おまじない 四

ロランドに感謝するべきは、父が最期を迎えるまで嘘を重ねてくれたことだろう。

おかげで父は、ほんの少しの希望を胸に旅立てた。

品性は下劣な男であったし、父への情などないだろう。

内心嘲笑っていたには違いないが、父の前でそれを表にすることはなかった。


良くも悪くもロランドは商人であり、金にならないことはしない男。

金になるならば媚びへつらい、地に頭を擦りつけることも厭わない。

それが何であろうと、目的のためにならそれ以外の全てを手段に用いる。

そういう考えには見習うべきところもあるだろう、とラズラは思う。


――ロランドが泊まる宿は立派なもの。

ガーゲインからは北西、ラズラ達が住んでいたセルクートでは最も大きな宿で、貴族や富裕層の密談、逢い引きにも使われる。

宿の主人もそれ以外も、ラズラが貴族と気付いても、一切何も触れはしない。


「――ひとまずご安心を。見ての通り、借金については私の方で一度立て替え補填しておりますし、無論これに関して利息を取るつもりもありません。ただやはり、魔水晶の高騰による負債ばかりはどうにも……ひとまず契約は私が引き継ぐにしても、大きな損失。お父上とのこれまでがあるとはいえ、善意で受けると私も首を括らねばなりません」


アルガン家の資産を含めた情報が記された様々な書類と、債権の証明書。

それを静かにラズラは眺める。

魔水晶の契約に関しても、アルガン家の代わりにロランドが。

契約を引き継いだ場合の損失を概算で出しており、それがそのまま借金に入っている。

家宝も含め、屋敷ごと手放しても足りない見積もりであった。


ただ、単に数字で考えるならば、法外ではなく妥当。

むしろ、少し安いくらいであったし、良心的と言えるだろう。

大体のところは予想が付く。

要するに、その差額がラズラとベリーの値段という訳だ。


元々、アルガン家を解体するために画策していたロランドである。

自身の損失は最小限になるよう裏で色々と根回ししていたであろうし、そもそも損失などほとんど存在しないのかも知れないが、彼がどれだけの利益を得るかを考えても仕方がない。

商売で父は負けて、ロランドは勝った。

それだけの話で、その勝敗はどうあっても覆せない。


目を閉じると、肩の力を抜く。


「覚悟は出来ているわロランド。債権を手にして、父を亡くした小娘相手……ここまで来れば恐れることはないでしょう? 遠慮せず、単刀直入に言ってもらって構わない」

「流石は聡明なラズラ様……話が早い。それにご立派な覚悟です」


大袈裟に両手を広げ、けだもののような笑み。

勝ち誇り、見下すように、悦に浸ってラズラを眺めた。


「見事なものだと心から尊敬するわ、嫌味ではなくね。……わたしの身売り先はどこかしら? あなたのこと、もう決まっているのではなくて?」

「ええ、候補は十分に。ベリー様に関しても、引き取りたいという方が何人かいましてな……無論、年齢やお体の事情は伝えておりますが、それでも良いと仰る方が」


ラズラは眉間に皺を寄せる。

ロランドは悪意を隠さず笑みを深めた。


「そんなお顔をされるだろうと思っておりました。ラズラ様はともかく、やはりベリー様はどうしても年齢が年齢……それが良い相手となるかは運の要素が大きいですからな。無論私もお相手に関しては見極めるつもりではありますが……世の中は恐ろしいもの。慈悲深い善人の顔をして、言葉に出来ぬようなおぞましい趣味を持たれる方もいるものです」


