天衣無縫

織田 弥

天衣無縫

 何か一つでも才能が、誇れるものが欲しかった。放課後、誰もいない教室に勉強をする少年が一人。一色聖。真面目で努力家、この日もいつもと同じように、下校完了時刻まで勉強する気でいた。教室の隅、微風の抜ける窓側の席。黙々と机に向かう。

「今日も残って勉強か、偉いな」

忘れ物を取りに来たついでか、担任の声、日頃からお世話になっている苦手な英語の担当。聖はにこやかに頷いてみせた。

「君はいつも授業を誰よりも聞いているし、課題の提出もしっかりしている、あとは……」

晴れやかな顔で褒めてくれていた担任の顔が曇る。真面目で努力家、そんな聖ではあるが、成績はイマイチ。芽が出ないでいた。

「まぁ、すぐには結果に現れないと思うけど、長い目でみて腐らず頑張るんだぞ!」

暖かい言葉と共に去っていく。またも聖ははにかんで見せるが、何か引っかかるものがあるようで……。

「はぁ……長い目で、かぁ……」

深いため息。積み重ねていけばいつか……そう思って努力をしてきた彼には、その言葉は何処にも引っかかることはなくシャーペンと共に滑り落ちていく。才能があれば。そう思わないではいられないのだ。

 才能云々と、そう思ってしまってはなにも手につかなくなってしまい、いつもより早く勉強を諦めてしまった。今度机の上に広げたのは原稿用紙。小説……聖の安らぎであり、夢であり、時には逃げ場でもある。小説家を夢見て、手当たり次第に賞へ応募。例え入選できずとも、書いているその時間こそが、彼にとっての青春であるのは言うまでもない。たったそれだけは、才能の有無に拘泥せず、好きと言う気持ちだけを持っていられるのだ。思うがままに、ペンは原稿用紙の舞台上を踊る。一人、また一人と役者が誕生していく、聖は自分の演出するその劇に入り込んでいく……何を書こうか。思いを馳せるは日常。日頃あったことや思ったことにヒントを得ようとする。今日は何があっただろう……朝の食事のこと、登校中にある桜並木のこと、途中助けた優しい声のおばあちゃん……道案内のために学校遅刻してしまったな……と聖は記憶と想像の小旅行へ出かける。

「なぁ!俺の弁当の袋って見なかったか!?」

勢いよく開いたドアの音、不意にかけられたその声に、聖は旅行から呼び戻されてしまった。野球のユニフォーム姿のクラスメイト、膝に手をつき全身で息をしている。

「教室汚して、先生に怒られても知んないぞ〜二宮〜」

目に映ったユニフォームの汚れ、全身が砂埃に塗れている。どんな練習をしたのだろう……何も言わずに眺めている。二宮は聖の一つ前の席に座っていて、いつも声をかけてくれる。聖にとってはありがたい存在だ。平生から真面目な聖。人付き合いに於いては優しく、創作由来の語彙を活かしたユーモアのある喋りもある。それでいて聖自身、何かのネタになるだろうと楽しんでいるので周りに人は多い。けれども二宮は特に気の合う友人であった。

