画図百鬼夜行語り
Tempp @ぷかぷか
第1話 画図百鬼夜行
学生アンケートの結果、次年度の金井への講義オファーが『妖怪学』になったからである。金井が所属する
金井の研究室は民俗学研だが、金井の専門は古墳時代だ。妖怪といわれて困惑は隠せない。さりとて無視するにはもったいない。最多要望には科研費がつく。古墳研究にはそれなりに金がかかるのだ。一方で講義の準備にどれほどの手間と時間がかかるのかも読めない。
「妖怪っていわれてもな」
「妖怪、ですか?」
思わず漏れた呟きに予想外の反応があった。窓辺を見れば、空いた机でタブレットを広げている
円城はうちのゼミ生だ。いつの間にいたんだと思いつつ、いつも気づけば静かにいるものだから、いつも通りといえばいつも通りだ。
「そう。来年度の講義要望。まさかお前は妖怪に入れたりしてないよな?」
「妖怪が一番ですか。先生のご専門は存じてますから『神津地域の古代呪術』に入れました」
「あれはお前か」
思わずため息を付いた。
『神津地域の古代呪術』はまさに俺の専門で、研究途上だ。幸いにも1票に留まったが、未だ纏まらない研究内容を一般授業で公開できるはずがない。
「そんなわけで妖怪の講義をするかどうか悩んでる。そういえばお前、妖怪詳しかったっけ」
改めて円城環を見直した。顔立ちは奇妙に整っているけれど、今どき染めもしない長髪を後ろで束ね、やたらに襟ぐりが大きい膝丈までありそうなぶかぶかの黒パーカーに臙脂の細いハーフパンツという、いわゆるサブカルだか地雷系だかな格好をしている。三年生だが年齢は俺と同じく四捨五入で30のはずだよなぁとぼんやり考えつつ、季刊『
ゼミ生に研究室の資料を見るなとも言えないし、入稿前に一度チェックをしているからいいのだが、その中に妖怪のことを書いたものもあった記憶がある。
「専門じゃないですが、先生よりは詳しいかもしれません。やらないんですか? 出るんでしょ、お金」
いつも金が無いと俺が呟いているのは、ゼミ生には周知の事実だ。
「欲しいは山々だが、詳しくないから講義しようがないんだよ」
「俺が手伝うからやりましょうよ。バイト代下さい」
「科研費が飛ぶじゃないか」
本末転倒だ。その顔は悪気がありそうななさそうな。円城は何を考えているのかわからないことが多い。
「じゃあ適当にまとまったら原稿にしてもいいですか。基礎資料は先生のほうが探しやすいでしょうし、学術方面じゃないんでバッティングしません。win-winです」
ゼミ生は研究論文、いわゆる卒論を書くべきで、円城が自らの研究テーマに妖怪を設定するなら推奨すべきことだ。けれどもその言い回しからは卒論ではなくサブカル雑誌に流れるわけか。……今までと同じだな。
「そもそもどこから手をつけていいかわからないんだよ。俺の妖怪イメージといえば小さい頃に見た妖怪アニメでね。流石に講義を子泣きじじいや砂かけばばあから始めるのも違うだろ?」
あるいは強そうなぬらりひょんかと考えても、ようは何を取り上げるべきかすらわからない。
「なるほど。では
その名称には少しばかり心当たりがあった。江戸時代の妖怪図鑑だ。
「
鳥山石燕は狩野派の画家で、本名は
「最近は便利で、デジタルアーカイブで見れるんですよ。画図百鬼夜行は陰、陽、風の巻に別れて全部で51の妖怪が載っています」
「ふうん。妖怪といえばこれが一番有名なのか?」
円城は僅かに首をかしげた。
「有名……といえば有名ですが、この本は現在の妖怪のイメージを作った原初の本です」
イメージ? 原初とはまた仰々しい。
「天狗は昔から天狗だろうし、河童も昔から河童だろう?」
地域によってバリエーションは異なるだろうが、頭に皿が乗っていたりするのは同じではないか。いや、中四国にいる
円城は悩ましげに机に浅く頬杖をついた。
「たとえば
鎌鼬? 鎌鼬といえば1つしか思い浮かばない。
「イタチの手の先が鎌になっているやつだろう? 確か三兄弟で最初が転ばせ、二番目は切り、三番目が薬を塗るから血が出ない」
そこまで言えば、円城は胡乱げに笑ってタブレットを操作した。
「三兄弟の鎌鼬は先生が見たアニメで定着しつつもありますが、必ずしも一般的ではありません。一般的にはこうです」
「
開かれた画図百鬼夜行では風が渦を巻く真ん中に鼬がいた。そして窮奇の文字にかまいたちとルビが振ってある。
おかしいな。窮奇といえば
「ええ。窮奇は牛の姿の風神です。けれども画図百鬼夜行は続巻が3つ出るほどの売筋商品です。ですからこの石燕の描いた鎌鼬が牛の姿を覆し、鼬の姿となりました。以降ずっと、この姿です」
「つまり、この石燕が描いた絵によって牛ではなく鼬の妖怪の姿として定着したということか?」
「その通り。石燕は画図百鬼夜行を初めての妖怪辞典として刊行しましたから。つまり石燕の画図百鬼夜行によって妖怪の姿が定まったのです」
……そんな馬鹿なことがあるだろうか。それではまるで、鳥山石燕は妖怪の神じゃないか。それにそれらは俺が聞いた妖怪というものの存在と、随分異なる。
不意に烏の声がして、円城は窓の外を振り返る。気づくともう夕暮れだ。南向きの校舎の窓の外は低く垂れ込める灰色の雲にところどころ僅かな赤光が反射し、薄暗い。
「黄昏時です。おばけのでる時間ですね」
円城がそう呟いた瞬間、眼下の街道沿いに次々とライトが点灯し、明るくなる。そして何台もの車が駆け抜けた。一瞬にしておばけの出そうもなくなった路面を眺め、ついため息をつく。
「そうだな。今もおばけがいると面白いのにな」
アニメを見ていた幼少の頃の俺にとって、妖怪はワクワクする存在だった。そして昔の人間の心のなかには確かに実在したのだろう。けれども今はすでに存在しないことを知っている。だからこそ、ノスタルジックだ。
「今もいますよ」
「まさか」
円城は少し小馬鹿にするように俺を見る。けれども妙に赤く染まった空を背景にしたその笑みには、妙な迫力があった。少しだけたじろいだ。
「ともあれ試しにやってみませんか? 最初はこれです」
タブレットを覗き込む。
捲られた画図百鬼夜行前篇陰の1枚目、
そこには大きな松の木とともに箒を持った老男女が描かれ、このように記載されている。
『百年の樹には神ありてかたちをあらはすといふ』
けれどもそれはサラリとスワイプされて現れたのは3枚目の2番目の妖怪、
「天狗?」
「ええ。流石に木魅を最初だとハードルが高いので、最初はよく知られている天狗にしましょう」
「だがこれは……」
「ええ。ご想像の天狗の姿とは大分違うでしょう?」
注:デジタルアーカイブは実在しますので、よろしければお探し下さい。
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