短編集
芳岡 海
50マイルの笑顔
「50 mlの道、はどう見てもおかしいだろ」
前の座席からノートを覗き込んで俺が言うと、エミコは「えっ?」と言ってシャーペンを走らせる手を止めた。
単語を辞書で翻訳するのに手いっぱいで、文章の意味を考えるところまで手が回っていないらしい。
リーディングの宿題忘れてた! と昼休み後半、空いていた俺の後ろの席にやってきてエミコはテキストとノートを開いた。「見せないよ」とこっちが言うと、「別に減るもんじゃないでしょ」と言う。そう言いながらもエミコは電子辞書もひらいているし、こちらも和訳を書いたノートのページをひらく。
何か聞かれたら答えるつもりで、一行目から翻訳を始めるエミコの手元を眺める。
数Ⅰか数Aか古文か漢文かライティングかリーディングの、要は主要科目の何かしらの宿題で、週に一回はエミコは俺の宿題を見に来る。
けれども決して丸写しはしない。あくまで自分の手を動かす。わからないところがあったときに、教科書やノートをめくるより人に聞いた方が早い。遠慮なく聞くことができる仲で、聞けば信頼に足る答えが返ってくる成績で、同じタイミングで宿題を終わらせている同じクラスで、しかも自分のように宿題を忘れることがない人間。という条件に当てはまるのが、エミコの友人たちの中では俺か、池田さんくらいなのだ。
池ちゃんは今日はバレー部の用事とかで忙しいんだよね~、だから他に選択肢がいなかったのよ。エミコは喋りながらも休まずシャーペンを走らせ電子辞書を叩く。器用だな。
たぶん負けず嫌いなんだと思う。だから丸写しは嫌なのだろう。「すいません忘れましたー」って言って済ませるのも嫌なのだろう。でも、もっと負けたくない陸上部の方が大事なんだろう。今日も朝練終わりのようで一時間目の日本史は寝てた。
エミコのシャーペンのカリカリという音が聞こえる。
休み時間の教室はうるさいけど、近くで見ているとそのかすかな音が何より響いて聞こえる。書き進められる和訳の文章を、向かいから覗いて逆さまに目で辿る。
エミコは集中し始めて、喋りが止まる。いつもこういう調子だ。ガッと集中してパッと終わらせて、あとはさっさと忘れてしまう。聞かなくても短距離走者だってわかりそうなやつだ。
その文章、と俺が口を挟んでエミコは手を止めた。
「いや、なんだよ。50 mlの道って」
「ありゃ、ほんとだ」
あっけらかんとエミコは笑う。
「え、でもミリリットルって読めたんだよね」
「マイルだよ。mlじゃなくてmiって書いてあるでしょ。mileのこと」
「ほお」
急に変な相づちが返ってきて笑ってしまう。
「飛行機乗ると貯まるやつか」
「そう、そのマイル」
「あのマイルね」
いやどのマイルだ。俺がノリつっこみしそうになった瞬間、
「50マイルの道ってことね」
喋りながらもずっとノートとテキストを睨んでいたエミコが、ふいにこっちを見て笑った。
陸上部にしては色白な、でも健康的で、表情がころころとよく変わる、エミコの笑った顔と目が合った。
なるほどね。a road of 50 milesってことか。エミコは満足そうにつぶやきながら、またすぐにノートに視線を戻した。50だけ日本語で言うから、「ア ロード オブ ごじゅう マイルズ」と言っている。細かいことは気にしない。
手元を覗き込んでいたせいで、顔をあげたエミコと思った以上に近いところで目が合った。パッと見開いたまぶたのふちで、かすかにまつげが震えるのまで見えた。エミコは全然気にしていなかった。
「終わった~! と、思う。どう? 他に変なとこない?」
ノートを一ページ埋めたエミコは、シャーペンを机に放り、両手を広げて伸びをして、それから急いでノートを持ち上げて俺の前に掲げて訊ねる。ほんとうにあわただしい人ですね。
「ないと思うよ。俺のも大体同じ」
「サンキュー」
軽快な返事でエミコはテキストとノートを閉じた。
昼休みが終わる直前の教室は、人が戻ってきてざわめきが大きくなっていた。あっ宿題あったんだ! と今さら言っている声も聞こえる。俺の後ろの席のやつも戻ってきて、気づいたエミコは、「あっごめんね。席借りてた」と屈託なく声をかけて立ち上がった。立ち上がると目線は遠くなった。
「あと明日の一時間目の数Aは大丈夫なの」
「あっ」
今度はびっくりと焦りの表情になったエミコが声をあげた。
「今度は見せない」
俺が言うと、そんなこと言わずに、とエミコは両手を合わせてみせる。目が合うと笑った顔がまた少し近く見えたけど、50マイルのときほどじゃなかった。
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