「ここにかかってんぞ〜」

机の横を指を指す。さんきゅ!弾むような返事の二宮。汚れたズボンで机の上に座り、弁当袋を開けておにぎりを取り出す。これが目当てだったらしかった。

「今日はここ最近で一番暑かったろ、お疲れさん」

「おう、さんきゅーな。お前は……今日も書いてんのか?」

おにぎりを片手に、ジェスチャーをする二宮。練習後におにぎりを食うのだが、きつい練習メニューの後だと吐きそうになると言っていたのを思い出した。

「なんか賞に応募するんだっけ?」

「まぁな。俺の作品なんてなんの良さもない、賞なんて夢のまた夢だろうけど、せっかく書くなら、出してみてもいいかなって」

原稿に目を向けたまま返す。どこか不思議な心地がしている。二宮に向けて言っているはずが、言葉の矛先がもう一つどこかへ向かっているように感じた。

「そうかぁ……俺はお前の書く話、好きだけどな」

きっと他の人であれば、世辞に感じられるようなこの言葉も、二宮のどこまでもまっすぐな性格を知っているからか、すっと入り自然と笑みが溢れる。

「ま!努力に勝る天才無し、だ!頑張れよ!未来の売れっ子作家さんよ〜」

大きなおにぎりを食べ終わり、二宮は教室を去って行った。

「努力に勝る天才無し、か……」

気まぐれに立ち上がり、カーテンを開けて窓の外を眺める。ほんのりと夏の匂いが頬を撫でる。

「これ以上の努力なんて、俺には……」

三階の窓、見下ろす景色、これが俺の青春か……どこか寂しくなった。部活終わりの生徒が帰ろうとしている。才能のある人間に、生まれ変われたらなぁ……独り言が溢れたところで、帰り支度を始めた。そのときだった。

「だめ〜!」

響きわたる声。優しく心地よいその声は、強い風とともに背中を突き刺す。その瞬間、辺りに羽根が舞っているのに気づいた。

「今、死のうとしたでしょ!?」

振り返った先、窓の外、羽の生えた人が飛んでいる……。何度目を擦っても姿は消えない。死のうとした、と言ったか、身に覚えがない。

「し、死のうとしたっていつだよ!てか君は誰なんだ!」

「私?私は天使!」

屈託の無い笑顔で笑う少女、いや、背は少し低めだが同い年だろうか。否、羽の生えた彼女が本当に天使だと言うのなら年齢など……頭のエンジンはとうに煙を上げていた。

「信じてくれたかな?」

コスプレした不審者かも、と返した言葉に、子供のように怒る。しかしその頭上のリング、縫い目ひとつも見られない服、天使だと信じるには充分だった。

「君が天使だって言うなら、なんのために俺のとこに来たんだよ」

花笑むセミロングの天使から卒然笑顔が抜けていく。天使の地雷を踏んだようだ。(宙に浮く天使に地雷があるかは謎であるが……)

「お願い手伝って!私!このままじゃ天界に帰れないの!」

何をだよ……そうツッコミを入れることすらさせてもらえず話は進む。どうやら天使には、人を救済する人数のノルマがあるらしい。

「私……力をうまく使えなくて……」

今年中に一人救わないと天界を永久追放される。浮かべた涙は夕陽に照らされダイアモンドのように輝いている。

「でも、どうして俺なんだ?」

苦笑ののち訪れた静寂。ごくりと息を呑む。

「え、えっと……単純で、すぐ願いが叶いそうだったから……」

唐突な貶しに言葉が出ない聖。ダイアモンドが今度はただのガラス細工の様に見えた気がした。

「はぁぁぁぁぁ!?」

脳内の回線が復旧したかのように、遅れて大きな声をあげる。

「えっと!その、ち、違うの!優しそうでお願いも簡単なものになるかなとか思って……決して馬鹿そうとかそんなふうには……!」

俺は単純で馬鹿そうだと思われていたのか、天使の焦りが余計にそう思わせてしまう。

「そうとしか聞こえんが……まぁいいや、願いを叶えたら君は天界に帰れるんだな?」

「そ、そうなの!正確に言うと、その人の心が救われたぁ!ってなったらだけど……!」

心が救われたと思えるようなお願いをしろと言うことか、天使が現れた頃から次第に落ち着きが出てきて、いつもの調子で問いかける。変面のように泣き顔から笑顔になる天使。全力で首を縦に振るその姿に何かを重ねた聖は笑いだす。

「ちょっと!何笑ってるの!?」

「いや、急に笑顔になって、首を縦に振りまくるもんだから……赤べこみたいに見えて……」

首を傾げる天使。頭上のリングのさらに上、ハテナが浮かんでいるように見えた。

「お願い、かぁ……なんでも叶えてくれるのか?」

「えっと……私はまだ全然力使うの下手くそだから……人を生き返らせてくれ!とかは無理だけど……それ以外なら大体は……」

そうか。呟きを境に椅子に座り込み聖はどこか一点を見つめる。

「一つじゃなきゃ、ダメなのか?」

「ううん!何個でも!……結局、願う人本人が救われたって思わなきゃダメだから……」

救われる。漠然として頭の中に浮かぶ。どうしたら自分が救われるのか、そもそも自分は救われるというほど人生に困っているのか、思考の底に、ひらひらと落ちていくような感覚に困り眉を作る。

