おまじない 六

ボーガンは王弟と同様、戦場からそのまま、戦勝式のために王都へ訪れたらしい。

話を聞いた彼は、全て自分に任せて欲しいと口にし、数日の内に全てのことを片付けた。

不安と共に宿で待っていたラズラ達を迎えに来て、それから共に馬車へ。

改めて話をしたのは、馬車の中であった。


「――アルガン家の負債は私が支払うことで話が付いた」

「それは……」

「気にしなくて良い。君は知らないかもしれないが……私はあれから戦場で随分働いてね。今は軍団長……伯爵位を頂き、北方将軍代理として北部の軍を預かることになった。代理というのも、単に年齢の問題……大きな失敗なく、働きを認められればいずれ、北方将軍に任じられ、辺境伯としての爵位を頂くことになるだろう」


目を丸くすると、馬車の対面に座るボーガンは微笑する。


「豊かな管理領地も任された。しばらくは困ることもあるかも知れないが……戦場での生活に慣れると屋根とベッドがあれば十分。出来れば頼りたくはないが、事情を聞いて援助を申し出てくれる部下もいる。だから、安心して私に任せてくれ」

「ですが、そこまでは……」

「アルガン家には初代当主……祖父の代に多くの恩を受けたと聞いている。そういう事情もあるし、君の父上には父も私も世話になった。君があのような場所で過ごす事を、父も祖父も見過ごせないだろうし……何より私もそう思う」


安心するといい、と頷いた。

どこまでも優しい声と目で。


「戦地にいる間に母も亡くなって、使用人にも暇を出した。ガーゲインの屋敷には私一人でね。戦場から王都へそのまま来たのもそういう理由だ。……一人で過ごすよりも、客人が二人くらいいた方が私としても落ち着く」


それからボーガンはベリーの方へ。


「君や君の姉上をどうこうするつもりはない。ひとまず、私を信用してくれないか?」

「……はい」


どこか、冷ややかな目でボーガンを見ていた妹は静かに答え、ラズラはその頭を優しく撫でる。

警戒しているのだ、と思っていた。

ああいう日々を送っていたせいもあるのだろうと。


ラズラは安堵と望外の喜びで胸が満たされていて、妹を気にする余裕はなく。

姉に裏切られた妹の心境を感じ取ることも出来ずにいた。


「使用人もいない屋敷ですまないが……しばらくは屋敷で休んでくれ。私は少し用事を済ませたら、戦勝式に出席するため一度王都へ戻る。今後どうするかを含めて、そうした話はひとまず、帰って来てからにしよう」

