悪魔の慰謝料

新井狛

悪魔の慰謝料

 ぽたり。


 ぽたり。


 少女の目からは、いや、赤い液体が滴っている。


 夕日に赤く染まる白い砂地に、さらに濃い紅の花を咲かせながら。痛みを感じさせない表情で、彼女はにこりと微笑んだ。


「なに、間違いは誰にでもあるものだ。誠意を見せてくれればそれでいい」



◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 穏やかな風が、ライムグリーンの髪を撫でる。膝の上に開いていた古びた本のページが、ぱらりと数枚めくれた。


 黄ばんだ紙の上に連なる文字に目を落としていた少女は、視線を外されて顔をしかめた。ぱちぱちと二、三度まばたきを繰り返し、大きく伸びをする。

 公園の中央に立っている時計に目をやると、時間は夕方に差し掛かる頃だった。時計の足元から長く伸びた影が、ベンチに腰掛けた少女のつま先に届きかけている。


「はやくはやく! 時間が大事なんだから!」


 黒いローブをなびかせた少女達が何人か、賑やかな声を振りまきながら通り過ぎていく。そのうちの一人が蝋燭ろうそくを取り落とし、慌ててそれを拾い上げると友達の背中を追った。


 少女の隣に丸まった猫が、五月蝿うるさそうに尻尾をぱたりと動かした。不満げなグリーンの瞳を見て少女は苦笑すると、柔らかな毛に覆われた喉の下に手を伸ばす。


「いいんだよ、キャッシ。公園はみんなのものだ。子供の遊びだよ。気にしちゃいけない」


 キャッシと呼ばれた猫は、くるると喉を鳴らすと、自分を撫でる華奢な手に軽く頭を擦り寄せてから少女の肩に飛び乗った。少女は苦笑して、膝に乗せた本をぱたんと閉じた。

 

「行こうか。陽も傾いてきた。昼と夜の移り変わる、良い時間だ」


 よっこらしょ、と言いながら立ち上がった少女は、“召喚陣概略”と箔押しされた古めかしいその本を小脇に抱え、寂れた公園を後にした。

 

◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 悪魔は退屈していた。

 艷やかな床の上には、ご馳走と呼んで差し支えのない食事の数々が並んでいる。悪魔は美しい細工のグラスに入った紅い液体を飲み干し、金色の果物鉢に積まれた丸いものを口に運んだ。

 ぷちゅ、と前歯でそれを潰し、もぐもぐと咀嚼する。しかめっ面でそれを噛み砕いていると、豊かなブロンドの髪をさらりと流した女がしなだれかかってきた。


「ベリアルぅー。もっと美味しそうに食べなよぉ」


 引き締まった腰に豊かな乳房。申し訳程度の布面積を持つ衣装は、陶磁器のようになめらかな肌を隠しているのか飾っているのか判然としない。女はつややかに濡れた唇を開いた。尖った歯がちらりと覗く。


「お手本、見せてあげる。あーん?」


 無表情のまま、碌に女の方を見ようともせず、ベリアルは肉の欠片を放った。ぺちゃりと情けない音がして、女の頬にそれが張り付く。

 女は黙って立ち上がり、ベリアルを引っ叩くと、山と積まれたご馳走を蹴飛ばして部屋を出ていった。


「ってーな……」


 ベリアルはそう呟くと、ガシガシと頭を掻いた。


 悪魔はうんざりしていた。

 最高級の美食も、極上の美女も、豪奢ごうしゃな部屋も、何もかもが気に入らない。


ロクなことがねぇ!」


 誰もいない部屋で、ベリアルは吼えた。女が蹴飛ばした食事を片付けていた、小さな使い魔達がビクッと震えて部屋の隅に縮こまる。


「地獄は死ぬほど退屈だし、ここんとこ召喚者はロクなやつがいねぇ! こないだなんてどうだ、大した余命もないハゲ親父の魂だぞ!?」


 自分で叫んでおいて虚しくなった。召喚に応じるのは気紛れだ。吹けば飛ぶような人間の願いを叶えてやるのは、言ってしまえばただの暇潰しにすぎない。

 初めはよかった。王になりたい、財をなしたい、歴史に名を残したい!

