは私だ。

お腹の中が、ぎゅうと、しめつけられる。

そんな事言われたって、どうにもならない。


「私、もっと、聞くようにする、もっと手を貸すから、だから」


「オツキ様。

お越し下さり、その真意を秤にかけてくださる」


オウリがそう言った。


「え……?」


ザブン。


ビルも、机も、テラスも何もかもをそのままに、真央まおだけを飲み込む黒い水の中に落ちる。

月と向き合うように浮いている。

月の手前には、オウリと木下と、花那かなが居る。

月から、声が聞こえる。


《その言葉、この場を切り抜けるための、先延ばしにするための言葉。

変化を恐れ、己がために他者を強制したいが故に行われたもの。

汝、暗月あんげつの街の住人たる資格なし。

問おう、改めるのか、去るのか。》


「……改める! 改めます!

だから花那かなを戻して……!」


《住人の希望を貶める意思を確認。

疾く去るが良い。》


その短い言葉の後、また落ちる。

今度は、床下から地上に出て、そのまま上空に向かって真央まおだけが落ちていく。


「ちょっと! 話が違うじゃん!

傷つけようなんて思ってないのに!」


――助けなかったけど。

――見てみぬフリをしたけど。


「話し合いもだめなんて! おかしいじゃない!」


――それを今まで避けてきたけど。

――それを気にしないようにしてきたけど。


「私は、いままでどおりで良かったのに――!!」


――その今まで通りが、彼女にとっての地獄なのだけど。


街が遠くなり、視界が真っ暗になっていく。


――。



落下が止み、鉄の匂いの中、気だるい体が悪夢を見た時のように覚醒する。


真央まお! 起きたか手を貸せ!」


吹き込む風の中、少年が何かを抱え込むように両膝をついていた。

電気が消された屋内、割れた窓から吹き込む風でカーテンがたなびく中、その男は居た。


穹羽くば……くん!」


ぱっとしない男の子、いつもなあなあで、適当に済ましていた男の子、白沢しらさわさんが頼りにしていた男の子。

禍津の穹羽くば


見たこともない鋭い目線で、真央まおを貫いていた。


花那かなは……!」


「動くな!

……いいか、手をつくな。

手をつかずに起きて、俺のバッグの中にあるケータイで、119だ。

そしたら、俺の耳元に持ってきてくれ」


「わかった……。か、勝手に漁るから!」


穹羽くばの言う通り、真央まおは部屋にある見慣れないバッグに手をつっこみ、スマホを取り出した。

そして、緊急連絡番号を入力し、穹羽くばへとケータイを押し付ける。


今の状況は、なるべく考えないようにした。

もうほとんどわかっていたけど。


「目、閉じてて。

…………もしもし、救急です。

住所は……」


手慣れた応答を聞きながら、目を閉じ、ぬめる足元の感覚と、倒れていた時に濡れた服をさすって、嗚咽した。


――斎藤花那かな

首を切りつけ、大量失血と呼吸困難による、意識不明の重体。



諸々の連絡や、大人に引きずられるように行われた挨拶周りが落ち着いたのは、もう2時間で日が登るであろう、深夜の4時頃の事だった。


自室で呆然とケータイを開くと、メッセージの通知が一つ、届いていた。

送り主は、穹羽くばだった。


〈話がある。

大事な話だから、俺の家に来てくれるか。

今からでも、いつでも良い、でも決めるなら今日中にしてくれ。〉


そんな、白沢しらさわさんとは違い、無遠慮で男らしい、位置情報付きのメッセージだった。

思い悩んだ真央まおは、ひとまず、今の自分が必死に考えていた事をメッセージで送る事にした。


〈私、もう一度あの街に行こうと思う。

もう1回、自傷行為をしたら、行けるんでしょ?

穹羽くば君、あそこに居たもんね、詳しいんでしょ?〉


〈そんな事をしている暇はないよ。

いいか、これだけは言っておこう。

花那かなさんはまだ死んでない。


あの世界で、オツキ様に打診が出来るのは現実世界で死を迎えた、真の住人だけだ。

花那かなは呼ばなかっただろ。〉


〈なんで?〉


〈なんでそんな事知ってるの?穹羽くば君。〉


〈そのあたりの話をしたいんだ、長くなるし、真央まおが決めなきゃならないことがある。

だから、俺の家に来てくれ。〉


〈わかったよ、行けばいいんでしょ、でも。

疲れたから、寝てから。〉


〈わかった。おやすみ。〉



その日、起きると学校はお休みになった。

昼間にはカウンセリングを受け、まだ明るいうちに、やることを無くして、家の中で途方に暮れた。


「……こうしてても、しょうがないか」


今から行くと穹羽くばにメッセージを打ち、真央まおは立ち上がる。


「散歩行ってきまーす」


「あ、真央まお、ちょっとまって」


お母さんに呼び止められ、玄関で待っていると、どたどたと二千円を持ってきた。


「これで好きな物買って過ごしなさい」


「うん、ありがとう、お母さん。

行ってきます」


嫌に晴れた外に出る。

冷たい風が、目と耳を凍らせる。


あんな家族のやりとりも、彼女には無かったんだろうか。



途中の自販機でジュースを買って、位置情報にあった家に着くと。


「お前の自己満足なんか何の役にも立たないんだよ!

そんな事してる暇あったら勉強しろ!」


と、穹羽くばの父親の声がする。


花那かなの事をふと思い出し、こんなふうだったのだろうかと思いを馳せる。

嫌になった真央まおは、殴りつけるようにインターホンをぶん殴った。


「フンッ!」


その苛立ちの一撃は、呑気なピンポーンという間抜けな音で出力された。

連打したほうがそれっぽかったかもしれないと後悔したが、それはそれで警戒されそうだったので諦める事にした。


「……はーい」


声が上ずって震えた母親が応答する。

泣いてたのかな?

そうは思うが、あの言葉は穹羽くばに向かって言われていたのだ。

彼も、あの街にいたのだ。

きっと、現実で嫌なことがあったのだろうと思うと、ここで気配りするのもアホらしくなってしまった。


穹羽くば君いますかー?

遊びに来ました」


勢い勇んで言ったが、実は下の名前を知らなかった。

ちょっと恥ずかしくもなるが、まあ、通じるだろう。


話し合ってるのか、遠くでゴニョゴニョと聞こえて、少しの沈黙の後。


「はーい、今開けますね」


と母親が言ってから、母親が穹羽くば君を引き連れて玄関から出てきた。


「もう、ごめんなさいね、お友達が来るだなんて聞いて無くて」


「いや、言おうとしたんだけどな……」


あの外まで聞こえる怒号の中から出てきた穹羽くば君は、ケロッとしていた。

なんというか、異常だった。

がっしりと穹羽くばの腕を掴む母親のその出で立ちには、なんとも言えない、子供に対する強制力がにじみ出ていた。


「……。

どうぞあがっていってください!」


「……なんか、ごめんな」


「……あ、いや、こっちのセリフ……かな……」


うん、そうだな、これは、まちがいない。 来るんじゃなかった。



穹羽くば君の自室へと案内されると、真央まおは初めての男子の部屋と思う気持ちもあったが、大してテンションは上がらなかった。

その部屋は少し、違和感のある一室だった。


教科書、勉強机、時計、ベッド、着替えの入ったラック。

それ以外のものは、漫画ですら無かった。

サッカー少年の見た目に反して、ボールもない、当然スポーツ選手の云々もない。

あるのは親父趣味な、適当に用意されたであろうカレンダーくらいだった。


「よ。

ごめんな、ホントは話をつけてから、ちょっと外で話そうと思ったんだけどさ」


「あ、うん、べつに……」


良くはないが!

こいつに言っても仕方ないんだよなあ!


麦茶が差し出され、向かい合える机もないまま受け取る。


「あ、気の利いたもんもなくてごめんな、もしあれなら勉強机を使ってくれ」


「あのさ、花那かなが死んでないって、どういうこと?」


「……そうだな、話に移るか。

斎藤の両親に、彼氏ですって嘘ついて、状況を聞き出したんだよ。

いやびびった、なんか叱られるんだもん」


叱られるべきではないかと思いつつ、冷静になってみればちょっと違うのか、と真央まおは考え直した。

嘘がバレたから叱られたわけでもなさそうだ。


「あの両親相手じゃあ……まあ、それなりに負担はあったんだろうな。

と、少し脱線したな。

花那かなの容態は特別悪いもんじゃなかったんだ。

意識不明の重体になることは不自然な程度の出血だったんだよ。

思い当たる事、俺たちにはあるだろ?」


「なんだっけ……暗月あんげつの街?」


「ああ、その通り、きっとあそこから出てきてない。

とは言えだ、体に魂そのものが無いような今の状態は、いずれ死んでしまう事になる。

どれくらい持つかは、専門家じゃないから、わかんないんだけどさ」


「あの街から戻す事で、解決できるってこと!?

それなら今すぐおまじないを……」


「概ね間違ってないけど待って!

俺は、あの世界の壊し方を知ってるんだ」


「……え?」


「俺は、オツキ様の正体について、心当たりがある。

だから、オツキ様をどうにかすれば……」


「あの世界をやめさせて戻せる!」


「まってまって、おちつけ、違うんだこれが。

あの世界ってんのは、俺たちの意識、魂を引きずり込んで出来上がってるんだ。

つまり、その時向こうの世界に居る花那かなは、戻ってこないんだ」


「え、でも、体は生きてるんでしょ?