「……分かりました」

「それじゃあ、また後で」


そうして馬車から出て行き、外の馬へ。

ラズラはただただ、安堵と喜びに涙を流して、ベリーを抱いた。






戦後ガーゲインではボーガンの活躍が聞こえていたようで、庭に関しては街の庭師が自主的に手入れしてくれていたが、流石に主人も使用人も不在では中には立ち入れない。

長らく放置されていた屋敷は埃だらけで、随分酷いものだった。

共に帰ってきたノーザンが家から気の利く使用人を数人連れて、皆で掃除を。


たまには良い、と自分も雑巾を手に取り、掃除するボーガンを見ながら、ラズラとベリーもそれを手伝い――そうして、屋敷を綺麗にした後の夜のこと。


絵画などの調度品もいくらか王都で売るのだと、屋敷の中は簡素になっていた。

少し寂しげな顔を思い浮かべると、やはり眠れず、改めて感謝を言いたいとベリーが眠るベッドを抜け出し、ボーガンのところへ。

私室にはおらず、彼がいたのは応接間であった。


その暖炉の上に飾られていたのは見事な剣。

クリシュタンド家は歴史が浅く、宝物と呼べるようなものはほとんどない。

彼の祖父――初代当主が討ち取ったという相手が手にしていた、その長剣が唯一の家宝となっているという。

そういう話を以前、彼から聞いていた。

悪戯をして怒られたと拗ねていたラズラに、同じような経験があると笑いながら。


家宝の剣をこっそり引き抜いて振っていたら、父に取り上げられて殴られたらしい。

気高き武人の剣を遊びで扱うなど、決して許せることではない、と。

だからと言って何故殴られなければならないのかとボーガンは拗ねてはいたが、後で話を知った祖父が笑って言った。

一歩間違えば鼻血くらいでは済みはしない。

心構えもなく、人を斬るための刃を軽々しく扱うお前を、だからこそキツく叱ったのだろう、と。


『無論悪い親もいるのだろうが、君のお父上は立派な方だ。理不尽に怒りはしまい。君の軽い悪戯を見過ごせば、君の今後に良くないからと思ったからこそ強く叱っただけ。……しかし、私と次に会う日になっても、その叱責が本当に理不尽であったと思うなら、その時は私に言うといい。一人の貴族として、君の味方として、私から君のお父上に過剰な叱責であったと忠言しよう』


ボーガンはラズラを責めはせず、けれど真面目な声音でそう言った。

堂々自分の味方になるとまで言われては、流石に馬鹿な意地も張れはしない。

他家の当主に子供が忠言など、いかにも厳しそうな彼の父が知れば大事である。

そこまでは、と口にして動揺するラズラに、しかし君が本当に理不尽だと思うならば味方をせねばならない、と彼は仰々しく脅し、堪らず自分が悪いところもいっぱいあったと言わされて。

そんなちょっとした思い出話の中に登場する、大切な家宝の剣。


月明かりだけが差し込む応接間で、ボーガンはそんな剣を両手に持ち、静かに眺めて佇んでいた。


「あの、ボーガン様……その剣は――」

「やはり良い剣だ。刃傷は多少あるが、中々の値段が付くだろう」

「ですが、それは……クリシュタンド家の」

「気にすることはない。……陛下からの報奨金はともかく、宝物や新たに下賜される剣をそのまま売りに出すわけにも行かない。ああいう輩とは後腐れなく、一括で支払いも済ませておきたいし、ノーザン達に借りるのは最後の手段。……それに、物は物だ」


物は物――その言葉が孕んだ重みに、胸が締め付けられた。

決して、そう思えるようなものではないだろうに。


別に、一括で支払う必要などなかったと思う。

豊かな管理領地を与えられたクリシュタンド家であれば、仮に利息が付けられても余裕を持って支払えただろうし、北部の軍を統括することになるボーガンに対し、ロランドが法外な利息を取ったとは思わない。

それでも一括にこだわったのは、ラズラ達のためだろう。

支払いの度に思い出す必要がないように、全てが終わったのだと、新たな生活を歩めるようにと、そういう計らいであった。


「……祖父が討ち取ったのはエルスレンの軍団長だった。野営地を襲撃したものの、こちらの軍団長も討たれ乱戦となったが、状況と数の利でこちらが優位。大槍を軽々と振り回す凄まじい猛者であったそうだが、やはり体力は無限ではないものだ。精強な護衛も一人一人と欠けていき、全周を囲まれ……しかし、たった一人となっても戦った」


戦場とは不思議なものだと思う、と口にする。


「弓を使えば誰の犠牲もなく、すぐにでも殺せる状況。だが、その場にあった全ての者が紛れもない敬意を彼に向けていた。愚かに思えるだろうが、剣を握って名を名乗り、挑んでは何人も返り討ちに――百人隊長であった祖父も、そうして彼に挑むこととなった」


鋼を眺めて、目を閉じて。


「男の体は限界……もはや意思で立つのみ。時間を掛ければそれで死ぬとも思えたが、祖父は小細工などあってはならぬと考え、正面から。……左腕を犠牲にしながらも間合いを詰め、押し倒そうとしたが、岩のような体だ。それを堪えた男は槍を手放し、この剣を引き抜いた。祖父は自分を死を悟りながらも捨て身の一撃……しかし、必殺であろう男の剣より先に、祖父の刃が突き立った」


