おまじない 一
それはまだ、妹が四つの頃の話であった。
「あ、ねえさま……」
長い髪をした赤毛の少女――ベリーが持つのはラズラの宿題。
食事の前に訪ねた際、彼女の部屋へ忘れていったものだった。
羊皮紙にびっしりと書き込まれた数式達。
ベリーはベッドに腰掛け、それを眺めて首を傾げていた。
「ふふん、数字を覚えたばっかりのベリーにはさっぱりでしょ」
「はい、むずかしいです」
ラズラは隣に腰掛け、自慢げに笑う。
先生からも驚かれるくらいに学問は得意であった。
簡単なものから何段も飛ばして新しい問題を与えられ、少なくともラズラは優秀そのもの――自分では天才なのだと鼻高々。
腹違いの妹もまた、自分に似て賢い子供であったが、流石にまだまだこんな問題は分かるまい。
ふふん、と笑うと指を立てて口にした。
「簡単に言うとね、こういう式で数字を足したり引いたり色々しながら、答えの数字を導き出してるの。それを複雑にしていくとこんな風に――」
「あぁ、やっぱりそうなのですね」
ただ、本当の天才というのはいるものだ。
それを早くに知れたことは、ラズラにとって幸運であっただろう。
「これが数字をふやす印で、こっちがへらす印。で、これが左の数字がいくつあるか、こっちが逆……ですよね?」
「へ? ぇ、ええ……そ、そうだけれど」
「この組み合わせはこの印を求めるためのもの……これで区切るのは多分、計算のじゅんばんを示していて、それでこれが――」
唖然とするラズラに構わず、すらすらと数式に使われる記号についての解釈を語る。
それはラズラが教えてもらったとおりの解法で、けれどもベリーは納得が行かないように、眉間にわずかな皺を寄せて小首を傾げた。
「――ということだと思ったのですが、どうしても二つ、わからないのです。そういう考えで行くとどうしても、出てくる数字がちがうものになってしまって」
「ど、どれ……?」
「これとこれです」
ラズラは羊皮紙を引ったくると、自分で書いた式をしばらく見直す。
よくよく見ればラズラのちょっとした計算間違い――それを指摘されたのだと、理解するのにしばらく掛かった。
計算に間違いがあった――それはたまにあるものだ。
それ以上に、七つも年下のベリーがそれを指摘したことをラズラは驚愕した。
数字と文字を教えてもらったばかりの妹が、高々二十問の式から呆気なく法則を見いだして、ラズラがやっていた算学の間違いをいとも容易く言い当てたのだから。
「じゅんばんを変えたりしても上手くいかなくて、もしかすると何か大きなまちがいをしているのではないかと……」
「……そ、そう。でも正しいわ、あなたの正解」
「せいかい……?」
「あなたが出した答えは7と83でしょう?」
「はい。えと……」
「ふ、ふふん、ちょっと試したの。ベリーにちゃんと間違いが分かるかってね」
ベリーは愛らしい顔をきょとんとさせて、それから微笑む。
そうだったのですね、などと手を合わせ、ほんの少し嬉しそうに――ラズラと同じ赤毛を揺らして。
ラズラは自分を優秀な人間なのだと思っていた。
けれど天才というものは、妹のような存在を言うのだろう。
学ぶことなく法則性を見いだして、難しい数式をあっさり解いてしまう。
普通の人間とはまず、見えているものが違うのだ。
ラズラは優秀ではあったが、天才などではなかった。
他人と比較して鼻高々――そんな己の愚かな鼻っ柱を小さな妹にへし折られて、早々に知ることが出来たことは、自分にとって何よりの幸運だろうと思う。
世界は小さな頭で考えるよりもずっと広いもので、そして自分は何ともちっぽけな一人であった。
父には二人の妻がいた。
貴族にとっては別段珍しいことではなく、アルガン家は古い家。
歴史の長さに価値を置く貴族は多かったし、男爵家であってもそうした話には困らない。
跡継ぎを作るという目的を考えれば、多いという訳でもないだろう。
貴族同士というものは子供が出来にくいものだそうで、事実としてアルガン家にもその問題はあった。