なら、行き場をなくせば帰るんじゃ……」


「送り返す所まで含めて、あの力の効果なんだ。

つまり、あの力が失われた時、帰る力も失われる」


「じゃあ、それまでに、花那かなを戻せってこと……?」


「ああ、俺はあの世界を消す。

んで、真央まお花那かなをあの世界から引っ張り出す。

花那かなは二度とあそこに行かなくて済むし、死ぬことはなくなる。」


「……」


そこまで聞いてから、あの世界からはじき出された時の事を思い出す。

私の意思は、花那かなを傷つけるものだった。

いつもいつも、彼女と仲良しごっこができればいいというものだった。

面倒事は避けて、美味しいところだけで仲良くするおままごと。

そんな私が、私が気分が悪いからと、この世界に戻すのは、果たして……。


花那かなはさ……。

あそこに居たままで、いいのかもしれないって、思うんだよ」


「だめだ」


穹羽くばは、即答した。


「あの世界は、悪いものだぞ」


「なんで……?

皆幸せそうだった。

私はたしかに、私のエゴで、身勝手で、花那かなに生きててほしいって思ったの。

一番酷いのは、私。

面倒だからって、あの子の辛さを知りながら、なあなあにして放っておいた私……!


でも、あそこは、そんな花那かなの居場所になってくれる!

死んで、楽しい時間を過ごせなかった人だって、楽しそうにしてた。

あそこは、きっと……あるべき世界なんだよ……」


穹羽くばは、床に置いたコップに、指をかけて、なぞる。

その眼差しは、どこか悲しそうだが、まっすぐだった。


「知らない。 興味ない。

あそこが、花那かなや、真央まおにとって、都合のいい世界だとしても。

俺にとっては、悪いものだ。


だって、俺は、この間違いだらけの世界で、声を上げれる人が、少しでも多く欲しいんだ。

人を見捨てて良いと、誰かを無下にして、競争に勝って。

誰かを負かして、良い思いをして、利益を得る事を。

それが、正しいことだなんてのたまうこの世の中に、異を唱える人が、少しでも欲しいんだ。


あの世界は、そうした俺の味方を奪い尽くす」


「でも、あの世界にしか希望を見いだせない人だって居るんだよ……。

こんな世の中に、耐えられない人だって、居るんだ。

それを、引きずり降ろして、いじめるような事、しちゃいけないよ……」


「なあ、俺たちを取り巻く、悪意も、善意も、先生や親が都合よく決めたルールも、何もかも自分勝手なエゴで出来ているんだ。

俺が、俺の自分勝手を、他人に押し付けてはならない理由はなんなんだ?」


「悪いことを皆がしているから、悪いことをしてもいいって……言いたいの?」


「いや、周りの人が正しいと思う事を他人に押し付けているなら、俺も俺が正しいと思うことを押し付けて良いだろって言いたいんだ。

世の中はその押し付け合いで、ルールも規範も、常識も決まってしまう。

俺を守ってくれるのは、俺が決めた正しさだけだ。


傷ついたら死んで良いのか?

死なれて傷ついた人は自業自得なのか?

誰もが、自分勝手だ、おりこうに相手に合わせていれば良かったなら、なんで今の君らはそんなことになっているんだ?

なんで俺は傷つく人を見て苦しまなきゃならないんだ?


俺は、他人を慮ることはやめることにしたんだ。

嘘を言って、自分勝手な他人に配慮するなんて、バカバカしい。

俺の邪魔をする奴は殺してやる。

俺のやりたいことを邪魔されて殺されるくらいなら。 ……殺してやる」


眉間にしわを寄せ、切なそうに吐き捨てる彼のその言葉には、重みがあった。

とても生きづらそうな彼は、そんな思いを抱えながら、共にクラスに居たのか、と真央まおは感じた。


「……あなたも、現実が辛くなったから、向こうに居たんでしょ?」


「そうだよ。

でも、皆自分が傷つきたくないだけだった。

みんなに逃げれば良いと言うだけだった。

だから、嫌だった。


俺が逃げたら、誰かが代わりに犠牲になるだけだ。

だから逃げない。

それを考えただけで吐き気がするから。煮えたぎるから。

あの世界は間違っている。


黙って消えればいいだなんて、間違っている。

間違っているものは、殺してやる。

この世に引きずり出して、悲鳴を上げさせる。

苦しいと、辛いと、助けてくれと言わせてやる。

そして、少しでも苦しみが無い世界を創るよう、ちゃんと戦えるよう、訴える」


狂気の瞳が、恨めしくこの部屋の床を見つめている。


真央まおは、それがとても優しい殺意だと思えた。

同時に、目の前の男が怖くてたまらなかった。

だが、男の言うように、ここで逃げることは、もっとこわかった。


いつも通りで平穏な日々を、花那かなが目の前で死んでいく事なんてない世界を失う事が怖い。

望みに大きな差があれど、それもまた、自分勝手なエゴだった。

花那かなの事なんて、何も考えてあげれちゃない。

自分が、怖いだけ。


「まあ、そんな感じでさ、花那かなを助ける、助けないに関わらず、あの世界は壊すつもりだったんだ。

もう算段も立っていたが、白沢しらさわに頼まれて花那かなの様子を見守ってたんだ。


そしたら教室で、なんかいつもと様子が違う会話をしてるもんだから、こりゃなんかあるなと思って、家までついてってたんだ。

花那かな暗月あんげつの街に居ることは知ってたから、街で降りてくる流星を片っ端からチェックして、来たのが分かったから、すぐ現実に戻った。

そしたら、家の中から花那かなが倒れる音がして、様子を見に行って……あとは知っての通り。」


……行動力化物なのか?

と思ったが、それに救われた以上、とやかく言う気にもなれなかった。


真央まお、安心してくれ、犠牲が必要な事は、全部俺がやる。

真央まおはちゃんと花那かなと話して、世界が壊れる前に、戻ってこい」


「……犠牲?

それはなに? あんた死ぬの?」


「えっ、いや、そういうんじゃないよ……。

まあ、なんだ、俺が俺のエゴで大暴れするんだ。

辛いところは、しっかり受け持ってやる」


「……わかった。


でも、なんで?

なんで花那かなになんでそこまでしてあげるの?

知り合いなの?」


「……いや、ただのクラスメイト。

でも、ちょっと違うな、結果的に、花那かなを助けるけどさ。

俺は、俺の為にやるんだ。

俺の目的は、花那かなを助けて、俺を助けることなんだ


じゃあ、作戦について、話をしようか。」



翌日の朝方。

誰もが目を覚まし、優しい夢から目を覚ます朝七時。

それが、作戦開始の時だ。


まじないの道具を並べ、息を吐く。


「よし……!」


真央まおは、一つ一つの工程をネットで確認しながら、手元でまじないを進めていく。

横になれる場所の確保。

特定のアカウントへのメッセージ。

人形を抱く。

ある電話番号に通話をかけ、呼び出し音が切れるのを待つ。

そして、呪文を唱え、体の一部から少しでもいいから、出血させる。


「我が身体は我が物に非ず。

我が身体は汝に委ね、逆らわず。

あらゆる思惑を受け入れるこの身は伽藍の躯。

この肉、この魂、この血肉の全ては我が手を離れ。

御手の思うがままとなる。

アディスペル」


一昨日傷つけられた傷のカサブタを剥く。

ピリッとした痛みの後。

暗闇に落ちていく。


あの大きな月が見え、月光の流星となって、その世界に飛び込んでいく。

朝でも関係なくその世界は、真っ暗で、月だけが照らしていた。


ゆっくりと着地し、すぐに大通りへと飛び出した。


夜の頃より、三分の一程度の人の多さ。

人の数が少ないから、花那かなを見つけやすい。


でも、隅から隅まで探している暇はない。


花那かなあぁーーーー!!」


人目を憚らず、大声を上げ、呼ぶ。


「どこおーーーー! 花那かなぁーーーー!!」


周りの住人が皆見てくる。

恥ずかしい、早く終わって欲しい。

こんな事、いつまでだってしたくない! ちょっと後悔してきた!


真央まおちゃーん!」


来た!


振り向くと、そこには、昔のように無邪気な花那かなが居た。


「心変わりしてくれたの?

やっぱり、向こうは辛いもんね。

こっちで皆呼んで、楽しくすごしたいよね」


その隣には、オウリが付いていた。

穹羽くばが言うには、オツキ様に打診が可能なのは、その世界に永住している身体が死んだ者に限るそうだ。

つまり、彼が居る以上、オツキ様のへの打診ができるのだ。


「あえて嬉しいよ、真央まおちゃん!

……?

