第八十八話  花麻呂、こんな事になってすまないな。

 夕刻。


 伯団はくのだん戍所じゅしょ


 真比登は鎮兵を集め、


「昨日、辞令が届き、副将軍殿、上毛野君かみつけののきみ大川おおかわさまは、その任を解任された。

 後任は、もう、桃生柵もむのふのきに向かっているという。」


 と、皆に告知した。皆は驚き、ざわめく。古志加が、


「どういう事? 大川さまは、どうなるの?!」


 と大きな声をだした。

 真比登の話に口を挟んだことで、まわりのざわめきが、いっそう大きくなる。

 真比登は、じろり、とその無礼に不機嫌な目をむけながら、古志加に、


「奈良にく戻るよう、命令が来ている。二日後、早朝、出立だ。」

 

 と教えた。古志加は泣き出しそうな顔で、ふるふると頭をふり、


「イヤ! あたしも奈良に行く!」


 と悲鳴をあげた。


「おい……。」


 と花麻呂が古志加の肩をつかみ、発言をやめさせようとする。真比登は、


「古志加、黙れ。

 おまえと花麻呂は仮だが、もう鎮兵のなかに組み込まれている。副将軍の任を解かれたのは、大川さまだけだ。戰が終わらぬかぎり、勝手に鎮兵を離れること、許されないぞ。」


 ピシャリと言う。


「………!」


 古志加は目を見開いてから、ぎゅっと目をつむり、うつむいた。

 花麻呂が古志加を支えるように、肩を抱きかかえた。

 その花麻呂も顔が、青白い。




 古志加と花麻呂を鎮兵ちんぺい伯団はくのだんに迎える時に、三虎と真比登が個人的に交わした約束は二つ。


 死なせないでほしい。

 古志加の操を守ってほしい。


 公的な扱いとしては、馬と武具を持参すること。

 桃生柵もむのふのきの戰が終結したら、鎮兵をやめ、上野国かみつけのくにに返すこと。

 その為に、普通の鎮兵はしないこと───二人分の拝辭はいじ(この場合、鎮兵を辞める為に上納する財貨)をあらかじめ、三虎は主帳さかん事務方じむかた)を通じ、軍団庫に納めている。



 仮の鎮兵とは、そういう扱いであった。




      *   *   *




 戌はじめの刻(夜7時)



「三虎ぁ!」


 右手に浄酒きよさけの壺をぶらさげ、伯団戍所に姿をあらわした三虎に、古志加が涙ぐみ、走って抱きついた。


 ───おほぅぅ。

 ───古志加の郎女いらつめ、大胆な。

 ───最近のおみなはこうなのさ、佐久良売さまだって、しょっちゅう真比登の唇奪ってるじゃん。

 ───うべなうべな……。


 と鎮兵たちがヒソヒソ話す。

 ヒソヒソ声なのは、三虎の顔つきが、冗談が通じなさそうなのと、古志加が、


「いなくなっちゃうの? せっかく、あたし桃生柵もむのふのきに来たのに。いや、いや……。」


 とポロポロ泣き出したからである。

 三虎は目だけで周りを見廻し、苦い顔をするが、古志加が三虎の首元に顔をすりよせながら泣き続けるので、これでは引き剥がせない、とあきらめ、古志加の背中に腕をまわした。


「ああ、オレと大川さまは、明後日、桃生柵もむのふのきを出て、奈良へ向かう。もう、大川さまは副将軍ではない。」

「いや、あたしも行く!」

「それはできない。戰が終わってもいないのに、仮の兵としたおまえと花麻呂を、ここから動かす事はできない。わかれ。

 それを覚悟して、おまえもここに来たはずだ。」

「三虎ぁ!」


 三虎が古志加の両肩をつかみ、引き剥がした。


「泣くな! 失態を見せるな! あまりに情けない姿は、上毛野衛士団かみつけののえじだん全体に泥を塗ると知れ!」

「うっ……。」


 古志加は唇を噛み、黙った。よろよろ、と後ろにさがり、とん、と花麻呂の肩にぶつかった。そのまま、花麻呂に身体をあずけ、うつむく。


 花麻呂がまっすぐ三虎を見た。

 性根しょうねがまっすぐなこのおのこは、いつも人に澄んだ眼差しをむける。三虎にも例外ではない。

 