ボーガンは剣を鞘に。

暖炉の上へと再び、丁寧に飾った。


「……貴君のはなむけは受け取った、褒美に持っていくがよい、と笑いながら言ったそうだ。それから、この剣は偉大なる武人の剣、クリシュタンド家の家宝として扱われることとなったが……この剣そのものに意味はない、と成人の時、祖父には言われてね」

「意味……」

「自分が本当に受け取ったのは、この剣ではなく、あの武人の名と誇りだと。この剣はあくまでそれを忘れぬため、思い出すための道具。大切なものは胸の中にあるもので、どのような物も、己を映すための鏡でしかない」


そうしてラズラの方を向くと笑って告げる。


「私はそれが正しいと思い、そうするだけだ。祖父なら物を惜しみはしないだろう。そして祖父の名と誇り……その教えは、鏡がなくても、私は忘れない。そう、先ほど誓った。気にするなと言っても気にするだろうが……大したことではない」

「です、が……」


ラズラが目を伏せると、ボーガンは静かに続けた。


「これからのことに目を向けてくれれば、それで十分だ」

「……これから、とは、その」

「アルガン家の借金を私が支払ったことで、対等な関係とはどうしても君には思えないだろう。恩義を返そうとするだろうし、例えば今、君を……そのだな、妻に迎えたいと言っても、君に考える余地がなくなってしまうと思う」


少し照れたように、私はそういう関係が嫌なんだ、と。


「君とは長い付き合いだが……時間にすれば短く、最後にあったのも随分前。正直、君を女性として愛していると言えるほど私は君を知らないし、君も一生を共にと思えるほど、私のことは知らないだろう。……だからひとまずは私の客人として、今回の事が君の中できちんと過去になるまで……それから、君がこれからどうしたいかを決めて欲しい」


本当に、憧れたとおりの素敵な人。

立派な武人になっても、幼い頃に見たままで、そういうところは変わらない。


「わた、しで……良いのでしょうか? わたし、は……その――」


もう綺麗な体でもなく、今は立派な武人となった彼とは不釣り合いだった。

自分を妻に迎えるならば、きっと聞く必要のない言葉を聞くこととなり、見られる必要もない目で見られることだってあるだろう。

アルガン家がどうなったか、北部では知らない貴族もいないだろうし、王都でも花を売っていた自分を知る人間は少なくない。


「君は誰より美しい。一人の貴族として、一人の姉として……君はそうして己の責務を果たし、それを守っただけだ。その気高さは何があろうと穢れることではないし、誰が何と言おうと私は君を尊敬する。……妻に迎えるなら最高の女性だと思うが、だからこそ、迎えるならば余計な事情は抜きにして、それから新たに関係を築きたいと思う」


