おまじない 五

アルガン家没落の切っ掛け――エルスレンとの戦が終わったと聞いたのは、そこに来て何ヶ月かした頃だった。

その日を考え、明日のことを考えず、そうして暮らしていた頃だったから日々は不確か。

何年もそうしているように思えたが、けれど季節は一巡もしてもおらず、大した時間ではなかっただろう。


最終的にあの戦は大勝し、エルスレンの領土を大きく切り取り、アルベランは豊かな土地を手に入れた。

その集まりに参加していた人間達も随分と騒いでいたのを覚えている。


あるものは満面の笑みで、あるものは悲嘆に暮れて。

その集まりに参加する人間達は、例えば貴族であっても気質は商人なのだろう。

ただただ利潤を追い、自国の戦で賭けをするような人間達。

アルベランの大勝は予想だにしないものであったらしく、その顔触れも少し変わった。


ラズラにして見れば、特に何も変わらない。

花売る相手が少し変わり、囁かれる言葉もそれに応じて少し変わる程度だ。


薄っぺらい愛を囁く者は多くいた。

ラズラの境遇を憐れむように、親身な振り。

すぐに借金を肩代わりする費用を捻出するのは難しい、しかし君を助けられるよう最大限に努力しよう、と口にする。

最初口にされた時には思わず期待して、その男が別の女を連れる姿に言葉を失い。

そういう『お遊び』だと気付いた時には、己の愚かさに落胆したものだ。

貴族という肩書きを持つ者は多くいたが、貴族であればこのような場所には現れまい。


繰り返されれば慣れてくる。

感情は摩耗して、相手の言葉を冷ややかに。

もし仮にその内、真心から同じ言葉を口にされたとして、自分はその言葉を信じることが出来るのだろうかと考える。

いずれきっと、そんな言葉さえ疑いの目で見るようになるのだろう。

そんな思考を振り払うように、考えるのは今日のこと。


避妊のため、与えられる薬は別に悪いものではなかったが、相性が良くはないのか。

体はいつも少し気怠く、それに引きずられて気分も沈みそうになる。

楽観的に未来を捉えようとしても、不安は残る。

例えば自分が酷く体調を崩せば、それで仕事が出来なくなれば。

何年だって諦めないつもりで、けれど体ばかりはどうしようもない。


そんな折り、久しぶりに訪れたのはロランドであった。

上機嫌に中々の評判であるとラズラに伝え、稀なお相手が興味を持たれたのだと口にする。

誰かと聞いても答えることなく、相手が誰かを教えたのは馬車の中、屋敷へ向かう途中のこと。


「……殿下?」

「ええ。戦に大勝され、久しぶりに戻られたところ……ラズラ様の噂を聞かれたそうで。是非見てみたい、と私の方へ」


わざわざベリーを別の馬車に乗せ、よほどの相手なのだろうと思っていたが、それを聞けば納得が出来た。

公爵家のように随分高貴な身分の人間は見てきたが、王弟。

それも此度の武勲で元帥位を得るという噂もある相手。

王を除けば、全貴族の頂点に君臨する雲の上の存在だった。

男爵家の令嬢如きが易々と顔を合わせられる相手でもない。


「それ自体は喜ばしいこと……しかし、お噂はご存じでしょう?」

「……何度か聞いたわ」


――殿下は狂っておられる。

そんな話はラズラの耳にも入っていた。

かつては天に愛され、その将来を嘱望された気高き王子であったそうで、しかしある日を境に心を病み、異常な遊びに耽るようになったのだと、そんな話。


この会は元々、外道の集まり。

そんな中でも浮くような――どれだけ人を惨たらしく痛めつけるか、などという話を嬉々として聞かせる下劣な人間も集まりにはいたが、そんな者すら畏怖と恐怖で狂っていると口にする、そういう人間が王弟ギルダンスタインであった。


