おまじない 終
放っておくとベッドの端まで寝返りを打ち、ハイハイを覚えた途端、部屋中を這いずり回り、歩き始めるようになれば階段を恐る恐る降りようとする。
ようやく寝かしつけたと思えば、突如何かに目覚めて行動を始めるセレネは一瞬たりとも目を離せない、そんな子供であった。
妹にとっては、滞りない日々に突如現れた巨岩だろう。
流石のベリーも無軌道なセレネには随分困惑した様子で、屋敷の仕事にラズラとセレネの監視作業が加わって、普段は見せない細かなミスをしばらくの間繰り返し。
そんな姿にラズラは笑って、ベリーは度々嘆息を。
望んでいたような、幸せな日常。
けれども不思議と予感があって、姉を妹が監視するように、ラズラもベリーを監視した。
セレネが生まれた途端だろう。
刻まれていた時が止まったように、あれだけ伸びていたベリーの体は未完成のまま止まってしまって、それを目にしての何となく。
精神は肉体に影響を与えるものだと言われていた。
特に多くの魔力を宿した貴族においてはそれが強いのだと。
病は気から、なんて言葉に近しいもので、確たる根拠もなかったが、妹に関してラズラはそれを信じてもいた。
捨て身で愛し、時に憎悪し、絡みつくような情を向け。
寡黙で大人しい妹は、誰より深い感情に支配されている。
一見理性的に見えるのは、それを封じるための重石であった。
死を願うことで体を病み、成長さえも拒み。
かと思えばラズラの役に立つためだけに、背丈を伸ばして蕾を見せて。
ラズラよりもずっと美しく咲いたであろう大輪の花は、けれど蕾の綻ばせたままに、成長をやめてしまった。
子供とも、大人とも言えない境界線で佇んだ。
小柄な姉の背丈を追い越さぬまま、その陰に留まるように。
ラズラが契約を破っても、ベリーはそれを守り続けているのだろう。
ラズラが契約を破ったからこそ、それは守り続けるだけの重石となったのだろう。
多くの人が、ラズラがごく普通に自分の人生を生きるように、妹はごく普通が出来ない子。
それがどれほど苦しくても、自分の人生を生きたりなんて出来ない子。
本当はセレネが生まれて、すぐに出て行くつもりだったのだと思う。
幸せになった姉の側には、自分はもう不要だろう、と考えて。
けれど、ラズラやセレネを放っておけず、ずるずると。
ロランドを殺しに行く、だなんて言い訳であった。
自分が生きる理由を、そんなことに見出しただけ。
それだって、己のためではなく、ラズラのためだった。
容姿も頭脳も才覚も。
誰もが羨むような才覚に恵まれながら、妹にとっての己は値札を付ける価値さえなく――ラズラのことさえ、路傍の石ころを大切に持ち歩く、奇特な人物くらいに思っていたのかもしれない。
赤子の頃に比べれば、多少はセレネの分別がつくようになり。
ラズラの中にも余裕が生まれて、ベリーの中にも余裕が生まれて、そんな折。
事あるごとに妹を呼びつけあれこれと、命令しながら甘えつつ、寄りかかっては足を引っ張り、けれどそんな日々にも限界は訪れるもの。
表情だとか、所作だとか、言の葉一つ。
そういう雰囲気から感じる何か。
出発の準備を始めたことに気がついて、その日は一緒にキッチンに――黄昏色の宝石が、溶けるように雫になった。
きらきらと輝くような、妹の涙はいつも悲しくて、綺麗であった。
泣かないの、と額に口付け、それでも涙は溢れるように。
「――あなたの卑屈さはよく知ってるわ。どうせまた自分に価値なんてないんだとか、自分に出来ることはそれくらいしかないんだとか、そういうことばっかり考えてるんでしょう?」
馬鹿にしている、と時々思うくらいに、妹は卑屈であった。
多分、気付かれないつもりだったのだろう。
ある日こっそり綺麗さっぱり、手紙でも残して去るつもり。
けれど、ラズラは妹が思う何倍も妹を見ていて、毎日のように意識していた。
「確かにあなたに足りないところをわたしが持ってるかも知れない。でも、わたしに足りないところもあなたが持ってて――あなたはわたしのもう半分」
何度も言って、けれど伝わらない言葉。
ベリーは自分がどれほど、ラズラにとって大事なのかを理解してくれない。
平気で放り投げてしまえるような石ころだなんて、本気で思っているのだから。
「わたしの代わりに家事をして、料理をして……あなたがいないとわたし、困っちゃうの」
抱きしめると嗚咽が漏れた。
「敬愛する半身であるおねえさまを困らせたりするのがあなたの望みなのかしら?」