 虫けらのような哀れな生き物の不相応な願いを叶えてやって、魂をいただいた時のあの顔といったら!

 胸を躍らせていた頃の気持ちを思い出して、さらに虚しくなった。悪魔に願う輩なんてのは、大抵みんな魂が不味いのだ。別に喰わなくたって死にはしないが、だからこそ不味いおやつなんて食べたくはないというものだ。

 だが本当に、ほんのごくまれに、酷く美味しい魂に当たることがあった。その稀少きしょうな甘露を求めて、悪魔は気紛れではあるものの召喚に応じ続けていた。


「なーんもしたくねぇー……」


 ベリアルは自堕落に床に倒れ込んだ。ひんやりとした床が少しだけ気持ちいい。

 ぼんやりと閉じたその目蓋まぶたを、淡い光がぼう、と照らした。


「んあ……?」


 ベリアルは目を擦ると、緩慢な動きで身を起こした。歪な形の召喚陣が、その体の下で淡い輝きを放っている。


「なんだ、こりゃ」


 お粗末なその造形に、ベリアルは鼻を一つ鳴らしてごろりと寝転がった。召喚陣もまともに書けないような召喚者がろくな輩であるはずもない。


 ふと悪戯心が頭をもたげた。爆発でもさせて驚かせてやろうと、召喚陣に手を添える。素早く陣を解析し、逆向きの魔力を流し込もうとした時だった。


 甘い香りが鼻をくすぐった。とろりとした濃厚な、それでいてまったく濁りのない甘い甘い魔力の匂い。頭の芯が痺れるような感覚に、掌に集まった魔力が霧散した。

 桃のように濃く、葡萄ぶどうのように瑞々しく、檸檬れもんのように爽やかなその香りに、我知らず喉が鳴る。


「あのハゲ親父の召喚陣は随分よくできてたよな」


 自分に言い訳をするように、ベリアルは独り言ちた。


「あの魂はクソがつくほど不味かった。つまり、だ。このへにょへにょ召喚陣の向こうには、特上のご馳走が待ってるってわけだ」


 謎理論だった。そろりそろりと片付けを再開していた物言わぬ使い魔たちは、可哀想なものを見る目を主人に向けた。


 ベリアルはもう一度、掌を召喚陣にあてがった。慎重に、丁寧に再度その気配を探って、はたと首を傾げる。蕩ける魔力の気配は、陣から少し離れたところにあるようだった。


「遠隔で発動させるなんて、慎重なやつだな」


 ベリアルは思い描いていた召喚者の姿を修正した。陣はひどいが、機転は回るようだ。ますます期待が高まった。

 もう少し感覚を研ぎ澄ませれば、魔力が淡く形を帯びる。どうやら少女のようだった。


「ふむ、遠隔ね」


 ベリアルの顔に凶悪な笑みが浮かぶ。

 ちょうど巨乳には飽き飽きしていたところだ。やっぱり、ちょっとばかり脅かしてやろう。そう心に決めて、ベリアルは召喚陣に滑り込んだ。

 

◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 公園から林に続く白い砂の敷き詰められた道を、ゆっくりと歩いていた少女の目が、


