第四十一話  敷 〜しくしく〜

 春雨はるさめの  しくしくるに


 高円たかまと


 山のさくらは  いかにかあるらむ




 春雨乃はるさめの  しくしく布零尓ふるに

 高圓たかまとの

 山能櫻者やまのさくらは  何如有良武いかにかあるらむ




 春雨はるさめがずっと降っている。高円たかまとの山の桜はどうしているだろうか。





     万葉集  河辺東人かわへのあずまと






     *   *   *





 朝日がきらきらと、半蔀はじとみ(跳ね上げ窓)から差し込み、倚子に座った佐久良売さくらめを柔らかく照らす。


 佐久良売さくらめは、手に持った筆をすずりに置いて、ふと、半蔀はじとみの外を見た。


 庭のたちばなや松、緑濃い葉が、朝日をあびて、眩しく輝いている。

 抜けるような青空。

 遠く、薬草園から、紫蘇しそや花々の甘い匂いが、清らかな風となり、佐久良売の部屋まで吹き込んできている。

 八月の朝は、なんと美しいことか。


(不思議ね───。今朝初めて、この美しさに気がついたように思える。

 あたくしのまわりには、こんなに光が満ちあふれていたのね。)


 佐久良売さくらめは紙に筆を走らせながら、夢想する。


(あたくしの望みは何だろう?)


 早く戰が終われば良い。

 父上も無事で、都々自売つつじめ桃生柵もむのふのきつまとともに暮らし、無事に緑兒みどりこ(赤ちゃん)が産まれる。

 あたくしは、都々自売つつじめの可愛い緑兒みどりこの顔を見に、都々自売つつじめの部屋に訪れる。

 隣には、真比登まひとがいる……。


 真比登と婚姻したら、彼が郷人さとびと出身である事を考えても、ここ桃生柵もむのふのき長尾連ながおのむらじの屋敷で一緒に暮らすことになるだろう。


 あたくしにしきりと婚姻して欲しがっていた父上は、───疱瘡もがさ持ちに難色を示すかもしれないけど、あたくしは、真比登以外はもうつまに選ばないのだから、最後は納得し、あたくしがつまを得ることを喜んでくださるであろう。


 都々自売つつじめは、あたくしと真比登まひとの仲が良いと冷やかすかもしれない。

 あたくしも同母妹いろもとそのつま寺麻呂てらまろさまを、さんざん冷やかしてきたから、それは甘んじて受け入れよう。


 そうなったら良い。

 それが、あたくしの望み……。

 真比登をつまとしたい。


 あたくしは長女だけど、もう、寺麻呂てらまろさまが長尾連ながおのむらじの跡取りと決まっているから、真比登は跡取りとはならない。

 その点は真比登に了承してもらわないと……。


(考えすぎだわね!)


 ふふ、と佐久良売さくらめは苦笑する。


 恋うてる、と言ってはもらったけど、妻にしたい、とは言ってもらってない。もっと冷静にならなければ。

 今のあたくしは、まるで年端としはもいかない女童めのわらはのようになってしまっている……。


 あたくしは、おのこに恋する事ができないおみなだと、ずっと思っていた。


 でも、違った。


 真比登なら、愛せる。


 どうして、こんなに真比登が良いのだろう? 

 自分でも不思議だが、恋とは理屈ではない。

 大和やまとの国に人さはに(数多く)満ちていはいるが、あたくしが心動かされるおのこは、ただ一人、真比登だけ。

 それが間違えようのない真実であると、身のうちで燃え続けるちいさな熛火ほほが、あたくしに教えてくれるのだ。


 真比登が郷人さとびとなのに軍監ぐんげんとなれたのは、武勇のおかげであるという。

 父上も、副将軍殿も、口を揃えて、真比登は並びなき強さを誇ると言う。

 きっと、ずば抜けて、真比登は強いのだ。

 寂しい影をちらつかせる真比登……。


 もっと真比登のことが知りたい。


 あの優しい眼差しで見つめられながら、真比登に深くいだかれたい。誰よりも強いおのこに守られて、その胸で安らかに眠りたい。

 もう、真比登でなくては、嫌。

 他の誰にも、肌を許したくはない。


 ……この想い、早く気がついて。

 

「書けたわ。」





 春雨乃はるさめの  しくしく布零尓ふるに

 高圓たかまとの

 山能櫻者やまのさくらは  何如有良武いかにかあるらむ





 巻き物になっている紙に書いた。

 これを真比登の部屋に飾らせる。

 良い飾りになるし、手習いの手本としても良いし、さくら──あたくしのことを、しくしく(ずっと)想っていてほしい。


(ふふん! これでどう?!)


 もし真比登にが寄り付こうとも、この書が壁から見張っているのである。


(あら……? でも、もしかして、真比登、すでに、他のおみながいたりするのかしら? そんなの嫌だわ。)


 あの純朴じゅんぼくな様子から、すっかりその可能性が頭から抜けていた。

 佐久良売が縁談相手につきつけた、あの厳しい条件は、本心でもある。

 どうなのであろう?