どうだろうか、と尋ねられて、目元を拭いながら、はい、と頷く。


「わたしで……よろしければ」

「それならいい。過去は過去に……思い出すのは思い出だけで十分だ。これからは未来の話をしていこう。いつか本当の意味でそう出来たなら……改めて君と話したい」


ボーガンは微笑み、ラズラの頭に触れた。

ラズラも静かに微笑んで、ほんの少し、身を預け。


「長旅の後に大掃除を手伝わされて……今日は随分疲れただろう。もう遅い、ゆっくりと休みなさい」


頷くと、お礼を口にし、部屋の方へ。

ベッドで眠っているはずの妹はおらず、バルコニーへの扉が開いていた。


少し、冷ややかな空気。

夜空は美しく、星が煌めき、真円の月が世界を照らす。

背を向ける少女は月に手を翳すように。

通り抜ける風に長い髪が舞い、薄いネグリジェがふわりと、緩やかに広がる。

赤い髪は夜の藍に混じり合い、月明かりに透けるように輝いていた。


「綺麗ね」


夜空に対してか、それとも妹に対してか。

ただ、絵画のようだと微笑んだ。


「……はい。でも、手は届きませんね」


静かに告げるベリーに苦笑する。


「久しぶりにあなたから、子供みたいな言葉を聞いた気がするわ」


本当に綺麗な空だった。

少し冷えた夜の空気に瞼を狭め、違う世界のようだ、と考える。

そう言えば近頃、夜空を見上げることもなかった。

隣に行くと欄干に触れ、同じように空を見上げる。


「素敵な方ですね」

「……聞いてたの?」

「少し」


月に伸ばすように翳した手を、ゆっくりと下ろす。


「……ねえさまには、お似合いの方だと思います」


夜のしじまに溶け入るような、そんな声。

頬を染めてベリーを見ると、彼女は薄く、口元に笑みを。

その目にはもう憎悪はなくて、透き通った琥珀のように、月の光に静かな輝き。


「ちゃんと笑ってるところも、久しぶりに見たわ」


手を伸ばすと、ベリーは静かに自分の頬を押しつけた。

長い睫毛で薄茶の瞳を包むように狭めて、ラズラの手に、自分の手を柔らかく添え、そのままゆっくり瞼を閉じる。


「この幸せは、あなたがくれたものよ、ベリー。……わたしは、そう思ってる」


柔らかな唇を、親指でなぞって告げる。


「……これからも側にいてくれるかしら」


再び目を開いたベリーはそんなラズラの手を取って、


「ねえさまが、わたしを必要としてくださる限り」


その手の甲へ、口付けを。

恭しく、堂に入った美しい所作で捧げて見せた。


それは優しい決別の印であったのだと思う。

最も遠い口付けで、契約を破った姉に対する許しであった。


――翌日、ベリーはその長い髪を切り落とし、ボーガンの前で頭を下げる。


「未熟者で、働きは不足するかも知れません。ですが……よろしければ、わたしを使用人として、ここに置いてください」

「……使用人を雇うまでは多少の時間も掛かる。その間、屋敷の仕事をしてくれるのは無論、嬉しく思うが……私は君達を客人として迎えるつもりだ。君はまだ幼いし、体も強くないと聞いている。気持ちは分かるが、無理はせず――」

