おまじない 七
姉妹の情には少し深すぎる関係性。
ボーガンもぼんやりとながら理解はしてくれていた。
妹が依存する姉を奪うことになった、とそのくらいではあったが、随分と気に掛けてくれ、何かと妹に声を掛けてくれる。
ベリーが時折、ボーガンが鍛錬しているところを眺めていることを知っていた。
少し体を動かしてみるか、とボーガンが提案してみた理由もそういうところだろう。
ボーガンの提案に、ベリーは護身の術を習いたいと口にし、それから時折、暇を見て。
その日も稽古が終わってベリーが部屋に戻り、ボーガンにタオルを手渡すと、
「……驚くような上達振りだな」
彼は静かに告げて、ラズラは苦笑する。
「あの子、何やらしても天才だもの」
「無論、才能そのものも素晴らしいが……やはり目が違うな。何かを見据えた人間の目だ」
「見据える?」
「目的があって鍛えている。冷静だ。一方的に彼女がやられているように見えただろう?」
「……? ええ」
ベリーが稽古をするのは空き時間。
当然ラズラも空いた時間で、いつもこうして二人の稽古は目にしていた。
今日もいつも通りの結果。
いくら才能があるとは言え、剣で知られるボーガンに対し一朝一夕の勝利はあり得まい。
何を言っているかが分からず首を傾げるラズラに対し、ボーガンは真面目な顔で言葉を続けた。
「今日はわざと荒い剣で、あの子が苛立つように仕向けた」
「わざと?」
「時には怒りも必要だ。強い感情を自然と外に向かうもの……内に向くあの子にはそういうものが必要だと思ってな。あの年頃なら多少なりともムキにはなってくれると思ったが……波風一つ立たんとはこういうことだな」
いつも通りの結果、ベリーもまた、いつも通り落ち着いた様子。
無手で相手を取り押さえるような技もあっさり原理を学んで習得し、剣の稽古も最初こそ突きつけられる剣に僅かな驚きを見せることはあったが、それ以降は冷静だった。
性格的に悪あがきするタイプでもなかったし、無理と悟れば避けもしない。
今日の稽古も同様だった。
綺麗な剣と荒い剣――剣の使い方には色々あるのだと、いつもより少し、ボーガンが荒々しい剣を振っているのは分かった。
ベリーの持つ剣をわざと狙って叩き落とすように。
今までは静かなもので、剣と剣でまともに打ち合うことはしない。
剣の威力を考えればあっさり手首を痛め、折ったりするし、そうでなくても万が一剣が折れれば大怪我になりかねず、そういうことを二人はしなかった。
これまで響いていたのは二人の放つ風切り音くらいであったため、開始早々、ベリーの剣を三度叩き落とした時には少しばかり心配したもの。
しかしベリーは大丈夫だと口にして、実際手を痛めた様子はなく。
彼女が無理をしないと分かった上で、ボーガンもやっていたのだろう。
あえて叩き落とすのも苛立たせるためだったと言われれば、多少の納得もあった。
想像程度であるが、単純に剣を突きつけられるより、何度も剣を叩き落とされる方がやられてる側からすれば腹も立つに違いない。
ラズラが仮にやられたならば、一本目で既にムッと来ている。
「受けきれぬ剣と見れば即座に諦め、観察することに終始する。私の五体や魔力の動きを捉えて……何とかして私に勝とうと抗う素振りもない」
「それは……」
「実戦のように稽古をすべきと口にする者にも一理あるんだが、あれほど真摯に稽古を稽古として捉え、感情を排して学べる人間もそういない。私であっても未だにノーザンやコルキス達と手合わせすればムキにもなる。そうでないのは、よほど心に何かを秘めた人間くらいだろう」
隊長を少し思い出した、とボーガンは言った。
「稽古の負けなど恥じることなく、貪欲なまでに自分の糧に。剣の手合わせにおいて、10から10を学べる者はいない。感情が邪魔をし、癖が出て、己の体に振り回されて、精々が1つ2つの積み重ね……才があっても3つか4つだろう。しかしあの子は冷静に、限りなく10に近いところを学ぼうとしている。……普通は出来ん」
手に持つ剣を眺めて続ける。
「隊長は本物の軍人であった。剣など所詮、勝つための手段の一つ……ファレン軍団長もそういう人だ。手段として研鑽することはあっても、目的を決して履き違えない。ただ、戦も知らない十一の子供にしてはあまりに険しい学び方だろう。上達の喜びも、未熟への憤りもなく、ただ学ぶというのは」