「じゃあ……救われるかどうかはわからないけど……」

自信のなさげな言葉がミミズのように這ってそこらを歩く。

「三つぐらい、いいかな」

「いいよ!って言ってもお願い次第だけど……どんなお願い!?」

先ほどに比べさらに顔を輝かせる天使。怖い顔をしているわけでもないのに、なぜか聖は気圧されてしまう。

「頭が良くなりたい。俺、どんだけ勉強してもどうしてか成績全然上がんなくてさ、全国一位とかじゃなくていいから、とにかく、頭が良くなりたい」

途切れ途切れに、しかし捲し立てて言う。

「うんうん!これなら私にもできると思う!あと二つは?」

「学校行事とかで活躍したい。運動とか全然ダメで、球技大会とか体育祭とかもっと楽しみたいし、みんなと盛り上がりたい」

そっか。優しい声で微笑む天使。じっと見つめられる。段々とその目に吸い込まれそうになるのにハッとして言葉を続ける。

「あとは、俺、小説書いて賞とか応募してるんだけど、入賞してみたい。短編小説の新人賞の応募の締め切りが近くて、入賞できるような小説が書きたい」

言い終えた聖。心からの願いであるはずなのに、嘔吐した感覚に襲われたように、喉元を押さえ、ぐったりと座り込む。

「頭が良くなりたい。運動神経良くなって体育祭とかで活躍したい。小説の賞に入賞したい。でいいかな?」

静かに、というより力尽きたように頷く。わかった、今度は幼い子供のように笑う天使。

「じゃ、あとは任せて!私が全部叶えてあげる!」

そう言うと颯爽と窓から飛び降りる天使。一瞬遅れて聖は窓に駆け寄る。そこにはもう天使はいなかった。白い羽根だけが辺りを舞っていた。

 夕暮れの教室で味わった非日常は、家に帰るとすっかり日常に溶け込んでしまった。風呂に入り、夕食を取り。明日に備え予習を終わらせて、橙色の灯り一つだけ残してベッドに入る。そこから見えるゴミ箱に捨てた6月14日火曜日。ふっと笑みをこぼして温かな気持ちで聖は眠りについた。

 あの天使との再会は待たずともやってきた。教壇の上から白羽天音と名乗った、羽のない姿の彼女。クラスメートとして、聖のそばにいることにしたのだと彼女は語った。

 一週間後。テストが始まった。範囲が広めの期末テスト。聖はいつもより勉強に励んできた。午前中、一日四教科テストを受けて、午後は学校に残り翌日の教科に備える。全教科のテストが終わるまで3日間続けた。終わってみると、なんだかいつもより異常なほどに手応えがあった。

「どうだった!?」

テスト週間中の席は出席番号順になり、遠くなるのであまり喋ることのなかった白羽がこちらに寄ってきた。

「自分でもビビるほどに良くできたよ」

えっへん、と自慢げな顔をする白羽。

「お〜い聖!?良くできたってなんだよ〜!」

強い衝撃と共に声がした。二宮だ。

「二宮くんはどうだったの?」

白羽が問う。全教科赤点も夢じゃない、と笑って返す二宮。まだ一週間近くだというのに早くも仲良く話している白羽。持ち前の八面玲瓏を生かしてクラスメイトとすぐに仲良くなり、今では人気者。性格、顔良しで“天使ちゃん”と呼ばれているらしい。勿論、本当に天使だというのは聖以外誰も知らない。

「はい、席ついて〜」

雑談の最中、担任が入ってくる。テストが終わり、体育祭の決め事をするために一限だけホームルームがあった。

「体育祭の競技、誰がなにに出るか決めたいと思います〜」

ざわめく教室。お前なに出る、などと会話が飛び交う。運動が苦手な聖はいつもなら足を引っ張ることがなさそうな大縄飛びに参加しているが、白羽の誘いで二人三脚に出ることになった。この時点で、聖は願い事の効果が出たのだと思っていたが、ここで異変が起きた。

