おまじない 二
ラズラの生まれた頃は、この屋敷もそれなりに賑やかであった。
父がいて二人の母がいて、毎日顔を合わせて、毎日可愛がってくれていた。
食事も風呂も最初の頃は両親と、当然のようにそんな日々を満喫していたが――しかし、妹にとってそれは味わったことのない日常なのだ。
父はラズラを愛してくれたし、ベリーのことも気に掛けていた。
義母やベリーのために色んな医者や、少し怪しい呪い師まで呼んできて、ただ、それで少しばかり金銭面でのやりくりが大変なようで、あちこちを走り回って家にはいない。
それも少し悪い方向に働いてしまったのだろう。
義母が体を悪くしたのも、ベリーの体が随分と弱かったのも仕方のないことだ。
けれど『ベリーお嬢さまが生まれてから、アルガン家は傾いた』だなんてことを陰で語る使用人がいることは知っていたし、頭の良い子――きっとそれを感じ取っていたのだろうと思う。
「なるほど……確かにそれは心配だな」
「はい。どうしてあげれば良いかと迷ってまして……」
庭で話をするのは、金髪の青年。
アルガン家とは付き合いの長いクリシュタンド家の人間で、今ではその当主となったボーガン。
顔を見たのは義母の葬儀以来。
久しぶりに見た顔はずっと精悍になっていた。
初めて会ったときはどちらかと言えば細身の美青年という雰囲気であったが、今ではずっと背が伸びて、筋肉が付き、戦士というべき雰囲気がある。
初陣を終えたことが理由か、その目は以前より鋭く見え、けれど優しい雰囲気は変わらない。
「……すみません、ボーガン様の方がずっと大変でしょう。お母様はショックで今も寝込まれているとか」
「クリシュタンドは武門の家。気にしなくていい。父上達のことは残念だったが、貴族として立派な最期を遂げられたのだ。悲しむことではないし、無事に私も爵位継承を陛下より許され、肩の荷も降りた。こうして君の話を聞くことで私も良い気晴らしになっている」
ボーガンは笑みを浮かべた。
「それに戦場ではガーレン隊長という得がたい出会いもあった。貴族でもなく、魔力も操れないが、いずれあの方は将軍になられるであろう。ついて行けば間違いないと思える方だ。決して悪いことばかりでもない。父上ならば悲しむよりも、そうした出会いを喜び、今を楽しめと笑うだろう」
心からそう口にするボーガンは何とも強い人であった。
数年前からつい先日まで続いていたエルデラントとの戦いは、随分酷いものであったと聞いている。
最終的に押し戻し、講和に到ったそうだが、多くの戦死者が出ていた。
付き合いのある家でも息子が戦死した事を悲しむ人間はいたし、彼の父と兄も戦死――配属場所の違った彼だけがクリシュタンド家で生き残ったらしい。
それでも暗いものを一切感じさせない瞳は輝いて見え、強く、魅力的な人。
自分と年齢がもう少し近ければ、縁談だとかそうした話もあり得たのだろうが、ラズラはまだ12の子供で、ボーガンは大人であった。
それに一人貴族でも文官貴族ならばともかく、軍人貴族で階級は最前線で戦う兵長。
戦死のリスクが高い以上、そうした相手に娘を娶らせるのには勇気がいるし、先代から付き合いのあるクリシュタンド家とはいえ、父もそれは望むまい。
寡婦となれば相手が少なくなるし、彼の兄がいた以前ならば婿として迎える可能性もなかったではないが、彼もクリシュタンド家の当主である以上、婿にはなれない。
こんな人が未来の相手であれば――淡い恋心には諦めが纏わり付いていた。
「私は大丈夫。それより……君の妹だ。いくら体が弱いとは言え、部屋で何年もというのは辛いはず。何か君と共に学ばせてみればどうだ?」
「学ばせる……」