「近頃はそうした遊びをされなくなった、という話も聞いてはおりますが……お噂は事実。人を人とも思わぬ方……一度、何か無礼を働いた貴族の目を笑いながら抉り、余興と称して無惨に殺した様を、この目で見たこともあります」

「…………」

「ラズラ様がどう思われるかはともかく、私は精々が小悪党。商品として人を扱いますから、加虐趣味の方とも付き合いはありますし、箍の外れた方も何人か見てきました。あのお方は間違いなく、そういう一人でしょう。お会いになればお分かりになると思いますが」


決して失礼をなさらぬよう、とロランドは真面目な顔で言った。


「売れれば構わぬのが商人というもの……ラズラ様がどのような選択をなさるかは自由ですし、殿下に買って頂けるなら私にとって悪いことでもない。しかし、小悪党でも多少の情は持ち合わせているつもり……よくお考えになって決めるのがよろしいでしょう」

「心配してくれるのね」

「仮に同じ値段で売れるならば、私も優しい主人に買わせたいとは思いますからな。時には多少売値が変わっても……まぁ、そのくらいの気持ちです」


ロランドはそう言って笑い、もう一度告げる。


「決して甘くはお考えにならぬよう。いくら死を願っても、それさえも許されない……そういう苦痛が世の中にはあるものです」

「……そうね」


そういうものがあるのだと思う。

体の苦痛に、心の苦痛。

苦しいだろう、と想像出来た。


屋敷に到着すると、案内されてその部屋に。

入る前には、妹の頬を撫でた。


「行ってくるわね」

「……はい、ねえさま」


笑顔は随分見ていない。

大きな薄茶の瞳が、毎日のように問うていた。


深く沈んだ、吸い込まれそうな黄昏色に、暗い期待を滲ませながら。

自分の苦痛を、いつ終わらせてくれるのかと。


泣きつかれれば喜んで受け入れ、穢れるほどに笑うのだろう。

心の底から安堵して。


愛という大義名分で、今日もベリーは堕落に誘う。

愛という大義名分で、今日もラズラは苦痛を与える。

そうでありながら、側にいる。

そうであっても、離れられず、手放せず。


やはり二人は姉妹であるとラズラは思う。

違って見えて、けれど絡みつくほど側に在る。


扉を開けると、ソファに腰掛ける一人の男。

優美な黄金の髪をした、美しき美青年。


彫刻のように整った美貌に、青い瞳が水底のように深く、ただ深く――ぞっとするような、その深淵を覗かせる。

あるいは、こちらを覗き込むように。


性質で言えば、ロランド達の視線に近しいものだろう。

品定めでもするように、けれどずっと冷ややかな、凍り付くような目。

本当の意味で、物を見るようにラズラを見ていた。


視線を躱すように頭を下げると、


「座れ。お前は行っていい」

「……は」


ロランドは一礼すると、挨拶もなく部屋に出て行く。

声と所作には静かな怯えが感じられた。

全てを見下すロランドも、そう出来ないものがあるのだろう。


言われたとおり対面のソファに。

