第五話  さやけき月明かりのもとで

「早く!」


 父親の部屋を飛び出した佐久良売さくらめは、あとを走る女官、若大根売わかおおねめかしつつ、裳裾もすそをたくしあげ、うしの方角へ簀子すのこ(廊下)を駆けていた。

 その方角には、同母妹いろも都々自売つつじめの部屋がある。

 十八歳の都々自売つつじめの腹には、緑兒みどりこがいる。

 守らねば。

 都々自売つつじめ緑兒みどりこを守らねば!


 まだ、大きな火は見えない。

 しかし、ここに来るまでに、ちいさな火を見た。

 恐ろしい。

 あたりは薄く、広く、きなくさい白い煙が漂っている。


都々自売つつじめ!」


 都々自売つつじめの部屋に駆け込んだ。


「お姉さま!」


 都々自売つつじめと、都々自売つつじめ付きの女官、塩売しおめは抱き合って、部屋で震えていた。

 都々自売つつじめの首には、黄瑠璃きるりの首飾りが光る。


「まだ兵士は来ないの? 火がせまってるわ。逃げましょう。」

「へ、兵士が来るまで待ったほうが良いのでは……。」


 都々自売つつじめが不安そうに言う。そう言われ、佐久良売さくらめは迷った。


 火の手から逃げるには、ここからすぐ逃げたほうが良いだろう。

 でも、賊の手からは?

 この部屋から逃げて、賊とかちあったら?

 おみなだけで、抵抗しきれるものではない。

 この部屋に都々自売つつじめがいる事は明白。待っていれば、兵士が来るはず……。


「わかったわ。……里夜りやは?」


 里夜りやとは、姉妹の可愛がる猫のことである。


里夜りやは逃げましたわ。お姉さま。」

「そう。……こちらからも、兵士を呼びにやりましょう。

 若大根売わかおおねめ。誰ぞ兵士をここへ。早くね。」

「はい! 必ずや!」


 若大根売わかおおねめは緊張をにじませた顔で礼の姿勢をとり、すぐに部屋を出る。


(頼んだわよ、若大根売わかおおねめ。)




 そのような佐久良売さくらめの思いをあざわらうかのように。


 ぽっ。


 ちいさな炎が、半蔀はじとみ(はねあげ窓)の向こうに灯った。


「あっ!」

「きゃあ……!」


 おみなたちはおびえる。


「ここにいてはいけないわ。部屋を出るわよ!」


 佐久良売さくらめは、二階棚にかいだな(背の低い棚)から目についた四寸(約12cm)の刀子とうす(小刀)を懐に忍ばせた。

 佐久良売さくらめに剣の心得はない。

 ただのお守りのようなものだが、ないよりは良い。

 都々自売つつじめの腕をつかみ、部屋を出ようと妻戸つまとへ向かった時。


「ウェンメノコ、アトイキッカラ……。」


 男の声がした。日本語じゃない。

 賊の声だ……!

 近い!


「まずいわ、隠れて!」


 佐久良売さくらめは慌てて都々自売つつじめと女官を、部屋奥の几帳きちょう(布を垂らした仕切り)の後ろに隠した。

 しかし、おみな三人は、隠れられない。


「いい、絶対に喋っちゃ駄目よ。」


 そう怖い顔で二人に言い含め、自分は唐櫃からひつ(大きな物入れ)の影にしゃがんで隠れた。


 息を殺す。

 心臓しんのぞうが口から飛びだしそうに早鐘を打っている。

 遠くからは、やぐらの鐘が絶えず鳴っている。


(まだなの、兵士は、まだ来ないの……。)


 佐久良売さくらめはぎりぎりと歯を噛み締めた。


(守ってみせる。守ってみせる。死なせない……。)


 都々自売つつじめは、たった一人の同母妹いろも

 とうに母刀自ははとじはこの世にいない。

 この世にたった二人の、血を分けた姉妹なのだ。


「アトイキッカラ、アウェンキッカラ……。」


 賊が、部屋に入ってきた。

 まずい!

 几帳の後ろなど、すぐに見つかってしまう。


 ぱちぱち……。


 火の手がせまる音が、大きくなる。

 部屋に流れこむ煙が、濃さを増す。

 ……さっき、都々自売つつじめがあげた悲鳴を聞かれたのかもれない。

 だとしたら、ここが無人だと、ごまかしきれない。

 佐久良売さくらめは覚悟を決めた。


(死ぬなら。都々自売つつじめじゃない。あたくしだ。

 この刀子とうすで賊を切りつけ、その隙にこの部屋の外に出よう。

 走って遠くにいき、この部屋から、賊をひきはがす。

 ……上手くいくかは分からないけれど。)


