戸締り

空の国

本文

 目を覚ますと、薄暗い床を眺めていた。

 そのままカーペットに沿って視線を移動していくと、大窓を通して外の様子が目に入る。日はとっくに沈んでいるようで、辺りはすっかり暗くなっていた。

 点けっぱなしになったテレビは、繁華街のネオンサインのように、まるっきり意味のない光を明滅させている。どこか足元の方では、右から左へ、あるいは左から右へと、一定のリズムを繰り返しながら、扇風機の送風音が聞こえてきた。


 私の身体は、リビングのソファの上にうつ伏せになって転がっていた。鳩尾に汗が染み込み、下に敷いてあるクッションを湿らせている。肘掛を枕にしていたから、首の右側面に不快な痛みが溜まっていた。


 どうやら相当長く眠ってしまったようだ。手元のスマホを見ると、ホーム画面には、「22:22」と表示されていた。その下の通知センターには、友人からの不在着信一件と、母親からのLINEが一件。パスワードを入力して内容を見てみると、「今日は帰れそうにないので、夕飯は自分で準備してください」と書いてあった。


 私は深くため息をつくと、勢いよく身体を起こし、ソファから立ち上がった。今から自分で夕飯の準備をするのは面倒で気が進まないので、外で適当に済ましてしまおうと思った。


 私は、テレビと扇風機を消して、開けっぱなしになっていた大窓を閉めた。眠っている間に雨が降っていたみたいで、近くの床が少し濡れていた。


 気がつくと、あたりはしんと静まり返っていた。不意に訪れた静寂に、私は仄暗い闇の中で立ちすくんだ。テレビの光が消え、扇風機のリズムも消失し、窓の外から聞こえていた風の音も、今はどこか遠くの方で鳴っているように思える。さっきまで気にも留めなかった時計の音が、時を刻むたびに私の胸の中を侵食していくような気がした。


 私は静寂を破るようにセコムの施錠確認システムを起動した。白いパネルの上に指を触れると、


「点滅しているところを、調べてください」


 という機械的なアナウンスが流れるとともに、複数のランプが点滅した。


 この機器は、窓や玄関ドアの施錠の状態をひと目で確認できる優れもので、どこか施錠されていない箇所があると、該当箇所に対応する番号のランプが点滅するようになっていた。


 この家の場合、一番ランプが玄関ドア、二番ランプがリビングの窓、三番ランプが風呂、トイレ、洗面所の窓、四番ランプが二階全域に対応していた。今回は、二番と四番のランプが点滅していた。


 手始めに、私は今いるリビングを見回した。庭に繋がる小窓が少しだけ開いていたので、それをしっかりと施錠した。


「点滅しているところを、調べてください」


 再度セコムで確認すると、二番ランプは消えていた。次は四番ランプを消しにかかる。


 私は大きくため息をつくと、廊下を通って二階の階段へと向かった。階段の前に出ると、やにわにぱっと明かりが点いて、二階へと続く道を照らした。階段を上ると、とん、とん、とん、と軽い音が、家の中の空洞を伝って聞こえてきた。


 二階は薄暗く、廊下の奥に光が通っていなかった。廊下のフローリングは、足の裏にくっ付きやすい材質を使っているようで、歩くたびに、ひた、ひた、ひたという音がする。


 手前にある両親の寝室は、特に異常は無さそうだった。自室を覗くと、カーテンの隙間から半開きになった窓が見えた。私は、自室の窓を閉めて、とっとと一階へと向かおうとした。


 そこで足が止まる。そういえば、廊下の突き当たりにある窓の確認がまだだった。あそこの戸締りは、普段目立たないから、往々にして忘れてしまうポイントなのだ。窓は、背伸びをしてちょうど届くくらいの高さにある小さな片引き窓だった。案の定開いていたので、私は手を伸ばして閉めようとした。


 そのとき、背後で階段の自動照明が消えた。あたりは再び闇に包まれる。二階の廊下は光が通りにくい分、一階にも増して暗かった。私は誰かいるわけでもないのに、この暗がりでひどく無防備な背中を晒していることに言いようのない不安感を覚えていた。


 窓を閉め終えた私は、直ちに一階へと引き返した。落ちるように階段を駆け下りると、背後で再び自動照明が点いた。


 ようやく家から出る準備ができたと、私は胸を撫で下ろしていた。リビングに戻ってすぐさまセコムの施錠確認システムに飛びついた。白いパネルの上で指を滑らせ、システムに最終確認を要請する。


 本来ならば、彼(もしくは彼女)は、「留守はセコムにお任せください」と言って、快く門出を祝ってくれるはずだった。しかし、白く冷徹な機械が示した反応は、期待を大きく裏切るものだった。


「点滅しているところを、調べてください」


 アナウンスは、まるで私が元々二階になど行っていなかったかのように、いつもの文言を繰り返した。見ると、四番ランプが依然として点滅したままだった。二階の戸締りはまだ完了していなかったのである。


 私はそれを見て思わず舌打ちをしそうになった。全ての窓を見て回ったはずなのだが、いったいどこに不備があったというのだろう。全く心当たりはなかったが、絶対に全ての窓の施錠を完了させたと言い切れる自信もなかった。


 私は渋々二階へと向かった。階段の自動照明は、こちらの気も知らず健気に明かりを灯してくれる。


 ――とん、とん、とん。


 私は、自動照明に照らされながら、階段を一段一段上っていった。 二階の様子は、さっきよりも暗く陰鬱な感じがした。よく目を凝らしてみると、廊下突き当たりの、背伸びをしてちょうど届くくらいの高さにある小さな片引き窓が開いていた。