そうした事情から大貴族となれば4,5人妻を娶る家も少なくないし、嫁ぎ先で多くの子宝に恵まれれば、一部は養子として生家に迎え入れられ、家を継ぐことも良くあること。
嫡子は貴族にとっては死活問題だ。
悪い言い方ではあるが、貴族社会はそのように、子供達を互いに融通する仕組みの上に成り立っていた。
ただ、やはり妻同士の関係はあまり良好とは言えないのが普通。
正妻と妾という扱いの差はあったし、自分の子供に家を継いで欲しいというのが普通の考えだろう。
夫が自分以外の誰かを愛するという事実を受け入れられないという人間もいる。
幸いであったのは、二人の母が随分と仲が良かったこと。
ラズラを産んだ母は落馬の事故で亡くなったが、もう一人の母はラズラが自分の子でないにも関わらず、本当の母親のようにラズラを育てた。
利発で優しいその人をお母様と呼んでラズラは育ったし、本当の母親はとても素敵な姉のような人だったのだと、いつも楽しそうに彼女は聞かせた。
アルガン家初めての子。
兄弟のいなかった父に出来たラズラを皆大層可愛がったし、大人達の愛情を一身に受けてラズラは育ち、何とも幸せな子供であっただろう。
愛情に囲まれ、すくすくと育ち、あの頃の家には幸せに満ちていた。
ラズラが六つの頃に義母もようやく子供を授かり、そうして生まれたのが妹のベリー。
ただ、皆が大喜び、とならなかったのは、生まれてすぐにベリーが病気に掛かり、生死の境を彷徨ったからだった。
それを何とか乗り越えても度々病気を繰り返し、月に一度は医者が来ていたし、元々病がちだった義母も産後は体を悪くして三年と持たずに亡くなり。
外から邪気を持ち込んではいけない、と妹の顔を見ることもほとんどなかった。
習い事が始まったこともあって、生まれてからしばらく、妹と過ごした記憶も数えるほど。
ラズラは大層元気な娘であったようだが、妹は真逆。
子供の頃から寡黙で、ほとんど口を開かず無表情か険しい顔。
子供らしい笑顔も見せず、いつも窓から外を眺めて一日中過ごす。
体の具合はどうかと聞けばいつも、大丈夫とラズラに返した。
どう見ても体調が良くなさそうでも、大丈夫の一言。
二つや三つの頃から多分、ある程度自分の状況を理解していたのだろう。
他人を心配させたくないから、平気な振りをしていただけ――顔に出さないようにしていただけ。
寡黙な理由も単に、苦しいことを隠すため。
そんなベリーを使用人達は少しおかしいのではないかと不安がっていたが、ラズラはそうは思わなかった。
生まれてからほとんどをベッドで過ごし、病に苦しみ、母親も自分が寝込んでいる間に亡くなったことを聞かされて。
それで毎日を笑顔で過ごしていたなら、その方が不自然に違いない。
妹が自分とは比べものにならないくらいに頭が良いことに気づいても、それを羨ましいだとか、妬ましいだとか、そんな風に思わなかったのは、そんなベリーや周囲の視線を見ていたから。
頭が良いということはある意味とても不憫なことであった。
ラズラであれば何も考えず無邪気に過ごしていた年頃だというのに、それを素直に楽しむことも出来ず、気を遣い、挙げ句に子供らしくないと気味悪がられてしまうのだから。
妹の笑顔を見てから、ラズラは度々彼女の部屋に通うようになり、色んな事を話すようになった。
妹を取り巻く環境が良くはない。
自分が変えねばならないと姉振って、そんな風に思ったからだろう。
「……ねえさまの言うとおり、お話してみようと思ったのですが、何を話したら良いのか分からなくて。いつも部屋のお手入れをしてくれますから、そのお話が良いかと……いつも無駄が多い気がしたので、こうしたらもっと早く終わるのではないかって」
「な、なるほど……」
「そうしたら、セリスを怒らせてしまったみたいで……」
ただ、中々上手くは行かないもの。
もっと他の人ともお話をしてみれば良いと助言してみれば、斜め上。
そこそこ古株の使用人に仕事の指導までしてしまうのだから、大変である。
元々気難しい使用人だったセリスは大激怒。
