雨とスポンジ
高巻 渦
雨とスポンジ
一週間降り続いた雨はようやく止み、からりと晴れた。持ち物はバッグだけで、傘は要らない。両手のふさがっていない登校が、やけに久しぶりに思えた。
水溜まりが輝く道を歩いていく途中の路地で、すみっこにしゃがんで何かをしている白い服の少年が目に留まった。顔を上げた少年と目が合う。
「なんか用? おねえさん」
「うん。なにしてんのかなと思って」
少年の右手には、キッチンでよく見かけるような黄色と緑のスポンジ。傍らには、これもよく見かける青いバケツ。
「ぼくは天使なんだ」
握りつぶしたスポンジを水溜まりに浸けながら、少年は確かにそう言った。
「へぇ、その天使君がどうして下界にいるのかな?」
わたしの問いに、少年は水溜まりに目を落としたまま答えた。
「天界にもいろいろ役割があってね。ぼくはそこの、天気を管理する部署に配属されてんの」
部署、配属――。年端もいかない少年の口から出たとは思えない言葉に、わたしは思わず吹き出してしまった。
「なに笑ってんの」
「ごめん。それで、水溜まりの水をスポンジで吸い取ってるのはなんで?」
「神様が、天界もこれからはエコの時代だ、って言い出してね。降らせた雨を少しでも持ち帰って、それを次の雨に使い回そうってことになったんだ。下っ端のぼくが下界に降りて、今それをやってる」
地面のくぼみに溜まった泥水が、少年の持つスポンジに少しずつ吸収されていく。たっぷりと水分を吸ったスポンジをバケツの上に持っていき、再度握りつぶすと、茶褐色の液体がバケツの中に消えた。
「このバケツがいっぱいになるまで帰ってくるな、ってさ」
「げー、天界って結構ブラックなんだね。一週間も雨が続いた翌日に君を下界に派遣するなんてひどくない? そこらじゅう水溜まりだらけじゃん」
「天気のスケジュールは全部決まってるんだ。今日は晴天、明日は曇り、明後日は雨、っていう風にね。だからぼくにとっては、よく言うゲリラ豪雨ってやつもゲリラじゃない」
「そうなの!? じゃあ君の派遣も決まってたことなんだ……ねえ、わたしも一緒に手伝ってあげようか?」
「別にいいけど。おねえさん制服じゃん、学校は?」
「こんなに良い天気なのに、教室で勉強なんてやってられなくない? サボっちゃお!」
そう言うと少年はジトっとした目でわたしを見た。
「いつか天罰が下るよ」
「君のコネでどうにかしてよ、それよりそこの水溜まりもうカラカラでしょ、次行こ!」
わたしと少年は、街じゅうの水溜まりを干上がらせていった。退屈な作業だったが、少年との会話は楽しかった。
「さっき天罰とか言ってたけどさ、天気を管理してるなら、雷とかも落としたりできるの? ひとさし指を天に掲げて破ァー! みたいな」
「ぼくはまだ未熟だから道具を使わなきゃ落とせないし、落とす権利もないよ。もっと偉い人の特権さ。それにさっきも言ったけど、天気のスケジュールは決まってる。むやみやたらに天気を変えたら厳しく罰せられるんだ」
「天国のくせに厳しいなあ……。じゃあさ、明日以降の天気のスケジュール教えてよ、それくらいなら越権行為にならないでしょ?」
「向こう三週間はずーっと晴れだよ。ぼくも下界に降りずに済むし、おねえさんも嬉しいんじゃないの」
「わ、それは嬉しい! でも、雨が降らないと君にまた会えなくなっちゃうね」
会話の最中も決して手は止めず、少年は淡々と人が歩ける場所を増やしていく。気づけば時刻はお昼を過ぎていた。
「ね、ねえ……ちょっと疲れない?」
「全然平気。次は公園に行くから、おねえさんはベンチで休んでれば?」
「い、いやわたしも疲れてないよ、聞いてみただけだし! ところでそのバケツ、まだいっぱいにならないの? もう結構溜まったはずだと思うけど」
「このバケツは天界仕様なんだ。ちょっとやそっとじゃいっぱいにならない。今やっと半分くらい」
「拷問じゃん。地獄の方がマシなんじゃ……」
「地獄はもっと厳しいよ。毎日針の山の針を一本一本削ったり。血の池の血を取り替えたり、ぼくのやってることの方が全然マシ」
