第八十七話  悲しくも甘い、その二。

 静嘉せいか……安らかで良い、清らかで美しい。



   *   *   *



 福耳のみなもとは腕を組み、若大根売わかおおねめの部屋の戸の柱にもたれかかり、そこから動かない。


若大根売わかおおねめ、オレはここから一歩、部屋に入ったら、もう止まれない。……いいの?」


 若大根売わかおおねめは、胸のドキドキが止まらない。


(これを大椿売おおつばきめも乗り越えたのね。うわあ、ドキドキする。恥ずかしい。)


「い、い、いいわよ。入ってよ。……ふにゃん。」


 あたしは途端に、もじもじしはじめてしまう。

 源が部屋にはいった。戸を閉じ、すぐ腕が伸び、あたしを強く抱きしめた。


「ばふっ。」


 背丈の差が随分あるので、あたしの顔は源の胸に完全に埋まってしまう。

 源の胸しか見えない。

 息が苦しい。

 湯上がりの、健康的でどこか甘い、おのこの良い匂いがする。


(うはゃ〜〜〜〜っ!)


 口づけされ、すぐに帯をとかれた。


「ずっと、抑えてた。若大根売わかおおねめ郎女いらつめだから。きちんと婚姻の目処めどがつくまでは、手をださないでおこうって。ずっと、こうしたかったんだ。」

「あ、あひゃ……。」


(そうですか。)


 身体に口づけの嵐がくる。


「あ…………!」


(恥ずかしい〜〜っ!)




   *   *   *



 天。


 それは天にたなびく雲。


 かすみ


 それは山を覆う霞。


 青きみねからしたたり落ちる清流。


 清き水は甘い滴りとなり、若大根売わかおおねめの白い身体を、源の若く引き締まった身体を、滴り落ちる。


「あ!」


 深緑色に生い茂る木々のざわめきが、快楽くわいらくのざわめきとなる。


「あ……!」


 快楽くわいらくはしとど、と身体を濡れさせ、群青色の湖に頭からたぷん、と落とす。


「痛い、痛い。」


 若大根売わかおおねめはもがくが、源のすらりとしつつも、逞しい腕が、若大根売わかおおねめをとらえて、苦しみの湖から逃さない。


 そのうち、苦しみの湖から身体がざばりと浮き上がり、天に連れていかれた。


 稲をく動きで霞を散らし。

 雲を散らし。

 どこまでも天を昇ってゆく。

 天潢てんこうあまの川)に横たわり、静嘉せいかと稲をく。

 星の光が散る。

 涙がこぼれ落ちる。


 頬を濡らす涙が止まらない。


(源。行ってしまわないで。

 あたしの傍にいて。)


 口にできぬ若大根売わかおおねめの思いは、ただ涙となり、天潢てんこうから藍色の夜空へ、キラキラとこぼれ落ちていくだけだ。


「あぁ、源……!」


 源の背中に爪を立て、果てたあと、


若大根売わかおおねめ……。」


 源が、耳元にささやく。


「あなたって、楊梅ようばい(山もも)みたい……。」


 源は、若大根売わかおおねめの涙に濡れた頬をぬぐい、


「愛してる、オレのいも愛子夫いとこせと呼んでほしい。」


 と、どこまでも甘く、言葉の蜜を耳に注いだ。若大根売わかおおねめは酔ったように、


「あたしの愛子夫いとこせ。」


 と口にしてしまった。





   *   *   *




若大根売わかおおねめをいっぱい泣かせてしまった。ごめん……。)


 若大根売わかおおねめが源を見る目は潤んでいる。

 源が大好きな、碧玉へきぎょくのきらめきを宿す瞳。


若大根売わかおおねめ、愛してる。)


 若大根売わかおおねめは、笑顔ではなく、憂いと悲しさを秘めた表情だ。


(ごめん……。)


 源が、その表情をさせている。

 当然だ。愛してると言いながら、桃生柵もむのふのきに置いていき、何年後に帰るかもわからないのだから。


 源は、若大根売わかおおねめの柔らかい頬に触れ、口づけをする。

 どんなに愛しく、大切に思っているか、伝わるように、想いをこめて。

 若大根売わかおおねめはされるがまま、源の唇を迎えてくれる。


若大根売わかおおねめ、迎えに来るから。唐で学んで……。必ず。」


 ───唐で学んで、立身栄達の足がかりをつかんで、必ず。


 そう言いそうになり、源は唇を噛む。

 唐に無事渡り、立身栄達の足がかりをつかめたとしても、それは若大根売わかおおねめの悲願ではない。

 源の家族の悲願であり、源の望みだ。

 それを、いかにも、若大根売わかおおねめに良い事のように、すり替えて言ってはいけない。


 源は、どうしても、夢を捨てることはできない。


 この戰の終結せぬ桃生柵もむのふのきに、置いていく。

 若大根売わかおおねめは、心細く、辛いだろう。

 若大根売わかおおねめに望みを尋ねたら、傍にいてほしい、出世しなくても良い、と、きっと言うだろう……。

 若大根売わかおおねめは、そう言いたいのを、我慢してくれてる。

 

