第八十五話 貴殿に会えて良かった。
夜。
「───はあ……。」
「
「は。」
従者である三虎は、肯定とも否定ともとれる言葉で、短く返事をする。
三虎に、この木簡に書いてある事の真偽をわかるわけがないからだ。
三虎は、ただ、大川の話を聞く相手として、ここに立つ。
従者は、それで良い。
大川は、不愉快そうに眉をしかめ、指で木簡を、ぱちり! と弾いた。
「おそらく、あと二、三日で、正式な命令が届くだろう、
きっと、まことであるのだろう。
……これは、覚悟せねばならぬな。」
「大川さま……。」
三虎は、気遣う声音で、ただ主の名を呼ぶことしかできなかった。
* * *
戰場から帰り、軍議の時間。征夷大将軍、
「おほん。奈良から
と、木簡を手にとり、読み上げた。内容は、なんと、
何を理由にしてかは記されておらず、また、征夷大将軍にも、
ただ、大川に、疾く平城京へ帰城するように、とだけ記されていた。
真比登は、
「げっ。」
と、つい口走ってしまった。
(なんだその、わけのわからん辞令は?)
「おほん。副将軍殿……、いや、
大川さまは、美貌の顔に、とくに驚きを浮かべず、そよ風が吹いたような自然な表情で、
「わかりました。」
と言った。真比登は、
(大物だ……。)
と思った。
軍議のあと。広間をあとにした真比登のそばに、大川さまが、すっと近寄ってきた。
真比登にむかって微笑む。
「ぜひとも、ゆっくり話がしたい。」
真比登は頷いた。
「では、オレの部屋にのちほどいらしてください。」
大川さまも、金ぴかの
大川さま、一人。
いつも大川さまに付き従う三虎が、いない。
(なんでだ?)
「お一人……ですか?」
真比登は首をかしげる。
部屋に入った大川さまは目を細めて、優雅に笑った。
「今宵は、私が
「恐縮です。」
真比登は素直に、この、並の
「オレは外しましょうか?」
と気を
「いいさ。話を聞いてもらっても。
……真比登、急な別れになってしまって、残念だ。
私は
貴殿を初めて戰場で見た時には、目の覚めるような活躍ぶりに、世の中にはこんなに強い
「はは、ありがとうございます。」
「酔った貴殿の顎を打ち抜いたのも、良い思い出だ。」
くくっ、と美貌の男は楽しそうに笑い、
「貴殿には迷惑をかけたな。私に含むことはないか。」
と真比登をじっと見つめた。無駄に色っぽい。
(言いたい事があるとすれば、そんな目で見つめないで欲しいという事だけです。あ〜、
「ないですよ。縁談を押し付けられた時には、一発殴ってやりたいと思いましたが、あれがなければ、佐久良売さまを妻にできていなかったでしょう。」
「ははは、その通りだ。」
大川さまは自らも
「まったく……、私は、すこし……、いや、かなり、貴殿が羨ましい。
「やめてくださいよ。そんなに美形で
真比登は、げーっ、と嫌そうな顔をしてやった。
「ぷっ、あはは!」
大川さまは
(なんだ、無邪気だな。こういう面もあるのか。)
真比登は笑顔で、注いでもらった浄酒を呑む。
「そう、今日の辞令には驚きましたよ。中身にも、大川さまが冷静だったのにも。」
「ふふ……、実は、あらかじめ知っていたのだ。
平城京の
私は、もう、生きて貴殿に会えないかもしれない。
貴殿に預けている、古志加と花麻呂を、よろしく頼むぞ。」
二人を死なせるな、という意味であろう。
「古志加と花麻呂なら、頼まれましたが、なぜ、大川さまが生きて会えないと?」
「
それがもし本当なら、唐に渡って、生きて帰れる保証はない。
ああ、これは、皆には言わないでくれよ。事の真偽はわからぬ。」
そこで、ダンダン! と戸を乱暴に叩く音がした。
「大川さま! 大川さま!」
戸の向こうから、落ち着きのない大声を出すのは、
「なんだ?」
源は、左手に持った
「これ、ありがとう!」
「オレ、
大川さま、オレも唐に連れて行ってください!」
源は真剣な顔だ。
真比登は倚子を立ち上がり、
「おいおい、バカか!
と
「
と、源の両腕をつかんで、部屋を引きずり出そうとする。
「大川さま! 大川さま! オレは前に真比登のかわりに縁談に出た!
あれは首をかけた縁談だった。
あなたはオレに借りがあるはずだ!」
大川さまが、
「源の話を聞こう。」
と机の上に肘をつき、手を顎下で組んだ。
真比登は顔をしかめて、ふーっと息をはいた。源は
「ありがとうございます。
オレは、ずっと
ここ、
しかし、何か具体的な
大川さまが奈良へいき、遣唐使になるなら、オレも唐に行きたい。
オレは勉学も唐語も、ある程度はできます!
お願いです、オレも奈良に、そして唐に同行させてください。」
「私の
憶測の域をでないし、また、私に遣唐使の任命権があるわけではない。」
「それでも、奈良に行かなければ始まらない。
誰かの従者でもなんでも、遣唐使船にもぐりこんでみせます。
ここで戰をしてられない。その間に遣唐使船はでてしまうかもしれない。
お願いです、連れて行ってください!」
「ふ───……。」
大川さまは、深い溜め息をついた。
「遣唐使に選ばれ、無事帰国を果たせば、特別の
「もとより承知!」
真比登は、話し合いがどうなるか、ただ見守るしかできない。
* * *
「うむ……。」
大川はこめかみを揉んだ。
(
……源にも、あてはまるな……。)
「たしかに、私が真比登に押し付けた縁談、巡り巡って、源にも迷惑をかけたな。
良いだろう。
奈良へ連れていってやる。
奈良での面倒は私が見よう。
ただ、私もおまえも、遣唐使になれるとは限らないぞ。」
「はい! ありがとうございます!」
「出立は三日後の早朝。皆への告知は……。」
兵士へ、情報をいつ伝えるかは、真比登の裁量だ。
大川は、真比登を見た。真比登は頷き、
「明日、戰が終わってから、告知する。」
静かに告げた。
* * *
その頃、
剣が縦横無尽に、二人の間を閃く。
古志加は足さばき軽く、三虎は離れず、何度も古志加に肉薄する。
五月の夜、気候は過ごしやすいが、古志加の額には玉の汗が浮かぶ。
あと少しで、三虎の勝ちで決着がつくだろう。
頭に藍色の布を巻いた花麻呂は、次に稽古をつけてもらおうと、待っている。
鷲鼻の嶋成が、お腹のでた
「三虎が剣の稽古をつけてくれるなんて、珍しい。
と、己も稽古をつけてもらおうと、
「ばはは。違いない。源があとから知ったら、悔しがるぞ。」
久自良はのんきに笑った。
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