「無論、部屋で出来るようなものから……例えば君の授業を横で聞くだけでも良い。知らない相手と会い、話し、聞いて、外の風を感じてみれば変わるものもあるだろう。病は気からというが……実際我々魔力保有者にとって、精神が与える体への影響は強いそうだ。外への興味が出れば、自然と体も良い方向に向かっていくかも知れん」
「……なるほど」
確かに、あの部屋に閉じこもったままというのは良くあるまい。
自分や屋敷の使用人ばかりではなく、家庭教師と会わせてみるというのも一つの手かも知れない。
「閉じた部屋ではカビが生え、淀んだ水は腐るもの。変化がなければ悪化していく一方だろう。本人の問題……それで解消するとは断言出来ないが、周りの者の役目は少し窓を開けて、風を通してやることだと私は思うよ」
「……はい」
「何、明るい君がそうやって気に掛け共に過ごしていれば、きっと大丈夫だ。導く側に立つ者はいかなる時も笑顔を見せなければならん。これは軍人だけではあるまい」
頭を撫でられ、微笑み頷く。
「そうですね。仰る通りかもしれません。……頑張ってみますわ」
「ああ。私はそろそろ戻るとするよ。休暇も終わり……エルスレンが不穏な動きを見せているという話もある。休んだ分、鍛え直さねば」
「……また戦になるのでしょうか?」
「そうだな。恐らく遠くない内に……だが、心配するな。言ったように私のいる百人隊は最高の隊だ。必ず生きて戻り、また顔を出そう」
「……はい。お待ちしておりますわ」
そう答えると、彼は力強い笑みを浮かべ、胸を親指で示すような答礼を。
再会はそれから四年近く後のことであった。
確かに、妹には外の世界を知る機会が必要だろう。
あの部屋の中から見渡せる、窓からの景色以外の何かを伝えられれば良いのかも知れない。
迷惑ではないかと不安そうにしていたベリーを無理矢理部屋から連れ出し、隣に座らせ共に授業を。
歳が離れているだけあって、ラズラの授業は随分と先に行ったもの。
流石のベリーもさっぱりだろう、と姉振って、色々教えてやろうなどと考えていたものだが、出来の違いというものは残酷である。
算学はもはや初日の時点で教わる側、語学や法学もあっさり追い抜かれ、宿題の時間には妹という家庭教師に指導される側。
盤上遊戯などルールを教えたその日には、逆に気を遣われる始末である。
姉の沽券に関わるとこっそり予習をした所で、ベリーは更にその上を行く。
姉として色々勉強の面倒を見てやろうなどという目論見は呆気なく頓挫し、そういうものだと諦めるまで三ヶ月と掛からなかった。
何をどう頑張ったところで勝てない相手はいるものだ。
この妹に頭の良さで勝てるものなど果たして、王国に何人いるものか。
それを考えると勝負すること自体が馬鹿らしく思え、そうした勝負はあっさり投げた。
ただ、ボーガンの言うとおり。
少しずつではあるが、ベリーの表情は明るいものになっていくように思えた。
控え目に、静かに口元を柔らかく――ふ、と笑う様は綺麗で、愛らしい。
ラズラが顔を出すと、ほんのりと目元を緩め、蕾がその内側をそっと覗かせるよう。
「何を読んでるの?」
「先日、ルーベル先生からお借りした本を」
あれから一年と少し。
背丈は伸びたが、今もベッドの上が彼女の定位置。
膝の上に本を一冊広げながら、左手の指先で器用にコインを転がす。
手慰み――何かを考え込んでいるとき、彼女は良くそんなことをしていた。
くるくると、指の間で鮮やかに転がるコイン。
最初、自慢するために教えたのはラズラであったが、やはりあっという間にマスターし、今では本に目を落としながらも淀みなかった。
ベリーは賢い上に器用であったが、それだけではない。
努力する、という感じとも少し違うのだが、何かを学ぶことへの集中力が凄まじく、コインの手遊びを教えた日もその後一晩中、コインを指で転がしていた。
『……何だか、上手く出来ないのが気になってしまって』
翌日、熱を出したベリーは、看病しながら呆れるラズラへ申し訳なさそうに。