真央まおちゃん?」


「帰ろう、花那かな


「え……まだ、分かってくれてなかったんだ……。

あ、まだ、いいんだ、オウリくん。

もうちょっと、ちゃんと、お話させて」


オウリは険しい顔をしながら、花那かなを心配そうに見つめている。


ここからは真央まお次第だ。

ちゃんと花那かなを説得し、連れ帰らなくてはならない。

オツキ様への打診の事は……ひとまず考えなくて良いはずだ。


花那かな、えっと……。

ほら、向こうに帰ったからといって、辛いことばかりって限らないじゃん……私も、なるべく協力するし……。

ほら、生きていれば、無限の可能性があるっていうか……」


真央まおちゃん、それこそ、真央まおちゃんもそうだよ。

真央まおちゃんには、ここは必要ないくらい、あっちは素敵な所なんだと思うんだ。

色んな友達が居て、その友達とずっと一緒に居られて、自分の好きな事をやるのを許してくれる、お父さんお母さんが居て。

だから、認められないなら、ココに私を残して、放っておいてよ。


知ってるんだ、真央まおちゃんがこういう面倒な事が苦手な事。

ホントは他人の事なんて、あんまり真剣に考えたくないこと。

自分勝手に生きてきて、それで楽しくいられれば。

その時たまたま居る、仲のいい人が居ればいいって事。


だから、私とは、一旦、お別れだよ」


震えながら、泣きながら、そんな事を言う女の子がそこに居た。

真央まおは、何かを言いかけては、口を閉じ、何かを言いかけては、また諦める。

どう、言葉にしていいか、分からずに、困惑していた。


真央まおちゃん……?

らしくないよ。

真央まおちゃんは、じゃあしょうがないって言うような子だよ。

どうしようもないし、私の事なんて、責任持てないからって。

ちょうどいい距離感で居てくれる子……。

そう、だよね?」


そう、まさにそうだったはず。

そうだと知っている。

それが私が、安西真央まおが、知っている私自信の姿。

いつもそうしてきた。

それでいいと思ってきた。

でも、今はそう言いたくない。


頭が悪いと思う、なんにも正しくないと思う。

花那かなを傷つけると思う。

誰も幸せにしないと思う。

でも、そうだ、この世界が私の言うことを受け入れないように、私もこの世界の言うことなんて、聞きたくない!


こんなわからず屋の親友の言うことも!

何もかも至らなくて、しょうがない自分も!

なあなあで楽したがる自分も!

今この瞬間だけは! 大嫌いだ!


今だけは、あの狂人の少年のように。

好きなことを、好きなだけ言ってやる。

正しくないことを、正しいって思わせてやる。

私を助けるのが私だけだと言うのなら!

私の気持ちを、私が叫ぶ!


「うるせええええええええ!!!」


ビルに反響して、この狭い世界から、喧騒が消える。


訪れる静寂。


私の最低最悪の告白以外の音が世界から消え去る。

おりこうさんはもうやめだ、聞こえの良い言葉なんて大嫌いだ。

さあ、思うがままにやってやろう――全部傷つけてやる!


「私は、花那かなの事をどうにかできるなんて思ってない!

ココで花那かなを助けて、その後の事も保証出来ない!

あんたの辛さを分かってあげれないだろうし、寄り添って生きていくのなんてかったるくて仕方ない!


でも!!

私は、あんたが居る世界で生きてみたいんだ!


いい結果になるかどうかなんて知らない!

でも、ここで死なれるなんて、私は面倒くさくてたまらない!

残念だったな!

分かれるなら、私に何も言わず消えておくんだったな!


花那かな! 私はこんなに弱っちいけど!

あんたを見捨てたくはないんだ!

私が至らないなら、私に教えてくれ!

私は逃げるかもしれないし、嫌になるかもしれないけど!

そこいい感じに教えてくれよ!

あんたがどんだけ面倒くさい女で!

あんたを取り巻く環境がどんだけめんどくせーのかっ!


それで大ゴケしても私は構わねえからよ!

一旦私と一緒に、何の保証もない分の悪い賭けに!

命を賭けてくれーーーー!」


「う、うわぁぁああ!

最悪のお願いなのぉ!!」


「オツキ様!

お越し下さり、かの涙に報いてくださる!」


オウリによって打診が行われた。

だが、うんともすんとも言わない。


「――!?

何故!?

なんだ、何が起きている、様子がおかしい……!」


構わず言いたいことを畳み掛ける。

世界が壊れるその前に。

この言いたいことを言わせない世界が黙っているうちに。

言いたいことを、言えるだけのことを、最低な言葉で伝えてみせる。


花那かな

私の為に現実に戻って、最悪の人生を過ごしてくれ!

私がちったあ気持ちよく生きれるように犠牲になってくれ!

めんどくさがりの私ができるだけ助けてやる!

出来ないことはしないけど!

上手くやらないしめんどくなって逃げるかもしんないけど!

お前も頑張れば!

ちょっとはマシかもしんねえだろーがァーッッ!!」


「うう、酷い……どうしてそんな酷い事……」


「私は元々ガキの頃こうだったろーーがーー!!」


首元を掴んで揺さぶる。


「そうだったぁぁ!」


「天然で面倒くさい花那かなと腹割って話して、いつの間にか楽しく過ごしてきたんだろ!

今こうしてて思い出したけど!」


「そうだったあぁあぁ!」


揺さぶられて花那かなはそのままぐでんぐでんと声が出てくる。

揺さぶるのをやめて、肩に手を叩くように置いて、正面切って向き合う。


「いつの間にかおりこうになって。

お前の事を遠巻きに見るようになった。

強く言わなくなって、近くに居るだけでいいと思ってた。

でも! 今だけは言わないとめんどくせえから言わせてくれ!

犠牲になってくれ!

私が気持ちよく過ごす明日のために!

お前が頑張って、私をつかって!

いい感じに!」


「……ひどすぎる!!


でも、うん、久しぶりにお話したね、真央まおちゃん!

久しぶりに、冷たくて怖いけど、温かい言葉だ……!」


くしゃくしゃの泣き顔のまま、彼女はへにゃっと笑ってみせた。


花那かなちゃん!

それどう考えても気の迷いだって!

そんな簡単な事で、前向きになれるなら、ここに来なかっただろ!

向こうに行くな……そっちは地獄だ!

辛いことがいっぱいあって、後悔するぞ!」


月が歪み、掠れていく。

時間がない。


「オウリ君……。

うん、そうなんだよね。

知ってる、何年もかけて知ってきた。

良い点を取っても、どれだけいい子でいても。

お父さんもお母さんも、友達も真央まおも、私をちゃんと見てくれなかった。

私は、きっと向こうに行けば、いっぱい無下にされるんだよね」


「ああ、そんなところに行って、無意味に傷つく事はない!」


「無意味じゃねえ! 私が喜ぶんだ!」


「うるさい! このわがまま女がっ!!」


「うるさい上等! オウリテメエは自分の事だけ考えて幸せになってろ!」


「なっ……!」


「私達は二人で不幸になりに行く!

でも、わたしたちは繋がっていられる!

こんな弱っちい私のまま、花那かなが許してくれるならできるだけ一緒に居る!

互いにいい顔だけしてたら良い思い出来ねえからよ私は!

全部を整えた世界なんて、まっぴらゴメンだ!」


花那かな

花那かなの事を考えてくれてないソイツの言う事を聞く事はない!

キミが犠牲になることはないんだ!

一時の繋がりで、せっかく続いている人生を棒に振るな!!」


「ごめんねオウリ君。

私は駄目な人に引っかかる人みたいだ」


「……花那かな……」


真央まおちゃんが見てくれなくても、真央まおちゃんの素直な言葉は、暖かくて、生々しくて。

確かな熱量があって、力強いの。

ずっと隣で、変わらずに居てくれるオウリくんも素敵だけど。

そんな飾るの下手っぴな真央まおちゃんが、私と生きていたいんだって。

見捨てるかもしれないんだって。

でも、私はね。

それが、一番真剣な言葉に聞こえちゃったんだ。


優しくしてくれてありがとう、オウリ君。

嘘をつかないでいてくれてありがとう、オウリ君。

きっと、私を一番幸せにしてくれたであろう、オウリ君。


でも、私も――。

人を、幸せにしてみたいんだ。

全部を終わらせるのは、それからで、いいかな……?」


オウリは、口を閉じる。

うつむいて、悔しそうに地面を見つめる。

手を握って、力のあまりに、苦しさのあまりに震える。


「……一人に、しないで……」


「へへ、オウリくんから一番聞きたいセリフ、いただきました。

でも、先に言ってくれたのは、真央まおちゃんだったんだ。

私は、私を求めてくれる人のところに行きたいだけなのかなあ。

悪い女だね、へへへ」


月へ、流星が一つ、登っていく。


もうひび割れて、瓦解していく世界。

真央まおも、飛び立とうと構える。

そのとき、オウリが足元に、しがみつく。

力は無い。

強制力は全くない。

簡単に振り払う事ができる。

でも、罪悪感だけが、重く、心に重くのしかかる。


「一人は……嫌だ。

生きてる間も、死んだ後も、一人なんて」


「……泣きつく相手が違うよ、オウリ。

あんたは、いい顔してないで、もっと早く、素直になるべきだったんだ。

あの天然ふわふわ女は、上辺だけの関係で満足する、軽い女じゃなかったんだよ」


「嫌われたくなかったんだよぉ……!

もう、誰にも無関心でいてもらいたくなかったんだぁ……!」


「オウリ……。

勇気が出なかったんだね。

ごめん。

私が先に気づいて。

でも、ほんと、何も言えないけど。

私は、お前を無下にして生きていくよ。

まだ息があるうちに、まだ伝えられる人が居るうちに。

私の心をそのまま、伝えて、繋がってみたいんだ。

また、お前みたいなやつが居たら。

ちょっとは、気にかけてやるから、許してくれよ」


もう一つの流星が立ち登る。

崩れていく世界の中、登っていく速度が遅い。

戻す力が弱まっているのか、なかなか飛ばない。


「ああもう、未練たらたらの善人とか!

