お嬢さまと使用人――お屋敷庭の決闘

青い空に魔力の青が濃淡を描き、揺れる大樹は煌めきを。

幻想の輝きに満ちた空も太陽も、もはや見慣れて日常に。

クリスネイトと名付けられてはいるものの、その名で呼ぶことはほとんどない。

大抵はあちらとこちら、あっちとこっち、わざわざ名付けた所で意味もないものだと気がついたのは後のこと。

ふよふよふわんなどと、お馬鹿な名前になることを防ぐために名付けたものであったが、クリスネイトという単語はこの千年耳にしていない。


お屋敷とそれ以外。

セレネ達にとって、区別するのはそれくらいのものだった。


「ふふ、全然歯が立ちませんね。流石はお嬢さまです」

「……、もう少し本気を出したらどうなのかしら?」

「本気を出すも何も、わたしは一応本気なのですが……」


困ったように苦笑して、赤毛を揺らす彼女の背丈はセレネよりも少し低い。

真白いエプロンドレスに身を包む姿は変わることなく、幼い顔立ちも余裕の表情も変わることなく――少なくとも、本気で悔しがる彼女の顔というものを見たことはなかった。

セレネが生まれてから千年、二千年。

ベリー=アルガンと言えば、常に思い浮かぶのはこの腹立たしい余裕の笑みである。


その手に持つのはクリシェ愛用の曲剣。

構えは無形、ぶらりと垂らす。

クリシェと同じく小柄な彼女には、この曲剣が重さ的にも丁度良いらしい。

実際はどうだか、と疑っていた。

大昔――子供の頃のセレネに稽古をしていた頃には長剣を軽々と使いこなしていたし、何を使ったところでそれは変わるまい。


彼女が天才であるという事実は嫌になるほど知っている。

人が必死に飛び跳ねる所を羽ばたき一つで飛び越えてしまうような人間であったし、息を吸うように研鑽を重ねる病的な完璧主義者でもある。

魔力の扱い一つ見てもそう――あちらにいた頃から、彼女の立ち姿、纏わり付く魔力の流れはクリシェのそれに近しい、無駄を削りきった美しさが宿っていた。

魔力の流れで動きの先を読めるような、そういう生ぬるい相手ではない。


そしてその上、極度の負けず嫌いで性格と意地の悪さも一級品。

勝ち目のない戦いはしない、ではなく、勝つ戦いしかしないというのがベリー=アルガン。

今彼女が剣を取っているのは、これが単なる『お遊び』であるから。

彼女は遊びと勝負を明確に分けており、遊びに全力を出すことは決してないし、そして彼女にとって遊びとは、後の勝負のための布石である。


運の要素もない盤上遊戯などであれば、100対0もあり得るだろう。

そういう頭の良さでは永遠に勝てはしないと認めていたが、しかしベリーは石拳のような、運の要素や偶然が混じる勝負においても無敗である。

仮に十に一つ二つしか勝てない『遊び』があったとしても、必ずその一つ二つの勝利を『勝負』の時に成り立たせる――ベリー=アルガンとはそういう女。

『勝負』における勝利のためならば、平然と百年単位で見えない布石を敷き詰める。

普段の一挙手一投足、発言一つを疑い、棒で叩いて岩に巻き付け水に沈めてなお、安心できない女であった。


「次、行くわよ」

「ええ、どうぞ」


剣を前にしたザイン式――魔力を弾けさせるようなセレネの踏み込み。

弦から解き放たれた矢のような踏み込みに対し、彼女は半歩距離を外す。

先ほどはこれが決め手となっていた。

伸びてきた切っ先を首筋に突きつけられての決着。

だが、今度は半歩の後退で最小限に距離を外し、そして同時に長剣を潜るように踏み込み曲剣を振るっていた。


剣を持つ右腕を狙った一閃には、力みも気迫もない。

その気配のなさがやはりクリシェのそれに似ていて、一瞬反応が遅れる感覚。

その一閃に対して腕を引き、上体を反らして躱しかけ――咄嗟にセレネが後ろに跳躍すると、曲剣の一閃に合わせた水面蹴りが放たれていた。

ひやりとしながらも、大きな隙を見せたベリーへとすかさず返しの一歩で踏み込み、その首へと剣を突きつける。


「上手く行くかと思ったのですが……」

「あのね、わたしを甘く見すぎよ」


例えばセレネが腕や上体だけで躱していれば、今の水面蹴りは決め手になっただろう。

実力差に油断でもしていれば呆気なくセレネは転がされていただろうが、ベリーを相手に油断などはあり得ない。

