第4話
もともと絵は嫌いではなかった。
描いている間は無心になれたし、真っ白な紙が徐々に色づいていく様を見るのは、一種の高揚感があった。
校舎の一番端にある美術室は引き戸で、開けると中から独特なにおいが流れてきた。絵具やペンキ、石膏や紙のにおいに混じって、柔らかい石鹸の香りが鼻をくすぐる。
「すみません。委員会が長引いて、遅くなりました」
「お疲れ様。亜子ちゃんはたしか、学園祭の実行委員だったかな? うちは毎年力を入れてるから、実行委員の子は夏前から忙しいのよね」
凛とした透明感のある声は優しく、聞き心地が良い。
窓際に立っていた桜井先輩が絵具とパレットを置くと、引き出しからノートを取り出して丸を付けた。部員の出席簿だが、基本的にきちんと活動しているのは、私か桜井先輩しかいない。
部員数は七名の美術部だったが、うち五名は幽霊部員だった。
「去年は私も実行委員だったんだけど、あまりにも忙しかったから今年は楽をさせてもらうことにしたの」
「そんなこと言って、桜井先輩は生徒会長じゃないですか」
「我が生徒会は、委員会の自主性を大事にしているとの建前の元、ほとんどの仕事を実行委員に投げてるからね。やることがないのよ。実行委員の皆様には大変お世話になっております」
手を合わせ、頭を下げられる。
「もう、止めてくださいよー! この前このタイミングで笠原先生が入ってきて、気まずいことになったじゃないですかー!」
唇を尖らせながら抗議すれば、背後の扉がガラリと開き、件の笠原先生が姿を現した。
「お、なんだ、また新人による先輩いじめが発生してるのか? 良いぞ、もっとやれ!」
だらしなく緩められたネクタイに、くしゃくしゃと寝ぐせの立った髪。顔は若いのにどこか年寄りめいた雰囲気を感じるのは、とことん見た目に気を使わないからだろう。
美術部顧問の笠原先生は、まだ二十代だった。
「もっとやれじゃないですよ! どうしていつも先生は変なタイミングで入ってくるんですか!」
「違います先生、美術部の裏番長である亜子ちゃんは悪くないんです!」
「ちょ、桜井先輩!?」
楽しそうに笑う先輩の長い髪が揺れる。甘い石鹸の香りが、部室中に広がっていく。
先輩は噂通りの、完璧な人だった。容姿が人並外れて美しいのは当然として、運動も勉強もできた。生徒会長を務めるほど人望が厚く、それでいて気さくで話しやすい。
先輩の欠点を探そうと入部した美術部で、私は先輩の人柄に惹かれていた。
「それで先輩、どこまで描けました?」
夏のコンクールに向けて描かれた絵を覗き込む。
画面の半分以上を占める入道雲に、奥へと続く廃線。左右には鬱蒼とした木々が生い茂る森が描かれているのに、どこか明るい雰囲気を感じる。
相変わらず美しい構図に、先輩にしか出せない独特な色合いが素晴らしい。
「半分くらいはできたかな。あとはもっと、色を重ねて重厚な感じにしようと思ってるんだ」
「でも、この部分はもう少し滑らかな線にしたほうが良いな。配色もあまり上手くない。線路部分のベース色を違うものにしたほうが良い」
反対側から絵を見ていた笠原先生が、次々と指摘をしていく。見た目の軽さからは想像がしにくいが、先生は芸術大学を出ているため、絵に関しては厳しい。
未熟な技術しかない私の絵は当然だが、いくつもの賞を取っている先輩の絵ですらダメ出ししかしないのには閉口する。先生が褒める絵など、この世に存在するのだろうか。
それでも先輩が文句一つ言わないのは、先生の指摘が毎回正しいからだ。
私も自分の絵をイーゼルに乗せ、昨日の続きを描き始めた。もう色を置いている先輩とは違い、私はまだ線画の段階だった。今日中に大雑把に配色を決めるところまで行ければ良いけれども、難しいかもしれない。
無言でペンを動かすうちに、いつしか窓の外がオレンジに染まり、薄暗くなっていく。真剣に絵に向かい合っていると、時間が経つのが驚くほど速い。
「亜子ちゃん、そろそろ最終下校時間になるから、もう片づけをしましょう」
先輩の声に顔を上げる。気づけば当初の目標通り、大雑把に色を置くところまで進めていた。
かなり集中していたらしく、節々が地味に痛い。大きく伸びをして、深く息を吐く。縮こまっていた肺が広がる感覚がした。
「絵は、絵具が乾いたころに俺が片付けておくから、お前らはさっさと帰れ。最近不審者が出たって報告が上がってるから、気をつけて帰るんだぞ」
使った道具を片付けてから、鞄を肩にかける。先輩は少し前に片づけが終わっていたため、ドアの前で私を待っていた。
忘れ物はないかと見渡していると、先生が私の絵を見ていることに気づいた。いまさら指摘されても今日は直せないため、何かを言われる前に帰ってしまおう。
「先生、また明日!」
「おう、気をつけてな。……この絵、なかなか良いな」
後半は、独り言の声量だった。ポツリと呟いただけの言葉は、シンと静まり返っていた室内に響き、私の耳にも届いた。
あの先生の口から「良い」なんて言葉が聞こえるとは思わなかった。
喜びを先輩に伝えようと視線を向ければ、なんの感情も宿していない瞳と目が合った。美人の無表情は、迫力があって怖い。
「先生、さようなら。さ、行こう、亜子ちゃん」
瞬き一つのうちに、先輩の顔には柔らかな笑顔が戻ってきていた。ただの見間違いかと思うほどの刹那の無だったが、脳裏に鮮やかに刻み付けられた。
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