The Rusty Man

タチ・ストローベリ

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少年が知っている歌はそれだけだった。

 先祖達があの毎夜まいよ空に浮かぶコバルト色のトンボ玉を出て、この星にやって来るまでには大変な苦難があった。そう聞いた時、彼と仲間達はやはりどんな感想も持ちはしなかった。年相応の義務感に従うべく発したのが、へぇ、やら、そうなんだ、という音だった。それぞれの顔に被せた粘土細工は――困惑と興奮と期待とを見事に調和させたその造形とは裏腹に――死体を想起させる何かを、目には見えない緑と黒と紫とを奏でていた。

 少年は不安にかられた。教授の声はもう聞いていられなくなった。

 彼はいつかの家族旅行で見た、大地球展のポンペイの住民を思い出した。もがき苦しんだ様子の石膏像のホログラム。何故か不思議なほど魂を感じなかった。死体から直接型をとったという事実よりも、その事が恐ろしかった。

 「おい、大丈夫か?」

 友人の一人に声をかけられて、少年は我に返った。

 「アーカイブ室へ行くんだ。さあ」





 青色に塗装されたカパドキアンフラットのそれぞれの穴にカバンを投げ捨てると、子供たちは真ん前のグランドで落ち合った。望陽鏡ぼうようきょうがその照射角を木星にむけきる最後の一瞬までは、自分の所属するチームの勝利を疑う者はいない。二〇世紀のスポーツ指導者が泣いて喜ぶ光景が、うっかり蒸らし過ぎた紅茶ポットの底で毎日展開されていた。健全な少年少女は放課後、スペースクリケットに没頭する。誰も異論を唱えなかった。この日のあの少年を除けば。

「おかしいな、家に荷物はあったのに」エンデヴァー・オポチュニティーズのレプリカユニフォームを着た少女が言った。

「いいよ、始めちゃおう。審判は交代でやればいい」

「駄目よ。公平にできるの、あの子だけじゃない。いつかみたいにいちイニング目から揉めるのはごめんよ。誰か見てないの?」

「あいつ、授業中からずっと変だったぜ」

「変って、どういう風に?」

「歴史の講義の後、上の空で冷や汗かいてて――その後の音楽の授業でも――」

「音楽? いつの時代の話よ」

「ごめん、ごめん。地球文化の時間で、音楽がテーマだったんだ。色も付いてない平べったい――映画フィルムっていったっけ――そんなのを見せられて――だけどアーカイブ室の調子がわるかったんで、音が出なかったんだ。そしたらあいつ――」

 別のクラスメイトが深刻そうに言った。

「泣いちゃったの。もう抑えがきかないって感じで」





 少年は彼の弟の証言通り、図書館にいた。他の者達が迎えに行く道すがら、そこへ続く十字路で彼らは出会った。少年は見るからにガタガタの、カブトムシ型の木の箱を抱えていた。

 「やあ」

 抗議の声をあげようとしていた全員が、少年の声と雰囲気に摩訶不思議な神聖さを感じ、息をのんだ。しかし、その感覚の正体がつかめないとわかると、年少者の特権たる恐れ知らずの意気地で、たちまち畏怖の念を吹き飛ばした。

 誰かが口火を切った。

「何してたんだよ」

 皆、次々に文句を言い、少年は、はにかみながらそれをなだめた。やがて木の箱が注目を受けた。

「これかい?」

 少年はつのを左手に持って胴の前に抱えると、丸い穴の所で三本の線をバンバンと引っ掻いた。

「これ、ギターじゃない?」少年を心配していた、あの少女が閃いた様子で言った。

「そうそう。今日見た映画に出てきたやつは、電源がないと上手く鳴らせないらしいんだけど、こいつはこのままでいいんだ、もともと大きい音がする様に出来てる――本当はもっと線を張れて――」

