おまじない 三
ルーベルが悪い人であったとは思わない。
幼少の頃から接してくれた優しい姿も、ベリーに対して接してくれた姿も彼の一面。
ラズラのわがままを嫌な顔一つせず聞き入れ、妹に学問を教え、その才能を評価し、学者の道を勧めた言葉にも何ら嘘はなかっただろう。
ただ、人間は色んな面を併せ持つもので、完璧な人間なんていない。
普段表に見える部分だけが全てではなかった。
暗い一面を見せないように、意識しないように、皆そうあろうと努力しているだけ。
たまたまそれが表に出ることがあっても、それもまた全てではない。
何かに挫折し、劣等感に苛まれていた人でもあったのだろう。
けれど彼は確かに、子供想いの熱心で優しい先生でもあったのだとも思う。
少しして冷静になり、後悔して。
そうして後日、彼は屋敷に訪れ、父に事情を話し教師を辞する旨を伝えた後、自分の未熟さのせいでベリーに酷いことを言ってしまったと、ラズラに頭を下げて謝罪した。
恐らく、本心からのもの。
ベリーにも許されるなら謝罪したいと口にしたが、ベリーは体調を崩して寝込んでおり、後でラズラが言葉を伝えた。
ベリーにも合わせる顔がなかったのだと思う。
心から尊敬していただろう、そんなルーベルを怒らせたこと酷く後悔していた。
それからしばらくは、ラズラが顔を出しても眠ったふり。
話をしてくれるようになっても、本を取るために自分から部屋の外へ出ることもなくなり、自分から何かを尋ねてくれることもなくなった。
使用人達は温厚なルーベルを怒らせたベリーの話を陰で口にし、部屋から出なくなった彼女をより、気味悪がるように。
外の世界に目を向け始めていた妹は、以前に増して、心を閉ざすようにベッドで過ごした。
ラズラに対しても距離を取るように、もう顔を出さなくて良い、と度々口にする。
「……食欲がありません」
「だーめ、無理をしても食べるの。おねえさまはあなたが食べ終わるまで帰らないわよ」
以前よりもずっと、痩せた体。
随分と体調も悪化して、けれども食欲がないと食事を残す。
体が大きく成長する時期だというのに、心配だった。
「はい、あーん」
無理矢理スプーンを口に押しつけると、ようやくスープを飲み始める。
それを何度か繰り返していると、伏せられた目から涙が零れて、顔を覆い、静かに泣き始めた。
しゃくり上げた声に咳き込み、ラズラはそんな彼女の背中を撫でる。
妹が落ち着くまで、繰り返し。
抱きしめると、ベリーは安堵するように――抵抗するように。
体は弛緩し、強ばった。
姉に甘えるそんな自分も嫌いで、世話を焼かれる自分も嫌い。
消えてしまいたい、と消え入りそうな声で口にした。
毎日毎日、頭の中で妹は自分を責め続ける。
生まれてからずっと迷惑を掛けてきたのだと、そうやって彼女は自分を責める。
妹は多分、生まれてから一度も、自分を肯定的に見たことがなかったのだと思う。
誰もが羨むような才能を持ちながら、劣等感に支配されていた。
普通の人が普通に出来ることさえ、出来ない自分。
普通の人が普通に理解出来ることさえ、理解出来ない自分。
その才能に理想ばかりが肥大して、自分が子供だなんて言い訳さえも許さない。
自分を取り巻く全ての不幸を、自分のせいだと責め立てる。
想像して、理解しようとして、そんな彼女を否定して。
責めなくていいと繰り返し伝えても、言葉は上手く伝わらない。
それでも、少しでも。
伝わるものがあるのだと、言葉を尽くして信じる他にないのだろう。
「消えてしまいたいくらいあなたが自分を嫌いでも、わたしはその百倍、あなたのことを愛してるわ。……もしも消えたいと思っても、あなたを愛するおねえさまのために生きなさい」
何も答えない妹の頭を優しく撫でる。
「それから、そういうことを二度と言わないこと。……おねえさまが悲しいもの」