飽きるだとか、疲れただとか、そういう概念がないだろうかと時々思う。
何かを勉強したり、練習するというのは苦行の連続だ。
無論面白い時もあるし、結果が出れば楽しいが、苦行の時間の方が長いだろう。
けれどベリーは上手く行かない、出来ないだとか、分からないことがあるだとか、そういう時にはただただそれに没頭する。
やはりそれは、努力とは少し違うもの。
本人も別に、好きでやっているわけでもないのだろう。
それでどうなりたいという訳でもないのだと思う。
出来ないことを出来るようになるために、分からないことを分かるようになるために、ただそれだけのためにやる。
空腹だからと食事をするような、そういう感覚なのかも知れない。
もっとも、ベリーにとってはそういう欲求の方がどうでも良いのかも知れないが。
枕元には別の本。
魔水晶の刻印に関する父の蔵書。
近頃変わったことの一番は、ベリーが自発的に部屋の外に出ることになったこと。
本を取りに父の書斎に行く、とただそれだけのことだが、大きな一歩で良い変化だった。
ルーベルというのは屋敷に通う家庭教師。
数学の教師であったが、魔術師でもあり、一時期は王都で本格的に師に学んでいたそうで、それに関連する本もいくつか出していた。
ベリーが持っているのも彼が記した本である。
数学と魔術は全く別のものに見えて、結構近しい分野であるらしい。
ベリーの数学的才能を高く評価したようで、興味があればどうかと軽く術式刻印の初歩も講義してくれており、熱心であった。
体が弱いことは多くの点で苦労もあるだろうが、学問の道は誰にでも開かれる。
病弱な身でも大成した学者や魔術師は少なくない、と励ましてくれたことも大きく、近頃のベリーが明るい表情を見せるようになった理由の一つだろう。
以前はラズラのことを随分褒めてくれたものだが、おまけであったベリーの方に今では掛かり切り――少しばかり思うところがないではなかったが、不思議なもの。
自分が見出した妹の才能をこうして評価されることは、我が事のように嬉しいとも思う。
本に目を落とすベリーの視線は例の状態。
まるで世界が本と自分だけになったかのような様子でページを捲り、術式の記述を眺めていた。
没頭している時の顔である。
そんな状態で平然とコインを転がしているのだから、ラズラにも理解が及ばない。
「ぁ……」
「おねえさまが来たんだから、ちゅーだん」
本とコインを取り上げると、ベリーは驚いた様子。
ラズラは妹を睨み付けた。
「全く、夜更かしはしてないでしょうね?」
「えと……」
ベリーは目を泳がせ、はぁ、とラズラは嘆息する。
それから彼女が開いていたページを眺めると、眉を顰めた。
初歩くらいは知ってる程度のラズラには、さっぱり分からないレベルの術式記述。
「……少し、気になってしまって」
「それはもちろん、気になるところだらけでしょう。こんなちんぷんかんぷんな式をよくもまぁ一日中眺めてられると思うわよ」
「ちんぷんかんぷん……」
「お姉さまにはそうなの。ルーベル先生も別に覚えなさい、って言ったんじゃなくて、こういう高等式もあるって紹介するために渡しただけでしょ? あなたは少し気になったらこの世の全てを解き明かさないと気が済まないのかしら?」
「そこまでは、その……」
困った様子で口にするものの、実際この妹ならあり得そうであった。
気になってしまって、の一言で我を忘れて没頭する。
再び嘆息すると、ベリーは指先で唇をなぞり、何かを考え込むように。
それから不安そうにラズラを見上げる。
「あの……怒ってますか?」
「怒ってるんじゃなくて、叱ってるの」
ベッドに腰掛け頭を撫でると、少しほっとしたような顔になる。