尋ねれば、思った通りに首を振る。
ずっと見てきて、側で見てきたのだ。
ラズラはこの少女よりもずっと、ベリー=アルガンを理解している自信があった。
妹が姉に憧れたように、疎んだように、ラズラもベリーが怖かったから。
何を考えているか分からず、笑わない妹。
子供は元気に泣いて、笑うものだと思っていたから、使用人達と同じように、最初の最初は遠巻きに。
ラズラも誰もが生まれてくることを望んで、お祝いムードであったのに、生まれた途端、ベリーは屋敷に影を落とした。
気味が悪い、と心のどこかで思ったことは事実だろう。
使用人達と同じように。
愛する義母の娘で、自分の妹。
そんな相手にそう思ってしまった自分が嫌で、だから、理解しようと思ったのだ。
理解出来ないから気味が悪く思えるだけだと、一つ一つ整理して、理由を付けて。
煩わしいと思ったことは何度もあったし、自分が『石ころ』に見えるような才能に、何も思わなかったわけではない。
けれどベリーは可哀想な妹で、憐れむべき少女だと、そういう目で見て、理解者の振りをすることで冷静に、ラズラは姉であれただけ。
こんな妹に心の底から尊敬されて愛される。
そんな姉であることだけが、ラズラを今のラズラにしてくれた。
それなりの人間に生まれたラズラの特別は、こんな相手が側にいてくれたこと。
「折角の巡り合わせなんだもの。あなたにもわたしと同じように、そんな巡り合わせに感謝して、これからは自分の幸せを見つけて欲しいと思う」
義母は亡くなり、父も亡くなり、辛いことも多くあった。
けれど違う巡り合わせがあったとしても、間違いなく自分はここにいる。
ラズラの半分は、やはりベリーで出来ていて、それ以外では満たされない。
どれだけ自分が幸せであろうと、妹の幸せ抜きには満ち足りない。
「世界一の妹なんだもの。……世界一、幸せになってもらわないと」
ラズラは欲張りであった。
控え目な妹の分も、人一倍。
「それでわたしは幸せで、ボーガンもそう。いい? 刃物の扱いが上手なら、お馬鹿なことを考えてないで美味しい料理でも作ってなさい。あなたまさか、わたしの可愛いセレネにわたしの手料理なんかを食べさせる気なの?」
そんなこと言ったら怒るわよ、と口にすれば、ベリーは笑う。
「……ねえさまの、手料理は……食べさせられませんね」
「そうよ全く。あなたにはわたしの代わりに料理してもらわないと困るんだから」
ぎゅう、と背中が抱かれて、同じくらいに抱きしめる。
背丈の変わらぬ二人の乳房が、潰れて溶けて、心臓までが繋がるくらいに。
理由なんて、何だって良かった。
石ころを大事にする奇特な姉だとベリーが思うように、ラズラにとっても奇特な妹。
自分勝手で身勝手な、そんな姉に尽くすのが好きな愚かな子。
人生さえもあっさり姉に捧げてしまう、お馬鹿な子。
――誰より愛しい、この世で一番綺麗な子。
「あなたが大好きよベリー。……だから、約束してくれる?」
けれど裏切り者のラズラが、この妹を幸せで満たせる日は永遠に来ないだろう。
それでもわたしの側にいて。
そう願う心は、どれほど身勝手で、残酷なものだろう。
「あなたにいつか別の幸せが来るときまで、ずっとわたしの側にいて、そうしてくれるって」
だからそれは、そんな姉をいつか見限るためのおまじない。
「……はい、ねえさま」
答えたベリーは、別の幸せなんて欠片も期待をしていない。
それでも躊躇なんてありもせず、妹としてラズラに答えた。
体を離すと頬を撫で、その唇を優しくなぞる。
その瞳がそうであるように、その唇も、魔法の言葉をいつも紡いだ。
「ふふん、言質は取ったわよ。二言は許さないからね」
「はい。……この名に誓います」
けれど妹がどう思おうと、これは二人で誓った新たな契約。
約束事で、勝負事。
その時が来なければ、ラズラの負け。
その時が来たならば、ベリーの負け。
そしてラズラは妹に、本気の勝負で負けたことなど一度もない。
自分で建てたアトリエで、自分の描いた絵を眺めてうーんと唸り。
響き渡るはノックの音。
「お嬢さま、息抜きにお茶でもいかがでしょう?」
「…………」
答えずに黙っていると、勝手に扉が開いて入ってくる。
足音は二つであったが、一人と二匹いるのが見ずとも分かった。
「クリシェ様、クッキーをそちらに」
「はいっ」
「クレシェンタ様、一緒にお茶を淹れましょうか」
「……面倒くさいですわ」