もう会いたくない!!

ホント嫌!!」


真央まおちゃん!」

真央まお!」


月面から、穹羽くばと、花那かなが出てきて、手を伸ばす。

穹羽くばは飛び込んで右手を真央まおに、左手を花那かなに伸ばした。


「ぅええ誰ぇ!? 穹羽くば君!? なんでぇ!?」


花那かなは少しの間、ばたばたした後、穹羽くばの片手を掴んだ。


「良いから! 手ぇ話すな花那かな

引き上げろぉ! 戻る力が無いなら物理で解決させろぉ!」


「むちゃくちゃだよぉ!! ふんにゃああああ!」


「もう少しだから頑張ってくれ頼むお前らぁぁっ!」


真央まおが懇願してるうちに、あとは穹羽くば一人分の距離になった。

しかし、足にまとわりつく存在が居た。


「生きたい……!

まだ諦められない……!!

いやだ、いやだいやだ!

助けてくれ!」


「うわあ! しつこい男だオウリ! 嫌われるぞ!!」


「嫌われても、出来ることがあるならしてやる!

お前たちがそうであったように、僕だって、幸福を諦める事なんて……しないぞ!」


蹴れない。

蹴るほど、無下にできない。

一瞬の気後れ、一瞬のおりこうさん。

数秒あれば、鬼畜になれたであろう、その僅かな間に、飛び込んだ男がいた。


「お前は理由の無い不幸で死んだんだよこの野郎!!」


穹羽くばが飛び込んで、殴っていた。


「おいっ穹羽くば!? 穹羽くばぁ――!!」


真っ暗闇――。

現実に帰される道中の感覚。

遠ざかる月の摩天楼は、霞がかっていて、消え去ったのか、前と同じように遠くにいったのか、区別がつかなかった。


緩やかだが、歪む視界に、自身の部屋の天井が映る。


「――っはぁ、はー……」


穹羽くばが、取り残された?

彼は、魂が閉じ込められた……ということ?


真央まおはすぐにスマホを取り出し、メッセージを送った。


穹羽くば君無事?〉


〈無事なら返事ください〉


彼は、何も悪くない。 はずだ。

見ず知らずの私達を、クラスメイトであるというだけの理由で、助けてくれた、犯罪思考な男の子。

でも、優しくて、逃げない子。

あまりに色んなことから逃げれなくて、殺すか、殺されるかまで突き詰めてしまった、知る限り一番面倒で、一番優しい男の子。


「はやく返事してよあいつ……!」


いや、どう考えてもむりだろう。

崩れる世界の崩壊を、最後に見た。

きっと、あそこから帰るには、瞬間移動でもしない限り、無理だ。


しばらく、ギュッとスマホを握り、額にあてがった。

諦めようと、息を吐いては、涙が込み上げてくる。


ポン


メッセージの音がした。


「えっ!?」


慌ててスマホにかじりつくと、写真が一つ、送られてきていた。

白沢しらさわ疋乃ひつのから。


そこには、ぐったりした穹羽くばを抱える白沢しらさわさんが居た。

やってやったぜ、と言わんばかりのピースをして。


〈無事回収!〉


と一言だけ添えられていた。


「……はは、どういうことなの。

わけわかんない」


もう、なんだかよくわからないけど

全員無事ということで、私は、気が狂ったように笑い転げた。

ひとしきり笑って、疲れ果ててから。


「よかった」


最近したことない、穏やかな笑顔を作ることができた。



その後、白沢しらさわさん、花那かな穹羽くばと私は、カフェに来ていた。

今度は現実のカフェに。


白沢しらさわさんは、髪の毛を金髪に染めていた。

なんでも、不思議な力の発祥地である大陸では、髪の毛に色をつける習慣があるのか、そうしてないとむしろ浮くらしく、なんとも新鮮な気持ちだった。


でも、黒髪だったころより、そのくせっ毛がいかにも整えたものによるように見えて、彼女の普段と同じく、明るい印象でとても似合っていた。


「ひどいんだよ白沢しらさわさん、真央まおちゃんすぐめんどくさくなって話聞かなくなるの。

相談しても、全然聞いてくれなくて!

昨日一人で全然ご飯喉通らなかったのぉー!」


「安西さんだもんね……よしよし、かわいそうに……」


「何ていうかさ、真央まお


「なに? 穹羽くば君」


「お前、だいぶ酷いヤツだよな……。

協力出来ると思って、声かけたけど、まさかこうもすぐ諦めるなんて……いたたまれねえよ花那かなが……」


「だって……何も言えないし……何も出来ないんだよ。

話をただ聞くのって……辛くない?」


「同情してくれてる……!!」


花那かながキラキラとした目で真央まおを見つめるのを、穹羽くば白沢しらさわは冷めた目で見ていた。


「バカップルかな? 白沢しらさわさん」


「それも片方クソ男だよこれ穹羽くば君……」


「聞こえてますう!

これが精一杯なのぉ!

これ以上頑張ったらこの天然女がムカついて嫌になるのぉ!」


「うん!

私が頑張るね!」


「ねえ花那かな……もうちょっと私を駄目男感をどうにかできないの?」


無理な話である。

私は最低最悪な人間だ。

分かっているけど、楽したいという自分の気持ちにおりこうさんになることはやめた。

なんでかこの天然女はそのほうが喜ぶのである。


もっとも、最悪さはそこにいる穹羽くばよりはマシだと思いたい。

多分だけど、この男、あの世界を作っていた犯人を殺して、こうして笑っているのだ。


……恐ろしい男である。

もっとも、なるべく避けに避けた後、やむなくだとは思いたいが。


穹羽くば君って、私と一緒に真央まおちゃん引っ張ってたじゃん?

あのあと、オウリ君を殴りに行ったって真央まおちゃんから聞いたよ?

なんでここにいるの?」


「聞き方もうちょっと無いのか!?

まあ、事を始める前に、白沢しらさわに連絡をしてたんだよ。

そしたら、白沢しらさわ、大陸の方でまじないをして、俺らの様子を見に来てたんだ」


「大陸ってね、近寄るだけでも、不思議な力に目覚める事があるの。

で、私は、見えてる2つの地点をワープできるようになったんだ」


「うん全然よくわかんない白沢しらさわさん」


「だからね、私はあの時、あの世界にいて、最後に昊菟こうと君がその、オウリって子を殴りに行ったのを見てたの。

このままじゃ戻れなくなるって思って、あの世界でそのワープをして帰ったの」


「それで、月面に届かせて、ギリギリ帰還ってこと……?

って、いや、わかんないってそういう意味じゃなくて」


「わたくし、花那かなが説明しましょう!

真央まおちゃんはですね、大陸の超能力というものを初めて聞いて、頭が追いついてないのです」


「まあ、それもそうだよね……魔法と超能力。

向こうじゃ当たり前の力だけど、こっちじゃ見ることはほぼないもんね。

列島で超能力を使うことは、一応犯罪だしねー……」


白沢しらさわさんが他人事のように言っているのを聞いて、他三人は、白沢しらさわの顔をガン見した。


「あれ……?

大陸に……引っ越してったんだよね?」


「うん」


「どうやって、帰ってきたんだ? 白沢しらさわ


「…………超能力で」


急に声が小さくなった白沢しらさわさんの言葉を聞いて、三人は頭を抱えて天を見た。


「だって! 穹羽くば君が無茶してたじゃん!

またかこの男って思ったわけです! そしたら案の定!

先生の近くで倒れてたんだから!」


「さすが禍津の穹羽くば君なの!

今度は教師の死に目に会うなんて!」


「え、何その異名、初めて聞いたんだけど!?」


……きっとその教師が犯人だったんだろう。

この男、警察の捜査をかいくぐる偽装工作までこなしたというのだろうか……。

その気になったら完全犯罪を目論見、実行できる男……。


穹羽くば君、その……」


「ん? ああ、気にするな真央まお

言ったろ、犠牲は俺が払うって」


「そうだねえ、オウリ君に死ねって言ったんでしょう?

酷い男なの!」


違う。

この男が殺したのは、二人だ。

いや、もっと言えば、あの世界に居た、現世で生きられなかった、全ての人々。


どうして、彼はこんなに笑って過ごしていられるんだ……?

私ですら、直接でないけど、オウリの事で胸が痛むのに。

いや……やはり、私以上に悪人だからだろうか。

なんて、恐ろしい人なんだろう。

あの時の、邪魔をするなら殺してやるっていうのは、冗談じゃなかったんだ。


「それにしても穹羽くばくん、すごいよね、私の中で伝説の人なの!

自殺現場に居て、喧嘩の現場には7割居て、殺人現場に居て、お家まで燃えるなんて、私の中で忘れられない人なの!」


「……家が、燃える?」


穹羽くば? おまえ、もしかして。


――化け物、なのか……?