失礼します、ともう一度頭を下げて腰を下ろす。


「ラズラと言ったか?」

「はい、王弟殿下」


声を張る様子でもなく。

けれど背中に嫌な汗が滲むような、そういう重圧があった。

心臓を優しく弄ばれでもするように。


王族とは、ある種の怪物に違いない。


「お前は娼婦らしいな。金をもらうために名を汚して、誰とでも寝る。貴族の風上にも置けん。そんなにも金が欲しいか?」


言の葉一つで人の生き死にを左右する。

そう在るべくして生まれ育った人間は、もはや常人と異なる存在なのだと思う。

それは会話を求めているように見えてそうではなく、全てが宣告のようであった。

意に沿わぬ言葉一つで、心臓が握り潰されるような。


弱い己がそう見せているだけかも知れない。

しかしどうあれ、目の前にいる言葉の魔物は、問いにラズラの答えを求めてなどはいないのだろう。


「はい、王弟殿下。仰るとおりです」


ただ、いつものように心を殺してそう答える。

対面しているにも関わらず、何を考えているのかも分からない瞳。

覗き込まないようにほんの僅か、視線をずらす。


「話してみるといい。聞いてやろう」


当たり前の会話のように、意図や感情を探ろうとするのは危険であった。

何もかもを見透かされるような、そういう感覚。

ただ、静かに、心の中を落ち着ける。


「無論金はやらんがな。遊んだ後はそのまま外へ放り出してやる。お前はいつものように、事が済んだら頭を下げてそのまま帰るといい」


愉快な道化でも見るように、口元が弧を描く。

笑っているようで、けれど笑っていない。

嘲笑うような言葉に応じて、はい、王弟殿下、と馬鹿みたいに繰り返す。


ソファにだらしなく腰を掛け、ワインを注ぎ、静かに酒杯を傾ける。

アルガン家が、ラズラがこの場に到った経緯を聞きながら、それを楽器の演奏か何かくらいに感じているような気がした。

もしくは鳥のさえずりか。

どちらにしても、ラズラの言葉を言葉として受け取ってはいるようには思えない。


彼からすれば、地を這うような男爵家。

この男がエルスレンを攻めたがために父は死に、アルガン家は没落し、この腐った集まりに参加しているような――ラズラが媚びる相手でさえ、家が傾き、地を這うはめに。

例えば、彼の視点からしてみれば、ラズラ達は蟻か何かなのだろう。

歩けばたまたま、巣穴を潰した。

あなたが歩いたその道に、私の家があったのです、などと蟻に告げられたところで、痛める心も、興味さえもないのだろう。


ラズラの身の上話になど、彼にとって価値はない。

それは多分、前振りだった。

形式程度に話を聞いて、何かを宣告するための。


「――なるほど、なるほど。不憫なことだ」


話を聞いたギルダンスタインは両手を広げ、笑っていない笑顔を浮かべる。


「酒の肴にも聞き飽きたような話ではあるが、わざわざ呼びつけたんだ。褒美程度は取らせてやらねばな。楽しい戦が終わって気分も良く、懐も温かい。少々値の張る玩具程度は購っても良いという心持ちだ。……俺の目を見ろ」