「クレシェンタ、おやつ抜きにしますよ」
入り口を見ると、赤毛に抱き上げられ、不機嫌そうに唇を尖らせるクレシェンタが全く仕方ないと言わんばかり。
二本の足で、億劫そうに大地に立つ。
一々大袈裟、基本的にこのだらしない元女王の移動手段は抱っこであった。
どちらかと言えば二本足で歩いていることの方が珍しい。
「……入っていいとは言ってないんだけれど。しかもお馬鹿を二匹も連れて、何のつもり?」
「まぁ、まだ拗ねてらっしゃるんですね」
「拗ねてない!」
睨み付けると、赤毛の使用人は苦笑する。
一昨日行なわれた大勝負。
互いの名誉を賭けた剣での決闘。
想像を絶する卑劣な手段で勝利を手にしておきながら、一切悪びれた様子もない。
本当に良い性格をした女である。
どんな教育を受けて育ったらこんな人間になってしまうのか。
とはいえ、散々文句は言ったものの、勝ちは勝ち、負けは負け。
それに、
『ご当主様は常々言っておられました。僅差であろうと卑怯であろうと負けは負け、敗者に異論を唱える余地はないのだと。……武門の家らしい素晴らしい教えです』
『ほんっと都合が良いわね! あなたそもそも軍人じゃなかったでしょ! しかも今はわたしが当主であなたはただの使用人なの!』
『ですがわたしはクリシュタンド家の教育係。僭越ながら、ご当主様とねえさまより、お嬢さまへの教育を任されておりますから……まさかお嬢さま、ご自分が当主になられたからと、お二人を軽んずるおつもりで――』
『それがズルいって言ってるの! あなたって本当ああ言えばこう……っ!』
などと口喧嘩では勝てはしない。
屁理屈を捏ねれば天下一のベリー=アルガンである。
セレネが勝っていればまだしも、負けた挙げ句に父の教えを引き合いに出されては文句は言えなかった。
「気にされずとも大丈夫ですよ。わたしが勝ち、お嬢さまが負けた。言葉にすればただそれだけのことです」
「本当、腹立つわねあなた……」
「勝負は時の運というもの……一敗を気にしていては大きくはなりません」
「もはや降り積もって山のようですけれど――うぅっ」
「うるさい」
呆れたようにティーカップを置いていたクレシェンタが告げ、頬を引っ張る。
椅子を並べていたクリシェは暢気な顔で首を傾げ、微笑んだ。
セレネがまるで、ベリーと楽しくお喋りしているように見えているのだろう。
楽しそうにいつもよく分からない話をしている、がこの妹にとっての二人の会話認識である。
「ぅに……っ!?」
何やら無性に腹が立って、ついでに頬を引っ張った。
「駄目ですよ、八つ当たりだなんて」
「……あなたの頬も永遠に戻らないくらい引っ張ってやりたいわね」
「お嬢さま、勝負で負けた挙げ句、その相手に暴力を振るう様を想像してみてください。それは本当にご自身の名に誇れる姿でしょうか」
「ぁ、あのね……っ」
「うぅ……ふぁにひまふろ……っ!」
「ふぇ、ふぇれれっ、ぃひゃいれふ……っ」
思わず二人の頬をつまむ指に力が入り、怒気を吐き出すように嘆息する。
指を離された二人が責めるようにセレネを睨みつつ、微妙に距離を取った。
「……何、文句があるの?」
「うぅ……」
「……赤毛の言葉に乗りたくはありませんけれど、今のは明らかに八つ当たりですわ」
「クレシェンタ様の仰る通りです。クリシェ様もおかわいそうに、痛かったですよね」
「えへへ……はい。でも、なでなでされたら痛いの消えるかもです」
頬を撫でられクリシェはすぐさまご機嫌に。
クレシェンタは不機嫌そうにちらちらとベリーに目をやり、擦り寄り、頬を撫でさせる。
再びセレネは嘆息した。
「……で、何の用なのよ」
「海底沈没ツアーの行き先を決めようと思いまして。申し上げた通り、クリシェ様のお話だとファスナ海溝にも大きな魔水晶洞窟がいくつもあるそうですし、深海生物を見ながらそちらも探検という形はいかがかと……」
「……好きにすればいいでしょ。あなたの勝ちなんだから変な気を使わないでちょうだい」
「やっぱり拗ねておられます?」
「拗ねてない!」
――そうしてクッキーをザクザク食べつつ、旅行の話。
海底沈没ツアーとは、文字通り海底を沈没しながらの遊覧旅行である。
光も届かぬ深海に潜む未知の生物達。
向こう側では発見もされていない数多の生物達を眺め、生命の神秘を感じることを主目的としたツアーであり、特にベリーのお気に入り。