白沢しらさわさんが花那かなをワープで送ってくれ、大陸に戻らなければならないからと白沢しらさわさんも帰って行った。


夕暮れの中、遠出のお出かけの帰り道。

穹羽くば真央まおの二人。


彼と話をするために、白沢しらさわさんのワープで帰るのを拒否しておいたのだ。

花那かなは怖いもの知らずでワープしてもらうことに積極的だった。

穹羽くばは女子二人と密着してワープするのも気が引けるようで、断っていた。


坂道を登っていく間に、穹羽くばに声をかけた。


穹羽くば君。

あの二人は気づかなかったようだけど。

聞きたいことがある」


「……そうくるかな、とも思っていたけど、意外だ。

聞かないままにして、逃げるのかと思った」


「ちょっと前まで、そうしようかって思ってたよ……。

でも、わからないままにするのは、気持ち悪いって思った。

教えて、偽り無く。


――あの世界を除いて、あなたが今回の件で殺した人数」


風が吹く。

身をつんざく、冬の風は、まるで心まで冷やすかのようだった。


その少年は、真面目な顔のまま、まっすぐと見据えて、答えた。


「4人」


「……一人は、教師、だよね」


「そう、先生だ」


「二人は、両親……」


「そう。

アリバイを作るのを、絶対妨害するだろうと思って。

あ、もう一人も、家族だよ。

兄が居てね」


「……穹羽くば

絶対、割に合わないよ。

私はそんなに必死に助けたって、めんどくさがりで。

花那かなだって、状況はあんまり変わってないんだ。

むしろ、事件があってから、なお両親は強く執着するようになった。

私も、ちょっと面倒だなと感じつつある。

そんなに十字架を背負うのに、見合わないじゃないか。


それともおまえ、人を殺す事に、心が動かないのか……?」


穹羽くばは、目を閉じて、自分の気持ちを確かめるように、黙した。


数秒、その後、口を開く。


「複雑だ。

俺は、俺のことを悪人だと思ってる。

でも、俺にとって、世界は悪人だらけなんだ。


ルールで人は殺し合い、お金で殺し合い、権利で殺し合い、親子とか、上司と部下とか、立場の違いで殺し合う。

常に殺される側は殺されぬように、その危険を避けては首を締めて生きていて、殺す側は、それが人の命と時間と心を刈り取っていると知らずに強行する。


俺は、殺した人の顔を見た、殺した家族の愛を見た。

それでも、自分を嫌いになることはなかった。

泣きもした、悲しみもした、吐いて、気持ち悪くなって、ぶっ倒れた。

でもきっと、少しずつそういうことにも慣れて、ホントの化け物になるんだと思う」


「私は……。

うまくいえないけど。

お前が、好きだよ。

怖いけど、人として。


けど、お前は、面倒だし、恐ろしい。

私を助けてくれたし、花那かなを助けてくれたけど。

その恩以上に。 お前が怖い」


「うん、そうだな、会うのはこれきりにしよう。

丁度、孤児院に行くんだ、学校は繰り上がりじゃない他の中学を希望するよ」


「なあ、わかんないよ。

どうしてそんなにあっさりできるんだ」


「……人には、得手不得手があるだろ。

真央まおは、そういう事が得意な人じゃない。

うそをついて、隠して、そういうのは嫌いな人だろ」


「私は、花那かなに強要したよ。

私のために、犠牲になってくれって。


私におりこうでいるなって教えてくれたのは、お前なんだ。

直接言ったわけじゃないけどさ。

私は、そう解釈した。


なんでお前は、それでもおりこうなんだよ。

人を殺しておいて。

どうして、私より優しい人間なんだ」


「……たまたま、皆に求めてないから」


「嘘だ、なんなんだよ、お前の求める事は。

私は面倒なことは嫌いなんだ。

言ってくれ」


穹羽くばは、遠く、沈み切って見えなくなった夕焼けを見つめる。

遠く、遥か遠くに、暖かなものを信じる目をして。

寂しそうに、遠くを見ていた。


「……そうだな。

皆の為に、人を殺すし、皆のために、自分も殺せる。

だから、俺を守って、俺を受け入れてくれ。

俺を、一人にしないで、一緒に皆のために、人を殺すとしても、隣に立って、笑っていてくれ」


「……っ。

ああ、そうだった……。

未練たらたらの善人とか、もう会いたくないって思ってたんだよね。


穹羽くば昊菟こうと

弱い私を、許してくれ。

私は、人を殺して、笑っていられるような人じゃないんだ。


でも、私と、花那かなの為に、人を殺してくれて……ありがとう。

私の中で、お前を、過去の英雄にさせて。

もう、目の前に現れないでくれ……っ。

ごめん……ごめんな、昊菟こうと……!」


顔を上げると、そこに彼は居なかった。

話を最後まできいてくれたのだろうか。

ただの拒絶だけで、彼の最後の記憶になってないだろうか。


「ああくそ……アイツと話してるとなんでこんなに……、

自分のことが嫌になるんだ……」


それはきっと、彼が誰よりも優しいからだろう。

誰よりも危険で、誰よりも優しいから。

こんなに、裏切る事が苦しいんだ。


弱い自分に、煮えたぎる。

そう、彼が、周囲の人間の弱さを許さないように。

その思いに、感染してしまった。

こんな思いをするなら、聞くんじゃなかった……。



時は戻って、作戦決行日。

昊菟こうとは、深夜のうちに、適当な店で買った時計に糸を組み合わせた発火装置を作って、家の庭に置いた。


「俺は、皆と笑い合うために……。

楽しく過ごすために……」


いくら着込んでも極寒の冬の深夜。

昊菟こうとは家の周りに灯油を撒いていた。


「俺の邪魔をする存在に……負けない。

俺を否定する人に……負けちゃだめだ。

俺の事を分かってくれるのは俺だけだ」


話し合いをしようと試みて、父親に襟首を掴まれた鎖骨が痛む。

いつも一人で厄介事に首を突っ込んで、嫌がらせなのかと、いつも叱られていた。


「分かってくれるだなんて、思うな。

鈍るな、怠けるな。

誰も味方してくれないなら、それなりの覚悟と努力が必要だ」


綺麗事を言わず、自分のための事をしろ。

言い訳をするな、都合のいい事を言うな。

叶わないことじゃなく、現実を見ろ。

カッコつけてるな、本音を言え。

好き勝手させないぞ。

そんな横暴は認めない。

自分だけが正しいと思っているのか。

何も知らないくせに。

親不孝者が。


そう言われ、昊菟こうとの夢は常に否定され続けた。


「叶わなくてもいい、都合よくてもいい。

だって、いつもそれを諦めようとすると、身が割かれる思いをしたんだ。

もう、傷つくクラスメイトを見たくない。

誰かを見捨てる俺でいたくない。

こんな苦しいこと、頼まれたって、ごめんだ」


空の灯油を、家の元の置き場に、ゆっくりと戻す。


「誰とも手を繋げない明日になるくらいなら。

死んだ方がマシだ。

見捨てていい人なんて、考えるくらいなら。

全部助けようと動けばいい。

叶わなくて良い。 報われなくて良い。

それは求め過ぎだ。


ただ、そう。

俺が、こうありたいと思う、俺で居るために。


死んでくれ。 父さん、母さん、兄貴」


話し合うと起こった3ヶ月間もの、毎日の喧嘩。

人格否定、罵詈雑言。

泣かれ、暴力にあい。

あらゆる否定を受けた男は。

自分を守るために、自分を守ってくれるはずだった家を焼いた。


屈しなかった。

屈する事で得られることがなにもないと分かっていたから。

屈する事で歩む人生が、それはもう穹羽くば昊菟こうとのものではないとわかっていたから。


どこにも行き場のない、砕けてバラバラになりそうな心のまま、少年は、焼ける家を見て泣き、嗚咽した。


家を火がまたたく間に包み、昊菟こうとのケータイが、新しいメッセージを表示する。


昊菟こうと、家が燃えて、もうだめそうなの。

ごめんね。

幸せになってほしかっただけなの。

どうか、健やかに生きて。〉


だが、死の淵に行くまで、彼らからそんな言葉を聞く機会はなかった。

彼らは生きていたなら、昊菟こうとがこれから行う悪行と善行全てを咎め、邪魔するだろう。


花那かなの両親に、彼氏だと嘯いて、情報を探った事を、叱り、咎めるように。

自殺してしまった学校の子を助けようと動くのを、危ないからと咎められたように。

特殊なまじないで起きている被害を押さえたくて協力してくれと言っても、まともじゃないと罵詈雑言にあったように。

一度もその少年の意思から生まれた行動は、褒められる事も、認められる事もなく。


その愛を、昊菟こうとは何一つとして受け入れられなかったのだ。


愛が本物だとしても。

実際少年には、全てがその身を貫く、重い鉄の棘だったのだから。


いつか、理解し合える日が来ると信じて、何度も傷つきながらぶつかっていった家族と、その理想を捨てる決断をした。

そうじゃないと、救えない自分と、二人が居たから。


少年を勘違いしていたその家族は、気づかぬまま少年の為を思って少年の人格を攻撃していた。

少年が繰り返し説明する少年自身の事を理解出来ず。

少年の価値観と意思を攻撃し続けた。


それがおかしなことだと、良くないことだと、ついぞ知る由なく。

そうして、壊れた男の子が、一人、煙の前に跪づいていた。



演技ではないその意気消沈ぷりは、警察関係者を欺くのに、そう難しくない心象を与えた。

呆然としているだけで、開放され、自由な時間を得る事ができた。


いつもと変わらない日々を過ごさないと気が触れる、学校に行きたいと言い、朝から、学校へ向かった。

約束のあの時間に、犯人を殺すために。


白沢しらさわに電話をかける。


疋乃ひつの

お前に最後に託された件、もうすぐ解決させれそうだ。

でも、俺の限界が、どこで来るかわからない。

頼む、手が空いてるなら、貸してくれ。

不足の事態が無ければ、大丈夫だと思うけど、一応。

あの世界に行って、二人を助けよう」


昊菟こうと君――?」


通話を切って、職員室の扉を開ける。


「先生、相談があるんです」


「どうしたんですか? 昊菟こうとくん」


「長い話になるので、どこかの部屋で落ち着いてお話したいんですが」


そう言って、早朝の誰もいない空き教室に入った。


「聞いてますよ、昊菟こうと君。

お家、全焼されたそうで……」


「先生、話は、それじゃないんだ」


その目は、小学六年生、年相応のものとは大きくかけ離れていた。

灼熱に燃えて、刺し穿つような、狂気の目。


暗月あんげつの街。

あそこを作っているのは、あんただな、オツキ様」


「……なんの話ですか? ゲームかな?