「クラス対抗リレー、出たい人いませんか〜?」

花形競技のリレーに出たい人が出てこなかったのだ。何回訊いても出てこない。埒が開かなくなり、平等にくじで決めることになった。担任がクラスの人数分紙を切り分け四つ折りにする。

「えー、紙に丸が書いてあるのがリレー出る人です」

テストが終わり席が戻ったので、聖のもとへ回ってくるのは最後。残ったものを引くことになる。

「残り物には福があるよ!」

白羽はいつもの笑顔とは少し違う、不敵な笑みをこぼす。開けてみると、そこには丸が書かれていた。

「お!聖!お前もか!」

そう二宮に言われて、少し顎に手を当て俯く。白羽の方を見ると、先ほどと変わらず不敵な笑みで丸の描かれた紙をこちらに見せてきた。

「どうして、二宮とお前まで?」

小声で訊く。

「そ、それは!わわ、私たちがいた方が、君も安心でしょ!?」

なぜか焦りだす白羽。体育の授業で白羽と聖は同じ競技を選択しているが、みていると運動神経はとても良いようで、同じく運動が得意な二宮と、聖にとって居てくれるとありがたかった。

「残りの子達も誘ってさ!練習とかして、頑張ろーぜ!」

目を輝かせるようにする二宮。聖はどこか、いつもと違う夏が始まる気がして、心を躍らせていた。

 それから、少しずつ願い事が叶っていった。まずはテスト。どの教科も軒並み九十点を超えていて、どの教科の担当の先生にも、今までの努力の結果が出たなと褒められるほどだった。二宮や白羽と会話しているさなか、その点数は偶然他のクラスメイトに聞かれてしまった。

「一色君ってやっぱり頭いいんだ!」

「今度勉強教えてくれよ!」

「いいなぁ、俺もあんな点数憧れるわ〜」

など、前よりもっとクラスメイトが寄ってくることになった。その結果、昨年は参加しなかった文化祭のクラスの出し物の準備にも自然と参加する流れになってしまった。しかし、どこか嬉しくまんざらでもなかった。

 夏休みに入ると、聖は小説の執筆に取り掛かった。八月の三十一日が締め切り。時間に余裕はあるが、一度取り掛かると、湯水のようにアイデアが湧き出て、文字を打つ手が動き続ける……しかしどこか違和感を感じて何回も消してしまう。アイデアも、構成も、聖自身の中で一番上手くいっている筈だというのに、どこか欠けているものを感じないではいられなかった。

 小説の書き消しを連日繰り返しながら、二宮や白羽たちとリレーの練習をする、また別の日には教室で文化祭の準備をする……いつもとは違う夏休みを聖は過ごした。

 夏休みが終わり、九月初旬、迎えた体育祭。夏は忘れ去られたかのように涼しくなり始めた。青く澄んだ旻天は聖の心を清々しいまでに昂らせる。聖の学校は、一学年九クラス、三学年で二十七クラスを赤、青、緑、黄色の四つのブロックに分ける。聖は青ブロックだった。ブロックのリーダーの選手宣誓から始まり、綱引き、百メートル走、大縄飛び、玉入れと熱く激しい闘いが繰り広げられる。

 二人三脚の時間になると、聖たちは指定の場所に着いた。

「緊張してる?」

「誰が緊張すんだよ、体育祭だぞ?」

スターターピストルの音が空に響く。競技開始、ブロック対抗のリレー形式、全員が走り終わるのが一番早かったチームの勝ち。練習の甲斐あってか聖たちの息はぴったりだった。あいにく、チームは一位とはならなかったが、聖の顔は満足感で満たされていた。そして迎えた最終競技……クラス対抗リレー。男女4人ずつ、最初は女子から、次に男子と走っていく。白羽は四走目、二宮は七走目、なんと聖はアンカーになっていた。いつもの聖なら不安で仕方なくなるところ、興奮状態の聖にはもう微塵も気になることはなかった。一走目がスタートし、白熱したデッドヒート。自分の番が近づくに連れて、聖は胸の鼓動が早くなるのを感じた。四走目、白羽の時に事件は起きた……走っている最中、靴紐が解けて引っかかって転んでしまったのだ。次々と抜かされてしまい、男子の番に入る。二宮までの男子で、なんとか五位まで、なんと二宮が三位まで順位を上げてきた。