 賊がうろうろしながら、部屋の奥まで入ってきた。


 佐久良売さくらめ刀子とうすを鞘から抜き、ぱっと唐櫃からひつの影から飛び出した。


 賊はすぐに気がついた。


 佐久良売さくらめは髭面の賊に一大刀たちも浴びせられず、腕をとられた。


ね! れ者っ!」


 もがくが、すぐに腹をうたれ、気を失った。

 


    *   *   *





 陸奥国みちのくのくにの牡鹿郡おしかのこほりいて、大きなる河をえ、たかみねしのぎ、桃生柵もむのふのきを作りてぞく肝胆きもうばう。




 ───陸奥国みちのくのくに牡鹿郡おしかのこほりで、大きな河をまたえ、けわしい山のみねを越え、桃生柵もむのふのき(桃生城)を作り、蝦夷えみし肝胆きもを潰させる───





 続日本紀しょくにほんぎ 天平宝時てんぴょうほうじ四年(760年)より。






  桃生もむのふの山、二十六じょう(約80m)の高さ。


 頂上は、東には政庁。西には身分の高い人々の住まいがある。


 政庁はくるりと築地塀ついじべいで覆われている。

 その築地塀、東西はニ十一丈あまり(約65m)。

 南北は二十三丈あまり(約70m)。

 ここでまつりごとを行う。

 

 政庁を囲む築地塀とは別に、さらに大きい築地塀が、山、そして山のふもと全体を囲む。

 東西、およそ九町(1km)。

 南北、およそ六町(650m)。


 築地塀は、高さ一丈三尺(約4m)。

 厚さ四尺(約1.2m)。


 それが、えんえんと、続く。

 まさに、築地塀の、柵。

 柵が威容を誇る。

 ゆえに、桃生柵もむのふのきなのである。




   *   *   *




「逃がすなぁっ!」


 馬上の人となった真比登まひとは、五百足いおたり熊手くまてみなもとをはじめ、その場でかき集めた十人ほどの兵を連れて、北へ向かい、山をくだった。石を敷き詰め、整備された一本道。

 くだり終わり、一の(外側の築地塀ついじべい)の北門を馬で駆け抜けた。五人に燃える燈火ともしび松明たいまつ)を持たせている。火の粉が早駆けする馬の後ろに飛ばされる。


 ぽつぽつ、と背の高い木々が生え、夜に濃い影を落とす。


 六丈六尺(20m)ほど先の野原に、六人ほどの蝦夷が走る背中が見えた。

 一人、色鮮やかな衣のおみなを肩に背負う。


五百足いおたり、射ろ! 郎女いらつめに当てるな!」

!」


 五百足が、足のみで馬を御し、七尺二寸ななしゃくにすん(約2.18m)の弓に、矢をつがえる。集中力で、あたりの空気がひりつくようだ。

 ビン!

 弓弦ゆづるが鳴り、勢いよく矢が飛ぶ。

 最後尾を走る賊の背中に命中し、悲鳴とともにその男は倒れた。賊どもの走る足が乱れる。


「はいっ!」


 真比登まひとが馬の手綱を打ち、飛び出した。

 真比登まひとはこの夜、ずっと、無言の怒気を放っている。

 背に乗せる主の怒りを感じ取り、今、速く走れ、と望まれた荒ぶる馬、麁駒あらこまは、全霊を持ってそれに応える。

 あっという間に賊に追いつき、真比登まひとは、


「その郎女いらつめに触るんじゃねぇ!」


 たけり吠え、佐久良売さくらめさまを肩に背負った賊を馬上から一刀両断した。


「おっ、と。」


(つい怒りのまま斬ってしまった。)


 ひらっ、と麁駒あらこまから飛び降り、佐久良売さくらめさまが地につく前に、その上半身をつかまえた。


「よっ。」


 気を失った佐久良売さくらめさまを、器用に抱え直し、抱き上げる。

 見たところ、怪我も、衣の乱れもない。


「ほ───っ。」


(良かった。)


 安堵のため息が、真比登まひとから漏れた。


「一人逃がせ。」

。」


 五人の亡骸なきがらは野ざらしにして、真比登まひとたちは帰る。

 蝦夷に亡骸を引き取らせる為、真比登まひとは一人、逃がす。

 すぐに、他の賊も、連れてきた真比登まひとの仲間が征討した。


 真比登まひとが愛馬、麁駒あらこまに乗り、熊手くまてに一旦預けた佐久良売さくらめさまを、馬上で受け取ろうとする。

 そこに近づいてきた兵士がいた。


軍監ぐんげん殿。お疲れでしょう? 佐久良売さくらめさまを連れ帰るのは、やつがれにお任せあれ。」

「おん?」


 伯団はくのだんの兵士ではない。


(誰だ?)


