昔話—少女と怪物の話—
雨野榴
昔話—少女と怪物の話—
とても昔、人間がまだ暗い夜しか知らなかったような昔のこと、とある国の小さな村の屋敷に怪物が暮していました。
何十年も前、毛むくじゃらの恐ろしい怪物がその屋敷に住み始めてすぐは村人とのいさかいも絶えませんでしたが、長い時間が経っても怪物が暴れることがなく、それどころか率先して村人を手伝おうとしていることが知られると、怪物が村に住むことをとやかく言う者は誰もいなくなりました。
怪物には無二の友達がいました。その村を治める領主です。彼は幼いころから怪物の家に通い、領主となった今でも暇を見てはお忍びで羽を伸ばしに訪れているのでした。
ある日、いつものように領主が自分の屋敷から怪物のところへと馬車を走らせていると、遠くの方に誰かが倒れているのが見えました。急いで駆け付けると、それはまだ年端も行かない女の子でした。年のころは十五かそこら、身にまとっているのは汚れで真っ黒になった粗末な服です。領主はその子がきっと空腹で気を失ってしまったのだろうと考え、急いで馬車に載せると怪物の屋敷へ向かいました。一刻を争う状況でしたが、怪物の屋敷の方が自分の屋敷よりも近かったのです。
領主を出迎えに扉を開けた怪物は面食らいました。領主が血相を変えてボロにくるまれた少女を運び込んできたからです。しかし領主の話を聞くと怪物もすぐにベッドを整え、使用人たちに少女の着替えと看病を命じました。
「相変わらず懐が深くて助かるよ」
一息ついた領主が言います。それを聞いて、向かい合って座る怪物は苦笑いを浮かべました。
「私はこのような見た目だが、心だけはきっと正しくあろうと努めている。当然のことをしたまでだ」
「やはり君のところへ運んでよかった」
領主は深く頷き、紅茶の入ったカップを傾けます。二人はしばらくの間黙ってお茶の香りを楽しんでいましたが、やがて怪物が「そういえば」と呟きました。
「何だい?」
首を傾げた領主に、わざとらしく不思議そうな顔をしながら怪物が続けます。
「あの子が元気になったらどこに住まわせるのだ?」
「それは……」
怪物は言いづらそうにしている領主を少しの間眺めていましたが、すぐにこらえきれずに吹き出してしまいました。からかわれていると気づいた領主が文句を言うのに謝りながら、なおも肩を小さく揺らしている怪物は、
「分かっている。あの子が一人で働けるようになるまでは我が屋敷で面倒を見よう」
「まったく分かっていながら人が悪い……だが、ありがとう。いつも頼りきりになってしまって申し訳ないよ」
すると怪物は、手にしたカップを見下ろしながら微笑みます。
「構わないさ。こうして人間と共に平和に暮らせるのも、君の家や村の人々のお陰なのだから」
こうして、行き倒れていた少女は怪物の屋敷の一員になりました。元気を取り戻した少女は怪物の養子として村にも知られ、ベルという愛称で親しまれました。
ベルは怪物のことを嫌っていました。その姿も耐え難いことながら、何よりも許せないのは常に豪華な服をまとい高価な香水の香りを漂わせていることでした。今ではベルも立派でいい香りのする服を着ていますが、それでも自分と同じような格好を醜い怪物がしているのが腹立たしかったのです。
自由に歩き回れるようになってすぐ、ベルは屋敷から逃げ出そうとしました。おぞましい怪物や彼と共にいて平気な使用人が不気味で、隙を見ては何度もドアや窓から身を乗り出しました。しかしそのたびに、かつてのひもじくお腹を空かせていた自分を思い出してためらってしまいます。そしてそれとは反対に綺麗な衣装を着た今の自分を見下ろし、この後食べるはずの美味しい食事を想像すると、結局ベルの足は屋敷から離れられないのでした。
怪物はベルが自分を嫌っていることを知っていたので、あまりベルに話しかけることはありませんでした。しかしベルが不自由しないように常に気を回し、気づいたことがあればすぐに使用人に伝えていました。そのためベルは望むままの生活を送れましたが、ベルと怪物はなかなか親しくなりません。使用人たちが怪物の優しい性格についていくら話してもベルは聞く耳を持たず、むしろ怪物の話をしないよう使用人たちに高飛車に言いつける程でした。