 しっかり確認しなくては……。


(他のおみなと、おのこを共有するのなんて、ごめんだわ。)


「さ、若大根売わかおおねめ、今日はこの巻き物を持って、医務室へついてきてちょうだい。医師の手伝いは昼前に切り上げて、厨屋くりやへ寄ってから、軍監ぐんげん殿の部屋へ向かいます。」


 今度こそ、手作りの握り飯を真比登に食べさせるのである。



    *   *   *



 一昨日、毒矢を受けた真比登であるが、昨日一日、自室で寝ていたら、復調した。だが、昨日見舞いにきた伯団はくのだんの仲間から、


「医師が休めって言ってるんだから、明日も休まなきゃいけないでしょ。」

「うべなうべな!(そうだそうだ)」


 と、今日も丸一日、自室で休む休日となってしまった。


みなもとに何か謝罪がわりの事をしてやらないとな……。)


 伯団はくのだんは人数が多い。まだ、痺れ毒でやられてから、みなもとと直接、顔をあわせていない……。


(剣でも、手ほどきしてやるか。)


「武芸を教えてくれ───!」


 と、腕の立つ者にまとわりついて、良く教えをうているみなもとである。こう言ってやれば、目を輝かせながら、


「やったぁ───!」


 と喜ぶであろう。


みなもと軍監ぐんげんである誤解がとけたのだから、これでもう、源は佐久良売さまに近づかないな!)


 そんな事が気になる己は、つくづく了見りょうけんが狭い。


(ふぅ……。まだかな。)


 もう正午しょうごの鐘が鳴る頃だが。まだ、佐久良売さまは来ないのか。

 真比登が今朝選んだ竹色の衣は、良い生地のものだし、顔も綺麗に剃ったし、もとどりに乱れはないし、かんざし琥珀こはくをあしらった良いヤツだ。歯ならもう朝から三回も磨いた……。


 疱瘡もがさ持ちがいくら着飾ったところで、とは思うが、ちょっとだけでも、格好良く見られたい。

 相手は豪族の娘だ。

 身だしなみ。そう、これは身だしなみ……。


 そうだ! 棚にしまいっぱなしの、玉佩ぎょくはい(腰にジャラジャラつけるアクセサリー)をつけるなら、今だ。いつも身につけないから、失念していた。


 真比登は沢山、玉佩ぎょくはいを持っている。自分で求めたのではなく、武勲ぶくん褒美ほうびとして、いつの間にか手元に集まってきたものだ。


 真比登は棚を引出し、適当にしまい込んであった物のなかから、一番上等と思われる、あお瑠璃小尺るりのしょうじゃく(ガラス製の小さい物差しのアクセサリー)を選び、帯につけた。


 奈良の貴族は、玉佩ぎょくはいを重ね付けする。

 真比登はもう一つ、今度は渋めの、黒柿把鞘くろがきのつかさやの刀子とうすを取り出し、帯につけた。

 黒柿くろがきつかにもさやにも無駄な装飾はない。木目の美しさを生かした刀子とうすである。ただ先端に、少しの金の装飾がある。

 刀子とうすの刃に反りはなく、斬れ味も良い。持っている玉佩のなかで、一番気に入って身に帯びる事が多い。


 ふと、赤い縞模様の石があしらわれた、白い貝殻の首飾りが目についた。

 蝦夷えみし男童おのわらはから、死の間際に託されたものだ。


「こいつ、どうすっかな……。」


 真比登は棚にしまい込んであった首飾りを手にとった。

 なかなか、蝦夷えみしに渡す機会がないのである。

 戰場で敗走する蝦夷えみしに託しても、次の瞬間、日本兵に殺されるかもしれない。

 牢屋にいる蝦夷達に渡すのは論外。


 どうやって、蝦夷の郷に、この首飾りを届けるか。


 いっそ、戰が終わるまで待って、勝者として蝦夷の郷に赴き、この首飾りを知る者に渡せたら良いかな、と思う真比登である。

 きっと、あの男童おのわらはには、首飾りを渡したい家族、もしくは想い人がいたのだ───。

 楽しい話ではない。真比登はため息をついた。


「佐久良売さまのおとないです。」


 女官の声が扉の外からした。




     *    *   *




 佐久良売は、礼の姿勢をとった真比登に迎えられた。顔色は良い。すっかり毒は抜けたようだ。


「今日は、巻き物に書をしたためてきました。壁に飾りなさい。この部屋は、飾りが少くてよ。それとこれは握り飯です。……あら?」


 竹編みの籠を机に置いた佐久良売は、引き出された棚にキラリと光る首飾りを見つけ、瞬時にまなじりを釣り上げた。


「女物の首飾りですって?」


 真比登は佐久良売さまの剣幕にぎょっとして、


「えっ? いやこれは違うんです!」


 とあわてて棚に駆け寄るが、若大根売わかおおねめが、


「ふぎゃっ! 女物ぉ?! この浮気者!」


 と大声をだし、これに肝をつぶした真比登は、


「ひぃっ、違う!」


 と若大根売わかおおねめに向かって、ぶんぶん、と首を振ってしまった。その隙に首飾りをつかんだ佐久良売は、眉を立て、


「そのあわてぶり、怪しい!!」


 首飾りを真比登に突き出し、


「これは誰に……。」


 言葉尻が消え、首飾りを己の首にかけ、


「………。」


 顔から表情が消えた。


。)


 ……うぅぅぅぅんてぇぇぇぇㇺかぁぁぁぁぁぁ……。

 暈天牟可うんてむか暈天牟可うんてむかと音がする。

 海鳴りのような、頭に響く音。


(悲しい……。。)


 暈天牟可うんてむか暈天牟可うんてむか、頭のなかで音がする。


「あたくし、行かなくては。」


 場所はわかる。


 佐久良売は部屋を飛び出した。












 ↓挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093077814135895

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