「あなたが心配だから言ってるの。熱心に勉強するのは良いことだし、それ自体は素晴らしいことだとわたしも思うけれど、何事もやり過ぎは厳禁。ちゃんと沢山食事をして、ちゃんと寝るときは寝て、その上で勉強するならわたしも安心。そういうこと」
告げると彼女は小さく頷き、ラズラは笑って頬を撫でる。
柔らかく、滑らか――親指で唇をなぞりながら、顔を近づけて続けた。
「怒ってるんじゃない。……あなたが大事だから、あなたを叱るの。お分かり?」
もう一度ベリーは頷いて、唇をなぞるラズラの指や手を眺め、目を細める。
長い睫毛を伏すように、ほんの少し掌に頬を寄せるように。
甘えるようなちょっとした動きが、どうしようもなく愛らしかった。
そのまま額に口付けると、よろしい、とラズラは微笑む。
それから靴を脱いでベッドに上がると、彼女の軽い体を持ち上げて膝の上に。
「あなたは世界で一番可愛いわたしの妹だもの。もちろんわたしにだって好き嫌いはあるけれど、仮に世界中の人を嫌いになったとしても、あなたのことだけは嫌いになったりしないの。……だから安心なさい」
「……はい」
細くて小さな体を優しく抱いて、頭に頬を押しつけた。
ベリーは力を抜いて体を預ける。
自分からは求めたりしないが、彼女はそうしてやると安心した。
甘えるのが苦手な子供。
子供なんてものは、世界が自分のものであるかのように感じるのが普通だろう。
求めれば与えられ、泣けば慰められて、苦しいときは優しくされて。
けれど妹にとって、自分というものは色んなもののずっと後に来る。
体調を崩すほど何かに没頭してしまうのも、そういうところから来るのかも知れない。
欲求なんて普通は我慢出来ないものさえ、何かの前には後回し。
気になったから、分からないから、なんて言葉一つで後ろへと。
疲れただとか、眠たいだとか、そういう欲求さえもが最後の最後。
気を失うまで没頭する。
生まれた頃からいつも苦痛の中にあったから、感覚が麻痺してしまっているのか。
彼女はあまりに自分のことを軽視する。
さらさらとした長い髪の感触を楽しみながら、ラズラは言った。
「もっと甘えていいのよベリー。わたしはもっともっと、どろどろになるくらいあなたを甘やかしたいんだから」
「どろどろ……」
「そう、どろどろ。妹は姉の言うことを聞くものよ。わたしが甘やかしたいんだから、あなたは何も考えず従えばいいの、嫌かしら?」
ベリーはまた、指先で唇を。
少しして、いいえ、と小さく漏らして後ろに手を。
ラズラの頭をほんの少し引き寄せて、頬に自分の頬を擦りつける。
そんな妹の様子にくすりと笑い、尋ねた。
「それで、何が気になってたの?」
「……お父様の書庫にあった、神秘の盗掘者という本に似た術式刻印が記されていましたから、その違いを考えていたのです。どちらも複数の魔水晶を用いた連動式で……お風呂に使う導管に用いられるような仕組みですね」
「……お風呂」
「はい。圧力変化による水の引き込みと、温度変化と監視……そういう式を複合的に組み合わせる構造的部分です。お風呂は例えばの話で、色々と応用が利く術式なのですが……でも、少しアプローチが違うのが気になってしまって――」
そうしてそのまま述べるは考察。
七つになるかならぬかというベリーの話は学者のそれであった。
ラズラに理解出来たのは触りの部分だけで、本格的な話になるともはや理解が及ばない。
けれどもほんの少し、楽しそうな彼女の様子に止めることも出来ず、適当な相槌を打ちつつ頭を撫でる。
ベリーの母――ラズラの義母も、似た雰囲気の人であった。
一人で過ごしている時にはいつも、日当たりの良い場所で本を眺める。
恐らくその本も、元は彼女の持ち物だろう。
父もそれなりに本を好んではいたが、魔術の類には興味がなかった。
静かに、理知的な瞳で文字を追う義母の姿は幼い目にも美しく、ラズラがくだらない質問をすれば、彼女はいつも優しげに微笑んで、すらすらとそれに答える。