ベルが怪物の屋敷で暮らすようになってから一年たつと、ベルはますます屋敷を自分のもののように思うようになっていました。食べ物が自分の好みでないと料理人を怒鳴り、それを使用人がたしなめると今度は使用人に辞めるよう迫りました。その度に怪物が間に入って収めるのですが、それもただベルが怪物の顔を見たくないために部屋を出ていくからでした。
その日も、怪物から逃げるように自分の部屋に戻ったベルは豪華な調度品を眺めてため息をついていました。ベルが屋敷に来て一年目の日に怪物がくれた首飾りをひょいとつまみ上げて、
「ああ。わたしはこんなにもお金持ちなのに、どうして好きなようにできないのかしら。わたしの嫌いな使用人を辞めさせることもできないなんて」
ベルはすっかりこの屋敷の主人気取りです。欲しいものは使用人に言っておけば怪物がそれを聞いて手に入れてくれますし、嫌いなものは勝手に壊しても誰もとがめません。しかしただ一つだけ、怪物はどれほど嫌いでもいなくなりはしないのでした。領主も村人も、みんな怪物のことが好きだからです。
「そうだわ!」
突然、ベルはあることを思いついて手を叩きました。
「みんながあの怪物を嫌いになれば、きっと誰かが追い出すか殺すかしてくれるはずだわ!」
ベルは自分の考えに酔いしれながら、怪物がいなくなった屋敷のことを想像します。そこに自分に逆らう者はおらず、本当の贅沢が楽しめるでしょう。
「でも、どうすればみんなはあいつを嫌いになるのかしら。あの姿もあの声も、わたし以外はみんなおかしいと思わないんだもの。ひとりひとりまともにさせてたんじゃお婆ちゃんになってしまうわ」
そこでベルはまず、こっそりと怪物の様子を伺うことにしました。怪物の弱みや人には見せられない秘密を探り出そうというのです。物陰に隠れて怪物のあとをつけるベルを見て、使用人たちはベルがようやく怪物に歩み寄り始めたのだと安心しました。怪物もまたベルに気付いていて、自分に心を許し始めたのかと少し嬉しくなりました。
怪物は朝に自分の部屋から出ると、まず庭師とともに庭を歩きました。季節ごとにうつり変わる花々の美しさを庭師と語り合うのです。怪物は早起きなので、ベルも自然と早起きになりました。
怪物の朝食は村で買ったパンと飼っている牛のミルク、そして料理人が作った野菜とベーコンのソテーでした。野菜は時々たまごに変わりました。ベルは野菜が嫌いでしたが、怪物が食べ終わるまで食堂にいるのを怪しまれないように、少しだけ野菜を食べるようになりました。
怪物は昼まで書斎で手紙を書いたり本を読んだりしていました。窓際の大きな椅子に腰かけ、静かにページをめくるのです。ベルはそこで何もせずにじっと待っているのがすぐに嫌になり、使用人に自分に文字を教えるように命令しました。使用人たちが喜んで教えるので、ベルも簡単な本ならすらすらと読めるようになりました。
昼食のメニューは毎日変わりますが、怪物は何でも美味しそうに食べました。時には料理の盛り付けを手伝うこともあり、その時は使用人たちと楽しそうに食堂に料理皿を運ぶのでした。食堂に誰もいなくなると、ベルはやることがなくてつまらないので、テーブルの上をお気に入りの燭台や花瓶で飾りました。
怪物が来客と会うのは決まって午後でした。それは村人のこともあれば、領主のことも、あるいは遠い町の偉い人のこともありました。長い時間生きている怪物の知識や経験は、現在の問題を解決するのに頼りにされていたのです。来客がある時ベルは自分の部屋で静かにするよう言われていて、以前はしたいようにできない苛立ちを物にぶつけていました。しかし文字が読めるようになると本で時間をつぶし、お客さんが帰ると急いで怪物が覗ける物陰に向かうのでした。
夕食までの時間、怪物はよく昼寝をしました。西陽の差し込む広い居間の椅子に体を沈め、窓の外をしばらく眺めてから静かな寝息をたてました。ベルもある日居間のはしの長椅子で昼寝をしてその心地よさを知りましたが、長椅子に怪物の毛が付いているのが許せなかったので、その周りの掃除はいつもベルがしっかりすることになりました。
夕食にはいつも立派な肉料理が出ました。怪物は大きな体にふさわしくたくさん食べるので、料理人たちは毎日てんてこ舞いです。この時ばかりは怪物も手伝いようがなく、おとなしく食堂で待っていました。ベルは怪物と二人きりになるのが嫌だったので、台所へ行って料理人の立ち働く様子を眺めることにしました。ただの肉の塊が美味しい料理になるのを何度も見ているうちに、ベルが料理人に文句を言うことは少なくなりました。