思わず拳を握るラズラに笑う。

ラズラの覚悟も承知の上――その上で、ロランドは嘲笑っていた。


「あなたに人の情があるのであれば、一つだけ願いを聞いてもらえないかしら」

「もちろん、私も心苦しいですからな。あれほど立派であられたアルガン男爵のご令嬢が、そのような不幸な末路を辿るなど」


良くも言えるものだと、感心するほど。

怒りを押し殺して、静かに頭を下げる。


「わたしはどうなっても構わない。どんな相手でも、どんな目に遭わされても、それで殺されても文句は言わないわ。……ただ、あの子だけはどうにか助けて欲しい」

「困りましたな。ラズラ様からそう頭を下げられては、私にも立つ瀬がありません」


笑いを滲ませながらロランドは告げる。


「こういうのはどうでしょう? お二人で王都の集まりへと参加して頂く、というのは」

「……集まり?」

「ええ、お顔を上げてください」


ロランドは愉しそうにラズラを見ていた。


「王都でも有数の、富裕層ばかりが集まる……そういう会です。舞踏会から他の催しまで様々ではありますが、そこでラズラ様に自ら、お相手を見つけて頂くというのは」

「……ベリーも?」

「ええ、もしかすれば……妹君共々もらってくださるお優しい方と出会える可能性もなくはないでしょう。その方との交渉次第となりましょうが……ご自分の目でお相手を見極めることが出来るなら、ラズラ様も納得はしやすいでしょう」


ろくな集まりではないだろう。

ロランドのような人間ばかりが集まるような、そういう場所。


「お考えの通り、日の当たらぬ場所……事前に申し上げれば事情ある貴族や商家の子女が集められる娼館のようなものです。ただ、ラズラ様ほどの器量と聡明さがあれば、借金を肩代わりしてでも身請けしたいと仰る方は必ず現れるでしょう」

「……娼婦をやれと言うのね」

「ええ。無論、ラズラ様に関しては現状でも優良な貰い手が多いですからな。……北部ではそのお美しさもよく知られておりますから、もし抵抗がお有りなら――」

「いいえ、それでいいわ。連れて行ってちょうだい」


考えるまでもなかった。

娼婦にしても、随分と高級だろう。

食う者に困って身を売る貧民だって、世の中にはいくらでもいる。


「流石はラズラ様……感動致しました。もし万が一、ベリー様の引き取り手が決まらないことがあれば、私が身銭を切って引き受けることも視野に入れましょう。……ご安心を、そういう意味では私の趣味は人並みですからな」

「っ……」

「お体さえ良くなれば、ラズラ様同様、お美しく成長なさることでしょうから」


ラズラの覚悟も何もかも、全てを嘲笑っていた。

けれど、声を張り上げて罵倒したところで意味もない。


「……さて、やはり私も高貴な方々に紹介するに当たって、ラズラ様のことは良く知っておかねばなりませんからな。是非、お体を拝見したいのですが……失礼のないよう、閨の作法も色々と教えなければなりませんし」