「どうか。……一人の貴族として、お願いします」


困った様子のボーガンに見られ、ラズラは頷く。

手入れしていた美しい髪は綺麗になくなり、浮かれていたラズラも、それでようやく、自分が妹を深く傷付けたことを理解した。


彼女の矜持も、憎悪のような捨て身の愛も、拒んで捨てて、幸せに。

分かたれた二つはきっと、二度と一つにならないだろう。

そうなることを望むことも、この先二度とないだろう。


それでも、二人は姉妹であった。

そんな呪いを妹に掛けたのは、他の誰でもないラズラだろう。


永遠に分かたれてなお、残酷なほど側にあり、それでも離れることもない。










はっきりと妹は一線を引き、それから踏み込むことはしなくなった。

勿体ない、とだけラズラは口にして。

働く上では邪魔ですから、とベリーは答え、それで終わり。

見ようによっては裏切り者への当てつけなのだろう。

けれど違うとラズラは思った。


長い髪と共にベリーが捨てたのは、自分の幸せ。

あの暗い世界で望んだ輝きを、二度と欲さぬようにと手放しただけ。

明るい日向へ再び迎え入れられたラズラと違い、ベリーは夕闇に留まるように佇んだ。


絡みつくような視線が消えて、足は軽やかに動く。

負担であったが、それがなければ心が折れていただろう。

ただ、幸せな世界には、妹の愛はあまりに重く、息苦しさを感じただろう。

やはりそれは、ラズラへの許しであったのだと思う。


例えば母と義母のように、一人の相手と共に過ごすような、そういう幸せの形もあったに違いなく、状況を思えば自然なこと。

大きくなれば提案してみようかとも考えて、けれど結局そうはしなかった。


「背結構伸びたわね。踵痛いんじゃない?」

「少しだけ……気になるほどではありませんが」


ガーゲインに来て二年――ラズラの部屋。

紅茶を飲む妹は、屋敷を出てから本当に止まっていた時間が動き出したかのよう。

背丈が一気に高くなり、体もほんの少し、女性らしい膨らみを。

多少体調を崩す日もあったが、近頃は寝込むこともない。

寝る時を除けな四六時中、身につけるのはエプロンドレス。

子供には不釣り合いなもののように感じてしまうが、けれどベリーが身につけると、妙なほどにしっくりと来る。

同じ頃のラズラが着ても、こうは全く見えなかったに違いない。


ラズラも最初の頃はあれこれ妹を手伝っていたのだが、近頃は余計な事をしないで欲しいとやんわり言われ、屋敷のことは任せきり。

ボーガンから肉体拡張についての専門書を紹介され、色々と学んだことも良かったのだろう。

巨人に棍棒でも渡すようなもの。

一人だと思っていた妹が実は三人くらいいたんじゃないかというくらいに神出鬼没、キッチンにいたと思っていたベリーが果樹園にいたり、かと思えば洗濯物を干していたり。

朝にはいつの間にか屋敷に照明が灯り、夜になると勝手に消えている。

夜中唐突に照明が消えたときは腰を抜かしそうになったものであった。


「調子が悪かったら言いなさい。体が成長して大人になる時期だもの。わたしもあなたくらいの頃には体調崩したし……無理は駄目よ」

「……はい」


ラズラの背丈は五尺一寸。

少し低かったし、この調子でいけばすぐに追い抜くのではないかと思えた。

母も小柄であったし、義母はそれに比べて少し高めで女性らしい体つき。

きっと、よほどの美女になるだろう。

今は素直に、妹が綺麗になっていくことを喜べる。


「ふふ、この調子で伸びていくとわたし、あなたに見下ろされちゃいそうね。妹の癖にわたしの頭を撫でようとしたら怒るわよ、そういうのは目上の人間の特権なの」

「その時には目下かもしれませんが……」

「……屁理屈を捏ねないの」

「ふふ、ねえさまみたいになってしまいますね」


くすり、と綺麗な笑み。

滑らかな頬を引っ張りながら睨み付けて、それからふと、ラズラも笑う。


「失礼な子ね、わたしの教育が悪かったかしら」

「礼儀のお手本を見る機会がなかったので……すみません。これから勉強しますね」

「もーっと引っ張るわよ、戻らないくらい」

「それは、ちょっと困りますね」


くすくすと、静かに肩を。

今も他人に対して、ベリーは心を開かない。

けれど二人きりの時には冗談くらいも言えるようになって、ごく普通の仲良し姉妹。

ごく普通の関係。

ラズラが見てみたかった未来であり、ずっと続けば良いと思える、そんな幸せ。

素敵で、理想の関係だと思う。


ただそれはお互いに、薄紙のような見えない壁を、隔てた上で成り立っていた。


あの妹は、姉の望む妹という形に収まった。

手で触れればそのまま飲み込まれるような、重たく粘り着き、絡みつくような、ラズラを引きずり込むように向けられていた愛は、その輪郭の向こう側。

頬を撫でれば滑らか――以前のように、その内側を感じ取れはしなかった。


ほんの少し踏み込めば、壁の向こうまではっきりと分かるだろう。

そうしない限り妹も、壁の向こうを覗かせない。

けれどラズラは踏み込まない。