ゲームは私も好きですよ」


「いや、現実の話だ、オツキ様。


始まりは、鶴田さんの死亡について。

鶴田さんが学校に来なくなってから、調べていました。

先生は鶴田さんが趣味にしているゲームを軒並み遊んだことがあり、話が合っていた事を覚えていました。

でも、鶴田さんの家はアパートは同じ建物の間取りを確認するに、子ども部屋はなかった。

日常的にアルコール中毒の父に暴力を振るわれ、ゲームをする暇などなかったことは、白沢しらさわから聞いて知っているんです。

今となってはわかる事ですが、暗月あんげつの街で遊んでいたのでしょう。


それからしばらくは、虱潰しでした。

満月が怖いという独り言があったと真央まお白沢しらさわに教えてくれるまで、どういうことかハッキリしませんでした。

だが、満月を重点的に調べていったら、暗月あんげつの街について、ネットで噂話を発見できました。

街では死んだ鶴田さんを見つける事もできたし、そこに居た永住していた住人から、この世界のものがオツキ様にお願いすると増えていく事を知りました。


ダメ押しに。

俺が両親からの贈り物だと、教師全員に配ったココアパウダー。

これまでココアが並んでいなかったあのカフェテラスに、それと同じ味の物が並びました。

それが確認になり、あなたが犯人に違いないと思いました。

なお、あれは俺が買って渡したものです。


日本中、いや、下手したら世界中が力の範囲内なのだとしたら、何の偶然だと思いましたが……。

噂を作るには、ローカルから知人づてに広めるのが丁度良かったんでしょう。

ネットで発見した書き込みも、大して注目を集めていませんでしたし」


「驚いた……よく調べていますね。

どうしてそこまで……いや、野暮ですね。

キミなら、そうするか。


……それで、キミはそうまでして、つきとめて。

どうするというのですか?」


「あの世界の運営を止めてください」


「……どうして?

あの世界に行ったなら、キミのような優しい心根の子なら気づくでしょう。

あそこはこの世で作れなかった、理想郷を作る力です。

あらゆる面倒事に首をつっこみ、解決させたいと思っているキミにも、暗月あんげつの街であれば、心穏やかに過ごせるはず。

キミのような子供こそ、あそこで健やかに過ごしてほしい」


「先生、俺は、俺だけが救われるのは嫌なんだ。

俺は、あんたも、皆も助けたいんだ。

そういう自分でありたいんだ。

他人の幸せを願い続けられる俺で居たいんだ。

それに、あそこの人たちは、皆諦めてしまっている。

現実を見限って、こっちの世界の人と決別してしまっている。

俺は、諦めた人は嫌いだ。

だって、彼らは、誰の味方もしないから」


「誰かの味方をしたところで、苦しむ人を助ける事はできませんよ。

それは、思い上がりというものです。

人は人を助ける事はできない。

だから、逃げられる間は、逃げて良い。

逃げて逃げて、いつか向き合えるようになるまで逃げて。

それでも心が折れてしまうなら、ずっと逃げてもいい。

人を救うことは出来ないですが、自分を救う事はできるはずです」


「いや、自分が救われなくてもいい。

俺は、人が、人を救おうとする意思が、想いが、砂一粒でも伝わる方が大事だと思うんだ。

俺を思う気持ち一つ一つが、俺をここまで運んできた。

誰も、手を貸したり、親身になってくれたりなんてしなかったけど。

それでも、俺の事を下手にでも想ってくれる人が沢山いた。

俺はその人達に報いる為に、俺が幸せになれるように、助け合える世界を、俺から作り出す」


昊菟こうと君、それはただキミが犠牲になるだけです。

キミは何も得ない。

ただただ、世界の冷たさに打ちひしがれるだけです」


電話が鳴った。

真央まおが儀式のためにかけた電話だ。


「……おや、失礼。」


耳にスマホをあてがった。

だが、声を出さない、ただただ例の呪文を聞いているのだろう。

昊菟こうとは構わず話しかける。


「違う、それは違うんだ先生。

世界全てが冷たいとしても、俺が足掻いた事を、俺だけは知っている。

俺を知る俺が、100%冷たいこの世界に俺一人だけ、捨てたもんじゃない俺がいるって思いたいんだ。

死ぬその時に、俺が居たから、最悪ではない世界だったと。

俺は、そう思いたいんだ。


お願いします、先生、運営を……止めてください。

これ以上、あの世界を維持しないでください」


先生はスマホを下げた。


「……昊菟こうと君。

キミは強い。

誰もがキミのように逃げずに戦うなんて、無謀だよ。

だから、役割分担をしよう。

僕はこの受け皿の世界を作る、でも、キミはそうやって人の為に動いていけばいい。

お互い、互いの邪魔にはならな……」



昊菟こうとはその胸に、包丁を突き刺していた。

唐突に、何の脈絡もなく。


いや、本人には、そのトリガーはハッキリしているのだが。


「アッ……アァッ……!!」


約束の時間、朝七時。

儀式に必要な電話が終わった後。

この時間までに、懐柔か、殺害か。

それが、真央まおを守り、花那かなをあの世界から引きずり戻すために昊菟こうとが出来ることだった。

ここからは、オツキ様の打診をさせないようにする必要があるから。


「……先生、ごめんなさい。

年齢も、体格も勝てない俺は、あなたが本気で抵抗する前に不意打ちするしか、勝ち筋が無いんだ。

協力してくれる人も、あらゆるものを持てなくて、こんな解決策しか用意できなかった俺を、憎んでくれていい」


暴れる身体に抵抗するには、昊菟こうとの身体は小さい。

だから、教室の机を背負い、差し込む包丁に重みを追加する。


「先生の理想は、俺の理想の邪魔なんです。

友達と笑いあって、手をつなぐ未来を作るためには。

この世界の不条理に悲鳴を上げる人が、一人でも多く必要なんだ。


皆で逃げたら、その不条理はいくらでも増大する。

逃げ道を与えれば、障害を無くした悪意は止まらない……!


それは、後に続く人々に牙を向き、また人を傷つける!

いじめられた人々が癇癪を起こすように。

逃げ場がなく、暴れまわるしか無いその時が訪れないと。

それには、苦しめられた人は、必要なんです!」


「あ……悪魔ッ……!!」


「聞こえの良い善行で間に合っていたのなら、こんな世界にならなかった。

そんなものでは、人の優しさに報いる事は出来ないんですよ、先生。


俺は、悲鳴を上げる人をいっぱい作ってみせる。

誰も泣かなくていいように動ける人間がここに居るのだと、自分自身に強がりでも証明してみせる。


自分のための善行ではなく、他者のための善行を望める俺が居る事を、俺だけが知っている……!

俺が、俺の心を証明する……」


「キミがっそうして得るものは無い!!

キミがッアッ!! そうまでしても何も出来ずに押しつぶされるだけだ!

救えないものを……! 理解しないと……!」


「そんなもん知るか!

それは、救ってみようとしてから考える事だ!

土台にすら上がってない、覚悟すらしたこと無い奴が、不可能だとかの言うなよ……ッ!!」


全体重を乗せ、深く突き刺さった包丁を、押し込んだままにする。

真央まおがオツキ様の打診を回避するには、こうして本人を攻撃してそんな処理をする余裕を奪っておくしか無い。

あの世界をしばらく観察して、知っていた。

オツキ様には自我があり、並行処理が出来なかったり、現実が忙しいと打診も保留されると学んでいた。

だから、話しかけ、痛みを与え続けて、頭で処理出来ないように仕向ける。


「諦めるのは、簡単だよな、先生。

でも、諦めないのは、難しいんだぜ、知ってたか?

時に人に衝突し、時にどうしよもない壁に当たると、暴力くらいしか、交渉材料が、突破口が、なくなっちまう……。

これが悪い事だと恐れられ、孤立させるよう教育されてきたから、誰もが孤独に抗えず、人と手を繋ぐため、戦う事を諦めるようになった!

後悔してくれ、俺が諦められない人間に生まれてきた事!

俺が、こんな俺として生まれてきた事を嘆いてくれ。

俺はそんなことじゃ止まれなかったッ!

善意を持ち、立ち向かう人を救いッ!

この世界を、生きてて良い場所だと思う為に走り続ける!」


「アアアアッッ!」


暴れまわる先生が伸ばした腕は、昊菟こうとの首をつかみ、締め上げる。

苦しい、頭がはち切れそうに血が溜まっていく。

だが、まだ耐える。

花那かなが戻れる時間を、ギリギリまで稼ぐ。


目の前がぼんやりし始める前に、昊菟こうとは包丁を引き抜き、腕に向かって刺した。


「ぬううぅッッ!!」


喉から漏れた嗚咽のような叫びで、思いっきり肘を突き刺した。


首を締める手がゆるまる。

沸騰する脳に、新鮮な空気が送られる。


「がはっ……!