いくらお嬢さまとはいえ侮辱が過ぎる、役割を変えてくれとカンカンであった。
恐らくベリーの言葉も間違ってはいなかったのだろうが、とはいえ五歳児に自分の仕事を駄目だしされれば大抵の人間はむっと来るに違いない。
単純にセリスが悪い、と責めるのも酷な話だろう。
「わたしは、何か怒らせるようなことを言ったのでしょうか?」
「そういう訳じゃないんだけれど……なんて言えばいいのかしらね。多分言い方の問題かしら」
「言い方……」
「そう。確かにセリス達のやり方に無駄が多かったのかも知れないけれど、一応セリス達もベリーがなるべく気持ち良く部屋で過ごせるようにってあれこれ気を遣って仕事をしてくれてるっていうのは分かる?」
「えと……はい」
小首を傾げながらもベリーはベッドの上で頷く。
「それに対して、あなた達の仕事は無駄が多いってベリーから言われたら、やっぱりちょっと、むっと来ちゃうと思うのよ。セリス達は確かに効率が悪かったのかも知れないけれど、ベリーのためにって一生懸命仕事をしてるのかも知れないし……」
「……なるほど、……?」
「何かを伝えるときはきちんと、相手の気持ちを考えて口にしなきゃ駄目よ」
その隣に腰掛けて、人差し指で桃色の唇をなぞる。
何とも柔らかい感触で、全てがすべすべと陶器のようだった。
「確かにお話をしてみればいいとは言ったけれど、慌てちゃ駄目。その可愛らしいお口で何かを伝えたい時は、相手にその言葉をどう受け取ってもらえるかを考えるの。ベリーならちゃんと出来るわ」
「……難しいです」
「大丈夫、あなたはとっても賢いもの。……これはおねえさまのおまじない」
「おまじない……」
すりすりとなぞるとくすぐったそうに目元を柔らかく、大きな瞳でこちらを見つめる。
人形のように綺麗な子。
子供らしくない無機質な表情が気味悪がられてしまうのかも知れない。
笑えばあれほど愛らしいのに、とラズラは思う。
「そう。ベリーが他の人と仲良く出来るように……ふふ、そういう祈りを込めてるの。折角こんなに可愛いんだもの、その可愛さが他の人にも伝わって欲しいからね」
「はぁ……」
ベリーは小首を傾げて唇をなぞり、少し難しかったかしら、とラズラは苦笑した。
「本当にちょっとしたことなのよ。言い方一つでセリスも怒らなかったかも知れないし……例えば、いつもお部屋のお手入れしてくれてありがとう、なんてお礼は言った?」
「……言ってないです」
「そういうところね。ちゃんと挨拶はしてる?」
「……してません」
「まずはそういうちょっとしたことで良いのよ。おはようだとか、良い天気ね、だとか」
頭を撫でると困った様子で首を傾げ、目を伏せた。
どうかした? と尋ねると、ラズラを見つめ――指先で唇をなぞりながら考え込む。
「その……」
「何?」
「えと、ねえさまと違って、みんないつも忙しそうなので……中身のない話は迷惑かと」
「……あ、あのね」
それを聞いて目頭を揉む。
どうにもこの妹にはラズラがどうしようもない暇人に見えているらしい。
「わたしもこう見えて結構忙しいのよ。習い事は沢山あるし、その大変なスケジュールの隙間を縫って、ベリーに会いに来てるの」
「……? どうしてですか?」
不思議そうにベリーは尋ねた。
心の底から、そんなことを尋ねているのだろう。
普通なら疑問にも思わないことでさえ。
「忙しいなら、無理に来なくても良いです。わたしは大丈夫ですし、ねえさまに迷惑は掛けたく――」
「迷惑じゃないの。おねえさまが可愛い妹に会いに来るのは、妹を愛でながら寛ぎたいからよ」
「寛ぐ……」
「そう。姉というものは妹を可愛がったり、あれこれ色んなことを偉そうに教えながら一方的に楽しむものなの。あなたは遠慮しなくていいし、わたしが来たくて来てるんだから、どうして、なんて聞いちゃ駄目よ。分かった?」
顔を寄せて告げると、はい、ときょとんとした顔で頷いた。
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