そしてベリーも、きっと今度は許してくれない。


お互いにその線引きを守るからこそ、成り立つ幸せ。

妹が幸せでないとは思わなかったが、けれど満たされることもないと思えた。

ここから消える理由を探して出て行くだろう。

それが嫌だと思ってしまうのは、多分ラズラのわがままだった。


薄い壁の一枚向こう、僅かに感じる重たい気配。

執着のような妹の愛にラズラ自身が執着していて、手放したいとも思えない。

妹の愛に生かされていたあの時間に、溶け合って、癒着して。

ラズラの一部がベリーになって、妹の一部が姉になった。


あまりに近くで触れ合いすぎたのだと思う。

だからただの仲良し姉妹でいるだけで、一線を引かなければいけなくて、向ける愛情一つさえ、それは姉妹の情かと疑って、確かめるよう探るよう。

ただ素直に触れ合うことさえ、気を使う。


煩わしくて、いっそ遠くに離れられればすっきりしたに違いなく、お互いに心のどこかでそう思っていた。

けれどそれ以上に互いが愛しく、離れがたく。

それでも離れようとする妹に、それを望まない姉。


追われれば距離を離して、距離を離せば追いかけて。

薄紙一枚隔てた距離で、そういう風に生きることを望んでしまう。


妹をラズラ以上に愛してくれる人が、いつか現れたなら良いと思う。

けれどそうでない限り、自分は妹を手放したりは出来ないだろう。


疎ましいほどの愛情が、心地が良くて、愛おしかった。


「ベリー、おねえさまは眠たくなったわ。ぬいぐるみになりなさい」

「……ねえさま、その、わたしにはまだやることがあるのですが」

「まだまだ使用人としては半人前ね、ベリー。使用人が主人の命令以上に優先することがあると思ってるの?」

「そういうことは正式に結婚されてから仰ってはどうでしょう? わたしはあくまでご当主様の使用人であって、ねえさまはまだ客人……あの」


ベリーを持ち上げ、ベッドに座らせ、靴を脱がせ。


「もうすぐ式なんだからいいでしょ。そう言うならじゃあ客であり姉の命令よ、ベリー。屁理屈を捏ねないの」

「屁理屈を捏ねてらっしゃるのはねえさまだと……」

「命令を聞くの? 聞かないの?」


はぁ、と嘆息しながら妹はベッドに入り、ラズラは笑って頬を撫でる。

それから唇を優しく親指で撫でて、言った。


「文句を言えないおまじない。ほーら、ベリーは段々ぬいぐるみになりたくなるわ」


ベリーは少し文句を言いたそうにラズラを見つめ、力を抜く。


「おねえさまに口で勝とうと思わないことね、ベリー。仮にあなたが正しかろうが何だろうがおねえさまはどうでも良いもの。おねえさまがしたいことをするわ」

「……ご自分の言葉を聞いて、恥ずかしいとは思いませんか?」

「当たり前じゃない。ボーガンも言ってたでしょ。戦いは結局勝てば良いの。クリシュタンド家の使用人なら覚えておく事ね。……ほら、ぬいぐるみは文句を言わないの」


嘆息する妹に、溜息も吐かない、と命じつつ、抱きしめる。

柔らかくて、甘えるようにを寄せて、そんな妹の髪を撫でた。

もうラズラが手入れするほど長くはなくて、軽い髪。


例えば共に素敵な人の妻として過ごす事を望めば、妹は受け入れたのだろう。

だが、輝きに満ちた彼ではきっと、妹の暗い部分にまでは手が伸びない。

ラズラのような弱さもなく、それに魅了されてはくれない気がした。

妹は自分がそうであるように、捨て身の愛なくば満たされない。


そしてラズラも、妹の愛を受け入れられるほどの器はなかった。

けれどそれでも、彼女が妹であることを望み、愛してくれることを望んでしまう。


「大好きよ、ベリー」


妹に対するおまじない。

積み重ねていく小さな呪い。

分かっていながら、知らない内に口にして、


「……はい、ねえさま」


薄い壁一枚向こうの、愛の気配を確かめる。


愛とは呪いで執着だった。

ラズラにとっても、妹にとっても。

暗い部分に光が差して、明るい部分を陰らせる。

煩わしいほど、愛しさが募り、疎ましいほど、執着する。

少なくともラズラにとって、姉妹の愛とはそういうもので、ベリーにとってもそうだろう。


輝くようなボーガンの愛に心の底から幸福を覚え、暗がりにいるベリーの愛に心の底から安堵する。

与えられて当然のように育った自分はきっと随分な欲張りで、ズルい人間。

ボーガンが思うほど高潔でもなく、ベリーが思うほど綺麗でもない。

ただそういう自分であるために、ラズラは妹に呪いを重ねる。


「あなたは、わたしの宝物」


永遠に分かたれてもなお、残酷なほど側にあり、決して離すこともないのだと。

執着からそう口にして、


「……おやすみなさい、ベリー」


そこに混じった愛で囁き、目を閉じる。

いつかこんな夢から目覚めるほどの、素敵な出会いがあれば良い。


呪いも祈りも半分ずつ。

ラズラだけでは、願い一つも満たせない。

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