「……目的」
「想像は容易いだろう」
ラズラは静かに頷いた。
平和に暮らして、幸せがあり、剣など振るう必要はない。
「昔からそういうところがあったから、逆に気付かなかったわ」
「そうなのか?」
「ええ。出来るまで没頭するから、あの子」
意味あることも、ないことも。
深く嘆息した。
ベリーが剣の切っ先を向けるなら、その相手は一人だろう。
「……なんて言うべきなのかしらね」
「賢い子だ。何も今すぐに、などと無謀なことは考えまい。目的はどうであれ、外に目を向けてくれること自体はあの子にとって悪いことでもないと思う。それにあれほどの才能……選択肢は多ければ多い方が良い」
その言葉にボーガンを睨むと、彼は苦笑した。
「子供の才能を広げることは大人の役目、ただの一般論だよ。ただの使用人として眠らせるにはあまりに惜しい」
「お願いだから、将来軍人に、なんてあの子を誘わないでちょうだい。もちろん、あの子がそう言い出したのならわたしも考えるけれど」
「気を付けよう」
笑うボーガンを見て、息を吐く。
「わたしの自慢の妹だもの、あの子ならそれはそれは見事で立派な軍人にだってなれるでしょう。でも、優劣の世界に置いちゃいけない子だと思う」
「……ふむ」
「結果をすぐ手に入れられちゃうあの子には、過程の方が大事だわ。結果が全てで正しい世界になんて身を置いたら、あの子は平気で何だってやれちゃいそうだもの」
壁に背中を預け、まだ日の高い空を見上げる。
輝かしい太陽に照らされる世界。
戦が好きな訳ではない、とボーガンは度々口にするが、彼の目には多分、悲惨な戦場さえもがここと地続きで、輝かしいのだと思う。
名誉ある戦士達が命を賭するに値する、そんな崇高な場所として。
「例えば最後に残ったエルスレンの偉大な戦士を、弓で射貫いてしまったりね」
「……なるほど、中々難しい問題ではあるな」
「戦だって人の営み。あなたもそういう一面を認めているから、結果が全ての世界でも、過程を大切にするんじゃないかしら。わたしはあなたのそういう矛盾がすごく好きよ」
軍人でありながら、戦士でもある。
矛盾めいたその価値観は、とても美しいものであると思う。
いかに残酷な世界でも、人としての一線を守った上で剣を振るい、そうでありながら戦果を挙げて、ボーガンは理想の戦士で英雄だろう。
彼の語る戦場の話は、だからこそラズラも受け入れられる。
残酷な世界であるのに、輝かしくも美しい。
英雄譚に目を輝かせる少年のような、今もボーガンはそんな心を持っていた。
「でも、あの子には色んなことを悩めるようになって欲しいわ。ただの使用人として、今日の夕食どうしよう、だなんて下らないことで頭を悩ませる方が、あの子にとってはずっと大切なことだと思うもの。……何を作ったって美味しいのにね」
くすくすと肩を揺らして、献立に悩むベリーの顔を思い出す。
妹なら姉の食べたいものくらい察しなさい、なんて口にすれば、益々悩んで困り顔。
一生懸命作ってくれたベリーの手料理が、いつだってラズラの食べたいもの。
けれどそれを教えてやることなんてないだろう。
「言わんとしてることは分かるが……過程と結果か、難しいな。軍人の私には、やはり結果があれば良いと思えるところもある。そう出来ないのは、軍人として未熟な証拠だ」
「かも知れないけれど……でも、あなたが軍人であろうとなかろうと、その前にわたし達は大いなる過程にあると言えるでしょ」
ボーガンの頬に手を当て、笑う。
「人生があって初めて、その生き方が生まれるんだもの。険しい道を進むのも、大樹の側で日暮れを待つのも生き方だけれど」
背伸びをして、触れるような口付けを。
「気付けば暮れた、そんな人生は悲しいわ」
ボーガンは苦笑し、ラズラの頭を優しく撫でた。
「君は時々、教師のようだ」
「あら、先生の講義は嫌いかしら?」
「元々、外で遊ぶのが好きな子供だったからね。未だにファレン先生にも叱られる。……部下と稽古をするのは結構。しかし我が身の立場を考えて、剣と学問どちらが大事かお分かりでしょうか、ってね」