同じ言葉を何度も、何度も。
少しでも届けば、それだけで良いと思う。
自分を責める妹の声の中には、違う声がたった一つでも必要だった。
いつかこの妹が、自分を責めずにいられるように。
その言葉が、そうした理由一つになれば良いと願って。
ある日、応接間から出てきたのは小太りの男。
「おや、これはこれはラズラ様……お美しくなられましたな。ベルティース伯爵の宴以来です」
「……久しぶりですわね。今日は父との商談に?」
「ええ」
礼儀正しい一礼と品の良い衣装。
けれど、どうにも好意を抱きがたいのはその目だろう。
まるで品定めされるような、そういう目。
なるべく顔を合わせないようにしていたが、近頃何度か出入りをしていたのは知っている。
大商人、というほどではなかったが、若いながらも手広く商売をやっていた。
年齢にしては優秀な商人だと父は語っていて、アルガン家とは以前管理領地での問題で協力してもらったらしく、それからの縁。
「ベリー様のご様子はいかがでしょうか?」
「あまり良くはありませんけれど、落ち着いては……」
「……そうですか。私の方でも方々当たって、良い医者を探してはいるのですが……ひとまず今日は滋養に良いというものをいくつか、お父上に」
「……ありがとう。助かりますわ」
芝居がかったような大袈裟な身振り手振り、表情。
どうしても好きにはなれなかったが、とはいえ父の商談相手。
色々と、ベリーのために体に良いものを持って来てくれてもいた。
感謝はしなければならない、と当時は思っていたように思う。
アルガン家は落ち目――そういう噂があることも知っていたし、商人達との付き合いは重要だ。
「無事快方に向かえば良いですな。心よりお祈りしております」
胸を押さえて頭を下げて、仰々しい振る舞い。
大袈裟であるのに彼の言葉が嘘だと思わなかったのは、きっとロランドが心から妹の体を気遣っていたからだろう。
彼にとって、ラズラやベリーは既に未来の商品であっただろうから。
落ち目の貴族に寄ってくるのは、それを食い物にする者ばかり。
商人にとって、貴族とはそれだけで価値があるものだと、そういうことを理解するにはラズラも社会を知らなかったし、楽観的であった。
努力すればいつか必ず、物事は良い方向に向かうものだ、と。
そうして、彼と別れて応接間に。
そこには難しい顔で契約書と書類を眺める父がいた。
整えられた口髭と、丁寧に後ろへ撫でつけられた赤毛の髪。
父、リールド=アルガンはどんな時でも、貴族としての姿を崩さない。
ジャケットには埃一つなく、スラックスも折り目正しく。
けれど目元に疲れがあり、その深い隈は隠せない。
「……お父様」
「ラズラか。……ベリーはどうだい?」
「落ち着いていますわ。……ただ――」
「……?」
「……いえ。少し、気持ちが沈みがちなくらいで」
ベリーの事を相談しようといつも訪れて、けれど父の顔を見ると言い出せなかった。
疲れた顔――父の部屋の灯りはいつも、夜遅くまで消えることはない。
日が昇れば外に出て、色々な場所に顔を出し、方々巡って帰って来る。
父がどれほど、義母や妹のために尽くしていたかは知っていた。
この上、父の心労を増やすことは出来なかった。
「後で少し、顔を出すよ。こちらに来なさい」
「……はい」
けれど察したように微笑み、隣に座ったラズラを撫でた。
「お前にも随分と苦労を掛ける。すまないね」
「いえ、苦労なんか……」
優しい大きな手の感触。
そうして撫でられると子供のように安堵して、それが少し情けない。
苦しむ妹や父に比べれば、ラズラはずっと気楽に生きている。
色んなものに恵まれて、苦労なんてしてはいない。
「お父様」
「なんだい?」
「その……学問も初歩は学びましたわ。後は教師に頼らず自習で、恥を掻かない程度には出来ると思いますの」
