第9話 罠

「はぁ、はぁ……」


 肩で息をしながら閉まりかけの校門を潜り抜る。体力もだが、半分以上は緊張のせいだった。人の姿を求めて職員室に走るが姿はない。時計を確かめると、丁度校内の戸締まりのため、見回りをしている時間だった。


 隣の生徒指導室を開ける。棚で囲まれた狭い部屋の中央に、椅子と机が二脚、向かい合って置かれている。その片方に座って、担任の小泉がお茶を飲みながら、何やら大きな本の頁を繰っていた。本から目を上げると、


「どうした柏崎?」

「小泉先生……いえ、何でもありません」


 人がいたことにほっとして、胸をなで下ろしながら、取り繕う。


「そうだ丁度良かった、お茶でも飲んでいきなさい」

「いえ、すぐ帰りますから」

「いいから座れ。話さなきゃいけないこともある。進路指導の回答も書いてもらわないと」


 そんな場合じゃないのに、と思いながら逃げる口実を思いつかず、大人しく席に座る。


 担任の小泉は急須を持って外に出て行ったがすぐ戻ってくると、お茶を自分のものに注ぎ、もう一つ新しい湯飲みを史緒の前に置いた。


「この前のことは災難だったな。だが気になる話を聞いてな。襲われた夜、得体の知れない男と夜道を歩いていたそうじゃないか」

「はぁ……」


 誰に見られていたんだろう。と思うが、見られていたものは仕方ない。


「あの方は一緒に鹿鳴館に行った方です。得体が知れなくはありません」


 だって、飼い猫だし。


「名前も住所も、身分もしっかりした方なんだろうね?」


 住所も名前もはっきりしてる。だって、飼い猫だし。


「馬車が壊れて、わざわざ家まで送っていただいたんです」


 正確にはこっちが送ったのだが。


「このことを家族に知られると、困るんじゃないか」

「いえ、知られても一向に構いませんが」


 史緒の両親はおおらかだが、決していいかげんではない。事情をちゃんと説明したら、合理的に判断してくれるだけの分別はある。というか既に知られていたし。


「新条は嫌だと言っていたぞ」


 史緒は顔を上げた。どうしてここで新条さんの話が出てくるんだろう。


「何を」


 史緒は感づきながら、問い返していた。


 首の後ろで何かがちりちりといっている。そして背後で、さっきの感覚が蘇る。


「知ってるだろう。彼女はいかがわしいカフェーで、男に酌をして、媚びを売ってまで女学生という地位に固執したんだよ」


 小泉は立ち上がった。


「そんな淫売だと知れたら、学校にはいられなくなる。そんな淫売と付き合う男の婚約が台無しになる可能性もあるし──」


 くっくっと、喉の奥で嫌な笑い声をたてる。


「まぁ彼女が嫌がったのはもっと自己中心的なことだったが」

「何を言ったんですか」

「小田桐の馬鹿息子に、話してやると言ったんだ」


 小泉の足が一歩進む。


「そして」


 史緒は立ち上がり、一歩後退する。


「黙っている代わりに私のものになれと言った。だが愚かにも断った」


 それは、見たことのない表情だった。見慣れた担任のものではなかった。歪んだ笑いが背筋を凍らせていく。


「だから一度だけチャンスをやった──あの朝、ここに呼び出したんだ。この机に君と同じように座らせてね」


 何を言わんとしているのか、分かった。耳を塞ぎたかった。


「慈悲深い私はそこのお茶を飲むことで許してやろうとした。手製の薬入りお茶をね──意識が朦朧とすれば、どんな記憶も残らないだろう」


 にっこりと、小泉は笑った。いびつな笑顔。


「だが、ちょっと量を間違えてしまった。それだけなのに死んでしまった」


 佐和子の死因は、予想もつかないほどに馬鹿げたものだった。新聞で取り上げられなかったのは、学校の中だったからだ。それも早朝、そんなことが行われるとは夢にも思わない。