「あとは頼むぞ〜!聖〜!」

叫びながら全力で走ってくる二宮。バトンを受け取り走る聖。体が軽い。全速力で、わき目も振らずに走る。無音、時が止まったようだった。ぐんぐんとスピードを上げ、一人抜き去る、これで二位。もう一人抜き去る、これでトップ。そのままゴールテープを突っ切った。そうして二つ目の願いが叶った。一躍ヒーローになったのだ。

 体育祭での活躍でまた人気になった聖。それ以降も頭脳明晰、運動神経抜群、人柄もよい。さらに、以前に書いた小説が入賞、しかも表彰されたこともあって周りから一目置かれる存在となった。聖もそんな状態に満足していた。しかし、とある事をきっかけに、その全てがひっくり変えることになる……。

 急な聖の人気を良く思ってない人たちの妬み嫉みが聖を襲ったのだ。人気になってから、聖へは多くの視線が注がれたが、突き刺すような視線が増えてきた。次第に陰口が聞こえてくるようになり、さらには、教科書を隠されたりされるようになった。所詮、天使に願い事を叶えてもらっただけの聖。今まで持たざるものだったが故に、なぜここまでされるのか、皆目見当もつかなかった。とはいえ、まだ好意を持って寄ってくれる人たちもいる。しかし、嫌がらせを見ている筈なのに、触れてこない。傍観者でいるままだ。それどころか、言われることはいつも一緒で、尊敬する、憧れる。勉強や小説のことを褒められたしても、両手放しで褒めていて、理解などされていないのだと聖は思った。優しい言葉のはずが苦しい。柔らかい綿が聖の首を絞める。

 二宮との関係にも変化が見られた。親友とも言えるほど仲が良かったはずが、聖の周りに人が集まっていくに連れて次第に疎遠になっていった。

「おい!二宮!最近あんま話せてなかったけど元気か?」

願いを叶えてからすっかり珍しくなった、誰とも話していない時間。二宮を呼び止める。

「聖……俺は元気だよ。にしても、お前最近すっげぇ人気になったよな、前まで隣にいた気がするのにな……」

懐かしいとまで感じてしまう彼の雰囲気、言葉。温かくも、どこか冷たく感じられた。

「なーに言ってんだ!俺は変わらずお前の親友だよ」

笑いかける。顔の晴れない二宮。どんな言葉も目の前に聳える壁を超えることはできない。二宮の矛盾した温度が胸を刺す。

「お前、先生に勧められて志望校変えたんだってな、勉強も忙しくなるだろうし、頑張れよ?じゃな」

立ち去る二宮を、聖は止めることができなかった。その場に立ち尽くす。学才、文才、人気、多くのものを得たと言うのに満たされない。それどころか、胸を灼くような痛みに苛まれていた。 

 そんな時、大きな助けになったのが、白羽だった。どんな時でも聖を助け、味方でいた。いつしか聖にとってよき理解者となっていた。それだけじゃない。聖は白羽を…………光と闇の狭間にいたある日、帰り支度をしていたら小説を原稿用紙に書く時に使っていた大事な万年筆がないのに気づいた。あたりを見回すと男子四人ほどに囲まれていて、一人が万年筆を持っているのに気づいた。

「返してくれないか、俺の大事なもんなんだ」

皆がニヤリと笑った時、嫌な予感がした。その瞬間走り出したが、間に合わなかった。バキッ。嫌な音がした。力が抜けてその場に座り込む。奴らの笑い声だけが頭に煩く響いた。

