第八十六話 悲しくも甘い、その一。
源は、真比登の部屋で、大川さまから奈良行きの許しをもらってから、まっすぐ、夜の庭、焚き火の前に来た。
いつもの時間、
「
源は、焚き火の前で、そばかすの可愛い女官の手を握った。
* * *
いつもと違う様子で手を握られ、
息を詰めて、恋人である源の、整った顔を見る。
「これは明日、皆へ告知される事だけど、大川さまは、副将軍の任を解任される。三日後、奈良へ向けて出立する。
オレはその時、大川さまと一緒に、奈良へ行く。
これは絶対に秘密だけど、大川さまは遣唐使に選ばれるかもしれない。」
「えっ?」
寝耳に水。あたしは言葉がでない。
「わかって。オレは、
保証はない。
細い糸だけど、初めてつかんだ、海外への希望の糸だ。
必ず、手繰り寄せてみせる。
そこから唐に渡って、何年かかるかわからないけど、必ず日本に帰ってくる。
そしたら、
「い、い、嫌。」
あたしは手をふりほどいた。
「あなたはいつも、わかって、ってそればっかり!
あたしに、わかってって要求して、あたしの事なんてちっとも分かろうとしない! いや!」
そのまま駆け去ろうとするが、ぱしっと源が腕をとらえた。
逃がしてくれない。
「いや! いや!」
「ごめん! 恋うてる!」
強い力で、暴れるあたしを抱擁した。
耳たぶに唇を触れるほど近づけ、
「
とささやいた。
あたしは息を呑み、暴れる腕から力が抜けた。
……ずっと待っていた言葉だからだ。
「オレ、こんな生き方しかできない。
ごめん。
この機会を逃したくない。大川さまについてく。
それを諦め、何をするでもなく、ただ
オレのワガママを許して。
このあと、あなたの部屋に忍んでいく。」
さすがに、夜、女官部屋まで、男女二人一緒に歩いてはいけない。人に見られたら、なんと言われるか……。
だから、あたしに先に帰り、部屋で待っていてほしい、と言うのである。
「……イヤだったら、逃げても良い。でも、逃げないで、待っててほしい。」
何も言えないあたしを抱きしめたまま、源が口づけをした。
優しく唇を
いったん唇は離れ、惜しむように、軽い口づけがまたやってくる。
あたしを抱きしめた腕をほどき、唇に、指でそっと触れた。
「……これを最後の口づけにしてしまわないで。」
そう言って、離れ、
「行くから!」
と夜の向こうに消えた。
「……うっ。」
あたしは、涙をぽろりとこぼした。
口元をおさえ、嗚咽をこらえる。
なんの涙か。
自分でもわからない。
「う……、ひっく……。」
どうして、源に恋してしまったのだろう?
戰が終結したら、妻として、奈良に連れていくという、源が要求した約束は、彼自身によって、あっさり反故にされてしまった。
この戰の最中の
まだ佐久良売さまの傍にいられる事を嬉しく思う反面、なんと勝手なことか、と思う。
あまりに勝手だ。
あたしの都合なんて考えない。
なじりたい。
拒絶したい。
でも、できない。
源のあのまっすぐさが、好きだ。
目の輝きが、好きだ。
夢にむかってつきすすんでく強さが、好きだ。
あたしは、この、胸に渦巻くなんともいえない気持ちを抱えたまま、部屋に戻り、きっと、源の訪れを待ってしまう。
きっと、そうなる。
あたしはぽろぽろ泣くのを、手布で隠しながら、宵闇のなかを自分の部屋に帰った。
* * *
とんとん、と女官一人部屋の戸を叩く音がするから、開けてみたら、なんと、
その背中から、
「よっ!
と源がひょっこり、顔をだした。
「
「真比登と一緒に風呂に入っちゃった! さっぱり!」
「ひでえのコイツ、なんだかんだで、
「わかりました! 仕置きはあたしが!」
あたしは素早く腕をのばし、背の高い源の頬をとらえた。
むにーっ、と両頬を左右にひっぱる。
「い
源は涙ぐむ。
「ははは! 仕置きをありがとうよ!
……
あたしは手を離す。
主の
「ここまでの案内、ありがとうございます。」
礼の姿勢をとる。源も、
「ありがとうございます。助かりました。」
ちゃっかり、礼の姿勢をとる。
真比登さまは優しく笑って、
「
と帰っていった。おそらく、そのまま佐久良売さまの部屋へ行くのだろう。
あたしが部屋に戻ろうとすると、源がそれまでの明るい笑顔を消した。
戸のところで、立ち止まり、柱にもたれかかった。笑みに影が落ちる。
なんだか妖しい微笑み。
今まで見たことのない微笑みに、あたしは、胸がドキリとする。
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