「はぁ、天国も地獄もご多忙なのね……」
「ここからは急ぎ足でいくよ。ぼくらが吸い取る前に水溜まりが干上がったら困るからね」
「やっぱり学校行っときゃよかったかな……」
太陽が傾いて街をオレンジに彩った頃、作業はようやくひと段落ついた。街を大きく一周し、わたしたちは出会った場所まで戻ってきた。午前中にわたしたちが空っぽにした歩道のくぼみを、家路を急ぐ学生たちが歩いていく。
「これくらいで大丈夫かな。ありがとね、おねえさん」
表面張力が働くくらい、いっぱいの泥水が入ったバケツを持った少年が言った。棒になった脚をさすり、わたしは強がりながら答える。
「ううん、ちょうどダイエット中だったから良い運動になったよ。こっちこそありがとう。それ、こぼれないの?」
「天界仕様だから」
「都合良いな天界仕様。今度来るときはスポンジも天界仕様にしてもらいなよ。ルンバみたいに勝手に水吸い取ってくれるやつ」
「打診してみるよ」
そんな言葉を交えながら、そういえばわたしの学校ももう終わってる頃だな。と考えをよぎらせた時だった。
「あれ、お前こんなとこで何してんだよ」
わたしは、しまった、と思った。
「おねえさん、このひと誰?」
わたしの隣で少年が尋ねる。
「う、うん、わたしの彼氏」
「ふーん、そうなんだ」
なんとかその場を誤魔化す言葉を探して試行錯誤しているうちに、彼が問いかけてくる。
「お前なんで今日学校休んだの? なのに制服だし、わけわかんね」
何か言わないと。
「じ、実は親戚の子が遊びに来てて、学校は行くつもりだったんだけど、今日でこの子帰っちゃうらしいから、一日くらいは遊んであげようと思って」
言いながら少年の方に目をやると、やっぱりジトっとした目でこっちを見ている。でもこの嘘は貫き通さなければ。
「で、今からこの子帰るから、空港まで送ってくとこなの!」
彼はわたしと少年の顔を交互に見て、言った。
「なるほどね……おいガキ、俺の彼女一日連れ回して楽しかったか?」
少年は黙って彼氏を見据えている。
「無愛想なガキ……。じゃあな、明日は学校来いよ」
なんとか納得した彼はその場を立ち去った。なんとなく気まずい空気が流れる中、少年がわたしに尋ねる。
「おねえさん、あの人のこと好きなの?」
「う、うん。結構好きかな……」
「おねえさんにはあの人、似合わないと思うけどな」
「なにマセたこと言ってんの。そういえば君はどうやって帰るの?」
「おねえさんが空港まで送ってくれるんでしょ?」
「え、マジ?」
「一度人間が空を飛ぶ場所で、飛んでみたかったんだよね」
嘘から出た真とはこのことか。わたしは足の痛みに耐えながら、空港へ向かって歩き出す。
「すっごい今更な質問してもいい? 君、本当に天使なの? 実はまだ疑ってる。三割くらい」
「もうすぐわかるよ」
空港に到着すると、既に辺りは暗くなっていた。当たり前だが滑走路に足を踏み入れたわけじゃない。わたしたちがいるのは空港の隣の空き地。それでも飛行機を間近で見て、少年は少し嬉しそうだった。
「飛行機を横から初めて見た、上からしか見たことなかったから。こうなってるんだね」
「天使ならではの興味の示し方だ……」
「改めてありがとう、おねえさん。ぼくのワガママに付き合ってもらっちゃってさ」
「わたしもワガママで君のお仕事に付き合ってたわけだし――あっそうだ。記念にこれあげるよ」
わたしはバッグの中から一本のペンを出して、少年の手に握らせた。
「なにこれ。ボールペンなら天界にもあるけど」
「あるの!? でもこれは天界のペンより良いものだよ、いわゆる下界仕様」
ふーんと言いながら、少年はおもむろにボールペンの尻をノックした。
「いたっ!?」
「アハハ、引っかかった! ノックするとビリビリするペンでしたー!」
涙目の少年がわたしを睨む。
「ぼくが偉くなったらおねえさんに雷を落とそう、今決めた」
「その調子で出世欲に燃えたまえ」
「ムカつく。でも、もらっとく」
少年がそう口にした瞬間だった。
上空でわたしたちを照らしている月と共鳴するかのように、少年の身体が青白く光り、背中から二つの、純白の翼が生えた。それは闇夜には眩しすぎるほど輝いて見えた。
「マジで天使じゃん……」
「そんじゃね、おねえさん」
少年はあっという間に上空へと飛び立ち、すぐに見えなくなった。驚きと、足の疲れも相まって、わたしはしばらくそこから動けなかった。
わたしの生活は普段通りの日常へ回帰した。少年との一件から二日は足の筋肉痛に苦しめられたけど、これまでと同じ。毎朝学校へ行って、勉強をして、帰る。
もうしばらくは普通で良い、普通が良い。そう思ってたのに。
わたしが天使と出会った日から一週間が経った日、彼氏が知らない女と手を繋いで歩いているのを見た。お互い楽しそうに、照れくさそうに。
翌日、学校で呼び出した彼に、そのことを話した。
「見たよ、女と手繋いで歩いてるの」
謝罪の言葉よりも先に、彼の舌打ちが返ってきた。
「じゃあ言わせてもらうわ。お前と一緒にいてもつまんねーんだよ」
開き直った彼氏が吐き捨てた言葉は、綺麗なスポンジを汚していく泥水のように、わたしの中に吸い込まれていった。背を向けて去っていく彼を見て、悲しみと怒りをかき混ぜたような感情がみるみる膨れ上がり、息が詰まった。
ポツ、と頰に冷たいものが落ちた。
天から降ってきたそれは、数拍の間を置いて、まさにバケツをひっくり返したようなどしゃ降りになった。
『ゲリラ豪雨も、ぼくらにとってはゲリラじゃない』
『向こう三週間はずーっと晴れだよ』
少年の言葉が、雨音に乗ってわたしの耳に戻ってくる。
この雨はあの少年が、わたしのために降らせてくれた雨だ。灰色の雲に覆われた空を見上げて、泣き出したいような、笑い出したいような気持ちになった。
すると突然、何かが炸裂したような爆音。真っ暗な部屋で突然明かりを点けられたみたいに、視界がホワイトアウトした。
あ、雷が落ちたんだ。
二十メートル程先に倒れている元彼氏の姿が眼前に映し出されたとき、わたしはようやく理解した。
それと同時に遥か天空からわたしの足元に落ちてきた棒状の物体。わたしがあげたビリビリのボールペンだ。
『ぼくはまだ未熟だから道具を使わなきゃ』
制止しようとする他の天使たちを振り切り、ボールペンを使って雷を落とす少年の姿が頭に浮かんだ。
「こんなんで落とせるんだ。でもやりすぎだよ、君の立場が心配」
わたしは天に向けて呟いてから、救急車を呼んだ。かけつけた救急隊員は元彼氏を担架に乗せながら、この距離で落雷を受けたのならあなたも大怪我をしていたはずだ、と不思議そうな顔で言った。
一人の天使のおかげで、わたしの失恋は雨と一緒に流れて消えた。
それから一ヶ月が経った。わたしはワクワクしながら家を出た。なぜなら、今日は五日ぶりの晴天だから。
またあの少年に会える。お礼が言える。
初めて会った路地のすみっこに、泥水をスポンジで吸い取る白づくめの少年の後ろ姿があった。
「久しぶり」
わたしから声をかけた。振り返ったその天使は、あの少年ではなかった。
「え? どちら様ですか?」
驚いている天使と、もっと驚いているわたし。
「あの子は? 君よりも髪が長めで、ちょっと伏目がちな、あの子は?」
「ああ、あいつ……この間スケジュール無視して雨降らせて、勝手に雷まで落としたんで神様が怒って、左遷されたんですよ」
あいつがあんなことしなければ、俺が下界に行くハメにならずに済んだのに。
そう呟いた天使に向かって、わたしは尋ねる。
「さ、左遷って……どこに……」
自分でも声が震えてるのがわかる。答えなんて聞かなくてもわかってるのに。
「決まってるじゃないですか、天界から左遷されるとこって言ったら、地――」
「ごめん、もう言わないで……急に話しかけてごめんね。それじゃあね」
一刻も早くその場を立ち去りたかった。悲しくてしょうがなかった。わたしのために、まだお礼も言えてないのに。
スポンジをぎゅっと握りつぶすように目を固く閉じると、涙が出た。バケツをひっくり返したように、涙がとめどなく溢れた。
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