当時のラズラには、彼女がまるで世界の全てを知っているかのように見えていた。
元々勉強が好きではなかったラズラがやる気を出したのは、そんな義母の姿に憧れたから。
ベリーには、自分の母の記憶などほとんどないだろう。
けれど雰囲気が本当にそっくりで、不思議と親子なのだと感じてしまう。
その滑らかな長い髪を指で弄び、唇を押しつけた。
妹は、ただただ綺麗な子。
もう少しだけ外に目が向かえば、もう少しだけ彼女を取り巻く何かが変われば、きっと彼女の母のように素敵な女性になるのだろう。
『……あの子に母親らしいこと、何もしてあげられなかった』
義母は亡くなる前に、消え入りそうな小さな声で静かに泣いた。
悔やむ必要などないのだと、いつかそう言ってあげたいと、そう思う。
妹はあなたに似て、とても素敵な女性に育ったのだと。
「――それで、ですね……さっきの……えと……」
「眠たくなってきた?」
ベリーはほんの少し頬を染め、ラズラは苦笑する。
「夜更かしなんてするからよ、全く」
「ぁ、その……」
言いながらラズラはそのまま彼女をベッドに寝かせて、自分もその隣に潜り込む。
優しく妹を抱きながら、小さな欠伸。
「わたしもあなたの小難しい話を聞いて疲れちゃったわ。罰として添い寝の刑ね……わたしが良いと言うまでおねえさまの昼寝に付き合いなさい」
目を見つめると、ベリーは少し恥ずかしそうに。
唇を指先で――癖になった仕草を繰り返し、頷いた。
「……はい、ねえさま」
「よろしい」
ベリーはそのまま身を寄せて、ラズラの胸元に顔を。
目を閉じると、すぐに寝息を立て始める。
よっぽど眠たかったのだろう。
「……お馬鹿ね」
ラズラはそんな妹に静かに笑い、抱き寄せながら目を閉じる。
妹の体はいつも不思議と温かい。
それから数日して、老学者――家庭教師のルーベルが。
楽しみにしていたらしいベリーは、すごく勉強になりました、と彼に本を返し、ルーベルもそれは良かったと朗らかに笑う。
今日はベリーの質問で授業が終わりそうだと苦笑しながら、クッキーでも用意してもらおうと部屋の外に出て、使用人へと声を掛ける。
少しして再び部屋に戻っても、ベリーの質問タイムは続いていた。
「ここの式もこういう風に簡略化が出来ると思うのですが……これは何か、理由があってのことなのでしょうか?」
その言葉にぎょっとしながらも様子を窺うと、ルーベルは少し険しい顔でベリーが羊皮紙に記した術式を眺める。
しかし少しして、ルーベルは頷き、微笑む。
「いや、この本を記したのは随分と前でね。当時の私ではまだ、そこまで式を洗練出来なかったのだろう。……いやしかし、その年齢でその発想は本当に素晴らしい」
「……ありがとうございます」
そうしてベリーを撫でる彼の様子を見て、ラズラはほっと、胸を撫で下ろす。
どうやら術式の効率化についての話。
学ぶ事に貪欲な学者という人間は、そうした指摘に怒ったりはしないものなのかも知れない、と考えた。
初めて会ったときから、ルーベルという老学者が怒ったところを見たことがなかったし、妹に対しても高く評価する、温厚な人物であると思っていたから尚更。
例えばその時に、もう少し注意を払っておけば良かったのかも知れない。
人間、どこに触れてはならない場所があるかは分からないもの。
しばらく続くベリーの質問は、式への疑問。
それは多分、ラズラの計算間違いを指摘した時と同じように、他意などはないのだろう。
気になったから考えて、気になったから尋ねただけ。
それだけのことだった。
妹は良くも悪くも、他人を下に見たりはしなかった。
自分が気付くことは他人も気付いていて、自分に理解が出来ることは他人も理解出来る。
漠然と、そんな風に物事を考えていたように思う。