たった一度のザインの剣で、気配を読んで間合いを見切ってくる――そんな予感はしていた。


先ほど剣を突きつけられた時には無防備であった。

一切反応が出来なかった、という訳ではないだろう。

セレネは稽古でザインの剣を振るっていたし、時折彼女はそれを眺めていた。

その速度も予測の範疇――事実、切っ先を突きつけられながらもその顔に驚きはなく、セレネの体勢や足の位置を冷静に確認していたように思える。

セレネの突きがどこまで伸びるのかを確かめるように。

流石です、などと褒め称え、笑顔を浮かべながら、その目でセレネの情報を収集し、頭の中では冷静にその攻略法を組み立てているのだ。


これは駄目、ではこれならどうか。

そうして情報を集めて行きながら、こちらの手を一つ一つ潰していくようだった。

一度見せた剣は通用しない相手。

それが出来るだけの目とセンスがあり、魔力の扱いはどこまでも繊細、融通無碍。

この年月でセレネが剣を磨き上げたように、彼女の仮想筋肉もまた、途方もない日常の中で更に磨きが掛かっていた。


セレネも当然、肉体拡張なんてものは使っていることも忘れる領域に達している。

とはいえ、高度な魔法を扱いながらも一切の乱れを生じさせないベリーのそれは、繊細さや精度という点でやはり、セレネの数歩先に行く。

瞬発力という点でセレネが大きく上回っているが、反応が遅れるようなその自然さ――僅かな油断が致命傷となるだろう。


まだ実力差には大きな隔たりがある。

しかしその上で、こちらがひやりとするような攻撃を見せて来るのだ。

更に磨きを掛ければどうなるか――まさに彼女は好敵手。

やはりこういう相手は必要だった。

剣は振るだけでも楽しいが、相手がいた方がもっと楽しい。


「後五本くらいで今日は終わりにしましょうか。夕食の支度もありますし」

「そうね。続きはまた今度……言っておくけれど、簡単に勝てるとは思わないことね。あと三十年くらいは気持ち良く勝たせてもらうわ」

「まぁ。簡単にだなんて思っておりませんよ。わたしの方はたまにの手慰みでございますし……」

「手慰みでこれだけ戦える人間がどこにいるの、よっ」


こちらの突きに対してベリーは瞬時に身を捻って躱し――セレネはすぐさま左へ。

ひらりと舞うスカートの内側から、迫る後ろ回し蹴り。

こちらも体をくるりと捻るように躱して、横薙ぎを。

感触はなく、距離を開いたベリーが、これも駄目でしたね、と苦笑する。


奇襲に対して油断なく、驚きもなく。

やはりベリーは食えない女である。









たまにはあなたもどうかしら、というセレネの誘いに、ベリーが一度でも剣を手にした。

この時点でもはや、未来における勝負は確定したようなもの――いつか必ずこの女は、剣で勝負を決めようなどと口にするだろう。

お遊びで百や千の敗北を味わわせた所で平然と笑い、勝負となった千一回目で勝ちに来るのがベリー=アルガン。

考えるべきは、必ず訪れる千一回目でどうやって返り討ちにして吠え面を掻かせてやるか。


それからベリーが剣を手にするのは、年に数度のこと。

そのことごとくでセレネが勝利を収めたが、彼女は着実に剣の腕を磨いていた。

魔力を扱う限りにおいて、剣というものはイメージの部分が大きい。

魔力によって五体を動かすという性質上、完璧に近い精度で魔力を操れるのであれば、イメージ通りに五体を操ることも理論上は可能であった。

正しい理合いを頭の中でイメージ出来るならば、剣を持たずとも修練は成り立つ。


無論、魔力にのみ依存した身体操作は言葉ほどに容易なことではない。

セレネがそれを本当の意味で出来るようになったのはこちらに来て、今の体になってから。

力み――筋肉で体を動かすという癖を抜くには随分な時間が掛かった。

あちらの世界で言えば、唯一それを完璧に体現出来ていたのはアレハくらいのものだろう。

才能ある人間が生涯を掛けて身につける、そういう次元の技術である。


ただ、ベリーは元より魔力の扱い単品を見れば超一流。

こちらでの体を来た初日には当然のように使いこなしていた、実に腹立たしい女である。

剣を振るための土台はあちらにいた頃から仕上がっていたし、後は知識と経験のみ――剣を毎日握っている訳でもないというのに、この数十年でセレネが危うさを感じるほどに剣の腕に磨きを掛けていた。


