「あなた様?」


 伊代の声に意識が引き戻された。


「…………お前は、無事だったのだな」

「近隣の村を襲って必要なものが全て揃うわけではありません。足りない物は、女衆が離れた村に向かい、物々交換で調達していました。私はあなた様が島に来た時、その役目で数里離れた村におりました」


 なら、伊代は役目を終えて島に帰ってきた時、目にしたはずだ。

 島中に転がる親族たちの首、体、血溜まり。儂が直視しなかった惨状を。


「……一族の敵討ちか?」

「はい」

「そのために、儂に嫁いだのか」

「妻も、ご自身の命も失うとなれば、復讐にはなりましょう。なので、あなた様がまた鬼退治に行くなどと言い出した時には焦りました。その命がどこぞの争いの中で果ててしまっては島の頭領の娘として、一族の者に申し開きができません」


 儂が鬼退治に行くのに、反対したのは自身の手で復讐を果たすためだったらしい。

 しかし、本懐を遂げる機会がやってきたというのに、いつまでたっても刃が動く気配がない。


「抵抗しないのですか?」

「恨まれて当然のことをしたのだ。それに、お前に殺されるのなら本望だ」


 本心だった。償う方法など他に思いつかない。目を瞑って背中に刃が突き刺さるのを待っていると、いつのまにか刃の圧力が背中から離れていることに気がついた。伊代は刃物を下ろしたようだった。


「どうした? なぜ殺さん?」

「鬼を殺したいからです」


 儂のことを指して鬼といったのではないのか。親族の者を殺した人間を鬼といわずしてなんと言おう。


「一族を殺した悪鬼に復讐したくはないのか?」

「鬼とは何でしょうか?私や、あなた様のように験力や怪力をもつ者のことでしょうか?」


 そう、思っていた。験力とやらは知らぬが、異形の姿に持ち前の怪力で人を殺し、奪う、極悪非道の悪鬼羅刹だと。


「私は、鬼とは人を人と思わぬ物ノ怪の心を持つ者。つまり鬼ノ心を持つ者だと思います」

「鬼ノ心……」

「鬼ノ心とは人中に鬼を見出す心のことです。人から鬼と見做みなされた者はやがてその者自身も鬼ノ心を持ち、人の中に鬼を見出して、鬼ヶ島の者達の様に人を害するようになるのです」


 儂は人から鬼と見做されたことは、ない。


 童の頃から大人顔負けの怪力を見せる儂を気味悪がって、村の大人は父母を遠ざけ、村はずれに住む他なくなった。儂は村の人間でいるため、彼らに困ったことがあれば二つ返事で手伝った。

 そのおかげで、今も村で暮らしてゆけている。


 人を恨んだことは、ない。

 だが、伊代は違う。一族を皆殺しにされて、恨まずにいられるものか。


「なら、儂を恨んでいるだろう。なぜ殺さん?」


 聞くまでもないことだ。だが、問わずにはいられなかった。


「最初は復讐を考える心もほんの少しはありました。あなた様は父だけでなく、一族の女衆や罪のないというべき子供たちまでも手に掛けたのですから。

 ですが、あなた様に嫁いでから、恨みを抱えている暇などありませんでした。日の出より早く起きて畑に向かい、日が暮れるまで土を耕していましたから」


 伊代はまるで懐かしむように語る。もう、全て終わったことであるかのように。


「私が世を恨んだとすればあなた様が鬼退治に行く、と言い出した時が初めてです。ああ、この優しい人もとうとう鬼になってしまうのだ、と思いました」

「鬼になるとはどういう意味だ?」

「私は、あなた様が此度の退で人を殺めることに慣れてしまうことが恐ろしいのです」


 心の底では気づいていた。決して言葉通りの意味ではないと。

 大名の使者から「鬼どもが攻め込んでくるから助力を願いたい」と、請われたとき、自分の心に蓋をして、儂は気づかぬふりをした。これは、人助けなのだ。正しいことなのだ、と。


 殺める相手は人ではなく鬼なのだ、と。


 結局、それは田舎百姓への方便だったのだろう。いや、もしかすると、戦というもの自体が敵方を鬼と断じて為すものなのかもしれぬ。


「島で鬼を殺めた時でさえ苦しんだあなた様が戦で人を殺め、その結果敵方を鬼と断じるようになったとすれば、それは如何ほどの苦しみから為されるものでしょうか」


 先程から、ざざざざぁ、と遠く波の音が聞こえている。伊代の響くような声は波間からでもよく聞こえた。


「ですが、もっと恐ろしいことにも気づきました。最もあさましいのは、……おにの面影に人の名残を汲み取り、戦に向かうあなた様の後ろ姿には鬼を見出そうとするような私の手前勝手な心なのです。私もまたその髄から鬼なのだと、思い知りました」

「家族の情をもつことの何が勝手か」

 