「……っ!?」


 少女は片目を抑えてよろめいた。細い指の隙間から、鮮血がこぼれる。狭くなったその視界に、淡く光る眼球が浮かび上がる。少女の肩の上で、猫が毛を逆立てた。


「やあ、お嬢さん」


 口もないのに、眼球から声がした。艷やかな白目を、茶色の被膜がゆっくりと覆っていく。ぐぐぐ、と側面の被膜が盛り上がると、蝙蝠こうもりのような一対の翼が現れた。


 最後にするりと落ちた尾を丸めて、小さく肩を震わせている少女を、眼球から生まれた化け物は覗き込む。


「駄目じゃないか。こんなに小さいのに、この大悪魔ベリアル様を召喚するなんて。悪い子だ……」


 そう言って、楽しげに翼を震わせた、眼球を。

 むんず、と細い指が、掴んだ。


「……は?」


 ベリアルは焦った。少女の細い指は加減という言葉を知らなそうな力で、ベリアルが乗っ取った眼球をギリギリと締め付ける。


「待て! 待て待て待て! これお前の! お前の眼球だかんね!?」


 ちょっと格好つけた言い回しも、悪魔としての威厳もすべてかなぐり捨ててベリアルは叫ぶ。少女は答えず、締め上げる力が一層強くなった。


「いた、痛い痛い痛い、ああチクショウ! なめやがって小娘が!」


 眼球からも、蕩けるような甘い魔力の香りがする。それを手放すのは惜しかったが、我慢の限界だった。ベリアルは眼球の殻を脱ぎ捨て、


「ん?」


 脱ぎ捨てようと、


「あれ??」


 更にもう一度脱ぎ捨てようとして、失敗した。

 体を掴んだ握力が緩む。慌てて手の中から飛び出すと、少女の肩から飛び降りた猫が、素早くその爪を逃げる尾に引っ掛けた。

 鋼の色に輝く毛並みから、ずらりと鋭い歯列が覗く。その歯にがっぷりと噛まれそうになった時のことだった。


「やめなさい、キャッシ。君の品位が下がる」


 凛とした涼やかな声が響く。眼窩から鮮血をこぼしながら、少女はくつくつと笑った。


「それで、君は? 私の聞き間違いでなければ、ベリアルと聞こえたけれど。召喚がなんだって?」


 小さく柔らかな眼球に閉じ込められたベリアルは、きゅっと更に小さくなった。


「ええーと、召喚陣が……。君が俺を呼んだのでは?」


 ああ、と少女は柔らかに笑んだ。小さく顎をしゃくる。林の中の小さな窪地では、黒いローブをまとった少女たちが、地面に描いた模様に蠟燭ろうそくを立てて踊り狂っていた。


「何、アレ」

「召喚の儀式だろうね」


 さも当然と言わんばかりに、少女は答えた。ベリアルを爪の先に引っ掛けたままの猫が、にゃあと一声鳴いてから、流暢に喋り出す。


「ほらぁ、だから放っといていいのかって言ったじゃん」

「いや……くく、まさかね、あの術式に安物の蝋燭ろうそくで、召喚に応じる悪魔がいるとは……ふふ、思わないじゃないか」


 ここにいたみたいだけど、と少女はひどく可笑しそうにお腹を抱えて笑いをこらえている。ベリアルは被膜で作った目蓋まぶたをぱちぱちと何度か開け閉めした。


「ええと、つまり」

「何だい」

「召喚主はあっちで」

「そうだね」

「君、いや貴女は俺を呼んでいないと」

「呼んでないよ」

「すみません、間違えました」


 もはや尊厳はちり紙ほどの重さも残っていなかった。コンマ0秒で謝罪を口にして、小さな眼球は翼をぺたんと地面につける。


 夕日に赤く染まる白い砂地に、さらに濃い紅の花を咲かせながら。痛みを感じさせない表情で、彼女はにこりと微笑んだ。


「なに、間違いは誰にでもあるものだ。誠意を見せてくれればそれでいい」

「誠意」

「分かりにくいかい? 慰謝料と言ってもいいけど」

「慰謝料」

「君たちは契約の生き物だろう? 契約とは何かな」

「当事者同士の意思表示が合致することで成立するものです」

「そうだね」


 少女はひらりと手を振った。どこからともなく現れた一枚の羊皮紙が、両者の間に落ちる。



 ベリアルは返答に窮した。

 ぐうの音も出ない。まったくって、少女の言う通りであった。

 悪魔は契約に縛られる。口先三寸で煙に巻き、契約自体を誤魔化してしまうことは可能だが、それは相手が了承した場合のみの話だ。


 ベリアルを押さえつけている猫が、大口を開けて笑い出した。鋼色の毛並みがみるみるうちに引き伸ばされ、グリーンの目に炎が灯る。その姿を見て、ベリアルは文字通り目玉をひん剥いた。


