第5話
「桜井先輩って、笹原先生のことが好きなのかな?」
いつもの待ち合わせ場所で、新奈に質問を投げかける。恋愛ごとに聡い彼女なら、何か噂くらいは掴んでいるかもしれない。
「それはないと思うな。先生は桜井先輩のタイプじゃないし、逆もしかり。先生はああ見えて意外と硬派で、ぜんぜん靡いてくれないんだよね」
「新奈、先生にまでアプローチしてるの?」
「うちの学校で一番若いし、じっくり顔を見るとなかなかのイケメンだし、いっとかないと勿体ないじゃん? でもあの美術馬鹿、こんなに可愛い新奈が積極的になってるのに、全く相手にしてくれないんだよね。つまんない」
頬を膨らませて不満の意を表す。新奈は自分に興味のない男性が嫌いだった。
「あれこれ調べてるんだけど、桜井先輩の悪い話、全然聞かないんだよね。亜子はなにか分かったことはある?」
昨日の夕方に見た無表情が脳裏をかすめるが、あまりにも一瞬のこと過ぎて、だの光と影の錯覚でそう見えただけなのかもしれないとも思えてくる。
「全く。先輩は生徒会長なのに全然気取ってないし、話しやすくて良い人だよ」
「亜子までそんなこと言う? 何とかして桜井先輩の弱み握れないかなあ。……そう言えば亜子って、お姉さんいた?」
心臓が跳ねる。全身の血液が頭に上り、すっと足へと落ちていく。
「なんで?」
「昨日遊んだ子が、同級生に完璧な子がいたんだけど、二十歳のときに交通事故で亡くなったって言っててさ。その人の名前が森園璃子って言ってたから。森園亜子と森園璃子って名前の響きが似てたから」
「……そうだね、いたよ、お姉ちゃん。大分前に亡くなったけど」
「その人、二十六歳って言ってたけど、亜子とお姉さんって年が離れてたんだね」
「十歳離れてたよ」
「凄い美人だったって言ってたけど、写真とかないの?」
「……あるよ」
パスケースの中にしまい込んでいた写真を取り出す。大分色あせて、くたびれてきているものの、写真の中の私と姉の笑顔は変わらない。
「うわ、本当に綺麗な人だね。亜子と全然似てないじゃん!」
笑いながら言う新奈に、無理やり作った笑顔をかえす。きっと新奈に悪気はない。思ったままを言っただけだ。事実私は、姉に全く似ていない。
桜井先輩にも引けを取らないほど美人だった姉は、成績も優秀で運動もでき、音楽の才能もダンスの才能も、絵の才能もあった。
姉には、将来に無限の可能性があった。例えどの分野を選んだとしても、トップに立てるほどのカリスマ性があった。
しかし不慮の事故は姉を巻き込み、死は平等に訪れた。二十歳になったばかりだった姉は、飲酒運転の車にはねられて生涯を閉じた。
私はいつも、完璧な姉と比べられて叱られていた。いつか見返してやると幼心に思っていたのに、姉はあっさりとこの世からいなくなってしまった。
「お姉ちゃんは本物の天使になったのよ」
母は常々そう言っては、生前の姉がいかに素晴らしい存在だったのかを繰り返し話すだけの機械になった。
子供のころから天使のように可愛らしく、天使のように全能だったから、人間界に置いておくのがもったいなくなって、神様がこんなに早く連れて行ってしまったのだ。母は本気でそう思っているらしい。
天使なんて、この世には存在しない。神様だって、きっといない。少なくとも、私の見ている世界の中には、神も天使もいない。
陰鬱とした気持ちの中、胃の奥から酸っぱいものがこみ上げてくる。無意識に親指を噛んでいたらしく、爪の先がギザギザに尖っていた。
無性に美術室に行きたくて、あの絵の続きを描きたくて、遅々として進まない時計を睨みつける。
興味のない授業を右から左に聞き流し、ホームルームが終わった瞬間に教室を飛び出して美術室へと向かった。
ボンヤリとしか浮かんでいなかった絵の完成図が、今でははっきりと思い浮かぶ。まずは昨日仮置きした配色通りに色を置いて、その上から淡く色を付けていこう。
美術室の引き戸を開ければ、シンと静まり返った空間だけが横たわっていた。そう言えば先輩は、今日は生徒会があるから遅れると言っていたような気がする。
今は一人で描きたい気分だった。先輩が来るまでの間、思いっきり絵を描こう。
絵が保管されている棚から、自分の名前を探す。美術部員七名全員の名前が貼ってあるが、幽霊部員五名の棚は空っぽだった。
自分の棚に入っていた絵を掴み、指先にぬるりとした感触を感じ慌てて慌てて手を引っ込める。
親指に付着した黒いものしばし見て、人差し指の間でこすり合わせた。そのまま鼻の下にもっていき、クンクンと臭いをかぐ。いつも美術室に充満している、嗅ぎなれた臭い。
絵を引っ張り出せば、全面真っ黒な絵の具で塗りつぶされていた。
テラテラと光るそれはまだ乾いておらず、棚の側面にもベッタリと色がついていた。
私は素早く先輩の棚にあった道具入れを引っ張り出して開けると、まだ濡れたままの筆先に触れた。
絵を小脇に抱え、屋上へと続く階段を駆け上がる。黒の絵の具が制服を汚すのが分かるが、そんなことはどうでも良かった。
屋上の扉はいつも鍵がかかっているのだが、新奈が合鍵を作って隠しているのを知っていた。
スチール製の軽い扉を開け、外へと飛び出す。どこからか飛んできた雑草の種が、ひび割れたアスファルトの隙間でたくましく葉を伸ばしていた。
絵を床に放り投げ、美術室から持ってきたハサミで細かく切り刻んでいく。小さく切られた紙は風にさらわれ、屋上の上で踊り狂いながらどこかへと飛ばされていく。まだ絵具が乾ききっていないため、もしかしたら誰かの服や体を汚すかもしれない。
何故かそれがおかしく思えて、笑い出す。箸が転んでもおかしい年頃なのだから、仕方がない。
久方ぶりの快感が、全身を包み込む。新奈が堕ちたときよりも強い興奮に、ハサミの刃が指先の肉を裂いても気にならない。
完璧な人間なんて、どこにもいない。私は正しかったのだ。きっと人間は、天使にはなれない。
血まみれの指で、パスケースの中から写真を取り出すと、ちぎっていく。姉妹の間に亀裂が入り、姉の顔が半分になる。私の頭がなくなり、顔がなくなっていく。血にまみれ、ぐちゃぐちゃに汚れた写真を空へと撒く。
どこまでも続く青空を見上げながら、私は見えない青色の向こう側、あるはずのない世界にむかって叫び続けた。
「堕ちろ! 戻ってこい!
堕天を望む 佐倉有栖 @Iris_diana
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