 風に合わせて、波の音が大きくなる。しかし、よくよく聞くと、波の音だと思っていたものは木の騒めきであった。


「復讐を願う相手に刃を突きつけられれば心優しいあなた様でも、と思いましたが、それも叶いませんでした。であれば――」


 伊代が黙りこくった。


 悪寒が走り、その理由わけを考えぬままに手を伸ばした。先程まで腰に感じていた言い知れぬ圧力のする方向へ。

 掌に何かが当ったのを感じ、握り込むと、そこには冷たい刃の感触があった。その切先きっさきは儂ではなく伊代自身に向いている。命を絶つつもりだったのだ。

 より強く握りしめると、指から血が滴り掌を伝って、腕に流れてゆく。


「離してください!!」


 刃物から手を放さぬまま暴れた伊代が地面に倒れ込み、その上に儂が覆いかぶさるかたちになる。その拍子に、肘の先に溜まっていた血の雫が倒れ込んでいる伊代の上に滴った。

 察した伊代が、まるで自分が痛みを感じているかのような痛々しい声を発した。


「血が…」

「わはは。痛いものだな、傷を負うというのは。こんなかすり傷で騒いでいる百姓坊主が戦で手柄を立てるのは無理な話だ。お前が儂にいくさに行くなというのも道理だ」

「そう思うなら行かないでください」

「戦には行く」


 暗闇で何も見えない中、伊代が唇を引き結ぶのを感じた。


「どうしてですか……。私は鬼になったあなた様を見たくない。合戦から戻ってくる、武具が打ち倒した者の血に塗れたあなた様を見たくないのです」


 絞り出すような伊代の声を聞いて、島から戻ったばかりの頃を思い出した。


 父母は五体満足で帰ってきた儂を見て、涙してくれた。


 だが、人を殺めながらも、そのことから目を背け続けていた儂の心は、あの夜からずっと鬼ヶ島に取り残されたままだった。


 ふとした時に寄せては返す波音が蘇えり、震えが止まらなくなった。夜になればあの日の夢を見て飛び起きた。

 手からは頸を切り落とした時の感触が抜けず、いくら顔を洗っても返り血の生臭い臭気が消えない気がした。


 そうやって、儂が罪悪感と心に纏わりついた返り血に塗りつぶされそうになっているときに、伊代の声は儂を少しづつ現実へ引き戻してくれた。


 朝、伊代が作ってくれる味噌汁の匂いで目が覚めるようになった。

 野良仕事に向かう時は、これまで目に留めることのなかった鮮やかな草花について二人で話すようになった。

 夜、その声を聴いているうちに、また眠りに落ちるようになった。


 儂の心に沁みついた血は、少しずつ、雨に洗い流されるように薄れていった。


 伊代は自身の手前勝手な心もまた鬼だと言った。しかし、鬼が人の中に見出すものであるなら、その手前勝手な心とは結局のところ人間の本性に他ならず、儂に寄り添ってくれていた心と元を辿れば同じではなかろうか。


 そうであるなら、その鬼のために、儂は救われたのだ。

 その鬼をこそ、儂は愛している。


「儂が戦わねば、この村も戦に巻き込まれるやもしれぬ」


 もし、大名の兵が負ければ敵方の軍勢はこの村を通かもしれぬのだ。そうなれば、この家と村が無事な保障はない。


「儂が鬼になるのは嫌か?」

「嫌です」

「では、こういうのはどうだ? 儂は戦で人を殺めぬ。そうすれば、お前のいう鬼にはなるまい。もし、儂が戦から帰ってきて、鬼になっていたらお前が儂を殺してくれ。その後は、お前が死ぬなり好きにすればいい」

「そんなこと……」


 伊代が言葉を詰まらせた。

 できるわけがない、という言葉を飲み込んだのだ。

 そうかもしれぬ。

 鬼ヶ島でも結局、人と切り合うことなどなかった。

 鋼の刃を通さぬ体といえど、それを幾百幾千と続けられればどうなるかは分からない。

 だから、努めて威勢よく、口に出した。


「なに、やりようはあるさ。儂は百姓だ。これまで作物を育てるために天地を相手にしてきたのだぞ。つまり、儂は天地と取っ組みあった仲なのだ。人なぞ死なない程度にぶん投げて縛り上げればよい! それで、無事生きて帰るくらい、お天道様も見逃してくれるであろう」


 刃物を握ったままの手を開き、その手を握ってそっと抱き寄せた。伊代が震える声で話す。


「…………無事に……帰ってきますか?」

「ああ。必ず帰ってくる。だから、儂が戻ってくるまでもう少しの間、夫婦でいてくれんか?」


 隠れていた月が現れ、辺りを青白く染めた。

 泣き腫らした目と頬を伝う雫に月光が反射し蛍石の様に光を帯びた。その雫の先、口元には穏やかな微笑みを湛えている。


「約束ですよ」



(了)

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このよに鬼の生るることを 栄三五 @Satona369

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