それに、決して全てを失ったわけではなかった。

己の名だけはここにあり、守るべき者がラズラにはいた。

そうである限り、そう信じる限り――地に頭を擦りつけても、靴を舐めても、貴族としての在り方だけは穢れない。


「……ええ。どうぞ、気が済むまで」


口にすると立ち上がり、ベッドに目をやる。

呼ばれる前から覚悟はしていた。今更動揺したりもしない。

裸体を晒して抱かれるだけ。

言葉にすればそれだけだった。


己の名に恥じぬよう、堂々としてさえいればいい。

嘆く必要なんてなかった。









日が落ちてから屋敷に帰ると、気遣うような、憐れむような使用人達の顔。

笑顔を浮かべて嫁ぎ先が決まったと口にし、これまでの礼を言って、そのままラズラはベリーの部屋に。


「……ねえさま」

「全く、まだ起きてるの?」


部屋の窓は開いていて、部屋の空気は肌寒い。

出かけるときもそうだった。

多分、外を眺めていたのだろう。

ラズラが出かけて、帰るまで。

その顔は、既にラズラが何をしてきたか察しているように見えた。


顔を少し俯かせるベリーの頭を優しく撫でる。

そうして、何と伝えれば良いかとしばらく考え込んだ。


優しい嘘は、優しさにさえならないだろう。


「来週おねえさまと一緒にロランドの馬車に乗って、王都に向かうことになったわ。……はっきり言えば奴隷の姉妹ね。身売りをするの」


いつもの調子で、普段通りに。

そう告げることを決めた。


「運がちょっと悪かったけれど、でもまぁ、悪い話ではないわ。パンの代わりに体を売らなきゃいけない人間がいることを思えば、恵まれすぎなくらいの好条件。おねえさまは世界で一番の美人だし、あなたには負けても賢いもの。上手くお金持ちの相手を見つけて、買い取ってもらって、それからはあなたと一緒に悠々自適の生活かしら」


ベリーは黙って、それを聞く。

多分、自分のこれからなど、欠片も考えてはないのだろう。


「安心してちょうだい。あなたのことはわたしが――」

「……ねえさま」


考えているのは、ラズラのこと。


「わたしのことは気になさらないでください。……ねえさま一人ならばそんな場所で身を売らずとも、貰い手もあるのではないですか?」


妹は誰よりも賢かった。

再び迷って、苦笑し頷く。


「……、ええ、そうかもね」

「なら、そうなさってください。わたしはこれ以上、ねえさまの……」


顔を上げると、ラズラの頬に手を。

真っ直ぐと、嘘偽りなく、真摯に見つめる薄茶の瞳。


「……わたしにこれ以上、ねえさまを不幸にさせないでください」


震える小さな手に触れて、目を細める。

こんな妹が側にいて良かったと、心から思う。


「わたしはあなたがいて幸せよ、ベリー。あなたがいるから、今も幸せでいられるの」

「そんなの――」

「――あなたがいないと、わたしが歩けないの」


その手に頬を押しつけて、静かに笑う。

ラズラはまだまだ子供であって、大人ではなかった。

あるいは、大人と言っても、いつまでもそういうものなのかも知れない。


守るものもなく、一人で立てるほどには強くはない。

己以上に、己のことを想ってくれる相手がちゃんといる。

そういう幸せな現実だけが、ラズラをきちんと二本の足で立たせてくれていた。


「あなたの言うことは間違いじゃないわ。きっと楽でしょう。でも、わたしにとっては考える余地もないことなの。……何よりわたしが、そんなわたしの幸せを許せないもの」


涙を堪えるような、そんな妹の頬を撫でる。


「お父様の前でこの名に誓ったわ。後のことは全部、任せて欲しいって。でも、責任感でも義務感でもない。わたしが信じる生き方を、わたしが決めて、わたしがわたしに恥じることない、そんな生き方を選んだだけ……」


それから、笑った。


「断言するわ。苦労もするし、辛い思いもさせるでしょう。……でも、あなたがわたしを一人の貴族だと認めてくれるなら、わたしに誓いを守らせてちょうだい」


顔を歪めた妹は、目を伏せながら拳を握る。

その小さな体を抱きしめると、そのままベッドへ潜り込む。


「……何もかもを失ったって、貴族には名前が残る。そういう風にわたしは生きたいわ。……でも、普段偉ぶってるおねえさまも、実はまだまだお子様だもの。自分一人じゃそんな風には生きられない」