声真似をするボーガンに、ラズラはくすくす笑って腕を取る。
痩せ身で骨張った顔。
威圧感のある、年嵩の軍団長であった。
一時上官であったそうで、彼に小言を口にしている姿をラズラも何度か見掛けている。
「子供の頃は勉強から逃げだし剣を振ったもの……己の将来に学問など何の役に立つものかと言わんばかりであったんだが、逃げた先にも回り込まれてもう逃げ出せん。教師気取りで教えていた子供も、今となっては立場が逆転……学がないのが悔やまれる」
「まぁ。ふふ、それじゃあこの先頑張らないといけないわね。子供には、聞けば何でも答えてくれる見習うべきお父様だって、あれこれ教えるつもりだもの。……きっとキラキラ、尊敬の目であなたに色々尋ねるはずよ」
「自分の子供にまで教師になられてはどうしようもなくなるな。善処しよう」
そうね、と笑って頷いた。
結婚生活はただただ幸せなもの。
中々子供が出来ないことは悩ましいものがあったが、貴族同士は子が出来にくいという話は良く聞いた。
三人、四人と一人の妻が産むのは稀なことであったし、アルガン家も多産の家系などではない。
それは分かっていたがやはり、我が身のこととなれば多少不安になるものだ。
避妊のために薬を使っていたこともあったから、早めに医者に相談することを決め、それでも一年子は出来ず、ようやく授かった子をすぐに流した。
ごめんなさい、と謝れば、気にしなくて良いと彼は笑う。
名前はどうしようか、だなんて、二人で早々話し合っていた頃だった。
ラズラのことを気遣って、悲しい顔を見せぬよう、無理に笑顔を見せるボーガンの強さも優しさも、時々苦しい。
そして強い光は、時折影を深くする。
空には丸い月が浮かんでいた。
夜闇を染める優しい光。
毛布を肩に、欄干に手を当て、ぼんやり眺めて夜風に当たる。
「風邪引きますよ」
「……風邪を引かせない妹がいるから、大丈夫」
後ろを見ずに手を差し出すと、ほんのり暖かな木彫りのコップ。
熱を帯びたミルクが白い湯気を立てていた。
「綺麗ですね」
「そうね。あんな風になりたいわ」
ミルクを啜って、隣に立った妹に告げる。
「夜にも綺麗に輝いて、朝には空に溶け込むの。陰ったりしないで、綺麗なまま」
「ねえさまは十分、そんな人ですよ。どちらかと言えば太陽でしょうか」
「太陽なら陰ったりしないわよ」
「雲がかかる程度はあるでしょう。それに夜もある意味、大地の影と言えますね」
「……屁理屈言わないの」
くすり、と妹は笑った。
明るい世界を陰らせて、暗い世界で優しく輝く。
ボーガンの世界はとても綺麗で明るくて、けれど時折、自分の影が濃く見えた。
そんな時にはいつも、妹がその傍らに。
何も言わずに側にいて、一緒に空を見上げながら、温かいミルクを口にして。
ただそれだけで良かった。
指の先で唇をなぞる姿に、案じてくれているのが痛いくらいに伝わって、囚われていた悲壮感さえ、空に滲んで消えていく。
流してしまったことが悲しい。
この先もきっとあるだろうし、悲しいことはどうしたって訪れる。
けれど同じように――あるいは自分以上に胸を痛めて、案じてくれる人がいる。
ラズラは幸せ者だった。
やるべきことはきっと、泣いて日々を過ごすことではなく、そんな相手を大切にすることなのだろう。
「……女の子が生まれたらセレネにしようかしら」
「セレネ?」
「そう。太陽ほどに目映くなくて良いから、優しく夜を照らせる、そんな子。満ちて欠けてもちゃんとまた、一人で輝けるような、そんな素敵な女の子」
三つの顔を持つ月の女神。あるいは三人姉妹とも。
欠けては満ちて、また欠けて。
月の中でも最も輝ける姿がシャーセレネ。
美の女神であり、夜を照らして導く、旅人の守護者。
気高く前を進むもの。
「ちょっとありきたりな名前かもだけれど」
「いいえ。素敵な名前だと……かえって珍しい気もしますし、数代、王家の方にもいらっしゃらない名であるはずです」
「そう。じゃ、決まりね……女の子ならセレネにするわ」
ラズラは一人で立てない人間だった。
寄りかかるように妹に身を預けて、そんな風にしか立てない弱い人間。
ボーガンはベリーがラズラに依存していると感じていたが、実際はそうではない。
