第10話 そしてひとつのお話の終わり。と、アイスクリーム。

「“見ることは信じること(ウィデーレ・エスト・クレーデレ)”」


 呪文の詠唱が終わると同時に、小田桐悠人の目は見開かれた。


 幽霊を実体化させるだけの能力は、まだない。だが、見える眼を与える魔法は、身につけることができた。


 白木蓮の例のボックス席に四人が、正確には二人と一匹と一体が集ったのは、日曜のうららかな春の昼下がりだった。


 童話のシンデレラのように綺麗な衣装を着て、化粧を施した佐和子は、見違えるほど──普段でも充分美人だったが──綺麗だった。伯爵令嬢として何処に出してもおかしくないだろう。鹿鳴館でも、小田桐の婚約者に負けず劣らず注目を集めるに違いない。


 目を見開いたまま、小田桐は黙っていた。佐和子も、黙っていた。珈琲が冷めてしまうのではないかと史緒が思ったとき、


「好きでした」

「……佐和子」

「ごめんなさい、今更こんなこと言われても困らせてしまうと、思うのだけれど」


 目の端に涙をためて、落ちてもどこも濡らすことのない滴を細い指先で拭いながら、佐和子は言った。その目を一旦史緒に向け、また小田桐に向けて、


「ありがとう史緒さん。──さようなら、小田桐さん。ありがとう」


 そう言った佐和子の姿は、かき消える。最期ににっこり笑ったその笑顔は、しばらく瞼の裏に焼き付いていた。


 それから少しの間、小田桐は泣いていた。大の男がカフェーで泣くなんて奇異に映っただろうが、彼は声を殺していたから、気付いた者はいなかった。史緒とまる以外には。


 白木蓮を出た後、史緒は小田桐に向き直ると、ここ数日考えていた台詞を口にした。


「残念ね。私が男だったら、いい友達になれたかもしれないのに」


 未練がましく取られるかもしれないが、本心だった。それに、話すのもこれで最後だろう。


「ごめん、そんなに僕は強くないよ」


 予想通り、小田桐は首を振った。


「君と会う度に彼女を思い出す。思い出にならないんだ。僕が彼女を忘れなかったら、多分、婚約者のあのご令嬢も不幸にさせる」


 それから皮肉な笑みを浮かべた。


「夢を見せるのが王子様の職業だし、多分」

「多分?」

「彼女にも良いところはある。好きになれるよう努力する方が幸せに近いよね」


 そう言ってまた笑った。今度は、皮肉な笑いでなく。自然な笑い方だった。


「そうね」


 史緒も、自然に小さく微笑していた。ふられたことを頭で理解して、心の整理がつくまで随分かかった気もするが、これで多分良かったのだと思う。


「私も努力する。目標ができたから」


 一人前の魔女になること。それに、どうせ勉強するのだから、私立の女子専門学校に進学してみせる。


 まるに教えてもらったことだが、今は洋行した立派な女性たちが、自由で進歩的な教育の実践をするために、幾つも学校を作っているのだ。


「それで、帝大の女子大生になってみせる。その先は──まだ考えてないけど、植物学とか薬学とかやってみたいな」

「そうか。頑張って。君ならできるよ」

「うん」

「──じゃあ、さよなら」

「さようなら」


 小田桐は手を振って、駅への道を歩み去っていった。


 姿が見えなくなってから、人間のふりをしたまる──田中は肩をすくめると、先に立って歩き始めた。史緒は慌ててその後に続く。


「かくして灰被り姫は幸せになれました。めでたしめでたしですかね」

「これ、ハッピーエンドなの?」

「王子様と結ばれるのは、お姫様って決まってますからね。結ばれるというのは、必ずしも、結婚というわけではないのが残念ですが、ね」


 仲を取り持つという意味では、何とか役目を果たすことができたのだろう。でも、おとぎ話の魔女にはまだまだなれそうになかった。彼女たちは出番が少ない割に、絶妙のタイミングを見計らうことができるだけの能力を持っているのだから。


 ところで、と田中は顔だけで振り返り、


「本当にいいんですか? 今回のことは緊急避難って形で、また普通の生活に戻ることも十分できますよ。“魔女”になると、ああいう手合いを相手にしなきゃならないこともあるんです。今回だって警察に引き渡す理由に苦労しましたしね」

「今更言うかな。それに、こともあるで、全部が全部そうじゃないんでしょう?」

「まぁそうですが、王子様は王女様に取られてしまいますよ」

「いいじゃない、王子様じゃなくても」


 無造作に言い放った史緒の顔を、田中が見返してくる。


「……え?」

「お金も地位も容貌も才能も温厚な性格も、そんなの全部なくたっていいよ。王子様が相応しいと勝手に思われるのも、嫌だ」


 田中は困ったように目をしばたいた。


「そうなんですか」

「できれば遊んで暮らしたいけどね」

「正直すぎますね」

「素直になればいいって言ったのはまるでしょうが。私はこれで──これがいいよ」


 ふむ、と田中は頷くと、


「私は、そういう史緒さんが好きですよ」

「え?」

「ずっと見てましたから」

「ええっ!」

「おしめ変えてもらってるところもね」

「……変態」


 告白かと思って照れて顔を赤くしかけた史緒は、低い声で毒づいた。


 それからもっと小さく付け加える。


「それに、猫には魔女が似合いだもんね」

「何か言いました?」

「何も。さてと、せっかくこっちまで出てきたんだから、三越まで行きましょうか」

「用事があるんですか?」

「アイスクリーム売ってるの」

「……アイス……」


 よだれを垂らしそうな勢いで、田中の口元がだらしなく緩む。


 舞踏会で初めて食べたアイスが、どうしても忘れられないらしい。確かに昔はレストランくらいでしか食べられなかったから、猫が入るわけにもいかなかったんだろう。


「そう。三色一緒になったアイス」

「さんしょくいっしょ。というと味も違うのでは?」

「うん、チョコとストロベリーとレモン」

「それは素晴らしい」


 田中は破顔した。


「でしょう?」


 つられて、史緒も笑っていた。久しぶりに思いっきり笑った気がした。


 うららかな日差しの中を、二人は駅へと歩いていく。


 道の脇に植えられた桜の花弁が、風に乗って、二人の頬をくすぐって通り過ぎていった。






                                        了

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灰被リ姫(シンデレラ)ノ魔女 有沢楓 @fluxio

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