第4話 キスの味を忘れない

「いい感じのキスじゃないですかね?」

「ん…? そうだな。だが、俺の方がうまそうだ」


 ゲンさんが掲げた一匹のキスは丸々と太った体を必死にくねらせてどうにか逃げようともがいている。

 今日は予定を前倒しして、とある堤防に釣りに来ており、現在は潮風に吹かれながら、今日の釣果を自慢し合っていた。


「キス釣りも久しぶりでしたね」

「…まぁ、そうか」


 月に一度程度釣りをしているが、先月はスズキ、先々月はアオリイカなど、時期ごとに、その時期っぽいものを狙っているため、毎回新鮮な気持ちになる。

 今回もメゴチなどのゲストはやってきたが全部リリースかゲンさんにあげているため、持ち帰るのはキスのみ。


「ガッチョもうまいんだがな」

「あはは…今日はキスだけで」


 人にもよるのだろうが、俺の場合は淡々と同じ作業をする方が得意なため、一種類だけ持ち帰った方が楽しかったりする。

 食べる人は二人だけであるため、数すらも少ないけれど。


「なんだかんだ天ぷらだよな」

「そうですね、やっぱりキスといえば」


 あとは刺身。

 釣りをする醍醐味といってもいい。


「家も女房が食えばなぁ…」

「ゲンさんがすごいんだと思いますけどね」


 ゲンさんは御年75歳でありながら、胃もたれ知らずなのだという。

 俺の両親ですら40代にして既に脂っぽいものを避け始めているというのに、以前、山盛りの唐揚げの写真を送ってきたこともあった。

 ゲンさん以上に健啖家という言葉が似合う人に俺は出会ったことがない。


「さて、俺はあがるかな」

「あれ、今日は早いですね?」

「先生はまだいるのか?」

「そうですね…もう少しいます」


 いつもは俺の方が先に帰ってしまうため、珍しく感じていると、ゲンさんはその理由を語ってくれた。


「実は今日、結婚記念日でな」

「そうだったんですか!? おめでとうございます」

「50回も来てたらおめでたくもないがな」


 ゲンさんはロッドなどを片付け終え、腰に手を当てながら立ち上がった。

 俺も片づけを始める。


「何か欲しいものありますか?」

「先生に何か貰ったなんて言ったら女房がキレちまうよ」


 ゲンさんは荷物を肩にかけ、手を挙げて帰ろうとしていたが、ふと何かを気が付いたように振り返った。


「来月船出そうとおもうんだが…来てみるか?」

「そうですね…んー、日によりますかね」

「そうか、じゃあ予定が決まったら電話する」

「了解です」


 今度こそ、ゲンさんは去っていった。

 俺は竿を片付け終え、周りを見渡した。

 元々この堤防にはあまり人はいなかったけれど、ゲンさんと同じように帰ろうとしている人たちもいる。


「…はぁ」


 ため息を一つ。

 鮮度の面でいえば、一刻も早く帰った方がいい。

 しかし、あくまで目的は漫画に活かすため…取材みたいなものだ。

 釣りはもちろん、ここにきている人やここの空気、そして、風景。

 意識しなければ気にも留めないものがいくらでもある。


「…」


 あそこにいる立川さんは何度か見かけたことがある。あの人はあまり話しかけられるのが好きではないけれど、大漁の時は機嫌が良く自慢げに話しかけてくることもあった。今日はどうだっただろう。


 あそこにいるのは千尋くん。今は大学生で今日は夜釣りなのか、先ほど来たばかりで用意をしているところみたいだ。帰りに挨拶して帰ろうかな。


 あそこの翔太君の家族は今回が初めての釣りだと挨拶したときに聞いたけれど、楽しめただろうか。遠目からではあるけれど、何かは釣っていたのは確認したけれど…


「…」


 翔太君の顔を見れば、それが無用な心配なことは明らかだった。

 両親の顔とバケツの中を交互に見ながら何かを話している。

 いい思い出になれたのなら何よりだ。 


「こんにちは…蛙先生」

「はい…?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

漫画家の俺と世界一可愛い声優の話 皮以祝 @oue475869

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