逃さねえぞ……先生ェ……!

あそこにいるどいつもこいつも! 逃さないッ!


誰も俺が見ている地獄から逃げ出すなんて、許せるか!!

この地獄に哭け! 悲鳴を上げて、足掻いて、苦しめ!

都合のいい夢を見て、これから地獄を通る人を見逃すなんて!

させねえぞおおお!!」


狂気に染まった瞳の少年のその存在感は、大人のその先生よりも遥かに大きな存在感を放っていた。

昊菟こうとは先生の首を片膝で抑え、切りつけてない腕を片膝で抑える。


「俺一人じゃその世界は訪れない。

皆、闘え……闘え……!

皆が闘うことでしか……! 皆が悲鳴を上げて犠牲にならなくては!

救われるものはねえんだ!

この殺し合いの現実から目を背けるな……!

他人を想う気持ちを、この世界に少しでも残すッ!!」


「……ぁ……あ……」


暴れる身体が、血でぬめって、抜け出しそうになる。

何度も腰を落とし直し、動かないように拘束する。


「あの二人が、ちゃんとぶつかり合えるように……。

花那かなの逃げ道を潰してやる……ッ!

誰が助けてくれなくても、誰に望まれなくても。

てめえがこれを望んだんだ、穹羽くば昊菟こうと


迷うな、泣くのは今じゃねえ……!

全部終わったら、お前らの屍の上で笑ってやるんだ。

そうだろう、穹羽くば昊菟こうと――!」





どれほどの時間が経ったのか、それとも、大した時間は経ってないのか、やがて、暴れなくなってきた先生を前に、昊菟こうとは肩を上下させ、息を整える。


腕もうごかさなくなり、身体をこわばらせなくなってきた。


細くなった、か細い喘ぎ声が聞こえる。


「はー、はー。

……もう、少しで落ちる……のか……?


いや、呆然としてる暇は、ない、ぞ……。

真央まおは、どうなっている?

様子を、見に行かなきゃ。

まだ、出来ることがある……」


震えて力が抜ける身体、また起きれるのか分からないまま、昊菟こうとはあの世界へと飛び込んだ。



「お前は理由の無い不幸で死んだんだよこの野郎!!」


昊菟こうとが飛び込んで、オウリを殴っていた。


「おいっ穹羽くば!? 穹ば」


真央まおが無事に月面の向こうへと進んだのを確認し、組み合いになったオウリを引き剥がそうとして、ただただメチャクチャな殴り合いになる。


「こんな運否天賦なんて、認めてたまるかァァッ!!」


「諦めろ死にぞこない!

テメエの不幸はもう終わったんだ!

死者が他人の未来を奪ってんじゃねえ!!」


「なら、キミも死ねば同じ死者だな! なぁ!!」


「俺はそうはならねえ!

俺は生きてるうちにこの世界に骨を埋めたお前とは違う!

今を生きる一分一秒を!

なんでも無いクラスメイト達に捧げて死ぬんだ!

一人じゃない。

俺の想いは、不完全でも、中途半端でも、何らかの幸福の種になる!

そのまま無駄になったとしても!

それが俺が望んだ死に方だああぁぁぁぁ――ッッ!!!」


捨て身で振るわれた拳は、オウリの動きを一瞬止めた。

そこへ、足が飛んでくる。


昊菟こうとから、離れて――!!」


ライダーキックで飛んできたのは白沢しらさわだった。

とんでも無い速度でオウリはビルに身体を打ち付けていた。


疋乃ひつのぉ……ッ! 時間がないッ!」

「こっち! まかせて!」


ヒビが入る月面。

昊菟こうと白沢しらさわに腕を引かれ、飛ぶのではなく下に落下した。

下に見えるビル群が、青く輝く光の輪に遮られ、その輪の中に、天井の月が見えていた。


「重力がひっくり返るから! 構えて!」


気疲れしていた昊菟こうとにそんな余裕はもうなかった。

返事をすること無く、腹に力を入れ、引かれていない空いた手で腹部を握り込む。


しかし、グニャリと脳が揺さぶられる感覚の後、昊菟こうとの魂は、自らの意思で意識を保つ事はできなくなっていた。



儀式をやめ、ベッドから飛び起き、適当に上着を羽織った白沢しらさわは、家の廊下を全力疾走し、文字通り外へと空間を繋いで飛び出した。


大陸の家から連続でワープし、海を越え、学校に着いた疋乃ひつのは、まだその力に目覚めたばかりで、勢いを殺す方法をしっかりとは知らなかった。

そんなことより、帰る直前のぐったりとした昊菟こうとの様子を見る事が、彼女にとっては一生の怪我よりも重要だった。


昊菟こうとと教師が血まみれで倒れている教室に、突如響き渡る轟音。

大量のイスと机が舞い、窓を割り、黒板を割り、白沢しらさわが対ショック姿勢で教室の端から端まで滑り込んでいった。


何かあった時の為にと、小学校に居た頃から二人が続けていた位置情報アプリを使い、その教室へとまっすぐ来ることができた。


昊菟こうと!」


数多の打ち身、捻挫を気にすることなく白沢しらさわは血溜まりの中に居る昊菟こうとに駆け寄り、抱きかかえる。


昊菟こうと昊菟こうと! 起きて! しっかりして!!」


「ぁ……白沢しらさわさん。

なんだよ、とんでもねえな……あれ」


「血が……怪我は……?」


「あぁ……俺はしてない。

首に痣があるくらい、かな。

はは、悪運尽きたな、まあ、悪いこといっぱい、したから」


昊菟こうと君……!」


白沢しらさわはその言葉を遮る。


「……あなたが、こうなるって、知ってた。

誰かを殺したとしても止まらないあなたに、追いつきたくて。

だから、声をかけてくれて、ありがとう。

これはきっと、あの二人のために、やったんだよね」


震える手のまま抱きしめ、その死体を見る。


「ああ、でも、もう終わりだ。

アリバイ、考えていたら、手間がかかっちまって。

最後にしくった……」


「まだ終わってない……!