――声の調子が一変したように思えた。

嘲るような口調から、嘲る調子が消えただけ。

感情の見えない、静かな命令。

僅かにズラしていた視線は、吸い込まれるように瞳の中へ。


「どうにも、お前には妹がいるらしいな。そちらだけなら助けてやろう」


青い瞳に例えようもない、深い闇が広がっていた。


「……ただし、お前は殺す。指先から切り落とし、その皮を剥いで二目と見られぬものにしてやろう」


凍り付いたように、目を背けられなかった。

呼吸が止まり、心臓が潰れ、内臓が口から出そうになる。


「くく、俺の噂は知っているだろう? 試している、などと思うなよ」


ロランドの言葉が思い浮かんだ。

選ぶのはラズラ――こうなることは理解していたのだろう。

むしろ、形だけでも選べるだけ温情だった。

例えば目の前の男が望むなら、そもそもロランドに拒めない。

そして当然ラズラにも、拒む権利は存在しない。

王家の言葉は、その他全ての相手にとっての宣告だった。


ほんの少し、目を閉じる。

冗談ではないと口にした。

そうである以上、王弟の慈悲を蹴るなどあり得ない。

それでも心のまま、慌てふためき許しを乞えば、命を助けてもらえるだろうか。

興味も失せたと捨て置かれて。


――けれどそれは、貴族の在り方などではないだろう。


「はい、王弟殿下。……一つだけその御名にお誓い頂けるならば」


目を開くと、向き合うように真っ直ぐ見つめる。

選ぶ選ばないではない。

既にラズラは選んでいた。


「……言ってみろ」


冷えた言葉に、けれど今度は震えない。

心を落ち着けたまま、口にする。


「本心よりの愛情と、幸福を妹に与えて下さるのであれば……わたしはそれで構いません」


何もかもを失っても、己の名だけは穢さない。

己の定めた生き方だけは、決して曲げない。

仮に力が及ばぬことがあっても、貴族とはそう生きるべきものだった。


あの妹はラズラのために、身も心も捧げるつもりいる。

ここにいたのが妹ならば、躊躇いもなく口にする。

そしてラズラは、そんなベリーの姉だった。


「わたしがもし狂った後もその誓いを守って下さるのであれば、わたしもこのラズラ=アルガンの名に誓い、王弟殿下のものとなることを誓約致します」


その青い瞳は、この世の全てを憎悪するような深い闇を湛えていた。

不思議とその瞳に、大きな薄茶の瞳が重なって見えた。

己さえをも呪うような、絶えた望みの暗い輝き。

彼の目には、何かの名残が微かに光る。


きっと近しい人間なのだろう。

純粋でなければ、人はそこまで傷付かない。


誓えば決して破ることはないのだろう。

それだけは、信じられるような気がした。






そのままあっさりと帰されて、場合によればひと月後に、とロランドに。

それから宿に戻って、ベリーと共に浴室へ。

仕事の後は、よほど疲れていなければそこで改めて身を清める。

屋敷の浴室は混浴であったし、ラズラだけならまだしも、ベリーを連れてはそこに行けない。

ここは幸い高級宿。

同じ仕事の女達と顔を合わせることも多いが、男女で分けられ、使う人間もラズラのような身の上の人間が多いからか、浴室は広い。

時間も早く、その日は貸し切り状態であった。


いつも宝石でも磨くように、妹はラズラを洗う。

穢れ一つ残さぬようにと丁寧に。

ラズラもあえて、ベリーの好きにさせていた。


それは妹の自傷行為であったが、神聖な儀式でもあった。

ラズラのために生きる彼女には、姉に守られる自分への罰が慰め。

臓腑が煮えたぎるような、そんな憎悪を膨らませるように。

そうして自ら傷付くことで、我慢をしている。


自分が弄ばれることより、ずっと辛いに違いなかった。

それが分かっていながら、ラズラは己を優先し、ベリーに我慢をさせていた。

どこかで折れてやらなければ、それもどこかで破綻する。


「はい、おねえさまと交代ね。今日はお話しただけって言ったでしょ?」

「……はい」


以前は細いと言うより痩せすぎで、小さすぎた体。

そんな妹の体には健康的に肉が付き、背丈が随分伸びていた。

栄養を摂って、よく眠り、ラズラの後ろに付き添って歩いて、そういう生活も理由だろう。

屋敷にいた頃に比べて、その体には活力が満ちていた。

時折熱を出すものの、回数は随分減って、近頃は調子も悪くなかった。


皮肉なものだとラズラは思う。

屋敷では叶わなかったことが、こんなところで叶ってしまう。

妹は日に日に美しく、大人になろうと成長していた。


来年はどうだろうか。

再来年はどうだろう。

まだ小さいから、だなんて、そんな建前で妹を縛っていられるのは、果たしていつまでか。

ラズラがその前に体を病めば、そうでなくともすぐ側だった。


湯船に浸かれば寄り添うように、ラズラの腕を抱きしめ撫でる。

甘えるように頬を寄せ。


「久しぶりに誰もいなくて快適ね。貸し切りは気持ちがいいわ」


ラズラはそう言って、天井を見上げる。


「察してるでしょうけれど、今回は上客だったの。しばらく休んでも良いみたいでね」

「……そうですか」


王弟に呼ばれた女を閨に連れ込む男はいない。

既に噂になっているだろうし、予約があれば尚更。

どちらにしてもしばらく仕事は出来ないし、ロランドもそう口にしていた


「明日はひとまず惰眠に耽って休むとしても、毎日宿に引き籠もりも飽きちゃうわ。宿で出来る程度の遊びは、遊び相手が全然遊ばせてくれないし」


ベリーの頭を撫でて続ける。


「だからどうせなら、観光するのはどうかと思ってね。お父様達と前に来たときは小さかったし、全然見て回れなかったから、王都をちょっと見てみたいわ。付き合ってくれる?」