「てめぇ!なにやってんだ!」

荒々しい声がした。それと共に、万年筆を折ったやつの体が宙を舞う。

「大丈夫か!?」

「二宮……お前、どうして……」

聖を庇うようにして立つ二宮。遠く離れてしまった友の背中。思わず声が震える。

「お前助けに来たに決まってんだろ。だって俺たち……親友だろ?白羽さん!頼む!」

その声に従って白羽に肩を貸されながら教室を出ていく。誰もいない寒い屋上、凩が吹いていた。

「聖!どうしたの?なにがあったの!?」

「……万年筆……折られちって……」

黙って俯く白羽。聖の心に雨が降り出していく。

「なんで、こんなこと……俺が、いけなかったのか……?」

「そんなことないよ!聖はなにも悪くない!」

他にかける言葉が見当たらず、天音は精一杯でそう返す。

「こんなことになるなら、あんなお願い、するんじゃなかった……でも、そうしたら、白羽さんが天界に帰れなくなっちまう……なごめん、悪いこと言った」

「ごめん……ね……」

どうして謝るんだよ。聖は精一杯の笑顔で言った。依然として天音の顔から哀しみが消えない。

「聖が、救われなかったから……」

「……いつまでも天界に帰らないと思ったら……まだ救われた判定じゃなかったのか」

静かに頷く天音。

「救われたらね、ぴかぴか光るオーブがその人から出てくるの。でも、いつまでも出てこなかったから……」

「なんでだろうな」

空を見上げる聖。ふと、手に冷たさを感じて、見ると天音の涙だった。

「おいおい、泣くなよ」

「……でも、どうしたら……聖を……」

天音の涙に心を打たれて、なんとか答えを探そうとしてみる。“答えは自分の中にしかない”ふと、どこかで読んだ言葉を思い出した。

「救われるか、一か八かで、俺の心からの願い、聞いてくれるか?」

「……うん……」

涙に心を打たれて咄嗟の言葉だったのでなにも思いついていない聖は、必死に嵐のような心を探る――見つけた。聖ははっとして、これだ。そうゆっくりと呟く。

「その前に、一つ聞いてもいいか?」

天音が弱々しく頷く。

「どうして、白羽さんはここまで一緒にいたんだ?救われてないってわかってたなら、早めに救うやつを切り替えることだって出来ただろうに」

天使としての義務か、良心か、しかし自分の身が掛かっているのにも関わらずここまで味方でいてくれたことに、聖は少なからず疑問を感じていた。

「……覚えてるかな、初めて会った日のこと」

「まぁ、なんとなくは」

天音が静かに語りだす。二人で記憶の中の旅行に出かける。

「あの日の朝、おばあちゃんに会わなかった?」

「あぁ、会ったな」

通学途中出会ったおばあさん。道がわからないからと言われ、道案内したことを思い出す。

「あれ、実は……私なの……」

「…………はぁぁ!?」

驚きのあまり大声を上げてしまった聖。

「なんというか……願いを叶える人を探すためにおばあちゃんになって、いい人いないかなって、探してたんだ……」

「そしたら、俺に出会ったと」

あまりの衝撃に、聖はもう悲しみの温度など、すっかり忘れていた。

「そうなの。聖、すっごい優しくて、時間ないはずなのに、急かすこともなく道案内してくれて……心配になってこっそり学校まで着いて行ったら遅刻してるし……」

「あぁ、先生に驚かれたよ、お前が遅刻とは珍しいって」

その時から真面目さだけはあったのであまり怒られはせず心配までされたことを思い出した。

「でも聖、あの時、道案内してた、じゃなくて寝坊したって言ったでしょ?それで……この子いいなって思って……」

「じゃあ、俺が寝坊したって言わなかったら俺じゃなかったかもしれなかったってこと?」

かもしれない。天音の顔に少し明るさが戻ってきた。

「なんだよそれ!人助けして遅刻した理由に寝坊って言ったからって、どんな観点だよ!」

二人の大きな笑い声が、冬空に響く。

「でも……それだけじゃないんだよ?」

そうなのか、と不思議そうにする聖。二人の間には暖かな空間が出来上がっていた。

「私が願いを叶えるって言っても、聖、勉強すっごい頑張ってたし、走るの苦手って言ってたのに毎日走ってたし、小説書くのだって何回も何回も書き直して頑張ってた」

「ずっと見てたの!?」

ほのかに顔が赤くなる聖。私は天使だからね、という天音の顔も赤らんでいる。

「そんな直向きな姿がかっこいいなぁって、で、その……」

「その……?」

私の話はおしまい、天音は急に話を切った。今度は聖が言葉を紡ぎ始める。

「俺の心からのお願い、なんだけどさ。俺、気づいたんだよ」

「なにを……?」

首を傾げる天音。

「最初はなかったんだけど、どんだけテストでいい点数取って、凄いねって言われても、どんだけ運動できて、憧れられても、どんだけ賞取れるような小説書いて尊敬されても、何かが違うって、ずっとそう感じてた」