 少年はやや興奮気味に語ったが、聴衆の反応は冷ややかだった。ため息が聞こえた。

「そんなもんどうすんだよ。楽器なんて難しいから誰もやらなくなったんだろ? 地球人が諦めたもんを、火星人が出来っこないよ」

 これが火星の少年少女の共通認識だった。彼らは皆、過去の地球文化に対しコンプレックスを抱いていた。火星人は地球人の劣化版。芸術など出来ないと遺伝子に決められているんだ。太陽を見てみろ、鏡で寄せ集めた虚像じゃないか。深呼吸してみろ、セラミック林とケミカル湖を抜けた風には、どんなワクワクする香りが入っていると言うんだい? ホモサピエンスが心からうっとり出来るものはどれもこれも、過去の地球製なんだ。大人はみんな互いにそれが分かっていながら、隠そうとしてる。その証拠にほら、集合住宅のあの色は? なんだってスポーツや新しい流行にやたらと「宇宙のスペース」って名付けるんだ? 「火星のマーチアン」じゃ、いけないのかい? いけないとも。知ってるよ、だってこの星は僕らが生まれる遥か前から既に、錆びついてるんラスティだもの。

 だけど、僕らまで錆びつく気はない。まず、大人たちに僕ら世代の有益さを認めさせるんだ。役目をこなす。その役目ってのも、与えられる前に、自分達で割り振る。僕らの気配を社会に覚えさせるんだ。軽くあしらったり、見ないふりが出来ない様に。そして時が来たら――その時が来たら――僕らは何をしたいんだろう? 何をしたらいいんだろう――





 若きアスリート達は突然の砂嵐に追い立てられて、それぞれの家へ帰っていった。試合の勝敗は、その行方をオリンポス山の向こうへとくらました。

「――じゃあ、それは左利きおじいちゃんOld Left-Handedの物だったってわけ?」白のドーリス式キトンに着替えた少女は、焼けただれた砂鉄で真っ赤に染まったユニフォームより、いっそう燃える様に赤い自身の髪を拭きながら、ギターと呼ばれた楽器を真剣に磨く弟に聞いた。

 彼女が映り込む窓の向こう、二時間ほど続いた人工雨は段々と小降りになって来ていて、そろそろ止む。叩き落された褐色の天使の羽をたっぷり含んだ新生の川は、通りの地下に横たわるきんの大蛇に飲み込まれる時、キラリと、恐怖フォボスの声を放つ。しかし、混乱ダイモスで町が染まることはない。眠りにつく前の子らに水はその存在を囁き続けるのだ。

 ありふれた火星の嵐の夜。

「そうだね。そして彼が死んだその日から息子のウィルの物になり、彼が死んだ日に更に息子のアランの――つまり、僕らのパパの物になったんだ。地下室の奥にしまってあるのは姉さんも知ってただろう? パパが言うにはウィルおじいちゃんは少し出来たらしいんだけど、利き手矯正術にかかってからは弾いてるのを見なくなったって」

「ふうん」少女は机の上のマグカップを口に運びながら言った。「それで、あんたはそれをどうしようっての? 火星に楽器は、もうほとんど残ってないらしいけど――」

 彼女はニヤリと笑った。

「つまり、かなり高く売れそうね。ははあ、さてはパパのホットリコリスに毒を入れたでしょ? レイ・ワトニー、犯人はお前だ!」

「――は死んじゃいないよ――きっと待っているさ――」

 ルネ・ワトニーは自身に何が起こったのか、一瞬では認識できなかった。体の底――それが何処なのかは不明だが――から不思議なしびれが沸き立ち、全身は満たされた。痺れは恐れを含んでいた。しかし、心地がよかった。痺れは寂しさを含んでいた。しかし、心地がよかった。痺れは困惑を含んでいた。しかし、心地がよかった。痺れは彼女が生まれる前からずっと忘れていた、うっとりしてしまう感触を脳に呼び込んだ。それは、とても心地がよかった。自分は今、ピカピカに磨かれているのではないか。鏡をのぞいたなら、体は本物の昼間の様に輝き、髪はルビー色のプラズマになって見えるのではないか。そう思った。

「あんた――」興奮により、少しかすれた声が出た。「歌ってるの? それは歌なの? パパだって弾けないのに、何処でそれを――」

 レイ・ワトニーはギターの線をはじくのを止め、姉の目を見てほほ笑んだ。その顔は、広大なアキダリア平原を堂々と掻き混ぜる、真夏の太陽風の様に暖かで、じんわりと誇らしげだった。