自分がどんな目に遭っても、名前だけは穢さない。

口にするのは簡単だろう。

けれど人間は弱く、脆いもので、その心も時に移ろう。

誓いを守り抜けると断言出来るほど、ラズラは自分を信じていない。


「だからわたしには、あなたが必要。……分かってくれるかしら?」


彼女の頬を今度は両手で挟み込み、その雫を指で拭う。

大きな薄茶の瞳が、ラズラの瞳に向けられた。

ただただ真摯に、ラズラを想って零れる雫は、この世の何より美しい。


自分がどんな目に遭っても、名前だけは穢さない。

そんな誓いを守り抜けるだなんて思わない

けれど、こんなにも美しい涙を浮かべる少女のためならば、自分にも出来るような気がしていた。


「ねえさまが……わたしを必要としてくださる限り」


多分、妹はラズラが思うよりもずっと、その強く言葉を受け止めた。

己が誰より呪う自分が、この上更に守られて、生かされる。

こちらを見つめるその目に浮かんだものは、愛であり――深い憎悪でもあったのだと思う。


その代わり、と妹が続けた言葉は、


「……これからもずっと、わたしと一緒にいて頂けますか?」


甘えるような、そんな一言。

それを自分に許さない、そんな少女の、子供のような言葉。

何も望まなかった少女が口にした、最初で最後の、己のための小さなわがまま。

聞きようによっては、軽く流してしまえる程度の。


「……もちろん、あなたがそう望んでくれる限り」


その問いかけは、恐らく一つの契約だった。

ラズラでさえ悲観する状況に、妹はどんな未来を描いただろうか。


身を寄せて、ラズラの乳房に顔を押しつけながら、安堵するように。

深い深い地の底へ、共に堕ちて行くことを決める契約。

死生を共に――妹にとって例えばそれは、心中の誓いよりも重い言葉であったのだと思う。


生きることさえ望まぬ妹の愛は、誰より深く、誰より重く、絡みつくよう。

まるで没頭するような、そういう捨て身の愛だった。





次の週にはロランドの馬車に乗って王都へと。

最後まで残ってくれた、付き合いの長い使用人達は涙を流して見送りに。

だからこそ、笑顔を浮かべて別れを告げる。


環境は悪くなる。

酷い扱いも受けるだろう。

けれど、それだけのことだ。

自分を案じる人がいるのなら、自分で案じる必要もない。


落差に戸惑うことはあるだろうが、物事にはいつか慣れるもの。

そして妹ほどではないものの、自分は中々優秀、器量良し。

どうせ娼婦になるのなら、一番を目指して楽しめば良い。

どんな場所にだって、楽しみの一つや二つは見つかるだろうとラズラは思う。


旅の間、妹は素直であった。

食事は無理をしてでも残さず食べ、しっかり体を休ませる。

時には膝を枕に横になり、甘えるように身を寄せて。


そうする理由は分かっていて、それが何より愛おしい。


「ほら、ベリー。あれが双子山よ」


起きているのか、眠っているのか。

そんな調子でラズラの腕を抱きながら、ベリーはその声で静かに窓の外に目をやる。

並んで聳える二つの山。

王都圏に入るのは、随分と久しぶりであった。

ベリーが生まれるよりも前、幼い頃に義母に抱かれて、馬車の中――何かの宴に出席するためであったか。

あまり記憶は残っておらず、けれどその景色は覚えている。


初めての遠出に興奮するラズラと、優しく苦笑する義母。

お山が二つとラズラが言えば、双子山ね、と義母が答えた。

そんな、ちょっとした旅の思い出と共に。


「あれを抜ければ王都圏……気候も少し暖かくなるから、ベリーには過ごしやすいかもね。ただ、ちょっと抜けるときには起伏があるから酔わないように」

「……はい、ねえさま」

「双子みたいだからそう呼ばれるんだって。確か、そう、元は一つの山で……」