エルヴェナやアーネも随分お気に入りであるらしく、新種の生物を見つける度にお馬鹿な勝負に勝った誰かが適当な名前を付けつつ、図鑑に記して生態観察。
海底は元々魔力が濃いようで、新しい生物が生まれては消えるし、そもそもが広い。
行く度に多くの新種を発見して盛り上がるのだが、やはり何やら納得が行かない。
ファスナ海溝に存在する魔水晶洞窟のプレゼンテーションという形で、魔法で投影した映像を見せられれば、確かに興味がそそられるのだが、一番行きたかったのはクリーシアン。
アルベラン大陸(今はそう呼ばれている)とは正反対に位置するビナシアレ大陸南東に存在する、恐らくはこの星で最も大きな魔水晶洞窟。
最近こちらに来たらしい、穴掘り竜ヴェナシルが数万年掛けて地道に掘り進めた人工(竜工かも知れない)洞窟であった。
掘った土で周囲に大山脈を築き、海を大地に変えたという竜の巣に広がる魔水晶の美しさはさぞ壮観だろう。
セレネは奇特な竜(竜は大体奇特である)の生み出したそんな大洞窟を探検したかったのだ。
セレネのご機嫌を取るように魔水晶洞窟を紹介されても、やはり素直に喜べない。
あれこれ文句を言いつつクッキーを食べつつ。
満腹になったらしいクリシェとクレシェンタがソファで寝入る頃には多少の怒気も治まって、絵の再開を。
まだ下書きの段階だった。
「自画像かと思ってましたけれど、もしかしてねえさまですか?」
二人を寝かしつけて、隣から覗き込んだベリーが尋ねる。
「そう。あなたが毎日目にするところに飾っておこうと思ってね。お母様の顔でも見れば、あなたも歪んだ心を改めて、ちょっとはマシな方向になるんじゃないかと思って」
「まぁ。性格は悪くないつもりなのですが……」
「捻くれすぎて悪いどころじゃないわよ、全く」
くすくすと楽しそうに肩を揺らす、そんなベリーを睨んで嘆息を。
「でも流石にこれだけ年月が経つとはっきり思い出せないわね」
「クレシェンタ様なら正確に覚えておられる気もしますが……王都の式でご当主様やねえさまとご一緒だったそうですし、遠目にでも目にしたならあっさり描いてしまわれそうです」
「かもしれないけれど、そのお馬鹿に頼むのはなんか嫌だわ」
あなたはどのくらい覚えてるの、と尋ねると、結構はっきりと、と微笑んだ。
唇を尖らせると、流石に薄れますけれどね、彼女は続けた。
「わたしは毎日のようにねえさまの生きる肖像を目にしてますから」
「……そんなにそっくりかしら?」
「そうですね。髪色や瞳の色だとか、体型みたいに違う部分もありますけれど……お嬢さまはねえさまよりすらりとして、背丈もありますから」
言ってセレネの頬を撫で、顔を自分の方へ向ける。
「輪郭はもう少しだけふっくらで、耳の位置はもう少し低めで、耳たぶも少し薄め。後は目がちょっと柔らかいくらいでしょうか……鼻と口元はそっくりです」
薄茶の瞳を懐かしむように長い睫毛で包み。
言いながら、親指で唇をなぞり、そっと柔らかく口付ける。
思わず頬が赤くなった。
少女みたいな顔なのに、時々ベリーはどうしようもなく色っぽい。
「なんかね……すっごく聞きたいような、聞きたくないような、なんだけれど」
「……?」
「実際あなた、お母様とどうだったの? その、姉妹以上の関係だったり……」
「ああ……ふふ、確かにお嬢さまの立場だと尋ねにくそうな話ですね」
何とも気まずい質問に、ベリーは少し困った様子で微笑んだ。
子供ながらに随分仲が良いとは思っていた。
膝枕、だなんてベリーの膝でセレネと一緒に眠ったり、抱き枕、だなんてベッドに引き込んだり、膝の上に座らせたり、座ったり。
クリシェに対する距離の近さはクリシェの性格を考えれば仕方なく、実際セレネも人の事は言えないくらいの扱いだったが、母とベリーは常識ある良い大人である。
仲の良さに時々嫉妬したりしつつも、当時セレネは別に疑問には思っていなかったのだが、改めて大人になって考えてみると不自然なくらいの仲の良さ。
姉妹とはああいうもの、と漠然と思ってはいたが、あちらの世界で老婆になってもあれほど仲の良い姉妹というものを一度も見たことはなかった。
無論表に出さないだけでそういう姉妹もいたのかも知れないが、そういう噂を立てられそうなくらいの関係。
父と母、そしてベリーの三角関係というのは十分あり得て不思議ではない。
無論、父は何も言わなかったし、そんな二人を微笑ましそうに眺めていたところを何度も見た。