一つ一つ丁寧に言葉を咀嚼するように頷く天音。

「それで褒められても、本当の自分をわかってもらえてない気がして、それまで俺は、みんなに尊敬されるほどの才能が欲しかったんだと自分で思ってた」

違ったの……恐る恐る訊く天音。もしそうなら自分のやったことは間違っていたのではと思ったからだろう。

「でも、いざ実際、才能を持ってみて、こんなことになって、二宮や白羽さんに助けられて気づいたんだ。俺が欲しかったのは才能なんかじゃなくて、理解してくれる大事な仲間なんだって」

そっか……天音の顔からまた一つ悲しみが引いていく。

「もう一つ、気づいたんだ。二人に助けてもらって、二宮は大親友になった。そして、俺は白羽さん、天音を……」

「私……を……?」

力なく座り込んでいた聖は急に立ち上がり歩き出した。空を見上げて、暫くして何かを決心したように振り返った。

「俺の心からのお願い……それは……偽物の才能なんていらない。だから……」

「だから……?」

「天音が欲しい」

冬の夕空は寒々として、また静まり返っていた。天音は顔を手で覆って指の隙間から聖を見つめる。

「それ……って……」

「俺、天音が好きだ」

照れくさそうに言う。晴々とした心の二人を、夕日のスポットライトが煌びやかに照らしていた。


 それから、嫌がらせの件は、聖と天音が話している間、二宮が教室で殴り合いの喧嘩をしていたところを担任に見つかりなんとか解決。二宮は一週間ほど謹慎になってしまった。終業式近かったのでそのまま冬休みに入り、三人はクリスマスに集まって遊ぶことにした。

「おう!聖!久しぶり!元気か!」

「おう、元気だよ、申し訳ないな……俺のために」

俺が腹立って殴っちまったから仕方ねぇよ、と豪快に笑う二宮。

「これからも、俺の親友で、居てくれるか……?」

鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をする二宮。そして豪快に笑い出した。

「はははは!何言ってんだ!あたりめぇだろ!?これからもお前の隣走り続けてやるよ!……そうだな、俺がエースになるのと、お前が長編で賞取るの、どっちが早いか勝負と行こうぜ!置いてかれんなよ〜!?」

おう、大きな声で返した。濁りも曇りもない、名前のつけられない何かが胸に込み上げてきた。

「おはよう〜、久しぶりだね、二宮くん!」

天音がやってくる。愛しの彼女がきたぞと揶揄われ二宮と戯れ会う聖。あの後、二人は晴れて付き合うことにはなり、その瞬間、聖の体からオーブが出てきた。これで天音も天界に帰れる……と思いきや、天使が人間と恋仲になるのは御法度らしく結局天界を追放されてしまった。

「本当に良かったのかよ」

羽も、頭上のリングも縫い目の無い服も……天使の面影など何処にもない天音。

「いいの!確かに、天使でいる方が何かと便利だけど……」

天使?なんの話?不思議がる二宮。天音が天使だったことは、二宮には言っていない。今はもう天使ではないし、言う必要もないだろうと、二人で決めたからだ。

「こうやって、聖や二宮くんと楽しく過ごす方が幾分か素敵だと思うから」

いつものように無邪気に笑う天音。天使に祝福されたような心地になる。幾分か素敵……か、と復唱してみる聖。天音と二宮、心強い味方がいる。ありのまま、飾ることがないままでいられる。

「確かに、素敵だな」

「ほら!二人とも!早くいくぞ!俺腹へっちまったよ!」

二宮に急かされ、三人は歩きだす。聖夜に広がる銀世界。雪はあの日の羽根のように舞っていた。二人が出会ったあの日と同じように……

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