恐らくはセレネがクリシェと手合わせしたり、リラやエルヴェナに指導をする姿を眺めている間も、そこから僅かな癖を拾い上げ、そしてイメージの中で戦っているのだ。

その証拠にベリーの剣は、ただただ性根の悪さが滲み出たいやらしい剣。

時折手合わせすると、いつの間にかセレネが剣を振りづらい状況や体勢に持ち込まれている。


相手の弱いところを突くというのは戦いの常道。

ただ、あそこまでそれを徹底出来る女も中々いないだろう。

セレネが剣を振る姿から情報を収集、セレネの癖や好みの太刀筋を読み取り、気持ち良く剣を振らせないことに終始していた。

今のところはセレネが全ての勝負で勝利を収めていたが、その勝利が本当に全て自分の勝利であったかは疑わしい。


よほどの実力差がなければ、剣で10対0の勝ちは難しいもの。

意識出来ない油断や疲れ――調子の良し悪しで生じるのは、悪手とも言えない程度の選択ミス。

そしてそれが偶然にでも積み重ねれば、必ず敗北はやってくる。

事実、負けるかも、という際どい勝利はいくつかあった。

その全てに何とか勝利はしたものの、それは恐らく罠である。

――セレネの油断を誘うため、あえて勝ちを拾いには来ていないのだ。


『勝負』に使う切り札を『お遊び』程度で披露はしない。

疑わしいと思えた時点でほぼ間違いなく、セレネに対する勝利の札を隠し持っていると考えた方が良いだろう。

ベリーは勝つためには文字通り何でもする、性根のねじ曲がった女である。

正々堂々、拮抗した戦いを楽しむだとか、お互いの研鑽を確かめ讃え合うだとか、そういう真っ当で健全、健康的な喜びの概念が欠落しているのではないかとセレネは考えていた。

コルキスやアレハ達が手合わせをしていた時のような爽やかさなど皆無である。


ベリー=アルガンは両手足を縛りあげた相手を笑顔で蹴りつけ楽しめる女。

勝つことにしか興味がないというのは、負けず嫌いを通り越して病気であった。


そして、その日が来たのはベリーが剣を振るようになって五十年ほど経った頃。


「わかりました。良いでしょう。……お嬢さまの仰る通り、剣で決めるとしましょうか」

「へぇ?」


お屋敷に設けられた会議室での激しい議論、それに終止符を打ったのはその発言。


前回はセレネの敗北、ベリーの希望通り無人島遭難ツアー。

今回は本来、後回しにされたセレネ提案の自然洞窟探検ツアーが行われるはずであった。

しかし、そうした約束を反故にし、突如ベリーが提案したのは海底沈没ツアーである。


気分や思いつきで、取り決めを無視した予定変更。

喧嘩を売ってるも同然の所業であった。


『あのね、次はクリーシアンの魔水晶洞窟に行くって決めてたでしょ! しかもなんで海から海なのよ!』


当然のように反論するセレネに対し、返ってくるのは屁理屈。


『お嬢さま、海は海でも浅瀬と深海は異なるものです。山と草原を同じ陸だと言うようなもの。それに、魔水晶洞窟に行かないとは言ってませんよ。クリシェ様のお話では深海にも同様の洞窟が沢山あるようですし、深海を散策しながらそちらの魔水晶洞窟にも――』

『そういうことじゃないの! 分かってる? あなたはわたしと交わした先日の約束を反故にして、身勝手な思いつきで行き先を変えようとしているのよ?』

『お忘れのようですが、先日の約束の時点ではクリーシアンの魔水晶洞窟も単なる候補。魔水晶洞窟に行く、ということは決まっていましたが……約束を反故にしたとは心外です。改めてどこの魔水晶洞窟に行くか、というのはこれから決めること。お嬢さまこそ、ご自分が行きたいからと、クリーシアンに決まっているなどと仰るのは身勝手ではないかと……』