私が終わらせない!」


白沢しらさわ昊菟こうとを寝かせ、踵を返し、その死体に向かおうとする。

昊菟こうとは、何故か息が上手く吸えず、めまいでグラグラする。

今まで起きた数多のストレスで、体調を崩していた。

昊菟こうと白沢しらさわのスカートの裾を掴んだ。


疋乃ひつの……っ。

お前、そういうの、苦手だっただろ……。

そんなこと、やるなって、ずっと俺を止めてたろ……。


殺しとか、暴力とか……」


昊菟こうと君。

私ね、気づいちゃったの。

昊菟こうと君の手伝いをするのに、そんな綺麗事、役に立たないんだって。

4年間も一緒にお友達をして、気づいたんだ。

私が相談役で居られたのは、昊菟こうと君がずっと、悪いことと、痛みを背負ってきてくれたから。

私はね、小学校にいる間、ついに1回もお手伝い出来なかったけど。


ホントはね、いつか昊菟こうとの、役に立ちたかったんだ。

遠くで見ているだけじゃなくて。

いつか、一緒に必死になって、頑張りたいなって」


青い光が輪っかとなって広がる。

輪の中に、どこまでも広がる青い海を映し出していた。


「最初は、私だけ、安全地帯に居たかった。

だって、怖かった。

殴ったり、下手したら殺しちゃうかもなんて……。

でも、飛び降りた間藤さんに、自殺しちゃった鶴田さん。

その顛末を聞いて、私は、どこまでも非力だったの」


教師の身体を引っ張ろうとして、血に濡れた床で足を滑らせる。

それでも、すぐ立ち上がり、その大人の身体を押していった。


「……っ。

全部、近くで見ていたのは、昊菟こうと君だったっ。

私は安全地帯で、お願いするだけだった。

でも、だんだん、申し訳なくなっちゃって。


こんな私が、あなたの事を好きって、あっ……友達だって言えないって思って。

いつか、昊菟こうと君の隣で笑える私になりたかった。

あなたにこんな、殺しなんてさせずに、いたかった。

でも、私が、遅くて、鈍臭いばっかりに。

いつも、負担を背負わせちゃった」


教室の外から、この惨劇と、現実離れした光景に、叫び声が上がっていた。

だが、ボロボロな彼らにとっては、そんな事はどうでもよかった。


死体は、あともう少しで落ちそうなくらいまで、押し出す事が出来ている。


「……ね、私は、足手まといじゃなかったでしょ」


「……ああ、ありがとう、疋乃ひつの


死体は、大海原に投げ出された。


「先生! ここです! ここで……えと、えと、えー……と」


ドタドタと生徒が先生をつれてやって来た頃には、そこには血溜まりと割れたガラス、散乱した机と椅子しか残っていなかった。



小学校から少し離れたところにある、旧白沢しらさわ宅。

庭付き、使用人が居て整えるレベルの豪邸の一室、疋乃ひつのの部屋で、首の痣を化粧で隠していく。

化粧道具は白沢しらさわの親のものだが、白沢しらさわ自身が単身大陸に行くため、使い方を教わったのだという。


人がいるとバレないように、薄暗い中、スマホの明かりを頼りに、ファンデーションで隠していく。

血は風呂で洗い流してもらった。

着替えは、白沢しらさわ家の財力によって溜まった、大陸に送りきれなかったボーイッシュ系の白沢しらさわの洋服を着ることになった。


ちなみに、ここに運び入れる途中に、真央まおに写真つきメッセージが送られる事となる。


昊菟こうと君。

殺しは、なるべくなしだよ。

人を殺しても、良いことなんて無いよ。

そうしないとどうにもならない状況があるのは、わかるけど。

でも、昊菟こうと君にとっても、さ」


「そうだな、うん」


昊菟こうとの狂気は、疋乃ひつのに話した訳では無い。

それでも、特別何を言われなくとも。

昊菟こうとの意思が狂気的である事は疋乃ひつのには伝わっていた。


もっとも、昊菟こうとが取り繕っていたため、彼女が想う昊菟こうと像はもうちょっとまともな人物なのだが。

もしも、昊菟こうとがそういう人物だと知ったところで、この平和を愛する女の子には、耐え難い真実だろう。


だから、昊菟こうとは多くを語らずにいたし、今もそうしていた。


「……人を殺して……、辛かった?」


「……そう、だな……。

辛くない、わけではないけど。

それは、あの二人に、どれだけいい影響があったかによる、かな」


「そっか。

じゃあ、これが全部終わって、気が楽になった頃、お茶会をしよっか。

二人が元気なのか、きっとよくわかるよ」


「……そんな事しなくても、学校でそのうち合えるぜ?」


「だめだめ、禍津の穹羽くば君が急に二人の女の子と急接近してたら、何かのイベントの気配がするでしょ?

しかもあんな奇天烈な教室を作って、すぐになんて。

噂が立つのって、びっくりするくらい早いんだよ?

あ、もちろんあの二人にも、よく言って聞かせておくから」


「……わかりました」


「うん、よろしい。

じゃあ、学校、頑張ってね。

……怪我とか、ほんとに無いんだよね?」


「ん、大丈夫、まだめまいはするけど。

今日を平穏無事にこなして、初めて目的達成なんだ。

おかしな様子をみせちゃ、ただでさえむちゃくちゃやってるから、いい加減警察も気づくかも。

花那かなの家に窓割って侵入して、家燃えて、教師が死んだらなにか様子がおかしいなんて……証拠が無いとは言え、流石にな。

ちゃんとやらなきゃならないよ」


疋乃ひつののワープゲートが、小学校の人気無い男子トイレの中に繋がる。

昊菟こうとは、そのゲートの中に、歩を進めた。


疋乃ひつの

ありがとな、今度は、もっと早く声をかける」


「うん、また会おうね!」


そして、ゲートが閉じられる。


疋乃ひつのは、貼り付けていた笑顔をやめ、呟いた。


「怖いこと、するまえに……教えてね」


強がって、好きな男の子の隣に堂々と居たいから。

その声を聞いてもらうのは、昔の自分の部屋だけでいい。



かくして、誰とも繋がれないままの優しい男は、孤児院の中でも問題の隣にいつも居た。


「っせぇなこの野郎!

気持ちわりい!」


「知ってっぞ、おめえ、禍津って呼ばれてたんだろ!

めっちゃ悪運ありそうじゃん!

ほら、ゴミやるよ、エンガチョ、エンガチョ!

ぎゃはは!」


ぽけっとした顔で殴られ、ガムやらかけられた糞尿の匂いのする水やらでぐちゃぐちゃになった洋服を着たまま。

何の感情も動いてなさそうなぽかんと顔をしていた。


「すみません、ちょっとこのままだと部屋に上がれない状態なんで、手伝ってくださーい」


「ああまた、昊菟こうと君、もうちょっと騒いでくれてもいいのに……!

あの子たちも最近になって、どうしたのかしら」


職員がばたばたと慣れた手付きでその汚れの始末をする。

春風が吹く中、昊菟こうとは適当なシーツをとりあえず被って、孤児院の縁側に座っていた。


「……先生、あいつら、これが初犯じゃないんですよ。

俺の前に来たヤツ、まだ名前覚えてないですけど、彼がいじめられてたんす。

今いじめてる側だけど、ほらこれ写真」


そう言って写真を手に取ると、職員は頭を抱えた。


「……なんか手伝えることあります?」


「あぁ……もう! 昊菟こうと君! 良いから!

ひとまずあなたはゆっくりしていていいのよ……?」


「そうはいっても先生、これが一番俺にとっても良いんです。

こうしてるのが、落ち着くんです。

先生みたいに、他人を思って、安月給でも働いてくれるような人の力になりたいんです」


「……まったく、可愛げない!

可愛げないよ昊菟こうとくん。

でも、うん、たしかに、あなたが来てくれてほんとに助かってるわ。

皆よく笑うようになった。

親を亡くして、皆誰も信じられない子たちばかりなの。

どこか心に歪んだ部分があったって、おかしいことじゃない。

それはそうあるべきよ、昊菟こうとくん。

あなたも、辛かったら、我慢しなくていいの」


「……辛い、かあ……」


春の温かい陽気が運ぶ、ふわふわとした雲が、昊菟こうとの顔に影を下ろす。

初めて人を殺したあの一日を思い返し、昊菟こうとは目を閉じて、これまでの事を振り返る。


今まで何度も振り返ってきた。

人を殺した事。

父さん、母さん、兄貴、先生、オウリ、鶴田と、あの街に住まう人々。

あらゆる人の切なる願いと思いを終わらせたあの日々の事。


時間が経てば後悔することもあるかもしれない。

そう竦んでいた当時とは打って変わって。

昊菟こうとの心は、微動だにしていなかった。


あらゆる障壁を壊し、自らの想いのままにうごいた。

三ヶ月間毎日やられた人格否定よりもそれは楽しくて。

痛くて、辛くて、罪の重さで不安定な心がぐらついた。

吐き気がするほど不安で、心細くて。

空っぽになりそうな心を抱えて、身体の芯からぐちゃぐちゃな気分。


でも、最後にあの二人の少女の楽しそうな笑顔を思いだす。


最終的に、その顔に現れた気持ちは、笑顔だった。


「安心してください。

我慢なんて、してませんよ。

きっと先生も、そのうち我慢なさいって、言うようになるかもしれないですよ。

俺、あの人達からはそりゃもう毎日怒られてましたからね」


「そうなの? こんなにいい子なのに。

ここに来る子は皆引っ込み思案か大暴れするから……。


あら! あらあら上郷かみさとさんじゃない!

よくいらっしゃいました~!」


洗濯物を中断して、職員は夫婦と娘の三人家族に駆け寄る。

昊菟こうとは、その背中を見送ると、洗濯物を代わりに干し始めた。


干している洗濯物に、大人の影が落ちる。


その夫婦は小学生低学年くらいの女の子を連れているが、年齢が子供から逆算するには、それなり高そうな印象だった。

夫婦は、その歳で子供を産んだ事で、子供が産めない身体になってしまていて、引き取れる子を探して、何度か足を運んでいた。

その穏やかな目は、昊菟こうとを見つめていた。


穹羽くば昊菟こうと君。

きみ、うちの子になる気はないかな」


優しい声色に乗せ、温かい春風が吹く。

その穏やかな顔を、探るように、まっすぐと見つめる少年。

瞬きの後、伏し目がちになり、これまで自分が行った悪逆の限りが脳裏をよぎっていく。


「……。

ほんの少し、待ってもらえますか?」


「いいよ、なんなら、また明日でも」


昊菟こうとは、その両親に手を引かれた女の子の前に行き、しゃがんで目線を合わせた。


「名前を教えてくれるか?」


巫佳みか


「はじめまして、俺は穹羽くば昊菟こうと

俺が、キミの兄貴になるかもしれないんだってさ」


「うん。

お父さんとお父さんから聞いた」


「どう思う?

俺たち、初めて会うけど、嫌じゃないか?」


巫佳みかは首を横に振った。


「お兄ちゃんがいい。


あたしね、お父さんとお母さんが聞いたら、孤児院の子どもたちはすぐにお家に来るって思ってたの。

でも、お兄ちゃんは、私に聞いてくれた。

だから、お兄ちゃんでいいの。

それに、お兄ちゃんは、かっこいい顔してる!」


ちょっとの沈黙の後、両親と先生は笑いを堪えて震えていた。


「なるほど、こりゃあ大物だわ……」


思わず苦笑して、頭をぽんぽんと撫でてあげる。


立ち上がり、その両親をまっすぐ見据えた。


「家族になるなら、礼儀は要らない。

それで、いいかな」


「もちろんだとも。

お礼も、お辞儀も、僕らの間には必要ない。

でも、今は中間地点だよね。

このくらいの礼儀から、初めてみるのはどうかな?」


差し出される、しわの多い手。

昊菟こうとは、にっと、笑ってみせた。


「いいね、父さん」


その手を、掴む。


未だ誰とも繋がれなかった少年が、手を繋ぎ、妹に抱きつかれながら体当たりを食らう。

その心は、血と罪に染まっているが。

それでも彼は、心の底から笑えていた。


「――今日からキミは、上郷かみさと昊菟こうとだ」


春の日差しが差し込む。

爽やかなサッカー少年は、まっすぐと、爽やかな笑顔で。


「おう!」


と、笑いかけてみせた。

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暗月の街 天鬼 創月 @amaki_sougetu

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