夕方五時のリズム

 おでこに当たる風で目が覚めた。

 周りの音が急に聞こえ出す。居眠りから急に目覚めたときの、音がどっと体の中に流れ込んでくる感触。

 でも放課後の教室は静かだった。顔を起こすとすぐ前の席に誰かいて、見ると裕介だった。私が起きたのに気づいて読んでいた文庫本から顔を上げる。

「あれ」

 前髪を直しながら、それを誤魔化すように聞いた。

「なんで残ってるの?」

「なんでって」

 本を閉じて裕介が言う。窓際の席で、窓を背にして横向きに座っていた。

「数Bのノート返してもらってないから」

「あ、そうだった」

 思い出して変に笑ってみせる。今日中にノート返す約束でしたね。今日中に数B終わらせないとなあって放課後の教室に残ったはずが、つい休憩を入れてしまった。放課後の校舎は不自然なくらいに静かだ。今日から試験期間で部活が休みだから。

「起こしてくれて良かったのに」

「四時まで待って起きなかったら起こすつもりだった」

 黒板の上の時計に目をやって裕介が言った。時計は三時半を過ぎていた。

「さすがにそこまで爆睡しないよ」

 照れ隠しに言い返したけど意味のない返答だったと思う。


 ノートを裕介に借りてばかりいる。いつ頼んでも宿題を忘れていなくて、中身も信頼できて、同じクラスだから同じタイミングで終わらせていて、何より遠慮なく聞ける相手。というのが一年の時には裕介か、池ちゃんこと池田美帆がいたけれど、二年で池ちゃんとクラスが離れてからは裕介しかいなくなった。

 それでこんなことになって本当にかわいそう。とふざけて言うと「本当だよ」彼も口をとがらす。

 たぶん、このクラスにだって頼めば他にもいるけど。というかそもそも宿題は自分でやるものだけど。「まあ丸写ししてるわけじゃないからいいよ」という裕介のお言葉に甘えている。


 教室が静か。ついあくびが出る。普段なら陸上部のアップが終わる頃だ。部活のない放課後の校舎は一時停止しているみたい。

「終わったの」

 痺れを切らしたように裕介が聞いた。

「あっ、そうだねごめん」

 出していたままのノートを慌てて閉じた。借りて待たせてあくびまでしているのは、さすがに申し訳なかったと思う。

「あとは自分でやるから、返すよ」

「終わってないならやりなよ」

 裕介は閉じた文庫本を再び開いて言った。

「え、でも」

「俺も別に急いでないし。放課後はいつもこんな感じだから」

 そう言うと、私が答える前に本を読む姿勢に戻ってしまった。彼は部活に入っていない。別にガリ勉ってわけじゃないけど、部活は強制ではないし、部活入ってない組でつるんだりして、マイペースにやっているのだ。


 おかげでしばらく集中した。ふうと一息ついて、見るといつの間にか裕介も机に向かっていた。

 人のいない教室って無駄に広い。ほんとうに誰もいない。裕介にとってはいつもの教室なんだろうか。

 誰もいないのに、目の前の背中のブレザーが近い。私の前の席で机に向かっているから、広い教室に前後で二人並んでてなんか変な構図だ。まあでも広い教室で隣り合って座ってるのも変か。

 集中力が切れてきた。

 

 後ろに目ある? ってくらいのタイミングで裕介がこちらを振り向く。とっさに集中しているふりもできず、目が合ってへへっと笑った。裕介はそんな私をとがめるでも呆れるでもなく、

「俺もリーディング終わらせる」

 と報告みたいな宣言みたいなことをぼそっと言ってまた向き直ってしまった。

「いつも教室で勉強してるのー?」

 集中力が切れたのがバレたので、背中に向かって喋りかけた。

「試験前は、まあ。あとは本読んだり。貸し借りしてる漫画読んだり」

 手を動かしながらの返事が返ってくる。

「あ、漫画私も貸してほしい」

「今は試験前だろ」

「そーでした」


 教室は静かでがらんと広い。シャーペンのカリカリという音がかすかに聞こえる。

「何時までやる?」

 数Bがほぼ(ほぼですけど)終わったので聞いた。

「ん、五時まで」

 手を動かす裕介の返事は、ほとんど無意識に言っているような声だ。

「チャイム鳴るし」

「チャイム鳴るっけ?」

 手を動かす裕介は「ん」と生返事をしたあと、ふと顔を上げ

「部活は五時のチャイム、関係ないもんな」

 と言った。チャイムって学校のじゃなくて、町内で流れるやつかとそこで思った。いつも部活は六時半くらいまであるから、五時のチャイムで帰るって久しくやってなかったと気づいた。

「いつも五時のチャイム聞こえると、帰るかーってなるんだよな」

「いいね」

 後ろの席からそう答えた。時計を見ると、五時まであと十五分くらい。いつもなら、部活に熱中してて時計とか全然見てない時間帯。その頃のいつもの裕介の夕方を想像した。夕方五時の彼のリズム。

「五時まであとちょっとだよ」

「お前が言うなよ」

 私が急かすと裕介は言い返す。

「五時のチャイムで帰ろー」

 何だかおかしくなって、背中に向かって言った。そんなふうに帰る放課後もいいかもしれない。

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短編集 芳岡 海 @miyamakanan

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