ラズラもまた、多分同じくらい、妹に依存していた。
子供の頃思い描いたものほどに、世界というものは綺麗ではない。
明るいばかりではなく、暗い部分が沢山あって、ラズラは例えばそんな現実から目を背けてしまう、弱い人間だったのだと思う。
自分達姉妹は、例えばコインの表裏。
一方に裏目が出れば、一方が表で輝く二つ一つ。
普段ラズラを悩ませる妹は、こんな夜には姉のため、頭を悩ませ寄り添った。
妹がいなかったなら、なんて想像出来ないくらいのもう半分。
愛だと言えば愛であり、けれどやはり、決して健全とは言えぬ関係だろう。
一人で立てるものであるならば、それは支え合いで助け合い。
自分達姉妹のそれは、依存よりも深い何かであった。
お互いに身を預けるようにして立っていて、それは自立と呼べぬもの。
誰より幸せと言えるだろうし、歪でもある。
「本当はわたしにあなたがいるように、弟や妹がいれば良いと思うけれどボーガンは他の妻を娶る気もないようだし、やっぱりわたしが二人目を作るのは大変そうだもの。そんな感じの元気な子が生まれて欲しいわ。弱さを知った上で、強くあれる子」
「ねえさまとご当主様の子なら大丈夫ですよ。きっとすごく元気な方です」
「確かにわたしは世界で一番素敵で美人で非の打ち所がないおねえさまだと思ってるけれど、あなたは時々買いかぶり過ぎよ」
「その仰りようはともかく、それだと全く買いかぶりになっていない気もするのですが……」
お馬鹿さんね、とラズラは笑う。
「あなたのおねえさまとして、そうなだけ。美人はともかく、あなたと一緒。別に立派でも強くもないわ。こうして無意味に悲しみに暮れたりして、妹に慰められるのを待ってたりね」
言って、背中からベリーを抱いた。
日を追うごとに柔らかく、妹は美しく成長する。
妹の手は優しくラズラの頬を撫でた。
「だから、今日は一緒に寝てくれる?」
「……はい、ねえさま」
二人でミルクを飲み干して、そのままベッドへ潜り込む。
自然とベリーは胸元に、ラズラの頭を引き寄せた。
いつもとは逆で、ラズラがベリーにそうするように頭の上に頬を寄せ。
「めそめそするのは今日でやめるわ。情けなくて、みっともないもの」
「……はい」
「生まれてくる子はすっごく元気な子供にするわ。世界で一番健康で、屋敷の中を走り回って、勉強を放り出して遊ぶくらいの、ちょっとお馬鹿な子くらいで丁度いい」
はい、とベリーは言いながら、ラズラの頭を優しく、優しく。
「散々笑って、散々泣いて、そんな感じの元気な子。……次はちゃんと、そういう子を産むわ」
「……、はい」
「だから、今からしばらく見なかったことにしてちょうだい。明日になったら忘れること。これはおねえさまからの命令。……分かったかしら?」
「はい。……この名に誓って」
そう口にして、ぎゅっと頭を抱き寄せて。
少し膨らんだ胸に顔を押しつけ、涙で濡らして嗚咽を漏らす。
悔しい気持ちも悲しい気持ちも枯れ果てるくらいにただただ泣いて、そんな情けない姉の頭を妹の手はただただ撫でた。
夜が二人を溶かすくらいに抱き合って。
翌朝は、何事もなかったように、今まで通り。
涙は妹の胸の中。
仕事から帰ってきたボーガンに笑顔を見せると、また頑張りましょうと口にした。
君は本当に強い女性だとボーガンは笑顔を見せて、安堵して。
これが自分らしい姿だと、ラズラも一人、安堵した。
良いとこ取りで、ずる賢く。
その場その場で甘える相手を変えながら、笑顔を浮かべる悪い女。
けれどこんな自分を二人して、甘やかしてしまうのだから仕方がない。
それから更に一年と少し、生まれた赤子にセレネと名付けた。
産後に少し体調を崩したラズラのことなど気にもせず、何ともうるさい元気な子。
望んだとおり、適度にお馬鹿で、可愛い子。
きっと自分も、こんな赤子であったのだろう。
悪いところは似ないようにと、額に口付けおまじない。
似てもいいから、元気に育ってくれればいい。
そんな風に、おまじない。
小さな赤子は口付けに、お馬鹿みたいに笑って見せた。
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