 それが史緒には悔しかった。


 そして、脅されてまで佐和子が得体の知れないお茶を飲んだのが悔しかった。


 さっき約束したように、知られたくないことなのは当然だ。でも、そこまでこだわることじゃないと思った。


 そこまで彼を想っていた彼女に比べ、自分の小田桐への想いがちっぽけなのが、悔しかった。


 たとえ彼女がそんなことをしてたのを小田桐が知ったからといって、急に離れていくだなんて、勝手に決めつけた彼女が悔しかった。


 彼は彼女を選んだのだから、もっと信頼して可能性を信じてみるべきだったのだ。


「だが今度は大丈夫だよ。試してみたからね」

「まさか、後輩にまで手を出したの」


 いなくなった後輩のことが脳裏をよぎる。整合性はないが、彼の笑いが正しいと告げていた。


「あの子も馬鹿な子だった。馬車の襲撃を聞いただけで、心配になって私の所に聞きに来たんだからね。君が実は変な男に狙われていて、困っている、君の助けを求めていると話したら、会いに行きたいと言い出したんだよ」


 史緒のかみしめた奥歯がぎりぎりと鳴る。


「君には効かなかったが、彼女には効果覿面だった。真相に気付いて自殺してしまったがね」

「何のこと」

「君もお茶を飲んだだろう」


 お茶。思い当たるのは一つ。夕暮れの図書室で出してくれたお茶。まるが、飲み干してくれたお茶だ。


「今度は少しだけ改良を加えたから、もっと気持ちよくなれるはずだ」


 机の上の茶碗から湯気を立てている、変哲のない煎茶が、急に恐ろしいもののように見えてくる。


 そっと、静かに下がる。下がって、背中が本棚に押し返される。横に視線を移動させる。狭い部屋だ、ここから入り口まで三メートルもない。


「何故逃げようとする? 自我のあるふりをする? 軽佻浮薄な女学生は、ただ言われた事に従っていればいいんだ」


 小泉が机を乗り越えてやってくる。史緒の左の本棚に、手が突かれる。距離が近い。


 史緒は、一歩踏み出した。


 ブーツの右の踵で、小泉の革靴の甲を見定め、全体重をかけるようにして踏みつける!


 小泉の顔から悲鳴があがる。その隙に、まだ熱いお茶を下から突き上げ、顔にぶちまけた。


 机の上のもう一つの茶碗も手に取り、投げつける。


「な、何をするんだ貴様っ!」


 罵倒を無視して、扉に向かって駆け出す。扉を力を込めて引き開ける──はずだった。


 扉は開かなかった。鍵がかかっているのではないかとノブを回そうとしたが、途中で何かが引っかかったように、一定以上は回らない。


 鍵穴はないのに、堅い手応えが返ってくるだけだった。


「学校に呼び出しておいて、みすみす逃がすと思ったのか?」


 振り返る。にたにたと笑う、その顔は、史緒が今まで見たことがないほど醜悪だった。そして信じられないものを見た。彼から伸びる影が、その先で、ちらちらと燃えるように立ち上がり、黒い舌を伸ばしているのを。


 驚きの張り付いた史緒の顔に満足したように頷く。


 そして両手を伸ばして、左手で史緒の右手をひねりあげ、扉に押しつけると、ささやく。


「君にも私の教育が必要なようだな」


 陳腐な台詞が、史緒には屈辱だった。にらみつける。


「教師ならもっと捻りのきいたこと喋りなさいよ」

「お嬢様がそんな言葉遣いをしてはいけないな」


 指先でおとがいを捕らえる。力強く、無理矢理上を向かせる。


 スラックスの膝が、史緒の脚の間に割って入った。


 史緒にとって最悪なことに、小泉はその手の行為に慣れているようだった。


 何でこんなのがボロも出さずに女学校の教師を続けられるんだか、と悪態を吐きたいが、そんな暇はない。


 首をねじ曲げ、顔を背けて口づけを回避する。相手の左手が袴を上げようとする。


 “魔女”になるって決めたところで、額から第三の目が開いたり、英雄の祖先や意志を具現化された獣が現れて救ってくれるわけもない。いきなり未知の力が覚醒したりしない。


 できることなんてタカが知れてる。だから膝を曲げ、そして──蹴り上げた。


 声にならない悲鳴をあげた小泉の力が緩んだ腕をふりほどく。


 その隙に今度は窓に駆け寄って、鍵を開けようとした。だが、こちらも開かなかった。


 振り向けば小泉の手が胸元にかざされ、不思議な動きをしていた。彼自身の影から伸びたその黒いちらちらとした影が、突如、ひゅんと飛んだ。避ける間もなく史緒の両足首に巻き付いて地面に縫い止める。