「……そういうことは、子供が気にしなくても良いことだ」
「わたしはもう13ですわ。子供ではありません」
告げると父は苦笑して、また頭を撫でる。
「子供はいつも、そう口にするものだ。……しかし自分が大人と言い張るなら、もう少し大きな視点で物事を考えると良い」
「大きな視点……?」
「教師に辞めてもらえば確かに教育費は浮くだろう。恥ずかしながら当家にとってはそれも大きな財政負担となっているし、削るメリットは大いにある。お前の考えはそういうものだろう?」
「……? はい……」
間違ってはいない、と父は続ける。
「しかしアルガン家は、既に周囲から傾いていると噂される状況だ。この上、家庭教師まで辞めさせたとなれば、いよいよ金が回らなくなったのだと噂は広がる。そうなった家にラズラは例えば、お金を貸そう、なんて思えるかい?」
「……いえ」
「そう、信用されないからね。物事はそういう風に、色んな角度から見なきゃいけない。お金に限った話ではなく、ね」
よく覚えておきなさい、と父は笑った。
いつも、父は優しくラズラに笑う。
父にとって、いつもラズラは娘で、子供であった。
「そして貴族は、信用によってのみ成り立つ存在だ。陛下の庇護の下、多くの権利を与えられる代わりに、己の名、受け継がれてきた家名、そして陛下の御名を穢すことなく生きることを求められる。……これは決して見栄ではない」
黒豆茶を口にして、目を細める。
「命より名を重んじるのが貴族の在り方だ。貴族として生まれた以上は、仮にもしも食うもの、着るもの、住む場所を失ったとしても、己の名に恥じぬように生きなければならない。……私は素晴らしい妻を二人も娶り、愛しい子供を二人も持った」
それからラズラを見つめて、頭を撫でる。
「妻達を前に、この名に誓った。お前もベリーも必ず、私が幸せにすると。……私の心配はしなくていいから、安心なさい。いずれ心配事も消えるだろう」
「……はい」
父は本当に、誰よりも尊敬する貴族であった。
己の名に殉じる者――いかなることがあっても、己の名だけは裏切らない。
仮にどんなに辛くても、当然のように、そういう生き方が出来る人。
「今日はロランドが良い話を持って来てくれた。資金さえ集まれば中々の利益が上がる。それを元手にすれば、多くの問題も解決するだろう」
そう言って書類を示し、ラズラはそれを手に取った。
近年産出が減っている魔水晶に関する取引。
この北部で大鉱脈が発見されたそうで、これから大幅な値崩れが発生する。
それを見越して、職人ギルドと定額で、長期販売契約を先んじて結ぶもの。
魔水晶の値崩れが起きれば、その差額が取り分。
先んじて彼らに長期契約を結ばせなければならないため、現状の流通価格からは少々安価になるが、大きなリスクとなるほどの金額ではない。
軽く眺めた限り、問題はないように思えた。
――逆に高騰でもしない限りは。
「高騰の危険性はないのでしょうか?」
「無論、考えたが……仮に大鉱脈が思ったようなものでなくても、反動は軽微だろう。後は戦争だが、戦に敗れたエルデラントは内輪揉めの最中、ガルシャーンは新政権が樹立し日が浅い。間違いなく大丈夫だろう。エルスレンは次代の皇帝を決めるために揉めてる最中……こちらもしばらく攻めては来ない」
戦争になれば必然的に、採掘などの一次産業は萎んでしまう。
労働者はより実入りの多い兵士に流れ、そしてそれに伴う人足で多くの労働力が戦争のために流れていく。
当然、一般流通する範囲の鉱物資源は大きく高騰する。
需要によって差はあるものの、魔水晶は日用品にも用いられるもの。
鉄鉱石のように需要そのものが大きく増加する訳ではないが、減少するわけでもなく、価格は産出量の影響を大いに受ける。