『あのね、この世の誰に言われてもあなたに身勝手だなんて言われたくないわよ!』


などというやりとりの末であった。

前回は勝負の結果とは言え、ベリーが希望した通りの旅行となったのだ。

今回の優先権はあくまでセレネにあり、こうして意見が割れ、仮に勝負で決めると言うのなら勝負内容の決定権はこちらにあって当然だろう。


これ以上の屁理屈は認められない。

それ以上わがままを口にするのであれば、剣で決めるのはどうかしら――そう口にしたセレネに対し、ベリーはほんの少し考え込んだ後、それを承諾。

やれやれ仕方ない、という感情を滲ませたような、実に腹立たしい表情である。


「これも教育係の務め……わがままを諫めるためとはいえ、お嬢さまに恥を掻かせるのは本意ではないのですが」

「誰がわがままよ。……あっさり乗ってきたわね。その様子だと、わたしに勝つ算段はとうの昔に出来上がったと言いたいのかしら」

「勝つ算段も何も、お忘れでしょうか? お嬢さまに剣の手解きをしたのが誰か」

「一体何年前の話よ!」


もはや今となっては二千年も前の話であった。

いつも通りの上から目線に腹を立てつつ、呼吸を整えベリーを見据える。


「いいじゃない、それだけの自信があるなら二言はないわね? あなたが言ったのよ? わたしに対して剣で勝負するって。勝負は今から庭で、剣で先に一本入れた方が勝ち……それでいいかしら?」

「あら、得意の剣でハンデも下さらないんですね」

「あいにくわたし、あなたにだけは油断しないって決めてるの。……今日という今日はあまりに横暴な言い分だもの、わたしが多少有利を取ってようやくイーブンだわ」

「……まぁ、いいでしょう。さっさと終わらせるとしましょうか」

「……言ってなさい」


セレネが立ち上がると、応じるようにベリーも立ち上がる。

時刻は昼過ぎ。


「あ、あの……ベリー? お昼は……」

「申し訳ありません、盛り上がってしまって。もう少しお待ちくださいね」

「うぅ……はい……」


昼食のことしか考えていないクリシェは、隣で腕組みをしたまま寝ていたクレシェンタを抱き上げ、ベリーに続いて部屋を出ようとし――


「……言っておくけれど一対一だからね。そのお馬鹿と二対一とかなしよ?」

「そんなに疑わなくても良いと思うのですが……」

「言っておかないとあなたは平気でそういう常識を踏みにじってくるからね」

「はぁ……どこで育て方を間違えてしまったのでしょう……」

「……あなたね」


そのまま部屋を出て行く三人を見つめて嘆息し、残っていた三人に目をやる。


「いつもながらベリー様はすごい自信ですね……今回の条件では流石に、セレネ様に勝つのは難しそうに見えますが……」

「ああいう挑発もベリーの手なのよ。流石に慣れたわ」


呆れた様子のリラに告げると、彼女は小首を傾げてこちらを見つめ、くすりと笑う。


「何だか今日はいつも以上に楽しそうですね」

「そうね、ベリーと剣で勝負はしてみたかったところもあるし……腹立たしいけれど、普通にやっても多分、十に一つ二つは取られちゃうんじゃないかしら。時々手合わせしてるときも危うい所はあったし……さっきの自信を見る限り、勝ちを取りに来てなかったのは間違いなくわざとだわ」

「……確かに、あの上達ぶりはすごいものがありますが……」


思い出すようにうんうんと頷く。


「わたしにもう少し、剣の才能があればお相手になれるのですが……すみません」

「十分才能ある方だと思うけれど……別に謝らなくていいわよ。あなたと稽古するのでも十分楽しめてるし、時間を掛ければもっと上達するでしょうし」


流石はクレィシャラナ育ちというもので、元よりリラの動きは素人ではなかった。

定期的にセレネの鍛錬に付き合うこともあって随分上達していたし、今では中々のもの――決して卑下するような実力でもないし、努力家でセンスもある。

特に体術などは素晴らしいと言えるものなのだが、ただやはり、ベリーのそれと比べれば引け目を感じてしまうのだろう。


ベリーは世界で一番すごいのですっ、などとあのクリシェを盲信させるだけはあり、常人がぜぇはぁと息を切らして死に物狂いで辿り着くような場所に、才能という名の馬車で平然と乗り付けるのがベリーなのだ。

