悟り少年「きよじい」の現代さんぽ
さら坊
私、もう疲れたんだ ~壱~
時刻は二十時を回った頃合いだと思う。わざわざ確かめる気力も無い。
上京してきてからもうすぐ二年になる。
通勤中の人混みで頻繁に知らない人と肩をぶつけ合うことにも慣れ始めていた。歩いている人達は皆、前というよりは下かスマホを見て歩いている。だからぶつかるんだ、と文句を言ってやりたくなったが、律自身も視界の大半を地面で埋めていることに気付き、言葉を喉の奥に飲み込んだ。
耳から流れる音楽も、最近は変化がない。
一年前くらいは、辛いときはドリカム、気分を変えたいときはアイドルグループの曲、といった感じで、自分を楽しませてあげられていたと思う。
最近は、どんな曲にも共感できなくなっていた。辛いときにその辛さに寄り添うような曲を聴いても、貴方に何が分かるのよ、と心で否定してしまうのだ。
それが辛くて、最近は聞き取れない洋楽をランダムで流し続けていた。
常にイヤホンをしていたのは、できる限り周囲の音を聞きたくなかったからだった。
律は歩道に流れる人の波を外れ、明るさと喧騒が少ない道に出た。この道は律の帰路であり、住宅以外には古い飲み屋しかないような道だったので、律についてくる人や律の先を行く人などはほぼいなかった。
都心の勤め先から電車を二本乗り継いだ先にある最寄り駅から家までの道は、都心から少し離れているとはいえ流石東京といったところだろうか、この時間は人がきちんと多くて毎日うんざりしていた。
とはいえこれ以上帰宅が遅くなるのもたまったものではないし、かといって早くなることはほぼない。律はこの毎日のストレスを諦めていた。
―――あなたって何ができるのよ
皆がいるデスクで、一回り年上の先輩に告げられた一言が頭に響き、律の歩みを止めた。これは簡単な事務作業すら人並みにこなせない律に向けての罵倒であり、戦力外通告のようなものだった。
律はイヤホンを外し、周りを見渡した。
アパートはすぐそこを曲がった所にあるけれど、律の目にはそれよりも先に暗闇の中必死に光を出している自動販売機に目が行った。そしてその隣にはベンチがあった。
律の脚は勝手に自動販売機の方へと向かっていった。
律は自販機のレパートリーを見て、少し口角を上げた。こういう自分好みな昔ながらの自販機が自宅の近くにあったというのに、そんなことさえ気付かない最近の自分に少し呆れて笑ってしまったのだった。
律はホットのミルクセーキを買って隣のベンチに腰掛けた。冷えた金属製のベンチは律のお尻を冷たく刺激し、思わず全身が身震いした。その震えをミルクセーキの温かさでごまかそうと、手の間に缶を挟んで擦り合わせた。
缶を開けて口に甘さが広がったと同時に、舌に強烈な痛みを感じた。
火傷でヒリついた舌を空気に当てながら、律は先輩の言葉を頭で何度も
こういうとき、本来なら悔しいと思うべきなんだと思う。
今律の心を埋め尽くしていたのは"申し訳なさ"と"悲しさ"だった。
こんな私でごめんなさい、と何度心で呟いたことだろうか。
会社の同僚や先輩、取引先の相手などの会社関連の人物には勿論、自分を育ててくれた両親やそれ以外の親族にも後ろめたさを感じたことがある。
挙げ句の果てに、この世界に対して「私が存在していてごめんなさい」と無意識につぶやいたときには、自分で自分の正気を疑ったものだ。
これが、申し訳なさだった。
悲しさに関しては、これがいつまで続くのだろう、という思いだった。
他の人に比べて誇れるものなど何も無い人生。それどころか自分は何もかもで標準より劣っているようにすら思える。これは過去の経験による一種の結論だった。
自分を憐れみ、自信なども一切湧かない人生はまるで地獄のように感じた。
いっそ終わりが来てくれたら―――なんて考えることも、少なくなかったように思う。
―――ニャア
律が気分を沈めながら地面を眺めていると、両耳にとても可愛らしい声が聞こえた。
どこから聞こえたのかを確かめるのと、猫が逃げてしまうのを避けるために、律は身体を硬直させて耳に全神経を集中させた。
―――チリン
鳴き声よりも先に聞こえてきたのは、鈴の音だった。そしてそれは、自分の足元から鳴っているように思えた。
律がベンチの下を覗くと、そこには茶色と白の中にほどよく黒色が混ざった綺麗な色の猫が横になっていた。毛並みは整い、その華奢な身体は健康体であることを示しているようだった。