「三虎、大川さまはどうなされたんです? 唐突に副将軍の任を解かれるなんて……。」

「平城京から届いた木簡には、即刻、副将軍を解任する、疾く平城京へ帰城しろ、としか書かれてなかった。

 理由は書いてない。

 平城京へ戻ったら、何かお叱りがあるのかもな。

 桃生柵もむのふのきの戰が一進一退で決着がつかない責任を問われるのかもしれん。」


 三虎は左手で、つるりと顎を撫でた。


「ふっ、喋りすぎたな。忘れろ。

 明日、早朝、古志加と一緒に大川さまの部屋に来い。

 大川さまに顔をお見せしろ。」

。……大川さまと三虎がここを離れたら、オレと古志加は、いよいよ、ただの鎮兵みたいですね。」


 花麻呂は、いつもの明るい笑顔ではなく、さみしい微笑を見せた。

 さすがの三虎も、いつもの無表情でも、ムッと不機嫌そうな顔でもなく、苦しみと悔恨を顔に浮かべ、花麻呂を見た。


「花麻呂、こんな事になってすまないな。」

「いえ……。三虎、お願いがあるんです。オレが生きて帰れなかったら、これを。」


 花麻呂が、額に巻いた藍色の布を器用に避けながら、ぐしぐしっと髪をほぐして、ひとふさ、垂れた髪の毛を、剣で、ぱつっ、と切った。

 その黒い癖っ毛を、懐からだした手布に包み、


薩人さつひと(※注一)に渡してください。」

おのこだ!!!」


 まわりの鎮兵ちんぺいがどよめいた。三虎が目を見開き、


「おまえ……!」


 古志加が、ぴっと身体を伸ばし、花麻呂から離れ、口をあんぐりとあけ、


薩人さつひとと?!」


 なぜかその場にいた若大根売わかおおねめが、


おのこおのこの恋仲、本物よぉぉぉ───っ!! んきゃああああああ!」


 と叫んだ。花麻呂は真っ赤な顔でキョロキョロまわりをみまわし、


「ちがぁあああああああう!」


 大声で叫んだ。


薩人さつひとなら、オレが誰に形見を渡してほしいか、知ってるからです。

 それだけです! 

 断じて薩人さつひとと恋仲なんかじゃない! 

 オレの趣味はおみなだああああ!」


 誤解されないように、ぷるぷる震えながら叫んだ。

 古志加はぽそっと、


「……やだ、なんかやらしい。」


 とつぶやき、軽蔑の眼差しで、さらに一歩、花麻呂から距離をとった。

 三虎は形見を、


「承った。必ず。」


 と受け取り、若大根売わかおおねめは、


「なあんだ、つまならい。」


 と不満そうに言い、皆、


「うべなうべな。」

「花麻呂はつまらない男だ。」

「花麻呂はつまらない……!」

「うべなうべな。」


 と合唱した。


「やめろおおおお!」


 花麻呂が怒る。若大根売わかおおねめが、


「さ、古志加、行きましょ。佐久良売さまがお呼びよ。あなたに米菓子をふるまってくれるそうよ。」


 と古志加の腕に手を添える。

 若大根売わかおおねめは、去り際、みなもとに、にこり、と親密な微笑みを向ける。

 源も整った顔に嬉しそうな微笑みを浮かべ、こくっとうなずく。

 三虎は、


「真比登は?」


 と真比登を探す。




   *   *   *




 福耳のみなもとが、鷲鼻の嶋成と、ぽっちゃり久自良くじらと、頭に藍色の布をまいた花麻呂に、


「話がある!」


 と声をかける。源は、さっぱりした明るい笑顔で言葉を紡いだ。


「オレ、大川さまと一緒に奈良に行く。鎮兵をやめる。オレの夢の為だ。」

「えっ!」


 嶋成は言葉が出ない。


拝辭はいじ(この場合、鎮兵を辞める為に上納する財貨)はどうしたんだ? けっこう、大金になるはずだろ?」


 とは、久自良。


「ん! 大川さまが払ってくれる!」


 花麻呂は、


「ええ……、そうなのか。大川さまに気に入られた……のか?」


 いまいち、呑み込めない、という顔だ。


「大川さま、お願いしたら聞き届けてくださったよ。」


 源は、人を信じる、という明るい光を目に宿し、花麻呂を見た。


「そうか。」


(すでに拝辭はいじを納めているオレ達二人は、契約に縛られ、戦が終わるまで桃生柵もむのふのきを離れられないのに、何年も鎮兵をするはずだった源は、新しく拝辭はいじを納める事で、鎮兵を辞める事ができる。

 皮肉なものだな。)


 花麻呂はそう思ったが、


(源の門出かどでだ、めでたい事じゃないか。)


 と、笑顔になった。

 嶋成は、


「さみしい。だが、それがお前の望みなんだな? 源!」


 と源を見た。


「ああ!」


 源がはっきりとうなずく。久自良が、


「あっ、佐久良売さまのお付きの女官には、なんて言うつもりだおまえ?」


 とあわてる。


「もう言った。わかってもらった! 

 必ず、何年かかっても、迎えにくるからって言った。」


 源は、胸元でぐっと右拳をにぎり、強い決意を持って、にこっと笑った。

 嶋成が、


「帰ってきたら、牡鹿おしかに必ず来いよ! おまえは、オレの無二の友だ!」


 と拳をつきだす。久自良も、


「オレは多賀の鎮兵の兵舎に戻る。顔を出せよ!」


 と拳をつきだす。花麻呂も、


「オレは、上野国かみつけのくにだ。上毛野君かみつけののきみの屋敷まで来い。」


 と拳をつきだす。源は、


「そんなに一気にまわれないよー!」


 と笑いながら、拳を中央に突き出し、男たちと軽く拳をあわせた。


「オレ、ここに来れて良かった。皆、大好きだ!」

「頑張れよ。」

「うん!」

「応援してる。」

「うん!」

「生きて帰れ!」

「皆も!」


 源の言葉に、


!」


 男たちは力強く返事をする。





   *   *   *




(※注一)……薩人さつひとは、上毛野衛士かみつけのえじ卯団うのだんの衛士です。ひょうきんな31歳。

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