何かの意図があってこうしているのだろう、という好意的解釈。
けれどそれは人によって、馬鹿にされていると捉えられかねないものであった。
単純な、ちょっとした間違い一つさえ、妹には疑問なのだ。
――彼女は間違えたりはしないから。
ラズラはそういうものだと諦めていた。
妹は天才で、自分よりもずっと賢い。
呆れ半分、そういう風に受け入れて、張り合わないことに決めている。
けれど、そう出来ない人間も世の中には当然いるものだ。
ラズラとて、一切そういう感情を抱かなかった訳ではない。
何かがほんの少し違えば、彼女に対する気持ちは全く違うものになっただろう。
妹の才能は無自覚に、他人に劣等感を植え付ける。
そして時に劣等感は憎悪に変わり、嫌悪や悪意にあっさり変わる。
「……神秘の盗掘者?」
「はい。父の書斎にあった、リガルス様の著作なのですが……先生と同様の複合術式について記されていて。魔水晶同士の連動部分に対するアプローチが随分異なっていますから、不思議で……先生はあえてそうされているのでしょうか?」
「あえて、とは……」
「先生は分かりやすい基本式ばかり使われているようですから。わたしにも理解しやすかったですし、初学者の入門書としてそうされているのかと」
ルーベルの本を開きながら、続ける。
楽しそうに微笑を浮かべて、没頭するような、理知的な瞳で。
「例えば、このページもリガルス様のように応用式を使えば三行の記述で済みますし、この辺りもそうですね。魔力効率も大きく異なりますし……ここであえて基本式を使うのは、効率ではなく冗長性を確保するためでしょうか?」
「……初学者の入門書か」
声の調子が変わったように思え、算学の本に目を落としていたラズラは顔を上げる。
ルーベルは静かに笑っていたが、けれど明らかに雰囲気が違う。
「先生……?」
「では、君はリガルスの記述が高等で、私のそれは下等だと?」
「え、と……ぁ、あの――」
「――どうなのかね?」
睨むような目と声の調子。
ベリーは肩を跳ねさせ、ラズラも固まる。
「そうなんだろう? 言ってみたまえ。賢い君のことだ、私の式は稚拙だと、そう言いたいんだろう? あの男の書いたものと違って、私の本などは初学者の入門書なんだろう!?」
「っ……」
机の上にあった本を払い、叫ぶように。
立ち上がると、怯えたベリーを慌てて抱きしめる。
「そうやって、馬鹿にしてるんだろう? あいつと同じように、私を見下して笑っていたのか? こんな簡単なことさえも分からない、二流の魔術師だと」
「せ、先生、ベリーはそういうつもりじゃ――」
「どうなんだッ!?」
机を叩くルーベルにベリーは体を強ばらせ、ラズラは抱く手に力を込める。
「ああそうだ、君の言うとおり私は二流だとも! 馬鹿にされて故郷へ逃げ帰って、子供の教師程度しかやれんような男だ! 君のような天才からすればさぞ滑稽だろう? 唯一取り柄の頭の出来さえこの程度で、何年も費やした研究さえ、君からすれば子供向けの入門書だ」
普段笑顔を絶やさぬ顔に、例えようもない怒りを滲ませながら。
ルーベルはベリーの顔を覗き込むように、尋ねる。
「笑えるだろう? 先生などと呼びながら、心の中で馬鹿にしていたのか? 好きに言ってみたまえ、その通りだと答えてやるとも……!」
「ち、違……」
声に涙を滲ませ、首を振る。
ルーベルはそんなベリーを見て、顔を背けると、呼吸を荒く目を伏せた。
「……、私のような二流に教わることなど君にはないだろう、帰らせてもらう」
それからそう言って、ルーベルは部屋の外へ。
ラズラはそれを見送るしかなく、顔を覆う妹を抱きしめるしかなく。
多分、誰が悪いわけでもなかった。
それでも、そういうことはある。
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