(ごめん、若大根売わかおおねめ。……オレは、若大根売わかおおねめに謝ってばかりだ。本当、ごめん……。)


「待っていて。あなたを失いたくないんだ。」


 源は寝床に座り直し、もとどりをほどき、なかから小さな、おみなの親指ほどの、銅でできた仏像をとりだした。


「オレの御祖みおやが、韓国からくにから持ち帰ったものだよ。

 オレをずっと守っててくれた。

 これからは、オレのかわりに、これが若大根売わかおおねめを守ってくれる。

 もし、何かあったら、これを持って、奈良、平城京の左京五条二坊へ尋ねてきて。繰り返して。」

「奈良、平城京の左京五条二坊。」

「そうだよ。そこで、韓国連からくにのむらじって言えば、オレの家族に会えるから。

 忘れないで。

 必ずだよ、オレのいも

 愛してる。」


 源は、若大根売わかおおねめの手に、小さな仏像を握らせた。


「わかった……。」


 若大根売わかおおねめはぼんやりとうなずいた。

 源は、また若大根売わかおおねめの上に覆いかぶさり、口づけをした。

 源の口づけに応えてくれる若大根売わかおおねめが、ただただ、愛おしい。

 





 若大根売わかおおねめの顔が悲しすぎて。

 夜が短かすぎて。

 楊梅ようばいのような可憐ないもに、ずっと口づけをしたまま、夜が明けなければ良いのに、と思った。





    *   *   *




 若大根売わかおおねめの土器土器日記。


 お姉さまへ。


 お姉さま。あたし、みなもとを愛しています。

 あの人を、恋うているんです。


 あの人の、まっすぐさも、明るい笑顔も、中に秘めた強さも、全部、恋うているんです。


 源は、すごく素敵でした。あたしを楊梅ようばいみたいって。

 良く分からないけど、きっと、あたしを褒めて、愛してる、という意味なのでしょう。


 なんで、こんなに恋うているのに、離れ離れにならなければならないのでしょうか。


 あたしは、源のものになりました。

 源は、あたしのものになりました。


 あたしは、源のいもであり、源は、あたしの愛子夫いとこせです。

 この世に、たった一人の、おみなであり、おのこです。

 源は、あたしを抱きしめて、





 ───おもの忘れむしだは、くにはふり、に立つ雲を見つつしのはせ(※注一)





 とささやきました。

 あたしは、


 ───嬉しい。意味はわかるけど、あたし、返歌を即興で詠むのは、とても無理だわ。

 ……幻滅した?


 と、しょんぼりしながら言いました。

 文字が読めて、書けても、和歌を詠むのは、難しすぎです。

 源は笑って、


 ───かまわない。言いたくて言ってるだけだから。和歌が詠めなくたって、オレが若大根売わかおおねめを恋うてる気持ちに、変わりはないよ。


 と言ってくれたので、あたしはホッとしました。


 源に、和歌を耳元でささやかれ、目をつむると、つかの間、あたしは夢を見てしまいます。


 ここは奈良で、源は、家が立派で裕福な荘士おのこで、家の栄達のために、どこかに行く必要もない。

 あたしも、源に釣り合う郎女いらつめで。

 源は、あたしに和歌をささげ、あたしもそれにふさわしい返歌をかえす。

 二人は月下に微笑み、どこにもいかない。

 そんな、夢を。


 ほんの、つかの間です。

 目を開けて源を見ると、源の微笑みには、甘さと、本当にたふとき壮士おのこみたいな気品があって、あたしは、ぽーっとしてしまいます。


 そんな夢を見させてくれる源に、恋が絶える事はありません。

 

 源の吐く息からは、いつもと違う、丁子ちょうじの爽やかな良い匂いがして、あたしが、


 ───良い匂い。


 と言ったら、源は笑って、


 ───今宵だけだよ。真比登と湯船につかりながら、丁字を一つだけもらったんだ。


 と言っていました。

 うーん、これは、真比登さまにお礼を申しあげるべきでしょうか?

 源が爽やかな良い匂いであたしは嬉しかったです、と。


 んきゃあぁあああああ!


 言えるわけがないわ恥ずかしいぃ───っ!






 お姉さま。

 近いうち、源はきっと、奈良に旅立つのでしょう。

 あたしはしっかり、見送りができるでしょうか?

 頑張りますわ。


 お姉さま。できることなら、源の旅を、お守りください。

 何年かかっても。

 また、源と会えますように。

 お願いです、古富根売ことねめお姉さま。




 若大根売わかおおねめより。








    *   *   *





(※注一)……万葉集、作者不詳。

 オレの顔を忘れそうな時は、大地から湧いてみねに立ち上がる雲を見ながら、思い出しておくれ。





 ↓挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093080789715250





   

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