はい、と静かにベリーは答えた。


そうして二人で浴室を出て、部屋に戻り、ベッドに腰掛け残った湿り気を互いに拭う。

ラズラの長い髪を、やはりベリーは丁寧に手入れした。

そして妹の長い髪を手入れするのは、ラズラの役目。

水気を取って、櫛を入れ、性根が雑だと知っている分、時間を掛けて丁寧に。

こうしている間は少しだけ、妹の空気が柔らかい。


滑らかな髪から水気が取れてもしばらく続けた。

張り詰めたものを緩ませるように。

長い髪を手に取り、匂いを嗅いで、口付けて。


「……うん、綺麗」


そう笑いながら、いつものように頭を撫でて。

それから不意に、肩を押されて倒れ込む。


「ねえさま」


ラズラの体を押し倒しながら、両肩に手を。

理知的な、大きな薄茶の瞳が、ラズラの瞳を覗き込む。

探るようにしばらく眺めて、目を細める。


「……わたしは、ねえさまとずっと、一緒です」


ずっとベリーを見てきたのと同じように、ずっとラズラを見てきたのだ。

この賢い妹には、隠し事など出来ないのだと思う。

答えを求めていない、そういう言葉。


それは宣告であり、誓いであった。

決して曲げることなどない全てが、その言葉に宿っていた。


「……あなたは貴族ね、ベリー」


ラズラと違って、ベリー=アルガンは悩まない。

誰に言われずとも、己が守るべきもののためなら躊躇さえなく。

誰よりも弱いからこそ、誰よりも強い。

この妹の名は、きっとこの世の誰にも穢せまい。


ただ、それは人の生き方ではないだろう。

完璧なものを望んでも、完璧であってはならないものがあるとも思う。


「でも、あなたはわたしの妹よ」


頬を撫でると、その目に確かな憎悪が宿る。

どうしようもなく深い憎悪が、それ以上に深い愛情を訴えた。


陽が沈むのを待つような、昼夜にまどろむ黄昏色。

まだ少し明るく見えて、王弟ほどには沈まない。

誰より彼女が愛しいと思うし、けれど決して、自分が身を委ねてはいけないのだとも思う。

その甘美な執着に、優しい夜の誘惑に、抜け出せないままラズラは沈む。


沈む体に鼻の先まで触れ合って、その目をじっと、覗き込む。

頭の先から爪の先――血の一滴に到るまで、妹の全てがラズラのものだと訴えていた。

捨て身の情に満たされて、羽毛のように軽い体は、何より重く。

火傷しそうなくらいに、視線は熱い。


妹はいつも、その時ラズラが望んだ全てを理解して、与えようとしてくれていた。


「そして、わたしはあなたのおねえさまなの」


双子でなくて良かったと思う。

そうであれば境界など、混ざり合って溶けてしまうに違いなかった。

妹が、ラズラの明るい部分に惹かれるように。

ラズラもまた、妹の暗い部分に誰より惹かれてしまっていたから。


何も持たないと語る妹は、ラズラの欲する色んなものを持っていて、与えてくれる。

一つが二つに分かたれたなら、一つとなろうとするのは道理だろう。

引き合うようなその力に、身を委ねるのは甘美だろう。


そんな、ちょっとした建前だけが、ラズラの弱い心を押しとどめた。


薄紙一重の境界を、撫でるように引き寄せて、その額へと口付ける。

様々な想いと、誓いを乗せて。

伝わるようにと、ゆっくりと――薄桃の唇を指で優しく撫でるように、距離を離す。

言葉を封じて、ただ、その優しい感触だけを味わうように。


――ごめんね、と唇だけを動かして、潤んだその目を見つめて言った。

あと少しだけ、もう少しだけ、その建前を使わせて欲しいのだと、そう告げるラズラは卑怯でズルくて、わがままだった。

こうして愛を確かめる度、ほんの少しだけ勇気が湧いて、心の芯を強くする。

心が折れても、軽蔑などせず、ずっと愛してくれるのだろう。

そう信じられる妹の存在が、ラズラにとっては何よりのおまじない。


彼女の苦痛を贄に捧げて、愛の儀式を繰り返す。

そうする限り、ラズラはきっと耐えられる。


「明日は忙しくなるから、心してちょうだい。起きてご飯を食べたら肩もみとマッサージ……それからおねえさまが楽しめるように、程よく接戦になる感じでゲームに付き合ってもらうわ。もちろん、わたしが飽きて眠たくなったら、昼寝にも付き合うの」