「げぇっ、キャスパリーグ!」

「ぶっはははは! ベリアルお前! お前もメロウの魔力に当てられたか! サイコーだな!」


 災厄の獣キャスパリーグ。その性質は獣より悪魔にほど近い。地獄にも時折顔を出すその獣は、顔見知りだった。そういえば、最近姿を見ないと思っていたのだ。


 災厄を運ぶその獣を扱う人間がいるなど、聞いたことがなかった。ベリアルは速攻で契約を誤魔化すことを諦めた。

 まあ無理難題を押し付けられたとて構いはしない。どうせ退屈で死にそうだったのだ。


「わかった。提案を飲んでやる。なんでも言え」

「なんて?」

「謹んで提案をお受けします」


 うん、と少女は満足そうに頷いた。いつの間にか彼女の目から流れる血は止まっていて、その顔の周りを淡く光る蝶が舞い踊っている。

 少女は羊皮紙を取り上げると、さらさらと文面を書き上げた。


―― 契約者メロウ・アレクサリアの命が尽きるまで、隷属すること


 滑らかな筆致が刻んでいく文字を眺めながら、ベリアルは契約年数をぼんやりと考えた。この小娘が死ぬまで。しっかり天寿を全うしたとしても、せいぜい60年かそこらだろう。まあなんというか、退屈しのぎにはちょうどいい。


 メロウが最後の署名を刻むと、羊皮紙が淡く輝いた。魔法の炎が燃え上がり、羊皮紙を焼き尽くす。燃え尽きる間際、炎の欠片がメロウの眼窩とベリアルの翼に小さな印を刻んだ。


「契約完了だね。せいぜいよろしく。なぁに、ほんの600年ほどの付き合いだよ」

「600ぅ!?」


 ベリアルは目を剥いた。メロウは悪戯っぽい笑いを浮かべると、すっと残った片目を白い指で撫でる。瞳の色が、淡い茶色から鮮やかな赤に変わっていく。

 

「忌み児の、血の瞳ブラッドアイ……!」


 現世において最大の禁忌とされる、精霊と人間との混血児。その魔力は精霊よりもなお強いという。

 すべてに納得がいった。濃く強く、甘い香りのする魔力に、災厄の獣。ベリアルほどの大悪魔を眼球に閉じ込める、その力も。


「悠久の時を生きる君たちにとっては、瞬きするほどの時間だろう?」

「いや……600年は流石に……どうっすかね……」


 しきりに左右に動くその目玉を、細い指がぴんと弾く。しっぽを踏まれた猫みたいな声が出て、涙腺を持たないはずの眼球がしっとりと濡れた。

 

「誇りたまえ。召喚師を始めてもう随分ずいぶんになるが、これほど高価な召喚材を使ったのは君が初めてだ」

「いや、ほんとすいませんて……」


 メロウは衣服についた血痕を空気に溶かしながら、くつくつと笑って言った。


「なに、悪魔は退屈が嫌いなのだろう? 忌み児の私と一緒にいれば退屈などしないとも。よかったな」

「楽しいと面倒臭いはちげーんだわ……」


 げんなりとそう呟いたベリアルの隣を、賑やかに口喧嘩しながら少女たちが通り過ぎていく。


「結界をありがとう、キャッシ」


 メロウがそう呟いて、キャスパリーグに魔力の塊を与える。喉を鳴らして甘い香りのそれを飲み込んだキャスパリーグを見て、ベリアルは控えめに尋ねた。


「あのぅ、仕事したら俺も魔力……」


 メロウは生真面目な仕草で首を傾げた。


「なぜ? 君にはもう十分に与えただろう?」


 ですよねぇー!という、ベリアルの切ない声が、一番星の瞬き始めた空に吸い込まれていった。


(終)



—————————

お読みいただき、ありがとうございました。

本作はカクヨムコン9に参加しています。

面白いと思っていただけましたら、★で応援いただけると大変励みになります。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悪魔の慰謝料 新井狛 @arai-coma

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