蟋蟀在戸 -きりぎりす、とにあり-

すきま讚魚

秋深く なりにけらしな きりぎりす

 

 此度こたび語りやすは、現世うつしよ浮世うきよのモノガタリ。

 此の世は地獄と云いやすが、其処に救いは在るのかどうか——。




 虫の知らせ、といふ言葉をご存知で?

 おやおや、是れは失礼いたしやした。少々例えに申し上げたものの、旦那さまに聞くには些か言葉が容易うございやしたね。


 はたまた『虫』とは何の例えにございましょう。

 

 これはその昔、唐より渡来した道教の教えに則っておりやして。其れによれば、人の身体の中には三尸さんしと呼ばれる虫……が棲んでおると云ふンでさァ。

 其れらは棲みついた人間が亡くなると自由になると云われておりやして、唯一人体から抜け出すことのできる庚申の日に、天に昇り閻魔大王の元へ其の者の悪行を告げに行くンだそうで。

 故に自らの悪事を裁かれるのを恐れた平安のお貴族様方は、庚申の日を寝ずに明かす『庚申待』の風習をもうけたと云われておりまさァ。


 虫の居所が……なんてはなしもありんすから、案外ヒトと虫を結びつけた例えは多いのかもしれやせんね。


 寒露の末候、蟋蟀在戸きりぎりすとにありなんてぇ言葉もございやす。此の息も白んでまいりやした季節の最中、なんぞ蟋蟀の鳴き声なぞ不思議に思ふことがございましょうか?

 しかしねぇ旦那さま、北の戸口の柱。其処にもしも……もしも、蟋蟀きりぎりすが逆さに哭いておりやしたら。


 おんやぁ、旦那さま。聴こえやしたか?

 其の時は、如何か御用心なさりますやう……。


 ころころころり、ころころころ、ころろろろ



***



 京からは遠く離れた山の中、其の麓の村をひとりの風変わりな坊主が訪ねてきたと云ふ。

 坊主といふには些か軽装であり、第一もう十月も末に近づく頃である、何ひとつの冬支度すらしておらぬ姿は異様其のものとも云えた。

 昨今の行脚僧ともまた違い、脚絆も手甲も身につけてはおらず、簡素な草履ばき。また其の全ての装束が白いのである。

 そして坊主は其の顔の上半分を隠すかのやうに、白い布で是れまた木乃伊ミイラの如くぐるぐると覆っておった。


 流行り病の瘡でもあるのだろう、或いは病故に何処ぞの良家より出家させられたのかもしれぬ。

 山歩きの僧とは思えぬほど、坊主の手脚はすらりと白く、また其の語り口には底知れぬ不思議な気品のやうなものが感じられた。

 いやはや、嫋やかな口調は遊女の腹の出だろう、武家のお手付き故に母子共々放り出された身の上に違いないなどと、村の人々は物珍しげに口々に云ふのであった。


 肩には手入れの行き届いた年代物の琵琶を担ぎ、そして背には古ぼけた葛籠がひとつ。坊主の白さに似合わぬ其の様相が、一層妖しげな雰囲気を醸し出していた。


 事の起こりは、此の村に秋の初めより出現するやうになった蟋蟀である。曰く、何れも是れもが目の無い不気味な姿をしており、焼こうが潰そうが日に日に家屋へ其の鳴き声が近づいてくると云ふのだ。

 村人達は気味悪がり、村の長者の元へと相談に訪れる者が絶える日はない。然し何を隠そう、長者の家にこそ蟋蟀の鳴き声が夜な夜な響き渡っているのである。

 長者夫婦は産まれてきた我が子を病で亡くしたばかり、奥方はみるみるやつれてしまい、外に出ることも無い。其処に蟋蟀の鳴き声まで響くとあらば、もう気の狂わんばかりであると云ふ。