別に問題とは思っていなかったのだろうが、蚊帳の外にあったセレネには実に微妙な話題である。
果たして父は、二人を仲良し姉妹として認識していたのか。
もしくは、そういう関係にある二人として黙認していたのか。
今更の話――もはや別にベリーと隠し事をする必要もないくらいの関係である。
だからどう、と言うわけでもないし、アーネのような不健全な妄想をしたい訳ではなかったが、己の出生にも微妙に関わる気がする何とも言えない話題である。
聞きたいような、聞きたくないような、そういう内容なのであった。
「言葉にして伝えるのは難しいですね。普通の姉妹とは言えないものかもしれませんが、一言で言うならやはり姉妹と言えるでしょうし……けれど誓い合った恋人よりも、ある意味では近しい関係であったのかも」
「……そ、そう」
「わたしにとって、ですので、ねえさまが心の中でどう思われていたかはわかりませんけれど……ただまぁ、ご安心を。素肌を重ねるような、そういう関係ではありませんでしたから」
セレネの唇を優しくなぞって、ベリーは言った。
「ねえさまが結ばれたのはご当主様で、夫婦としての愛を交わし、わたしとねえさまは姉妹としての愛を交わし……そういう愛の在り方です。要は形の問題なのですよ」
「形……」
「水を注ごうと、たっぷりの蜂蜜を注ごうと、例え溶けた鉛を流し込もうと、花瓶は花瓶でございましょう?」
「……でも多分、あなたは溶けた鉛だった訳でしょう?」
ベリーはそういう人間だった。
花瓶に注ぐにはあまりに重く、熱い情。
何となく、それで二人の関係もよく分かる。
「ふふ、そうかも知れませんね。けれど今は冷えて固まって、花瓶の形をしていますよ」
――花瓶が割れても永遠に。
告げるベリーは再びセレネに口付けた。
軽いのに、ずしりと重く、人肌の温度のようで、灼けるように熱い。
柔らかすぎて、押しつけられると溶けてしまうくらいに。
「どうあれ、眺めて楽しめる程度に昔の事です。……それに今は、好きなだけ鉛を注いで構わない、だなんて仰る奇特な方がいらっしゃいますから」
「……わたしは言ってないからね。それにそこのお馬鹿を奇特な方にしたのはあなたでしょ、わたしはしっかり聞いてたんだから」
「まぁ。盗み聞きはねえさま譲りでございますね」
くすくすと肩を揺らして、口元に手を。
少女のようにベリーは笑って、それから再び頬を撫で、再びそっと顔を寄せ。
触れる手も、視線も熱く。
「ぁ、あのね……まだ昼間なんだけれど」
「そうみたいですね」
同意しながら、悪びれもせず。
「……、本当、あなたの頭の中はどうなってるのかしら」
ろくでもない使用人だと顔を真っ赤に嘆息し。
それから触れ合わせた鼻先を、互い違いに滑らせた。
一部だけでも、ラズラの気持ちは伝わったのだろう。
あれも一つの勝負であった。
自分が思う以上に、姉は自分を見てくれている。
そう思わせたラズラが勝ち、いつも通りに妹の負け。
勝負に負けたベリーはそれから潔く、誓ったとおりに側で過ごした。
ラズラだけではなく、娘のセレネにも自然に笑いかけるようになり、ボーガンの前でも同様に。
感情に乗せた重石はほんの少しだけ軽くなり、窺うように淡い色を覗かせながら、外の世界へと目を向ける。
変わったのではなく、丁度、共に授業を受けていたあの頃のように。
随分と遠回りをして、ようやく戻って来たのだろう。
雰囲気はずっと柔らかくなって、買い物に出かければ街の住人もそう語る。
ベリーは元々、優しい子。
体や環境、色んなものに押し込められていただけで、幼児の頃から他人が中心。
他人に迷惑を掛けるからと心を病む妹は、他人の喜びを我が事のように喜べる人間。
本当なら――例えば、あの老教師と良い関係を築けたままなら、そうした喜びが自信になって、多くの人に役立てるようにと、自分の道を選んだりしたのかも知れない。
少し残念で、けれどそれは、もしもの話。
そうでなかった巡り合わせで、ラズラはこれほど幸せになれたのだから、夢想するくらいが丁度良い。
セレネの教育を任せたことが切っ掛けで、毎日毎日楽しそうに困り顔。
教育を任されたからにはと、人並みに人と接する努力をした。
商店の店主にも少し緊張しつつ、頑張って世間話を振ったりしながら、苦手意識を克服しようと努力する様子は笑えてしまう。
この妹が本当の意味で努力をしたのはそれくらいのことだろう。