 なぜ開いているのだろう、と私は不思議に思った。私の記憶が正しければ、その窓はつい先ほど閉めたばかりだというのに。しかし事実としてそれは開いていた。

 

 ――ひた、ひた、ひた。


 私は恐る恐る窓に近づいていた。


 もしもあの窓が、私以外の誰かによって開けられていたとしたら――。 


 突拍子もないことを考えた。馬鹿馬鹿しい。さっきはあまりに緊張したものだったから、窓をきちんと閉めていなかっただけだろう。


 ――ひた、ひた、ひた。


 でも、もしも本当にあの窓が、私以外の誰かによって開けられていたとしたら――。


 一体何の為に開けられたのだろうか。まさか、あの窓を通して、家に泥棒でも入ったのではないか。しかし、人が出入りするには、あの窓は小さすぎる。そもそも、私が一階に行って戻ってくるまでの間において、家の外からあの窓を開閉するのは不可能だったはずだ。ほんの数分前、私はあの窓のクレセント錠をしっかり閉めてしまったのだから。 私はそこで、もう一つの可能性に思い至る。


 もしもあの窓が、家の中から開けられていたのだとしたら――。


 いいや、あり得ない。そんな事あり得るはずがない。私はそれ以上窓について考えることを禁じた。何がそんなに怖いのだ。ただ窓を閉めたと思ったら開いていただけのことではないか。


 私は努めて平静を装いながら、突き当たりの窓に手をかけた。背伸びをすると、私の膝ががくがくと震えていることに気づいた。 


 暗転――。またしても暗闇だった。ピンと張った爪先から背筋にかけて、羽虫のような悪寒が這い上がってくる。手汗で滑ってクレセント錠がうまく回らなかった。二、三回手を引っ掛けて、やっとの思いで窓を閉め終える。 もう二階には戻らない。そう固く決意した瞬間、背後で階段の自動照明が点いた。私はすぐさま振り返る。


 ――とん、とん、とん。


 階段の方から、規則正しい音が聞こえてきた。家の中の空洞を伝って響く、あの軽い音だった。


 ――とん、とん、とん。


 誰かくる。そう思った時には、私は無我夢中で自室へと突進していた。 


 ――とん、とん、とん。


 自室へと転がり込むと、カーテンを払い除けて、窓のクレセント錠に手を掛ける。


 ――とん、とん、とん。


 早く逃げなければ。でも、窓が、窓がうまく開かない。


 ――とん、とん、とん。


 恐怖で手に力が入らなかった。錠の金具が手汗でべっとりと濡れている。


 ――ひた、ひた、ひた。


 こっちにくる! 身体中からどっと汗が溢れ出した。


 ――ひた、ひた、ひた。


 私は窓の施錠を解いた。両手で窓ガラスにへばりつき、猛烈な勢いで押し除ける。目の前からガラスの隔たりが消え失せた。


 ――ひた、ひた。――ひた。


 ようやく出られる!


 その瞬間、背後の足音がぴたっと止まった。さっきまで部屋に差し込んでいた自動照明の光が、何者かに遮られた。いま、足音の主は、私の部屋の前にいる。そして、私を見ている。私は気配からそれを感じ取った。襲いかかってくるわけでもなく、話しかけてくるわけでもない。私の姿形を、息遣いを、恐怖を、ただ黙ってじっと見ている。


 私は半狂乱になりながら窓枠の上によじ登った。あまりに必死に飛びつくものだから、窓ガラスががたがた揺れた。私はやっとの思いで窓枠の上に両足を乗せると、そのまま隣家の庭へと飛び降りた。


 着地した時に足を捻挫したが、構わず走った。近くのコンビニに駆け込み、親から帰りの連絡が来るまで立ち読みをして過ごした。誰も私を追ってなど来なかった。とても長い夜だった。


 あの日、家には私の他に誰もいなかった――。それが周囲の大人の出した結論だった。家のものは何一つ盗られていなかったし、何より、私が実際に誰かを目撃したわけではなかったことが、話の信憑性を失わせた。結局あの日の出来事は、単なる私の思い違いとして片付けられてしまった。


 私は今でも、例の突き当たりの窓を見るたびに、あの時のことを考えてしまう。


 もしもあの窓が、家の中から開けられていたのだとしたら――。


 窓を開けた人間は、二階のどこかに潜んでいたはずだ。では、階段を上ってきたのは誰だったのだろう。二階に潜んでいた人間とは別に、一階にも誰かがいたということだろうか――。


 全く、戸締りをしている最中だというのに、嫌なことを思い出してしまった。私は自分の臆病さ加減に心の中で苦笑した。こうしてあの日のことについて考えれば考えるほど、話の辻褄が合わなくなってくる。きっとそれは、周りから散々言われたように、窓を開けた人間も、階段の足音も、私の恐怖心が生んだ妄想にすぎなかったからなのだろう。


 私は全ての窓を閉め終えたので、最終確認をするために、セコムの施錠確認システムのもとへと向かった。


 ――もう二度と、あんな不可解なことは起こるまい。私は、白いパネルの上で指を滑らせた。セコムはいつもと全く変わらない調子でアナウンスした。


「点滅しているところを、調べてください」


 そう言うと、セコムは全てのランプを点滅させた。

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