「奥方様は元は村の娘でな、長者様に見初められてお嫁に行ったんじゃ。唯一の身寄りの弟も亡くし、我が子までとは……ほんにお気の毒で」


 村人達はそう偶々通りすがった此の旅の坊主に、藁をも摑む思いで声を掛けたのだそう。


 坊主は村の家々を調べ、何やら灰のやうなものを撒くと念仏を唱え、其れを次の家、次の家と巡って回った。

 そして最後に長者の屋敷にも同じやうにした後、そっと懐から数枚の札を取り出してはこう云ったそうな。


「もし、旦那さま。なんぞ心当たりがありますならば、此の札を戸口に貼り、今宵、庚申の日に朝まで神仏に悔い改め一心に念じ祈りなさるが良いでしょう。虫は、貴方の悪行を閻魔大王さまにお知らせしようと……哭いてあるのかもしれやせんでェ」

「儂に、悪行があると申すのか……っ」

「いんやぁ、念には念を、と云ふものでありんすよゥ。旦那さまお心当たりひとつ無ければ、そないなものは唯の杞憂にございやす。……そうは、思いやせんか? 奥方さま?」


 坊主は其の伺い知れぬ表情のまま、長者の側に控えていた顔色の悪い奥方にもそう声を掛けたと云ふ。




 ざわ、ざわ、ざわざわざわ。

 

 おぎゃあ、おぎゃああ。


 ころころころろろろ、ころころろ


***




 其の夜のこと。

 長者ははたと目を覚ました。


 何が虫の知らせだ、何が庚申の夜だ、忌々しいただの蟋蟀じゃないか。そう思い酒を呑んでいたが、ほんの束の間の間眠りに落ちてしまったらしい。

 いつの間にか部屋の灯りも消え、辺りは常闇の中のやうに何も見えぬ。


 ざ、ざ、ざざざざざわざわざわ、ざ……


「だっ、誰だ!?」


 何かが這い回るやうな音に、長者は思わず身を起こし、灯りを探そうと手を伸ばす。


 ぎち、ぎちぎち、ぎち

 ころろろろろろろろろろころころころっ


「なっっ……!!!」


 暗闇ではない、部屋を部屋中を。

 其れが埋め尽くしていたのだ、目無しの蟋蟀が。


「うわぁぁぁあ!!! やめろ!やめろやめ、ろやめっ」

「だ、だんなさま!!」


 異変に気付いた奥方が駆けつけた時には、長者の断末魔は蟋蟀の羽音に紛れ、軈て何も聞こえず……何ひとつ其処に残ることは無かった。


「何なの、気持ち悪い……!! 私達が何をしたと」


 おぎゃあ、


 おぎゃあ、お……ぎゃあ、


 ころ、ころころころ、ころろろろ、



 逃げるやうに屋敷から飛び出した奥方の目に入ったのは、柱で逆さまに哭くーー目無しの蟋蟀。



「おんやぁ、屋敷の中で悔い改め祈るように云いんしたのに……どないなさったか」

「一体是れは如何いふこと!?」


奥方は咄嗟に手にした火箸で柱の蟋蟀をぐしゃりと叩き潰し、叫ぶ。


 お、ぎゃあ、


「奥方さま、聴こえやしませぬか? 蟋蟀ではなく……貴女方が殺めた我が子と、弟君の無念の声が」

「どうしてっ……それをっ」


 髪を振り乱し、振り向いた奥方の目に映ったのは、あの白装束の坊主と……其の腕に抱かれた、目の無い赤子。


「弟君の過ちを、あんさんは二度も繰り替えし……なおも悔い改めやしませんでしたね。復讐に魂を染めた弟君も、金と色に目が眩んで弟君を殺めたあんさんら夫婦も……共に地獄堕ちにございやす」