怪物は夕食後すぐに自分の部屋に戻ってしまい、それから翌朝まで出てきませんでした。怪物の部屋には鍵がかかっていたので、普段屋敷じゅうを掃除している古株の使用人すら部屋の中のことは知りません。ベルはきっとこの部屋に怪物の秘密があると考えて忍び込む機会を探してみましたが、待てど暮らせど怪物が鍵を開けたまま部屋を離れることはありません。業を煮やしたベルは、怪物が昼寝をしているすきに鍵をこっそり盗むことにしました。
とある午後、怪物はいつものように椅子で昼寝を始めました。ベルは長椅子で眠ったふりをしていましたが、やがて怪物の寝息が聞こえ始めると、そっと足音を忍ばせて怪物に近づきました。鍵の場所はローブの内ポケットと分かっていたものの、怪物に触れるのは恐ろしくて手を伸ばせません。そこでベルは火かき棒を持ってきて、どうにか鍵の束を抜き取りました。
ベルはさっそく手に入れた鍵を持って怪物の部屋へ向かい、その扉を開けました。ベルは部屋が薄暗くじめっとしていて、人の骨や恐ろしい魔法の道具で溢れているのを想像していました。しかしそろりそろりと覗いてみても、いくつかの絵画や分厚い本がある以外は文机と椅子、そして大きなベッドしかありません。
「がっかりしただろう」
飛び上がって驚くベルの後ろで、ローブに付いた灰をパタパタと払いながら怪物が笑います。
「私は無欲らしくてな。この部屋に満足しているのだが、いかにも貧相と言われてからは人に見せるのが恥ずかしくなってしまった」
怪物が言い終わらないうちに、ベルはくるりと怪物に背中を向けて歩き出していました。その後ろ姿を見送りながら怪物はやれやれとため息を吐きましたが、その口もとには柔らかな笑みが浮かんでいました。
怪物を観察してしばらく経つと、ついにベルは怪物の弱みを探すことを諦めてしまいました。それほどに怪物の生活にはけちの付けようがなかったのでした。
それでもベルは諦められません。怪物がいなくならない限り、この屋敷が本当に自分のものになることはないのです。
ベルは考えます。
「もうこの村の人間に怪物を嫌わせることは難しいわ。なら、この村の外の人間があいつを追い出してくれるようにするしかない……そうだわ!」
ベルは再び思い付きました。この計画が上手くいけば、怪物はきっといなくなり自分の願いが叶うでしょう。ベルは使用人に来客の予定を聞くと、それに間に合うように準備を始めました。
怪物の屋敷に来るお客さんのなかには、あまりに遠くから来たために一晩泊まっていく者もありました。このような時には領主も一緒に泊まっていましたが、その日もまた来客の役人と領主が怪物の屋敷で一晩を過ごすことになっていました。
屋敷がしんと静まりかえった深夜、ベルはそっとベッドを抜け出しました。左右のポケットを確認して、ほっとしたように頷きます。それから月の光を頼りに手に取ったのは、大きくて重いブロンズ像です。そして役人が泊まっている部屋の前に来ると、右のポケットから鍵の束を取り出しました。怪物から盗んで以来、返せとも言われていないのでずっと持っていたのです。
慎重に音がしないように鍵を回し、ベルは寝室に入ります。役人は遅くまでお酒を飲んでいたらしく、大いびきをかいていて起きる様子はありません。ベルは役人の枕元に立ちブロンズ像を構えると、勢いをつけて振り下ろしました。
役人が動かないのを確かめると、今度は左のポケットからあるものを取り出します。それは、ベルの部屋にかけてある鹿の首の剥製から切り取った角の一本でした。ベルは役人の傷口に鹿の角を深々と突き刺し、引き抜いて傷口を調べました。思った通りになっていることが分かると、満足したように微笑みました。
翌朝、屋敷は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていました。何しろわざわざ遠くの町から来た役人が殺されたのです。しかもその傷が獣の爪あとのように見えたので、役人の付き人は怪物がやったのだと言って譲りません。一方、村人や領主は怪物がそんなことをするはずがないと知っているので、怪物以外に犯人を探します。