人が必死に努力しないと出来ないことはあっさりやってしまうのに、ちょっとした世間話や日常会話なんてものが妹にとっては難問なのだ。
神妙な顔で何を言い出すのかと思えば、今日は良い天気ですね、なんて口にして、次の会話が続かず顔を真っ赤にする姿は、かなりお馬鹿で可愛かった。
ただ、真摯な気持ちは伝わるもの。
そんな姿からは十分色んなものが伝わって、あちらも悪い気なんてしないだろう。
ガーゲインは穏やかな街で、住民達の気風も良く、そんな妹を娘と共に良くしてくれて、緊張も解れて自然になり、セレネにもそういう風に。
子供という未知の存在。
自分が随分賢しい子供だったというのもあるのだろうが、恐る恐る接していたベリーも、子供はわりと単純で、お馬鹿なものだと気がついたようで安心した様子。
延々とわがままに付き合って、寝顔を見ながら微笑んだり。
セレネもそんな妹に良く懐いた。
簡単に色んなものが解ける妹は、誰かのことで頭を悩ませるのが好きなのだと思う。
簡単な問題に悩むセレネに、どうやってこの問題を解かせるか、なんて悩ませ試行錯誤する姿は本当に楽しそうで、自分が姉で良かったと心から思う。
良くも悪くも自分の才能に何の価値も置かないせいか、赤子が這ったり立ったりするのを喜ぶように、上から目線も実にナチュラル。
何をやっても良く出来ましたと一生子供扱いだったに違いない。
セレネも本当に子供の内はそれで良かったのだが、とはいえ子供も大きくなるもの。
「なーに拗ねてるの」
「……拗ねてない」
拗ねてます、と言わんばかりの表情で、八つのセレネはむくれてソファに転がっていた。
不機嫌を露わにしつつも否定して。
これぞ見本と言うべき、お馬鹿な子供の拗ね方だった。
胸が苦しくなるくらいに可愛い子。
「まぁかわいい……もしかしてセレネはお母様を喜ばせるためだけに生まれてきたのかしら?」
「むぅ……」
「うふふ、かわいすぎてお母様きゃあきゃあ言っちゃいそうだわ。きゃあきゃあって」
あまりに可愛らしくて抱きしめると、不機嫌そうに頬を赤らめ。
それが益々愛らしい。
ラズラが望んだとおりの元気な子。
ただ元気が過ぎるボーガンの子供。
その血しっかり受け継いで、持てもしないボーガンの剣を振り回すくらい、似なくても良いところまで似てしまっていた。
その上、意地っ張りで負けず嫌いである。
そんな子供であったから、木剣を振らせるくらいはさせようかとお遊び程度にボーガンが剣の稽古もつけるようになり、毎日毎日飽きもしないで剣を振る。
将来はお父様の後を継ぐの、なんてやる気を出して、その内飽きると思ったのだが、そういうところは飽きっぽいラズラと違い、ボーガンに似てしまった。
才能はある、とボーガンは口にしたものの、才能があろうとなかろうと、我が子が戦場に出て欲しいとは思わないのが母だろう。
やる気を出すのは良いことだと思いつつ、生き死にの世界なんかより、それ以外のことに目を向けてもらいたい。
これに関しては厳しく現実を教えるようにと、忙しいボーガンに代わって時々相手をするベリーに言い含めたのは、良かったのか悪かったのか。
ボーガンからちょっと剣を習っただけの叔母。
それだけ聞けば実に手頃な相手に見えてしまう、そんな天才ベリーを目下の目標と定めてしまったせいで微妙に話が拗れてしまった。
セレネはこうと決めたら真っ直ぐ進む、意地っ張りな努力家である。
何度負けても諦めないどころか、やる気を出して果敢に挑む。
そしてベリーは悪気などなく子供の相手。
稽古というより元気な子供の棒振り遊びを褒めるよう。
現実を教えるようにと言った手前、火に薪くべるベリーの様子にラズラも何とも言いがたく。
その内諦めると思ったセレネが想像以上に意地っ張りだったこともあり、火が炎に変わって行く様を見守るしかなかった。
新兵とは言え大人に勝ったと自信満々に挑んでは負け、また必死に稽古を重ねるセレネはまさにボーガンの子供であった。
昨日は教官から一本を取れたと自信満々で、今日は朝から後で稽古に付き合えだなんて騒いでいたのだが、いつもと変わらずお上手お上手と褒められながら完敗を喫して、拗ねているのはそのせいだった。
「……今日は行けると思ったのに」
「世界は案外広いものよ、セレネ。別にいいじゃない、剣が強かろうが弱かろうが」
「良くないもん。ベリーなんか全然稽古もしてないのに……」
「まぁお冠。前も言ったでしょ。そんなことより大事なことはいっぱいあるの。世の中には……お母様のおすすめはベリーにいっぱい甘えることね」