「っつ!」


 力を込めて持ち上げようとするが、ビクともしない。影は、床の影に同化して、べったりと張り付いている。


「この世には二種類の人間がいる」


 小泉は史緒に向かってゆっくりと歩み寄る。


「教育する者と教育される者、役に立つ者と取るに足りない者などはいい例だ」


 窓硝子は叩くとびりびりと震えた。椅子でぶち破れそうだったが、その椅子までが今は遠い。


「だがもう一つ。人にない力を持つ者とただの人間だ」


 小泉の手が再び動く。再び別の小さな影が飛び上がり、史緒の両手を壁に縫いつけた。


 史緒は瞬きをしたが、夢は覚めなかった。目の前の光景は、彼女の日常とは全くかけ離れていた。こんなことが夢であればいいと思った。だが、現実だった。それは。


 四肢が拘束されたところを、抱きすくめられる。史緒の背筋がそそけ立った。


 もう駄目だ──そう覚悟して目をつぶった時。


「うわっ!」


 ばりん! 窓硝子が割れる大きな音と共に、別の黒い影が小泉に飛びついた。血が飛ぶ。


「何だこの猫はっ」


 二人の間に着地した一匹の三毛猫は、耳の先からしっぽまで毛を逆立てて牙をむき出しにしていた。だがその姿はどう見てもいつものまるの姿、普通の猫ではなかった。全長が大人の男ほどで、長いしっぽの先は途中で三股に裂けていた。


 史緒はその猫をよく知っていた。白い両脚に墨のように打たれた黒の点の位置も、背中で混じり合った黒茶のまだら模様も、まると同じだった。


「よく無事でしたね」


 まるは主人にだけ分かるように鳴き、小泉を黄金色がかった薄茶色の瞳でにらみつけた。小泉はその視線に左足を一歩だけ退けながら、にらみ返した。押さえた右手からは止めどなく血が流れている。


「化け猫か、久しぶりに見たぞ……何故邪魔をする。お前もその女が欲しいのか」

「柏崎史緒に手を出すな。さもなければ、喉笛を噛み千切る」


 今度は人間の言葉で、まるは喋った。ふん、と不愉快そうに鼻を鳴らし、史緒に向いた。冷笑が浮かんでいる。


「柏崎、どんな関係かは知らないがこの化け物とは別れた方がいい。お前の精気を吸い取るぞ」


 びくん、と史緒の肩が揺れる。


「今まさにこいつ自身が言ったように、元々化け猫は人を喰らうものだ。何らかの契約を交わしたが最期、血だか何だかを要求される。普通の人間にそいつの腹をいつまでも満たしておくことは出来ない。吸いきられて死ぬ」

「史緒さん」


 まるは、一瞬、史緒の顔を振り返った。彼女の表情が知りたかったからだ。だが。


「まる!」


 史緒の悲鳴がその口から上がったのは、まさしくまるに黒い影が巻き付いたからだった。同時に史緒の戒めが解ける。四つの小さな影は飛び上がり、一つになってまるの首に巻き付いて首を締め上げた。それは、黒いトカゲの形をしていた。


 まるはもがいて振り切ろうとしている。


 そしてその隙にまるの横を抜けた小泉が、史緒の目の前に立ち、顔の前に手をかざした。


「化け猫、動くな。動けばこの娘の命はない」


 史緒は、動けなかった。魔女になると覚悟を決めたのに、まるもいるのに、恐怖心はさっきから引いてくれなかった。童話に出てくる悪い魔法使い、小泉はそれに違いなかった。そして自分よりも格上に違いなかった。


 小泉は胸の前に左手をかざし、何やら呟いている。史緒は恐怖心を無理矢理押し殺して耳を澄まし、考えを必死に巡らせる。それは長い呪文の詠唱だった。内容も効果も分からないがどうせろくなものじゃないだろう。