「……はい」

「わかったら今日は休む。それでいいかしら?」


はい、と目を伏せるベリーに微笑んで、ラズラはベッドに潜り込む。

そして彼女を誘い入れては、優しく抱いて、目を閉じる。






それから二日後、身につけるのはワンピースドレス。

手を繋いで、二人で歩くは城下街。

久しぶりに感じる日向の世界は、全てが明るく輝いて見えた。

住んでいたセルクートは、ガーゲインのような大都市とは言えぬまでも、それほど小さくもない街。

人通りも活気もあって、比較的豊か。

けれど王都の活気は比べものにならないほどで、貴族や富裕層ばかりの一級市街から城下街に出れば、溢れかえるほどの人の数。


ここに来てから表情を変えない妹も、ほんの少しだけ目を丸く。

あちらにいた頃も、精々が屋敷の庭まで。

街には出たこともなかったベリーには、よほど驚きであったのだろう。

世の中にはこんなにも人が多くいて、こんなにも世界が広いのだと――そんなことさえ知ることもなく生きてきたのだ。

ドレスと同様、もっと早く、無理矢理にでも街に連れ出せば良かったとラズラは思う。

自分に対して後悔はなかったが、妹に対しては後悔ばかりであった。


静かに部屋で過ごすのが常。

けれどベリーは人一倍、好奇心は旺盛で、想像力も豊か。

世界さえ広がれば色んなものに刺激されて、自然と気持ちも外に向かったのかも知れない。

暗く沈んだ薄茶の瞳が、今日はずっと輝いて見えた。

そんな妹の目を見たのは、もう随分と前のこと。


日は高く、世界の全てを照らしていた。

ざわざわと何かを話し合う人々の声は、煩わしいほど晴れやか。

同じ世界で同じ場所、けれど、どこまでも遠い世界のようにも見えた。


疎外感が音を掻き消し、孤独を感じ、そんな心を握る手が、優しくラズラを包み込む。

妹の目に映っている色と、ラズラも今は、同じ色を宿しているのだろう。

日向にあって、けれど日陰から明るい世界を眺めるように――その輝きには暗い陰り。


妹のその目は、覗き込むだけで魔法に掛かる、お伽噺の魔法の瞳。

明るい世界に陰を孕んで、暗い世界に光を宿す。

どちらでもない黄昏の瞳は、人を惑わせ絡め取り、それから優しく包み込む。

そんな、不思議な力を帯びていた。


自分はこれから、酷い目に遭い、殺されるのかも知れない。

けれど妹は大丈夫だと思えるのは、そんな魔法の瞳を持っているから。

あの暗い瞳の王弟さえも、この瞳は絡め取って、包み込んでしまうのではないかと思えるから。

光に満ちた世界に陰りを見せる妹は、深い闇にこそ輝きを見せるものだから。


「……?」

「ううん、何でもないわ。街はどうかしら?」

「……人が多いです」


見たままを口にする妹に苦笑する。

多分、頭の中では色々な事を考えているのだろう。

視線はそれとなく左右に、周囲の人や、店を眺めていた。


楽しい思い出はいくつあっても良い。

この先どうなったとしても、振り返ったときに良かったと、そう思えるだろうから。

心残りがないようにと、明るい世界を見て回る。


王都は広い。一日では全てを見ることなんてとても出来ないだろう。

休みの間に色々巡って、楽しい思い出を作っておきたかった。