セレネを膝に乗せつつ指を立てる。
「わたしはあの子みたいに強くもないし、勉強も出来ないけれど、わたしがお願いしたら何だってやってくれるわ。もし剣で戦わないといけない時が来てもベリーが守ってくれるし、面倒くさい問題は大体ベリーが片付けてくれるもの」
「……わたしがもっと強くなって、お父様の後を継いで、お母様達を守れるようになりたいの」
「わたし達は神様じゃないんだから、したいからって一人で全部は出来ないわ。その神様だって向き不向きがあるんだもの」
お馬鹿ね、とラズラは笑う。
「神様でさえお互い出来ないことを頼り合ってるものよ。もっと弱い人間なんだもの、尚更だって思わない? 出来る範囲でほどほどに頑張って、困ったときは助け合い、一緒に仲良くお茶でも飲むのが一番よ」
「……別に他の全部で負けてもいいから、剣はちゃんと勝ちたいんだもん」
「ふふ、そういうところがお子様よね。お母様なら本気を出せば、何で勝負したってあの子に負けないわ」
「……、お母様なら剣でも勝てるの?」
「余裕も余裕ね。負けてほしいとお願いしたら、ベリーは負けてくれるもの」
セレネは無言でラズラを睨む。
不機嫌そうに膨れた頬を両手で潰してラズラは笑う。
「セレネだってあっさりベリーに勝てちゃう魔法の必勝法かしら」
「……絶対嫌。正々堂々勝ちたいの」
「そんなことを言ってる内は一生ベリーに勝てないわよ。勝負は勝てば良くて、勝ち方なんてものはおまけよ、おまけ。ボーガンもそう言ってるでしょ」
「お父様はそこまで言ってないもん」
くすくすと、肩を揺らして頭を撫でる。
「セレネにはまだ分からないかも知れないけれど、人間には絶対負けちゃいけない勝負があるの。戦場に限らず、例えば自分の命より、ずっと大事なものを賭けた戦いかしら」
「……お母様にもそういうのがあるの?」
「もちろん。例えばセレネが元気に育って、幸せになれますように、だとか、あの子に素敵な巡り合わせがありますように、だとかね」
頬を小さな頭へと押しつけながら、弄ぶのは長い髪。
いつか妹が、切り落としてしまった長い髪。
ラズラが切り落とさせた、長い髪。
「だからわたしは次の勝負も絶対勝つし、何でも使ってなりふり構わず勝利する。……本当に大事なことは、本当に大事な勝負で負けないこと」
――それ以外はどうだっていいわ、と目を閉じる。
ラズラはきっと欲張りだった。
十分幸せな人生を、もっと幸せにしてやろうだなんて考えて。
セレネは大きくなるほど、妹に対抗意識を燃やすようになっていく。
それが劣等感に変わったり、負の感情になってしまうのが少し嫌で、けれど別に、それは大きな問題でもなかっただろう。
ムキになってもセレネはベリーを以前と同様愛していたし、道理の分かる良い子であった。
自分が見守る限りは大丈夫だと十分思えて、けれども更なる幸せを追い求めてしまう。
セレネの時も少し大変だった。
だから、もし自然に妊娠できるならばくらいにボーガンとは考えていたのだが、日に日にやはり、ラズラにとってのベリーのような存在が、セレネにもいたら良いと思うようになって。
きっと楽しい。
お子様のセレネが、その子に『まだまだお子様ね』だなんてしたり顔で口にしたり、姉振ったりして、それを見ながらベリーやボーガンと笑ったり。
ボーガンはラズラの体が心配だと少し難色を示したが、同じように思うところはあったようで、最終的には納得してくれた。
一人きちんと産めたらそれで十分。
そんな風に思っていたのに、欲張った罰かも知れない。
妊娠したときには喜んで、大きくなって行く子供の様子に期待して。
「ぁ……」
「っ……ねえさま」
ベッドの上。
血が足りないのか、頭はぼんやりと。
体に力が入らなくて、感覚も薄い。
断片的な記憶。
何度か起きて、その度眠り、けれど体が回復したとは思えない。
口元に水差しが。
蜂蜜味の水が静かに流し込まれて、少しずつ口にした。
「子供は……やっぱり駄目だった?」
「そんな、ことは……今、隣の部屋で――」
「……馬鹿ね。おねえさまに、嘘吐くつもり?」
視界がぼやけてはっきりしない。
けれど声はちゃんと分かって、嘘かどうかくらい聞けば分かる。
ぼんやり、子供が駄目だったことは聞こえていた。
夢でなかったのはただ残念。
「かわいそうなこと、したわね」
「ねえさま……」
「二人は……?」