「いや、良い。」


 真比登まひとは断った。


 ───しかし、真比登まひとはこの判断をすぐに後悔する事になる。


 そのまま、熊手から佐久良売さくらめさまを受け取り。


「帰るぞ。」


 真比登まひとが先頭になり、桃生柵もむのふのきへの帰途につく。


 真比登まひとは、佐久良売さくらめさまを抱いて帰る役目を、誰にも譲りたくなかった。

 真比登まひと軍監ぐんげんだ。責任を負う。当たり前だ。

 そう思うが、それだけではない。


 熊手から聞いたが、佐久良売さくらめさまは、同母妹いろもをかばって、一人で賊に立ち向かっていったという。

 同母妹いろもを逃がす為に。

 几帳きちょうの後ろに隠れていて、兵に助けだされた同母妹いろもと女官が、そう証言したそうだ。


 なんという勇気のあるおみな


 正直、険のある態度がいけすかないおみなではあるが、その勇気は、称賛に値する。

 さらわれたままに、しておけない。

 必ず、救う。

 真比登まひとはそう心に決め、ここまで駆けてきた。

 佐久良売さくらめさまを無事救いだせた今も、まだ、賊への怒りが鎮まりきらず、真比登まひとの身体を、かっか、と熱くしている事を、真比登まひとは自覚する。


(ここまで、血潮ちしおたかぶる事は、珍しい。

 どうした事だ。)


 そう思いつつも、一晩じっくり寝れば、明日にはすっきり残らない感情であろう事も、真比登まひとにはわかっている。


 真比登まひとの右腕に抱かれた郎女いらつめはまだ、目を覚まさない。腕から伝わる佐久良売さくらめさまの柔らかい腕、温かい背中の重み、さっきから鼻をくすぐる、えもいわれぬ良い匂い。

 これらが、真比登まひとをこれだけ落ち着かない気持ちにさせているのかもしれなかった。


 雲の多い暗い夜であったが、雲間が晴れた。

 細い三日月が姿を現す。

 さやけき月光りが、佐久良売さくらめさまを照らす。

 真比登まひとは、佳人かほよきおみなの顔を、気を失っているのを良い事に、注視した。


(今だけだから。

 助けたのだから、それくらいのご褒美があっても、良いだろ?)


 長いまつげ。

 抜けるような白さの、肌。

 美しく整った、目鼻立ち。

 桜色に色づく、柔らかそうな唇……。


(本当に綺麗だ。まるで天女だな。豪族の娘、采女うねめとして宮中に行くようなおみなってのは、やっぱ違うなぁ……。)


 ところで、真比登まひとは、良く鍛えられた、逞しい筋肉の持ち主である。

 汗っかきである。

 まわりに驚かれるほどの、汗っかきである。

 今しも。

 ぱたっ、と汗が真比登まひとの額から、郎女いらつめの頬に落ちた。


「んん……。」


 佐久良売さくらめさまが眉をゆがめ、目を覚ました。


(うっ……! しまった……!)


 ここに来て、真比登まひとは大事な事を失念していたと気がついた。

 真比登まひとの顔、左頬の醜い裳瘡もがさがむき出しである。


 真比登まひとは後悔した。


(なんで、自分で運んじまったんだ、馬鹿野郎!)


 真比登まひとの肩が縮こまる。

 この裳瘡を見たら、きっとおみなは悲鳴をあげる。もしかしたら、暴れ、聞くに耐えない言葉を叫ぶだろう。

 恐ろしい穢れを見る目で、真比登まひとを見るだろう───。


 佐久良売さくらめさまと目があった。

 佐久良売さくらめさまはじっと、おびえる真比登まひとを見つめた。


「…………さっきの兵ね。あたくしの同母妹いろもは無事?」


 佐久良売さくらめさまは疲れがにじむ顔でそれだけ言った。


「えっ……?」


 (それだけ?

 佐久良売さくらめさまは、この裳瘡を見たはずだ。

 なのに、それだけ?

 見えてないのか?

 そんな、この月明かりで、ありえない。)


 真比登まひとは混乱した。


「無事なの? 隠さずに言って!」


 佐久良売さくらめさまが緊張した声音を出す。真比登まひとは我に返り、


「無事です。佐久良売さくらめさまがさらわれた後、すぐに兵が保護しました。傷ひとつございません。ご安心ください。」


 と伝えた。


「そう……。良かった。ありがとう。」


 ふう、と息をついた佐久良売さくらめさまは、目をつむり、それ以上喋らず、身体のちからを抜いた。

 真比登まひとに、馬上で運ばれるのを、大人しく許した。


(あ……!)


 真比登まひと心臓しんのぞうが震えた。


(この人は。

 この人は……。

 オレの裳瘡もがさを見たのに、驚かず、唾棄すべきものを見た、という顔もせず、何も言わない、のか……?)


 眼の前で起こっている事がうつつだと、真比登まひとは信じられずにいた。








↓挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330668015844159

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る