「世迷い事を……っ!!」


 奥方が火箸を坊主に突き立てやうとした、其の瞬間。


 ぞぶりっ。


「あっ、あっ目がっっ!! 目がうぎゃぁぁああ!!」


 坊主の足下に鎮座していた葛籠が、目にも止まらぬ速さで奥方の両の目を抉り抜いていたのである。


「かぁっ、業の深い目玉の味がすらァ!! 毒殺、水死、とくりゃあ。こりゃあ現世で失くすのは目ん玉と命だけにしとくんだなぁッ」

「ば、ばけ、も……。私が何を……」


 魂ごと跡形も無く呑み込まれていく其の姿を見下ろし、坊主は小さく溜息を吐く。


「其れは地獄の底で、お独りで考えなせぇ。不幸中の幸いでさァ、時間なら無限にありやすからねェ」


 ざ、ざ、ざわざわざわざわ……

 軈て灰となり、蟋蟀達は夜の闇の中へと溶けてゆく。


 お、おぎゃあ。


「堪忍な、親を呪わばあんさんも地獄逝き……せやけど」


 おぎゃ、きゃっ、きゃっ、きゃっ


「……」


 目の無い赤子も軈て笑い声と共に、坊主の腕の中から灰となって溶けてゆく。


「蟋蟀達が一緒だから、寂しくねぇンだと。はぁー、亡魂の逝く先も気の持ちやうってか!」


 誰も居なくなった長者屋敷。

 蟋蟀の鳴き声の中、其の庭に在る井戸がかたり、と鳴った。




***

 


 昔、其の村には盲目の織り物職人の男が住んでおったそうな。

 男には唯一の血縁である、それはそれは美しい姉がおったンでさァ。男が織った反物を売りに行くのは其の姉の仕事にございやした。


 或る時、姉の美しさに恋慕した村の長者が目の治る薬と引き換えにと云い、姉を奉公に出したと。

 ところが是れがとんでもない嘘、薬ではなく其れは毒だったンでございやすよゥ。

 えぇ、そうでさァ。長者の元へ嫁ぐ為にと、弟は騙され殺されそうになったんでさァ。

 怒り狂った弟は長者の元へ斬り込むも、逆に斬り殺され井戸に捨てられてしまったんでございやす。毒で目から血を流し、其れは其れは酷い有様であったと。


 其の後、長者夫婦は赤子を授かりやしたが……なんと産まれた赤子は両の目から血を流し、目の無い姿をしていたそうにございやす。

 まるで弟に生き写し……そう気味悪がった奥方は井戸に其の赤子を投げ入れ殺してしまったそうにございます。


 そう……目無し蟋蟀。

 それは弟君と、名も無きまま空虚に其の魂を戻された赤子の亡魂と怨念が、産み出した哀しき虫だったんでさァ。


 蟋蟀達はもしかすると……其の憐れな魂にそっと寄り添った、小さな小さな魂だったのかもしれやせん。





「はてさて」


 坊主は村を背にし、再び山路を歩き出す。

 其の背には、古びた……凶々しい魂を喰らう葛籠を背負い乍ら。


「秋深く なりにけらしな きりぎりす……。季節の訪れと思へば、戸口に寄り行く蟋蟀の声を聴いたとて、何ひとつ恐ろしいことなぞありんせん。悲哀の声が呪いとなる前に、気づき改心して仕舞えば良いものを」

「けッ! そうは問屋がおろさねぇってのがァ、ニンゲンさまってモンなのよぅ」


 足音ひとつ、けれど声音はふたつ也。


「つーかよぅ、さっきのはアレだぁ、花山院の詠だな? 野郎、なかなか風流なこと云ふじゃあねぇかぃ」

「せやなぁ。花山院さまにとっては、蟋蟀は季節の知らせであって、怨念滲む虫の知らせとはならんのやなぁと」

「なンでぃ、なンでぃ。おい、どうした空也ァ、オメェちったぁ人恋しくなったンじゃねぇのかぃ??」


 虫の音、遠くに響く庚申の夜。

 坊主は薄い唇の端を持ち上げ、ふふふと嗤う。


「いんやぁ、逢った事も無い御人よりも……ワシの側には口煩い葛籠がおりやすからァ」

「てんめっ、口煩いったぁ如何云ふ意味でぃ! 俺っち、オメェも喰っちまってもいいんだぜィ?」


 坊主の脳裏に、ふと最期に笑った赤子の魂が甦る。


「ま、あんさんの気持ち、少し解る気もしますわぁ……」

「……??」



 べべん、とひとつ琵琶の音。


 此度語りやすは、遥か昔の遠い昔。

 葛籠に封じられた地獄の鬼と、其れを連れた白い死神のモノガタリ。


 嗤う角には鬼が出る。

 哭いた角にも鬼は来る。

 浮世が地獄と云ふならば、

 真の安らぎは一体何処にありんしょう。

 

 さぁさ此度こたび語りやすは、

 そんなひとりとひとつの、憐れ戯れ、珍道中。


 

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