これがコルキスやアレハのように、一つの道を極めようなどと修練を重ねる求道者だというなら素直に尊敬も出来るのだが、基本的に全てが片手間。

砂漠を彷徨い歩き、渇き苦しむ人間の横で隊商引き連れ、暑いからと水を浴びては撒き散らすが如く――有り余るその才能を日々無駄使いして見せてくるのだ。

仮に百歩譲って悪気はないにしろ、隣で毎日宴会されればどんな鈍感な人間でも腹立たしさくらいは感じるだろう。


セレネにとってベリーを負かすということは、これまで積み重なったそういう全ての仕返しであった。

『片手間の中で本気を出した』ベリーを盛大に負かせて、悔しがる顔に言ってやりたいのだ。

片手間だからそうなるのだ、たまにはなりふり構わず本気で努力したらどうなのか、と。

これはベリーとセレネの勝負ではない。

言うなれば才能と努力の戦い――才能という馬車で優雅に暮らしてきたベリーに対し、険しい道のりを歩んできたセレネの人生そのものをぶつける戦いであった。

本気で勝ちに来たベリーを打ち負かした暁にはきっと、例えようもない喜びがあることだろう。


「そういうのとは違う楽しみなのよ、ベリーとの勝負って。まぁ剣で勝負っていうのはもちろん楽しみだけれど、子供の頃からの目標というか何というか……いつか越えなければならない壁かしら」

「ふふ、いつも言ってますね」


聞いていたエルヴェナが苦笑する。

その隣ではアーネが万年筆をカリカリと、手元には羊皮紙――どうにもセレネとベリーの戦いの軌跡を記録しているらしいのだが、二千年の敗北を記録しているせいか、悪い意味で慣れがあった。

果たして今日のアルガン様はいかにしてセレネ様を罠にはめるのか、などという文章がそこに記されているのが見え、アーネを睨む。


「……アーネ。あなた、どうせまたわたしが負けると思ってるでしょう?」

「い、いえ……そんなことは」

「いいわ。見てなさい。今日という今日こそ、前までのわたしと違うって所を見せてあげるんだから」


そう言ってセレネは自信に満ちた表情で立ち上がる。

アーネは二千年間繰り返されてきたその言葉を、手慣れた様子でさらさらと記した。










そうして二人は屋敷の庭で向かい合う。

セレネが目を細めたのは、彼女が手に持つ剣を見て。


使いやすいからとこれまでずっと使ってきたクリシェの剣ではなく、彼女が持つのはセレネが以前に打った長剣。

比較的長いセレネの愛剣よりも、更に一寸長い直剣であった。

薄刃で細身、長さに対して軽く扱える剣であったが、何よりの特徴はその刻印。


その剣はただの剣ではなく、人工キュイリス鋼を使った刻印剣なのだった。

刻まれているのは単純にして強力な延刃の式。

魔力を通すことでただでさえ長いこの長剣は魔力の刃を展開し、更に一尺間合いを伸ばす。


術式刻印に不慣れであったセレネが、初めて自力で完成させた思い出深い刻印剣。


「お嬢さま、まさか駄目だなんて仰いませんよね?」

「そうね。刻印剣でも剣は剣……ずるいだなんて言わないわ」


自分の打った会心の一振り。

それを否定することは出来ず、そう言わざるを得なかった。

刻印剣に対し、ただの剣で挑むことは明確に不利である。

魔力の刃は斬る対象を選べるし、ベリーほど魔力の扱いに長けた人間がそれを扱えば防御は不可能――仮に剣で受け流そうとしても、それを無視して斬ってしまえる。

無論実体部分を受けることは可能だが、剣を引かれて受け損なえばそれで終わり。

相手の剣を受け流し、体勢を崩して勝負を決するというセレネの得意技は失われたに等しい。


そして更に、感覚の違いも大きい。

これまでベリーは頑なにクリシェの剣だけを使ってきた。

勝負の時に長剣を持ち出す、というのは想定の範囲内であったが、とはいえ数十年それで手合わせを繰り返してきたのだ。

刃渡り一尺の小曲剣から、二尺八寸――魔力刃も含めれば四尺近く。

間合いの違いはあまりに大きい。


これまでベリーはクリシェの曲剣に合わせて体術を組み込み、積極的な接近戦に終始していたが、その戦い方がガラリと変わることは間違いない。

その印象をあっさり拭い去れるかと言えば、正直厳しいだろう。


「本気でわたしに剣で勝つ気なのね、ベリー。でも、このくらいのことは想定済み……そう簡単に、わたしの二千年に勝てるとは思わないでちょうだい。それに、この勝負の場でエプロンドレスだなんて……一体何のつもりかしら?」