その間に一度でも、妹が微笑む姿が見られれば何より。

そういう遊びで、思い出作り。


「ちょっとお腹も空いたし、露店で何か買って……ふふ、適当に食べ歩くのもいいわね。はしたないけれど、一度やってみたいと思ってたのよ。付き合ってくれる?」

「……はい、ねえさま」


今更、周りの目を気にすることなんてありはしない。

この機会に、やりたいことは全部やろうと考えて、


「王都とはいえ、良品は見つかりませんね。装飾が多くて高いだけだ」

「誰から聞いたか……コーズが家業を継いで、今は鍛冶をやっているらしい。戻ったらそちらに顔を出してみるのも悪くは――」


ふと、聞こえてきたその声に呼吸が止まって、立ち止まる。

そして斜め前、すれ違うような形で歩いてきた――見覚えのある青年が、こちらを見て、目を見開く。


「……ラズラ?」

「っ……」

「どうして君が王都に……」


ボーガンは隣のベリーを見て、他に供もいないことに眉を顰める。


「ボーガン様、この方は……?」

「祖父の代から付き合いのある、アルガン家のご息女だ」


赤銅の髪をした美青年――ノーザンの言葉に、彼は答えた。

聞き覚えのある声。

以前見た時と比べ、更に精悍になり、顔には薄く刃傷。

けれど一目見れば、声を聞けば、はっきり分かる。


「そちらは妹の……?」

「……はい、ベリーです」

「母上や姉上に似て、綺麗なお嬢さんだ。私はボーガン=クリシュタンド……君のお父上や姉上も知っている。警戒しなくていい」


静かに、はい、と答えるベリーの手は、ぎゅっとラズラを握るように。

知らず、ラズラの手にも力が入っていた。

声が少し、上擦りそうで、どうして、という声が頭を埋め尽くす。


戦争は終わったと聞いていた。

何かしらの武勲を立て、それで王都に呼ばれたのだろう。

戦が終わって、無事だっただろうかと思い浮かべて、けれどなるべく、考えないようにしていた。

会う機会などもうないだろうから。


「……すみません。その、用事がありますので、これで」


――知られたくないな、とそう思った。

ベリーの手を引き、歩き去ろうとして、不意にその手を掴まれる。


「っ……」

「……お父上に何かあったのか?」

「ぁ、あの……手を――」

「――ラズラ」


目を見つめられて、視線が泳ぐ。

声が上手く出ず、顔が歪んでしまうのを感じて、堪えきれなかった。


「ラズラ……」


まるで子供のように涙が溢れて、止められず。

握っていた手を離して、握られた手を離されて、顔を覆うラズラの頭が大きな手で、抱き寄せられた。


「少し落ち着いて……それから、話を聞かせてくれ。……私は君の味方だ」


しゃくり上げるような声が止まらず、呼吸が乱れて。

知らず両手が、すがりつくように彼のジャケットに皺を刻む。

声は言葉にならず、頷くことも出来ずに、涙で彼の胸を汚して。


「……ノーザン、悪いが――」

「ひとまず、落ち着ける場所を探します。少しお待ちを」

「ベリー、君もいいな?」

「……、はい」


そんな姉の姿を、妹はどのように見ていたのだろう。


多分、それは酷い裏切りだった。

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