猫は律の方を不思議そうに見つめながら、前足を懸命に舐めている。
「かわいいねえ、どこから来たの?」
律は気付くとしゃがんだ体勢になり、ベンチの下の猫に話しかけていた。疲れ切った律の身体と心が、この猫が出す癒やしオーラに反射で反応したのだろう。
「あのーすいません、そこにいるのは鈴を付けた猫ちゃんだったりしますか?」
声をかけられた瞬間、律は自分が人に見られたくない状態であることを一瞬で理解し、飛び起きて声の主の方を向いた。その視線の先には、小中学生という風貌の幼さの残る少年の姿があった。
律が「そうですけど―――」と答えながらベンチからすこし離れると、それと入れ替わるように少年がベンチの下を覗き込み、猫をひょいと抱え上げた。
「いやあ、助かりました。まったく、いきなりいなくなっちゃうんだから。この子がいなくなったーなんて言ったら私どうなるかわかりませんからね」
「あ、はあ―――この子は君の家の子ってことかな?」律はすこし屈みながら言った。
「んー―――まあそんなところです。ともかく、ありがとうございました」
少年は行儀良く律にお辞儀し、猫を見つめながらふり返って暗闇に向かっていこうとした。
律はその少年の妙な大人びた様子などが気になっていた。一人称の"私"もそうだが、律を見る目や仕草、何から何までがまるで年配の人を相手にしているようだったのだ。
「あの、さ。大丈夫なの? こんな暗い中一人でいるなんて。ちょっと危ないよ。お家まで送ってあげようか?」
一瞬で思いついた理由を並べて、律はその少年を呼び止めた。
すると少年は首をかしげ、律を見ながら微笑んだ。
「知らない大人に話しかけられないように気をつけなくては、という意味の危険なら、今のこの状況こそ危ない状況になってしまいますよ」
「え、いや―――そ、そっかあ、確かにそうだね」律はたじろいでしまった。
色々聞きたいことがあるはずなのに、ここでお別れになってしまうのだろうか。確かに初めて会った少年が気になる、といえば字面だけ見てもおかしなことであり怪しいことは明白だった。
しかしどうしてだろう、彼にはなにか不思議な引力のようなものを感じてしまい、衝動的に話を聞きたくなっている自分がいるのだった。
律が心の中で慌てていると、目の前からぷっと笑う声が聞こえた。
「ははは、すいません。冗談ですよ。貴方に危険を感じる要素はありませんし、なんにせよこの子の恩がある人に失礼なことをいってしまいました。すいませんね」
少年は口を開けて大きく笑った。腕の中にいる猫も笑ったように見えた。
「こ、こら! 大人をからかっちゃいけないでしょ、まったく。で、大丈夫なの?」
律は自分の中の威厳と身だしなみを戻しながらそう聞いた。
「大丈夫ですよ。貴方の心配も分かりますがね、今日お世話になっているところはほんのすぐ近くなんですよ。ほんとですよ」少年は曲がり角を指さしながらそう言った。
律は少し安心したのと同時に、更なる違和感を覚えた。"今日お世話になるところ"とはなんだろう?
「あ、わかった。親戚の家とかに遊びに来てるって感じ? いいねえ、そういうの。私しばらくしてないや」
律がそう言うと、少年がげっという顔をしてその瞬間「あぁ、そうなんですよ。いいですよね、久しぶりの再会というのは」と斜め上を見ながら答えた。
昔から察しが悪いと言われ続けた律でも気付くほどの下手なごまかしだった。
「ふーーーーん」律はじとっとした目で少年を見つめ続けた。
「ああもう、しまったなあこれは―――いや、私が口を滑らせてしまったんだ、疑問を持つな、というのも無理な話でしょうね」
猫を撫でながらそう答える少年を横目に、律は少し喜んでいた。
「まあこの子の恩もあることですし、もう会うこともないでしょうしね。色々お話ししますよ。何か気になることなどあるのでしょう?」
少年はさっき律が座っていたベンチに腰掛け、その冷たさに声を出してびくつき、それにびっくりした猫も同じように毛を逆立てていた。その様子は律に心が温かくなる感覚を味わわせた。
そして少年は落ち着くと手でベンチの座るところを叩き、横に座るように促した。
その様子は律が昔祖母に縁側へ呼ばれたときと全く同じ光景で、律はつい口角が上がってしまっていた。
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