「今から庭で、と仰ったのはお嬢さまの方ですが……遅くなったら遅くなったで、お嬢さまはあれこれ文句を仰るでしょう?」

「着替えを待つくらいで文句は言わないわよ。どうせそのつもりもないんでしょうけれど」


動きやすいとは決して言えないエプロンドレス。

あえてそうした格好で勝負を挑むことでセレネを怒らせ、冷静さを奪うというのも理由の一つではあるだろう。

ただ、スカートは決して欠点ばかりではない。

下半身全体を覆い隠すような長いスカートは、ズボンと違って足の動きが読みづらい。

大陸東の島国にいた戦士達の服装も、それを意図したものだろう。

随分と裾の広いズボンを履いていた。


戦場においては掴まれる危険性のあるそうした衣装は適さない(クリシェ以外に見たこともない)ものだが、一対一という状況に限ればスカートも決して悪いばかりではない。


「容赦はしないわよ。寸止めなんてしなくてもどうせ怪我はしないんだもの、全力で一本取る気で行くけれど、服が破けても後で文句は言わないでちょうだい」

「それはまぁ、こちらも同じく……とはいえ、痛くないからとお嬢さまを斬りつけるのは心苦しいですし、わたしはなるべく当てないように気を付けますね」

「……あなたね」


単純な剣技の優劣であれば当然セレネが上回る。

寸止めを前提とした戦いであれば全力で剣を振れず、実力の差は小さくなるものであるが、今の体は真剣が当たった程度では問題もない。

加減する気は更々なかったし、そんなことを言える相手ではない。


ただの真剣と延刃の刻印剣。

正々堂々戦っても、安く見積もって十に三つか四つは負けるだろう。

そしてその三つと四つを成立させる手をベリーは必ず隠し持つ。


呼吸を整え、空を見上げ、焦るな、と言い聞かせる。

ベリーが切り札を出すまで、勝負を焦らないこと。

冷静さを失わないこと。


視野狭窄に陥りかけていた心を開き、クリシェに声を掛ける。


「クリシェ、合図を――……?」


すやすやと眠るクレシェンタを抱いていたクリシェは空を見上げていた。

屋敷の屋上――そこには何もなく、セレネは首を傾げる。


「クリシェ様、どうかしましたか?」

「あ、いえ……何でも……」


ベリーが声を掛けるとクリシェは首を振る。

それからこちらに向いて、指先で魔力球を。


ふよふよと浮かんだそれは丁度、セレネとベリーの中間へ。

ゆっくりと地面に降りていく。


屋上に何かあるのか。

落とし穴程度は掘っていてもおかしくはないと思っていたが、しかし屋上。

何かを仕掛けるには妙な場所。

単に風精が飛んでいただとか、そういう可能性もある。


ベリーの顔を見ると、平然とした様子。

平気な顔で人を騙す女――何かを看破するのは難しい。

何かを企んでいるのは確かであったが、クリシェのそれと関係があるのか。

いや、こういう考えも良くはない。

まずは集中しなければ、ただでさえ負けもあり得る状況だった。


すっと剣を正眼に構え、体を落ち着かせる。

間合いは六間――一足一刀で斬り込める最長の間合い。

最長であるが故に踏み込みは全力とならざるを得ず、慣性も最大限働き、後の先を取られやすい距離とも言える。

間違いなく、ベリーはその機を逃さない。

そして刻印剣を使うベリーの後の先は確実にセレネを捉えるだろう。

仮に躱せたところで主導権はベリー。

そのまま押し込まれ、敗北を喫する可能性は高かった。


魔力球がふよふよと地面に近づいていくのを眺め、正眼から片手に。

青い光玉が地面に触れ、弾けた瞬間、構えるのはザインの剣。


「っ……」


ベリーの反応はほぼ同時であった。

僅かに足を引き、後退――完全に見切っていた。

半歩などと生ぬるい躱し方ではなく、限界到達点を完全に捉えた僅かな後退、最小の回避。

返しの剣で必ずこちらを終わらせるという意図を内包させた、完璧な重心移動。

惚れ惚れとするような見事さであった。


そのまま突きを放っていれば、セレネの敗北だっただろう。

流石はベリー=アルガン、セレネに屈辱の二千年を味わわせてきた女。


しかし、ザインの剣もまた布石。

弾けるほどに練り上げた魔力を蓄えたまま、セレネは軽やかな一歩。

突きと見せかけ、三間の間合いを潰していた。


ベリーの体は後の先を取る構え。

僅かに前足に重心が乗っている。

――ここからのザインの剣は躱せない。


芝生の上を滑るような踏み込み、そして着地の瞬間、練り上げた魔力で仮想筋肉を構築。

ベリーの前では一度たりとも見せたことのない、セレネ流の必殺剣であった。

時間を止めるような感覚で相手の一挙手一投足を捉えるクリシェには通用しないフェイントであったが、いかに天才とはいえベリーはまだ常識の範囲にある。

その動体視力は常人の域を超えてはいるが、それでもザインの剣を捉えきれている訳ではない。

躱すときは必ず読みで躱していた。


しかし、今の距離は三間。

あの体勢からは物理的に回避不能。

取った、という確信と共に踏み込み、全力の突きを放つ。


「――!?」


瞬間、見えたのは魔力の閃光。

感じたのは強烈な突風。

大気がセレネを妨害するように前方から迫り、そして跳躍したベリーの体が、風に舞うようにセレネの右側に。

咄嗟にセレネは転がるように、頭上を切り裂く一閃を回避、踵を繰り出す。


すぐさま立ち上がると、眉間に皺を寄せる。


「……ちょっと」

「どうされましたか?」

「わたし、剣で勝負って言ったわよね」

「はい。ですが魔法を使っちゃいけないとは言われませんでしたので」


ニコニコと、悪びれもなく笑顔で告げる。

この女、と頭に血が上るのを感じながらも、心を落ち着けた。

ルールの穴は平気で利用する。ベリー=アルガンとはそういう女である。

油断と言えば油断――剣で勝負ということに浮かれていた面は否めない。

肉体拡張と剣、体術のみで勝負だと、確約させねばならなかったのだ。


「もちろん、お嬢さまも遠慮なく、ご自由にお使いになって構いませんよ。正々堂々、条件は同じですから、もちろんわたしも文句を言いません」

「あ、あなたね……」

「もしどうしても、と仰るなら……そうですね、今からでもルールを変更しますか? 勝負の世界は残酷なものとはいえ、確かにわたしも大人げなかったかも知れません。使用人として主人を立て、魔法が不得手なお嬢さまに合わせるというのもやぶさかではないのですが……」