「史緒さん、逃げてください!」


 まるは叫んだ。彼女さえいなければ、互角に戦えると踏んだからだ。


 逃げようかと、史緒は思った。


「──でも」


 小さく呟く。小泉が怪訝な顔をしたのが分かった。


「それじゃ、決めた意味がないじゃない!」


 魔女として、史緒は新米だったが、まるで力がない訳じゃない。それに、こんなヤツに劣っている自分が許せなかった。劣っているとは思いたくなかった。


 手を小泉のシャツの胸元に突っ込んだ。細い金属の感触は予想通りだった。そのまま力を込めると、紐はちぎれて、史緒の手の中にそれが残った。金属の円盤に五芒星と文字が刻まれている、それは万能章ペンタクルと呼ばれる魔術武器だと、史緒は知っていた。


「慈悲の右柱に掲げられし知恵コクマー

 恩恵受けし小夜啼鳥は

 双翼羽ばたかせ

 峻厳の左柱に掲げられし理解ビナー

 連理の枝に留まれり

 女帝ダレットの司りし豊穣の力もて

 百年の眠りをもたらす檻となれ」


 史緒の記憶が正しければ、まるが破った硝子窓の外には、あるはずだった。ご令嬢たちが毎朝水をやっている可憐な花びらの──


「“いばら姫(クレアト・アスペラ・スピナー・ロサース)”」


 埋め尽くされる赤の中を、一筋の風が吹き抜けた。舞い上がる花弁。部屋を満たす薔薇の香り。万能章を拾い上げた小泉が異変に気付いた時には既に遅い。窓の外から伸び上がった茨は小泉の四肢を絡め取っていた。木乃伊ミイラに包帯を巻き付けるように、蔦は皮膚を覆い尽くし、


「まさか……貴様も魔法を……」


 小泉は声をあげようとしたが、喉にも這い上がった茨によって、中断させられる。茨が全身を包むのに対して時間はかからなかった。


 まるはその間にも、爪の先で引っかけた黒いトカゲを床に叩き付け、そのまま踏みつぶした。燃え尽きた墨のように粉になって散り、その粉もまた消えてしまう。


 しばし小泉はうめき声をあげていたが、やがてそれも静まった。薔薇の芳香によって眠りに就いたのだ。


「はぁああああ」


 大きな息を吐いて、史緒は床にへたり込んだ。うまくいったんだ、という嬉しい気持ちと、自分でも信じられない気持ちがない混ぜになる。


「よくできましたね──まさか成功するとは。まさに一発逆転でした」


 まるが化け猫の姿のまま、足下に近寄ってきて、ちょこんと座った。うん、と頷く。


「まるのおかげかも。魔力が上がったとかかもね──契約で」


 言って、奇妙な沈黙が流れた。


「そのことなんですが」

「うん、いいよ。変態教師の言ったことなんて気にしてないから。どうせ嘘なんでしょう」


 史緒は苦笑を浮かべ、顔の前でぱたぱた手を振った。だが、次の瞬間、


「ええ、嘘です。というかそもそも契約なんてしてません」

「はい?」


 思わず、間の抜けた声が出た。


「はい。契約は嘘です」

「ちょっと待って、じゃあ何で接吻なんか」

「ちょっと元気づけてもらおうと思って。あの……後悔、しました?」


 その声は今までの冷静なものでも、おちょくるようなものでもなく。少年がおそるおそる反応を伺うような声だった。


 史緒は二、三分ほど俯いて、ぷるぷる拳を振るわせていたが、


「まさか初接吻ファーストキスだったりしたり?」


 勢いよく顔を上げた。怒りと羞恥が混じり合って真っ赤になっている。


「悪かったわね! すっごく怒ってるんだからね!」

「すみません。あの、おぶっていきましょうか」

「そんなみっともないことできないわよ。待ってなさい」

「……はいはい、分かりましたよ」


 何よその言いぐさは、と悪態を付きながら。史緒は、でも、後悔はしなかった。自分で決めたことだったから。


 それに長く考えている暇はなかった。茨と小泉を、誰かに見られる前に片付ける方法を考えなければならなかったからだ。

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