「かつて古竜が二つに分かったと、本の伝承に」

「そう、それよ」


指を立てつつラズラは頷く。


「最初は一つで、二つになり……双子でなくても姉妹だって似たようなものね。あっちの少し高い方をラズラ山と名付けようかしら」

「……ミツクロニアです」

「冷静に突っ込まない。おねえさまはおねえさまが呼びたいように何でも呼ぶの。小さい方がベリー山ね」


ラズラは笑ってベリーを膝に。


「ふふ。……姉妹っていうのは半身かしら。あなたが羨むわたしがいるように、わたしが羨むあなたもいて……それでもただ、側にいるの。時に残酷で、けれど幸せなことだわ」


誰よりも側で、色んなものを見せてくれる相手。

ベリーはラズラと鏡映しに、色んなところが真逆であった。

性格も、得意なことも、色んなところがラズラと違う。

けれど不思議と通ずる部分があって、他人だなんて思えない。


「わたしは完璧なんかじゃないけれど、あなたさえいれば完璧だって思えるわ。あなたのおねえさまとしてなら、わたしは完全無欠で怖いものなしなの」


――だからあなたは、側にいてくれるだけでいい。


そう告げた言葉に妹は答えず、そのまま顔を押しつけた。

妹は気遣いと取るだろう。

死さえも厭わぬ覚悟に対する侮辱であると。

しかしそれは、紛れもないラズラの本心であった。


ただ生きることを望み、何もかもを投げ出したくなるような弱い心。

楽を選ぶことはいつだって簡単で、体はふわりと浮かぶよう。

身も心も投げ出すような妹の、纏わり付くような愛の重さだけが――不確かな足元へと、両の足を押しつけてくれた。


「愛してるわ、ベリー」


優しく撫でて、ラズラは同じく目を閉じる。

妹の重みを感じながら。


馬車の旅はそうして静かに先へ。

王都に辿り着くと、宛がわれたのは一級市街にある、宿の一部屋。

ドレスを仕立てる間、ラズラはロランドに連れられ、あちこちの宴に顔を出しては挨拶を。

新たに入荷した商品のご紹介、感覚としてはそういうものだろう。


ドレスが仕上がれば、大きな屋敷の一つに足を運ぶ。

仕立てられた夜会のドレスは肌が透けるほど生地も薄く、下着のような代物であった。

少々品の良い娼婦という程度で、下品なドレスには変わりない。

妹にとっては初めてのドレス――こんなことなら屋敷で過ごしていた頃に、無理矢理お古でも着せておけば良かったと後悔した。

ドレスと聞けば、きっと、この時のことを思い浮かべてしまうだろうから。


「――おぉ……実に美しい。お二人ともお似合いですな」


それを見たロランドは愉快げに笑い、その顔をラズラは冷ややかに。

ベリーは憎悪を込めて彼を見つめた。


「ベリー様、そのようなお顔をされてはいけませんな。私を恨まれるのは仕方のないこと……それは別に構いませんが、他の方々に無礼があって困るのはラズラ様です。笑えとまでは言いませんが、外でそのような目をなさいませんよう」

「……はい」


そんなベリーの肩に手を置いて、嘆息する。


「自分じゃ着ることもないドレスで新鮮ね、素敵なドレスをありがとう。プレゼントならもう何着か、わたしにドレスを頂けると嬉しいけれど……一着で着回しは大変だわ」


ロランドは感心したように頷く。


「本当なら自ら買って頂きたいところではありますが……他ならぬラズラ様の仰せとあらば。流石に新たな仕立てのものとはなりませんが、古いものをいくつか見繕って、仕立て直させましょう」

「あら、言ってみるものね」

「……大抵こうして連れられて来たご令嬢は、ただただ悲しみに暮れるか、怯えて媚びるか、自棄になるか……まぁ、そのようなものです。ラズラ様のように堂々と、先を見据えて現実を受け入れられる方は珍しい。……私のような下賤の身には目映いくらいです」