あからさまな挑発であった。つくづく性格のねじ曲がった女である。

剣を振りながら魔法を使えるような器用さはセレネにはない。

とはいえ、今更魔法を一切禁止とし、それで試合に勝っても勝負は負け。

なりふり構わず勝ちに来たベリーに勝たなければ意味がない。


「……あくまで勝負は剣。流石に空を飛ばれて逃げ回られて、魔法でバカスカ撃たれたら勝負にならないもの。互いに十間以上の距離を開くのは禁止ということでどうかしら?」

「十間……まぁいいでしょう」

「それ以外は好きにしていいわ。魔法で拘束しようと何しようと自由、その上で勝ってあげるわよ」

「流石はお嬢さま。潔いです」

「馬鹿にするのも今の内よ。……吠え面を掻かせてあげるわ」


地面から小石を拾い、弾く。


勝負は明確に不利に転じた。

とはいえ、正々堂々という言葉は確かにその通り。

勝負として考えるなら、容赦なく魔法を使ってくるベリーを倒してこそとも言える。

そして魔法まで使ってくる以上、ベリーはもはや、負けたときの言い訳は出来まい。


勝機がないわけでもない。

造作もなく魔法を操るベリーであるが、魔法は集中力を要する。

いかにベリーとはいえ、剣を振るい、あるいは躱しながら使えるものは単純なものに限られるだろう。

先ほどは風を操り妨害し、右手に回り込んだが、転がって躱したセレネへの追撃が僅かに遅れていた。

あるいは完全にセレネの体を浮かせていれば、それで仕留められたはず。


だが、そうしなかったのではなく、出来なかったのだ。

あの僅かな瞬間に魔法を行使し、必殺の剣を防いだだけでも見事なもの――ベリーにとっても限界に近い速度であったはず。

攻め続ければ、距離を離さずに剣の間合いに閉じ込めさえすれば、勝機は十分にあった。


小石が落ちていく様を認識する。

ゆっくりと、時間は緩やかだった。

いつもながら余裕の笑みを浮かべるベリーが見え、その隅々まで、一挙手一投足、僅かな魔力の動きも見逃さずに彼女を捉える。

魔法を使うには周囲の魔力を己の色に塗り替える必要があった。

そして知らぬ間に、周囲の魔力の大部分は既にベリーの支配下。

何故、気付かなかったのか。

全て、己の油断であった。


魔法を使うにはまず、周囲の魔力を掌握する必要がある。

絵画のようなもの――何かを描く前に無地のキャンバスを用意するように、刻印の下地を用意し、安定化。

その上で刻印を行なわなければならない。


警戒していれば魔力掌握を、魔法を使う予兆を察知出来たはず。

雷光のように術式刻印を行なうベリーであったが、魔力掌握さえ察知していれば十分に予期出来ただろう。

ルールがどう、という話ではない。

油断した己が悪いのだ、とセレネは受け止めた。


類い希なる、病的なまでの克己心。

セレネ=クリシュタンドは己の未熟を許さない。

それと同時に、今の彼女はその未熟さを受け止める強さを併せ持っていた。

多くの苦難に直面し、後悔を重ね、それでも必死に歩み、その都度乗り越えてきたという経験が彼女を強くし、その芯を形作っている。


反省すれども囚われず。

現状の認識を改め、ただ目の前の勝負に勝つためにのみ、能力の全てを注ぐ。

余裕の表情で彼女に対峙するはベリー=アルガン。

勝つためには手段を厭わない、悪辣、外道の女である。

その顔を見れば分かる。