疑いの目は自然とベルに向きました。ところがベルは最初何が何だか分からないように振る舞っていて、彼女を疑う人々はつい自分が間違っているのかと考えるほどでした。
しかしベルの部屋で角の欠けた鹿の剥製が見つかると、人々はいっせいにベルを非難し始めました。
「お前が殺したのだろう」
「この屋敷を我がものにしたいために、怪物に罪をなすりつけたのだろう」
次々にかけられる鋭い言葉に慌てたベルが言い返そうとした時、静かでいて太く、どこか悲しそうな声がしました。
「いや。私が殺したのだ」
振り返った人々の視線の先には怪物がいます。慌てたように領主が、
「何を言っている。君なはずがない。君は私と一晩中語り合っていたのだから」
「それでも、私でなくてはならないのだ」
その力強い言葉に、思わず領主は黙ってしまいます。勢いづいた役人の付き人が怪物を処刑するように領主に言うと、怪物もまた「それでいい」と小さく頷きました。
「これまで多くの領主がいたが、最も親しくなれたのは君だった。君に裁かれるのなら本望だ」
怪物は領主や屋敷の人々とともに村の広場へ行き、何事かと集まってきた人々の前で話し始めます。
「私はこれから死ぬ。人を殺したのだ。これまでこのような私に良くしてくれた君たちには、心の底から感謝している。怪物の私にはできすぎた幸運だった。私は君たちを決して恨まない」
その日の夕方、怪物が死んだことが領主から村に知らされました。村人は皆涙を流して悲しみ、怪物のために祈りました。
「さあ、これでこの屋敷は間違いなくわたしのもの。一瞬ひやりとしたけれど、怪物があんなに間抜けだなんてありがたかったわ」
ベルは不思議なもやもやを感じましたが、気のせいと考えてすぐに喜びで胸をいっぱいにしました。そして料理人たちに、今日はいつもよりも豪華な食事を作るように言いました。
しかし料理人たちは涙を溜めた目で俯きます。
「私たちが仕えていたのは怪物のあの方であってあなたではありませんでした。あの方がいなくなった今、ここは私たちの仕事場ではありません」
ベルは慌てて呼び止めますが、料理人たちは振り向くことなく去ってしまいました。怒ったベルは、今度は使用人たちに一番大きな部屋を自分用に飾るように言いました。
しかし使用人たちもぐっしょりと濡れた袖を隠すことなく俯きます。
「私たちが愛していたのは怪物のあの方です。あなたのことも愛していたはずですが、今ではそれが間違いだったと分かります」
ベルは慌てて呼び止めますが、使用人たちも振り向くことなく去ってしまいました。
同じように、庭師や厩舎係、御者もみな去ってしまい、大きな屋敷にはベル一人だけが残されました。ベルはがらんとした屋敷の静けさと確かな胸の痛みにうろたえましたが、すぐに取りつくろうように考えました。
「びっくりしたけれど、なんてことないわ。わたしはもう一人でなんでもできるもの。早起きして、本を読める。テーブルを飾れるし、掃除もできるし、ご飯だって見ていたから作り方は分かる。好き嫌いはしないし我慢だってできるわ」
そしてベルは、とりあえずお腹が空いたので台所へ向かいました。
怪物がいなくなってから、村人は屋敷に近付かなくなりました。遠巻きに屋敷を眺める人々の中には、隠すことなくベルの悪口を言う者もあります。しばらくの間は毎日屋敷の煙突から煙が立っていましたが、ひと月も経つ頃には屋敷は眠ったように変化がなくなりました。
ある時、屋敷がどうなっているのかを調べにかつての使用人たちが入っていったことがあります。屋敷の中には誰もおらず、ほこりだらけであちこちにくもの巣が張っていました。もはやかつての姿とは似ても似つきません。
ひとつひとつ部屋を見て回っていた使用人たちは、自分たちの思い出を噛みしめるように丁寧に調度品の汚れを払っていきました。
ベルの部屋に入った時、やはり皆顔をしかめてしまいました。すでに彼女は嫌な記憶になっていたのです。それでも、怪物の大切にした人だからと他の部屋と同じように掃除をすることにしました。
雑巾をかけ始めてすぐに、使用人の一人が怪物からベルに贈られた首飾りがなくなっているのに気がつきました。
昔話—少女と怪物の話— 雨野榴 @tellurium
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます