麋夫人の死

胡姫

麋夫人の死

井戸の中から空が見えた。


わたしの可愛い阿斗は、あの男の腕の中にあった。


「戦場いくさばですから。夫人より私が抱いた方が安全です。」


そんなものかと思ったのが間違いだった。阿斗を人質にとられたらわたしは為すすべがない。あの男――趙雲ちょううんは、いつもと変わらぬ笑顔を見せてわたしにこう言った。


「あきらめて死んでくださいね。美談になりますから。」


平素と変わらぬ声音だった。体が宙に浮いた。全く油断していた。井戸に突き落とされたのだとすぐには気づかなかった。悲鳴を上げる間もなかった。


「子龍――」


わたしは落ちた。奈落へ、虚無へ、…死へ向かって。




わたしたちは樊城はんじょうから江陵へと逃げる途中だった。長坂ちょうはんで曹操に追いつかれたわたしたちは劉備殿と離れてしまい、趙雲とともに戦場をさまよっていた。わたしは左腿に深傷を負っていた。足手まといになっているのは承知の上だった。しかし。


――だからといって井戸に突き落とされるとは思わなかった。


分かっている。わたしが甘かったのだろう。趙雲が、劉備殿の寵愛を受けるわたしを憎んでいることを知っていたのに。


「足手まといを恐れて自ら死を選ぶとは、さすがは劉備殿の奥方様。美談として後世まで語り継がれましょう。」


お前が突き落としておいて何を言っている。聞きたくない。わたしは趙雲ではなく阿斗の声を探したが赤子の泣き声は聞こえなかった。熟睡しているのだろうか。戦場の喧騒けんそうの中だというのに肝が据わっている。こういうしぶとい子は長生きする。殿のお子を何人も失って来たわたしには分かる。


阿斗はわたしが産んだ子ではない。わたしの子は一人も育たなかった。阿斗は甘夫人と呼ばれている、梅めいの産んだ子だ。梅めいは親友だから、梅めいの子はわたしの子と同じだ。


――阿斗が生き延びてくれたらいい。


涙が頬を伝った。女の涙は男の忌み嫌うものと知っていたから、過酷な状況でも泣いたことがなかった。劉備殿の美談のためにわたしは死ぬのだ。死を前にして流す涙は塩の味がした。


落ちるときに見た趙雲の顔は、今まで見た中で一番晴れやかな笑顔だった。もともと見目の良い、人当たりの良い好背年である。さわやかな笑顔には何の邪気もないように見えた。


――嘘だ。


趙雲がわたしの夫に、尋常ならざる想いを抱いていることをわたしは知っていた。そしてその想いが決して叶わぬことも。趙雲がわたしの夫を見つめる切なげな目を、射るような眼差しを、時折衝動的に見せる舐めるような視線を、わたしはすべて見ていた。彼がわたしの夫のからだに触れる時のどぎまぎした様子を鷹揚に眺め、優越感に浸っていた。その人はわたしのものなのだ。


劉備殿を見る趙雲の目は明らかに性的なものが含まれていたが、劉備殿はまるで気づいていなかった。自分がこの青年の頭の中でどんな格好をさせられ、どのような目に遭っているか。あの視姦するような目を見ればすぐに分かるのだが、劉備殿の前では趙雲は決してそんな目をしなかった。劉備殿はそういうことには鈍感だ。時に残酷なほど。夜毎犯されていることも知らず趙雲に全幅の信頼を置いている劉備殿は本当に甘い方だ。でもそこが可愛いくてたまらないのだ。


わたしは何も知らない顔で趙雲の庇護を受け、劉備殿に抱かれ、何度もお子を授かってきた。趙雲が触れたくても触れられずに渇えているものが、わたしには容易く手に入る。


とても気分がよかった。


趙雲が笑顔の下にどんな黒い想いを隠してわたしに接しているのか、わたしはよく知っていた。女の最大の武器は子を産めることだ。これだけは決して男に真似のできることではない。それだけでも、劉備殿の寵愛を受ける資格がわたしにはある。趙雲にはない。


――梅めいがこの場にいなくてよかった。


私は梅めいを思った。彼女は私たちとはぐれてしまった。もしいたら、梅めいも同じ運命をたどったかもしれない。はぐれたことは幸いだった。


虚空に手を伸ばすと湿った苔が指先に触れた。井戸は既に涸れており水がなかった。左腿から流れる血が止まらない。


不意に頭上が陰った。同時にわたしは衝撃と激しい痛みを感じた。上から石が降ってきたのだ。


背筋が凍った。あの男はここまでするのか。確実に死なせる気だ。


わたしがお前に何をした。ただ劉備殿の妻として寵愛を受けただけだ。そこにたどり着くまでは兄の竺じくに多大な手助けをしてもらったが、兄にとっても望む縁だったのだからよいのだろう。兄はわたしという楔くさびを劉備殿に打ち込むことで姻戚の絆を得たかった。劉備殿に惚れこみ、莫大な私財をなげうった兄は、切れない絆を得たかったのだ。でも本当に劉備殿と絆を持ちたかったのは弟の芳ほうではなかったかとわたしは推察していた。芳ほうは劉備殿の義兄弟を、特に関羽殿を嫌っていた。その理由は恐らく…。


「さようなら、麋夫人びふじん。」


趙雲の声がした。一点の曇りもない美声だった。


それが、この世で聞いた最後の声となった。わたしの意識は途切れた。




趙雲は阿斗を抱いて戦場を駈け戻った。静かなので眠っているのかと思っていたが、ふと見ると赤子の目は開いていた。


――見ていた?


趙雲はとっさに笑いかけた。阿斗も笑った。戦場の喧騒など聞こえていないように。この子にとって戦場はもはや日常なのかもしれないと趙雲は思った。阿斗はよい意味で鈍感だ。劉備に似ている。


「私がお守りしますから安心して下さい。」


独身の趙雲は実は子が苦手である。子になど関心を払ったことはなかった。しかし今手中に転がりこんできた赤子は劉備の子であった。趙雲は阿斗を愛そうと決めた。阿斗は、母を殺した趙雲を恩人と思って生きていくことになるのだ。


ようやく自分も切れない絆を得た、と趙雲は思った。とても気分がよかった。




           (了)

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