単なる魔法如きが切り札ではない。


この魔法すらを布石に、こちらを仕留めに来る。

ほんの僅かな、毛の先ほどの挙動さえ見逃すつもりはない。


そしてその瞬間、セレネの集中はそれを可能にするほど極まっていた。

そのため、自身の背後を見ているクリシェの視線には気付かなかった。


「――ッ!!」


小石が着地した瞬間、六間の距離を押しつぶす。

最長の間合い――しかし、それは先ほどまでの話。

己の限界を超えねば、この赤毛は倒せない。


限界を超えた集中においては、最大加速の中にあってさえ、周囲を捉えられた。

ベリー=アルガンはこの一撃を必ず躱す。

しかし、後の先は取らせない。

矢の如くと呼ばれる刹那の踏み込み――練り上げ解放したばかりの力を、その刹那に再度練り上げれば良い。


ザインの剣を躱したベリーに対し、間髪入れずのザインの剣。

先のようなフェイントではない。

理論上最速の刺突二段。

雷光の如き刻印さえ、この刃の前には届かない。


加速の刹那、引き延ばされた時間、見えるのは腹立たしい余裕の笑み。

姉のようであり、母のようであり、親友のようであり、そして憧れの、いつか必ず超えるべき相手。

到達寸前に、必要な魔力は練り上がる。

この一撃が躱された後、再度――躱され――


「……へ?」


――ることなく、ザインの剣はベリーの胸を貫いていた。

躱すどころか、動くこともなく、それより何で刃が彼女を貫いているのか。

笑顔のベリーはそのまま、ばしゃん、と水に変わり、持っていた刻印剣が地面に転がり、


「――えいっ」


背後から、クリシェの小曲剣が首筋に。


「ふふ、この勝負、どうやらわたしの勝ちのようですね」


まるで古びたカラクリのように、セレネが背後を振り向くと、そこにいたのは満面の笑みを浮かべた赤毛の使用人――ベリー=アルガン。


「クリシェ様の視線に気付かれた時はどうなるものかと……手に汗握る良い戦いでしたね」

「……、ベリー、これは何?」

「今日は多分剣の勝負を持ち出されるだろうと思って、昨日こっそり用意していた水人形ですね。次元の裏側を通して操作出来るようにして、わたしは途中まで屋上で隠れていたのですが……」


危うい勝負でした、とベリーは頷く。


「もう、しーですよ、って合図しましたのに……ふふ、それじゃあ昼食を作りましょうか」

「えへへ……はいっ」


クリシェを撫でつつ、実に上機嫌である。


限界を超えた集中と剣技。

恐らくは、過去最高の境地に到った刹那。

その瞬間に覚えた濃密な時間が、そしてこれまでのことが、ゆっくりとセレネの脳裏に去来する。

五十年の鍛錬、わざわざ持ち出した刻印剣、喧嘩を売ってるような魔法行使――全てが全て、背後から不意打ちするための目眩まし。


くらり、と目眩を覚えたセレネは額を押さえてしばし固まり、握った愛剣を思わず落とし、


「まぁ、お嬢さまには残念な結果でしたが、勝負は時の運というもの。とりあえず今回は海底沈没ツアーということでご納得――」

「な、な……」

「……?」

「――納得出来るわけないでしょっ! どれだけ卑怯なら気が済むのよこの卑怯者!!」


顔を真っ赤に激怒した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る