「図書館で調べて分かったのは、線をどれくらいの強さで張ればいいかって事だけ。でも、それで十分だった。どういう音を鳴らせばいいか、僕は知ったんだ。今日、学校で『ブルースマン』のフィルムを見た時にね。スピーカーが不調で、彼らの音は聞こえなかった。聞こえなかったのに、僕の頭の中では鳴っていたんだよ! 激しく、心地よく。なんでそんな事が起こったんだろう? 左利きおじいちゃんの霊が、ひ孫の僕めがけて飛び込んだのか――いや、たぶん真相はこうさ、授業中のみんなの声だ。

 僕ら火星の子供の声が重なって聞こえる時って、妙な感覚にならない? 僕はいつも恐ろしかった。何だか魂の気配のない荒涼とした世界を想像してしまうんだ。ちょうど僕らがやって来る前のこの星の様な。この感覚を生み出すものの正体は、高さの違う、二つか三つの音で、これらはぶつかり合って、せめぎ合って、僕らの心を独特に揺らすんだ。実は地球のブルースマンの歌も、これと似たような効果を狙って歌われていたんだって。つまり」

 レイはギターを構えた。

「僕に必要なのは、リズムだけだったんだ。だから音が聞こえなくても、動きを見ればよかった。腕の動きに合わせて、あの音の重なりを再現出来れば、ほら――」

 ルネは驚嘆した。彼の巧みさにではない。全く難しくなさそうな指の動きに合わせて出てくる、拍子抜けしそうなほど素朴な音の連なりが、立派な芸術だったからである。

 私の弟は

「きっと」レイは言った。「これまで人類が芸術と言って来たものの正体は、全てを上回る『嬉しさ』のまゆに包まれた創作物なんだ。内部では悲しみや恐怖や不和が、ドロドロに溶けて渦巻いている。まっとうな理性なら即断の排除に合理性を見出さずにはいられないだろう。でも本能が求めるのは、それら避けられない不快の拒否ではなくて、利用出来るものへの昇華なんだよ。春と、そこに現れる羽化の予兆、それは薄暗い冬の真っ只中にある。これを分かってしまえる事が『嬉しさ』なんだ」

「レイ、あんたは――あんたは、天才よ!」

「そんな。でもまあ、そうかな」彼は恥ずかしそうに言った。

「その詩はどうしたの? それもあんたが?」

「これは友達が書いたのをちょっと借りたんだ。本人はたいしたものじゃないって言うけど、僕はよっぽどいかしてると思う」

「私もよ。とってもいいわ。あなた達二人はチームを組めば? そしてもっと磨きをかけて、広場で演奏するの。いつか、惑星の反対側からも聴きに来る人があるわ。ねえ、もっかいやってみて――」






 それはありふれた火星の夜だった。砂漠はしっとりと錆びていた。二つの月が出会って別れた。病院で誰かが亡くなった。

 ただ少しだけ特別な事に、これまでの人類は知らなかった、新しい音楽が生まれた。

 雨は止んでいた。町はピカピカに光っていた。





 その男はやっとの思いで目的の町にたどり着いた。この町には火星で一番立派な天文台がある。今日は地球が最も接近する日で、それらしい観光客はすぐに分かった。男は彼らについて回る様に、天文台行きの列車を待った。

 ふと、ベンチを見ると、十二歳くらいの少年が奇妙な木の箱を抱えて座っていた。少年は男に見られていると分かると、箱から伸びたつのに手をかけ、張られたいくつかの線をはじき、そして歌い出した。

 男はすっかり魅了された。

「ねえ、おじさん」少年は歌い終えると男へ向かって言った。

「気に入った?」

「気に入ったってもんじゃないよ。こんな気持ちになったのは、初めてだ。一体誰に習ったんだい? 何て呼ばれている音楽なんだい?」

「おじさん、何処から来たの?」

 男はガニメデだとこたえた。

「もっと聴きたいなら、中央広場に行ってごらんよ。いつでも誰かが歌っているよ。そして忘れないでね、この音楽はラスティと言って火星人のつくったものさ。創始者はレイモンドとシンシアのワトニー夫妻。もう随分な年だけど、この町の、この星の誇りなんだ」

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