「あれから三日ほどです。お嬢さまは、泣き疲れたご様子で……お部屋に運びました。ご当主様は急いで戻られている頃と」
予定より早く来て、ボーガンは賊の討伐を兼ねた遠征に出ていた。
手、と告げると、右手が握られる。
感覚がほとんどなくて、けれど温かい。
「多分、死ぬわ」
「ねえさま――」
「だから、聞いて」
ぎゅっと握られるのが分かって、少しして、はい、と聞こえた。
「……あの子に寂しい思いを、させちゃうわ。代わりにお願いね」
「……はい。ねえさま」
「あなたも、そうだけれど、ちょっと頑張り屋さんすぎるから……心配なの」
はい、と答えて、手に頬が。
多分、濡れていて、ゆっくりと動かす。
やはりラズラは普通の人間だったのだろう。
頑張ってみよう、だなんて結果がこれで、気持ちや気合いで何とか出来たりしない。
いつも支えられて生きてきて、寄りかかって生きてきた。
半人前のラズラはやっぱり、一人で勝負は出来たりしない。
けれど、ラズラにはとびきり優秀なもう半分。
お願いしたら負けてくれる、優しい妹が一人いた。
ラズラがそうであるように、ラズラなしではいられない、そういう子。
そういうおまじないを沢山掛けた、世界で一番のもう半分。
「……わたしは勝負に、絶対勝つわ」
「……?」
ラズラが死んでも、妹はずっと側にいる。
約束もちゃんと、守ってくれる。
どんなことがあってもきっと、セレネをきちんと見守ってくれるだろう。
セレネがちゃんと、幸せになれるその日まで。
ベリーは裏切られてなお、ラズラとの契約を違えたりしない妹だった。
「誰に負けたって、あなたにだけは……一度だって、負けてあげない」
ラズラは別に強くも何ともない人間だったが、そんな妹が側にいる。
自分を誰より愛する妹がいて、だからそれだけで誰より強い。
そして姉の分まで優秀な妹は、ラズラのお願いならどんなことでも聞いてくれるのだ。
その頬の輪郭を確かめて、柔らかな唇に触れる。
なぞってくすぐり、何度も何度も繰り返し。
おまじないを何度も掛ける。
妹のお願いなんて、一度だって聞いてやらなくて。
受け入れもしない姉なのに、側にいることを強要して。
呪いのようなおまじないを沢山掛けて、縛り付け、自分の側に。
悪いおまじないが解けるようにと、念入りに祈りを込めて、そんなラズラを許してくれるようにと、おまじない。
この先ずっと、そんなラズラを忘れられない、おまじない。
この先いつか、そんなラズラを忘れるための、おまじない。
ラズラの分まで幸せになるようにと、おまじない。
忘れるくらいに幸せになるようにと、おまじない。
素敵な人と出会えるようにと、おまじない。
ラズラ以上に愛せるようにと、おまじない。
「……これは、そういうおまじない」
ラズラは多分、悪い魔女だった。
けれど最後くらいは素敵な祈りを込めてあげたいと、そう思う。
子供の頃にそうしたように、純粋な心のままに。
妹の未来やその幸せを、底の底から切に願って。
いつか必ず、誰よりずっと、幸せに。
自分を拒んだ半分さえも、巡り合わせと思えるように。
そうであれば良いと思う。
――これはそういう、おまじない。
月明かりだけが差し込む、暗い部屋のベッドの上。
赤毛の少女は膝の上に、銀の髪の少女を乗せて、わたしと、と言葉を紡ぐ。
「――……これからもそうやって、ずっと一緒にいて頂けたらと思います」
いつか紡いで消えてしまった、願いの言葉。
封じた重石の隙間から、思わず溢れたような、そんな言葉。
迷うように、恐れるように目を伏せて。
深く意味など理解をしてもいないだろう。
銀の髪の少女はそれでも身を起こして、膝の上に腰掛けた。
黄昏色に佇む瞳へと、宵の訪れを示すような紫色を静かに見せて、幸せそうに口付け言った。
「……クリシェも、ベリーとずっといたいです」
どのようなつもりで答えたとしても、それは一つの契約だった。
愚かな少女と結ばれた、誓いの言葉に違いなく。
両の手で頬を包み、魔法の瞳で無垢なる少女を黄昏の中へと閉じ込めて。
赤毛の少女は深く深く、溶けて混じり合うような口付けを。
遊び呆けて日が暮れても、帰らぬように、帰れぬようにと。
呪いのような願いを込めて。
――それはそういう、おまじない。
少女の望まぬ英雄譚 ひふみしごろ @hihumishigoro
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