貴族というものを嘲笑い、見下している男であった。

ただ、かつてはそれも、ただの羨望や嫉妬であったのだと思う。

馬鹿にするような謙遜の言葉には、一抹の本心が混じっているようにも聞こえた。


「そう、世辞でも嬉しいわね」

「……まさか、本心ですとも」


小物で下劣であったし、最低の男。

けれどそれは、あくまでラズラの視点でしかない。

そんな男がこうした立場になるまでには、貴族として生まれたラズラには分からない、相応の苦労や屈辱も味わってきただろう。

何も持っていなかった男にして見れば、綺麗事を聞かされながら、日当たり良い場所で育った貴族なんてものは憎悪の対象に違いない。


恨んでいるし、殺してやりたいとは当然思う。

ただ、お互い様と思える程度には理解が出来て、憐れんでもいた。


この男は利があれば、相手の靴を舐めることさえ厭わないのだと思う。

けれど自らそれを好む人間などいないもの。

不愉快には違いなく、単に慣れていると言うだけで、慣れるくらいにそうした日々を送ってきたからだろう。


品性も誇りもないと屑だと見下すのは簡単なことであったが、それはいつか父の語ったような、正しい見方ではなかった。

学ぶつもりで見なければ、得られるものも得られない。

少なくともこの男は、ラズラが見習うべき相手でもあった。


「私は商人……見る目は確かなつもりです。物も人も、この世の全ては玉石混交……その価値を見極め生きてきました。ラズラ様にはそうするだけの価値があると思えばこそ、そうするまで……それは情でも世辞でもなく、商人としての道理です」


大袈裟な身振り手振りで役者のように。

無様で滑稽で、全てを嘲笑う道化のように、ロランドは一礼する。


「正直に申し上げれば、手放すことさえ惜しいほど。……けれど私は、そんなものほど自分の側には置きたくない。ご存じの通り、卑賤な小物でございますから」


ラズラは笑って告げる。


「あなたは随分長生きが出来そうね、ロランド。……その目が曇らない限りは」

「ご忠言、感謝致します。肝に銘じておきましょう」


純粋な称賛のつもりであった。

そうでなければ、父が何故死んだのかも分からない。


それから、ロランドに連れられて会に出る。

言うなれば少々下品な見世物がある宴であったが、それ以上のこともない。

ごく普通に参加して、挨拶し、気に入られれば別室に行き、花を売る。

あるいは後日、どこかの宿で。


惨めであるとは思わない。

相手を選ぶ自由はあったし、帰りの馬車代に金貨を渡されることもある。

そうして色を付けてくれる相手も少なくはなく、花売りとしては上流だろう。

愛を確かめ合うだとか、神聖な儀式だとか、そういう少女のような憧憬を捨てさえすれば、行為は行為で仕事は仕事。

大したことでもありはしない。


ベリーは必ず、ラズラの側に付き添った。

ラズラが仕事を終えて、姿を現わすまで、部屋の外でじっと待つ。

最初の頃こそ先に帰るよう伝えたが、すぐにラズラも諦めた。

小さな彼女に興味を抱く連中も少なくなく、一人にするのは不安であった。

許されるならすぐにでも、妹はそれを選ぶだろうと思えたから。


仕事を終えて顔を合わせる度、大きな薄茶の瞳がラズラを見上げる。

愛するラズラを案ずるように、悲しむように――あるいは、憎悪するように。

ラズラの心が折れ、必要とされるのを待つように。


自分だけが綺麗なままでいることが、妹には何より許せないのだと思う。

こうしてラズラに付き添うのは、自傷行為のようなものだろう。


自ら共に堕ちていくことを望むような、暗い期待が滲んだ瞳。

夜との境の黄昏色は、ぞっとするほどに美しく、絡みついては纏わり付く。

ラズラが望むのであれば、どこまでだってついてくるに違いない。

深い闇の底の底まで、昏い安堵に満たされながら。


あの言葉は、恐らくそういう契約であった。

だからこそ妹は日々、憎悪のような愛を募らせる。


「残念ながら、今回もわたし達を買ってはくれなさそうね。見る目がないわ」

「……そうですか」


だからこそラズラは、いつでもベリーに笑って見せた。

例え何で負けたとしても、意地の張り合いで妹に負けては立つ瀬なんてありはしない。


「全く、腹が立ったらお腹も空いたわ。帰りましょうか、ベリー」

「……はい、ねえさま」

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