「後はこの国が他国に攻め入る可能性だが……陛下はまだ、アルバーザ先王陛下から王位を継承されて間もない。引き継ぎにお忙しく、他国へ攻め入るような余裕もないだろうし……ロランドの話でもそれは確かであるらしい」
「なるほど……」
「顔の広い男……その点では信用出来るだろう。普通に考えても、すぐさま他国へ攻め入るとは思えんし、そうした噂も届いてない。まぁ、問題はないと考えてはいるが……一応念のため、知己には軽く、その辺りを尋ねてみるつもりだ」
「……そうですか」
聞いた限り、問題があるようには思えなかった。
ラズラが聞き及ぶ情勢から考えても父の考えは間違っているとは思えなかったし、上手く行く公算は高かっただろう。
商売はリスクを抜きには考えられない。
リスクとリターンを踏まえた上で、悪くはない取引ではあった。
ロランドは元々中央の人間で、出身はキールザラン。
王都にもよく顔を出しているそうで、情報の確度も高いだろう。
話を持ちかけたのがロランドということに不安はあったが、これまでアルガン家は彼との取引でそれなりの利益を得ていたし、個人的に好きではない、という感情を除けば、問題はないように思えた。
「こちらにリスクがない訳ではないし、これが商売とはいえ、多少気兼ねはするが……一応見たところ、取引相手は名も聞く大きな所ばかりだ。経営が傾くことはないだろう。……利潤を追求するのは商人の在り方。あまりに利益が大きくなれば、契約を見直す必要があるだろうが……彼らの生活を脅かしてまで益を貪るのは、貴族の在り方に反するからね」
「……はい」
難しい顔で迷っていたのは、恐らくそちらが理由なのだと思う。
商売の世界では情報が全てで、知らずに損をするのは本人の責任。
だからこそ商人は広く、各地の人間と顔を繋ぎ、あらゆる情報を拾い集める。
けれど父は商人ではなく貴族であった。
詐欺には当たらないとはいえ、こうしたやり方は望まないやり方であったのだと思う。
もしも父が一人なら、それを良しとはしなかったのかも知れない。
曲がったことを嫌う、誠実な人。
けれどそれを選択しようと決めたのは、きっとラズラ達のため。
ラズラ達を幸せにすると、名に誓ったことを嘘にしないためなのだろう。
「……わたしは本当に、幸せ者ですわね」
父が首を傾げると、ラズラは首を振って笑う。
「ふと、そう思いましたの」
見習い、自分を見つめ直すために必要な人達が、ラズラの周りには沢山いた。
それだけでラズラは、誰よりもずっと、恵まれていた。
父とロランドの商談は確かに悪くない話であった。
その話に問題があるとすれば一つだけ。
ロランドが父を嵌めるために意図的に情報を隠していなければ。
そういう前提の上で成り立つ話であった、とただそれだけ。
契約を結んで一年と経たず、王弟ギルダンスタインはウルフェネイト東部、エルスレンへの侵攻を開始。
大きく押し込んだアルベランに対し、エルスレンは村々を焼き払いながら後退。
その後、逆襲を開始し――結果として泥沼の戦いが繰り広げられることとなった。
ロランドは父に額を擦りつけ、涙ながらに謝罪する。
王弟の独断に近い、予想だにしない侵攻であったのだと。
最善を尽くし財政の立て直しに協力すると告げるロランドに、父は頷く。
そうするしかなかったのだろう。
ロランドに嵌められたのではないかと内心疑いながらも、大きな失敗を犯したアルガン家と新たな取引を行なう商人も、貴族もいない。
それが偶然の悲劇であったと、そう語るロランドを信じるしかなかったのだ。
元々心労を重ね、体を酷使していた父は失敗を取り返すように必死で走り回り、しばらくして倒れ、ラズラが十五になる頃この世を去った。
ベッドで涙を滲ませ謝る父に、大丈夫だとラズラは告げた。
生まれて初めて名に誓い、任せて欲しいと言葉を続けて。
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