第8話 魔女修行
史緒が目を覚ましたのは、翌日太陽が高く昇ってからのことだった。何時の間に眠っていたのか記憶がない。羊飼いが三時の鐘を鳴らしたところまでは覚えていたが、その後の記憶は混濁していた。昨晩のことは夢ではなかったか、ほっぺたをつねってみる。痛い。夢じゃない。それに、布団には猫の毛が数本落ちていた。
まるの熱はすっかり引いたようで、史緒が布団の痕を額に付けて食堂に降りたときには、人間の姿で両親に挨拶と弁明をした後だったらしく、母親の八重に、先生は警察に行くと言ってたわよ、と聞かされた。それに、昨日の今日なので、学校は休む旨連絡してくれたらしい。
用意してくれた目玉焼きの乗ったトーストとサラダを食べた後、風呂に行く。コルセットの紐をきつくを締め上げたまま、変な姿勢でベッドに突っ伏して寝ていたせいで、体中痛かった。加えて髪も顔も手足も、汗と埃まみれで、気持ちが悪かった。一風呂浴び、再び睡眠を取るため自室のベッドに倒れ込む。
ダンスを踊っただけでも疲労しているのに、訳の分からない襲撃は受けるし、散々だ。
夕方になってもう一度起床し、紫の矢絣の小袖に行燈袴という普段の女学生姿に着替え終わった頃に、まるは猫の姿で戻ってきた。
警察の事情聴取を何とか誤魔化し、全て一人で済ませてきたという。ここには来ないのか聞いてみたが、それは朝のうちに父親に警部が会いに来て、既に済んでいたらしい。華族で被害者、身に覚えもない、御者も寝ていただけということで、史緒自身が取り調べを受ける必要はないとのことだった。
それから、二人は一緒にあの隠し部屋に行った。史緒はもう一度夢じゃないかと思って外国製のクローゼットを開いたが、そこにはいわゆる魔女らしい道具──裾の長い黒や紫の夜の色をしたローブや、杖やら箒やらが入っていた。
「最初に言っておきますが、あなたは魔女見習いの見習いですからね」
──その日から、まるの指導のもと、魔女の修行が始まった。
そもそも魔女とは何か、ということについて、まるは一切口にしなかった。
史緒が知っていたのは、西洋の、主に女性たちのシャーマニズムと、その自然を活かした医術などについてと、歴史上の魔女裁判に代表される迫害。それから、童話に登場する魔女・魔法使いたち。そんなものだ。
事件に巻き込まれたショックでという名目で、史緒は修行のため、まるのすすめもあって、一週間学校を休むことにした。襲撃してきた相手の出方をうかがう意味もあったが、こちらは何も問題も起こらなかった。
午前中は魔法以外の勉強を、午後は魔法の勉強と瞑想を実践する。
祖母の残した本を、史緒は簡単そうな物から順に読破し、ノートにまとめていった。学校で学ぶような基礎の西洋史は問題なく、民族学に伝承文学は元々家にあった本である程度は知っていた。それでも各地の宗教や魔術やオカルトに植物学と、学ぶべきことはたくさんあった。
魔術関係の本の多くは外国語で書かれていたが、英語は女学校で習っているから多少は読めたし、つたない字で本に書き込まれている注釈があった。祖母は両親の言語、独逸語と英語に日本語の勉強を兼ねて魔術の勉強をしていたらしい。
それに幸い、史緒にとって勉強は苦ではなかった。知ることは何でも楽しかった。その時だけは知識と自分だけの世界だった。他の余計なことは何にもなかった。学校でなくても、どんな勉強でも、未知の知識なら一緒だ。
ただ、一つ学校の勉強と違うことがあるとすれば、目標があったから、知識を活かすことが前提だったからだ。教師より先に『論語』や『マクベス』を暗唱したってすっこんでろとは言われない。そういえば、『マクベス』には主人公が魔女に予言されるシーンがあったっけ。
それに、自分にしかできないことを望まれているのは、嬉しかった。
「でも、できればこんな形でなりたくなかったな」
苦笑する。一番始めの仕事が、よりによって恋敵を助けることだったなんて。
瞬く間に一週間の休暇は終わり、史緒は学校生活に戻った。
休みが明けた日の放課後、史緒は佐和子の様子を見に白木蓮の例の席に着いた。
佐和子には、休暇中も二日に一度は顔を見せていた。彼女に自身の死について思い出さないか聞くためと、外の空気を吸うついでと、約束の進捗状況の報告と、それからほんの少しは、一人きりで退屈していないかと思ったからだ。小田桐と会える可能性があることを伝えたときは、涙を流して喜んでくれたので、期待に応えられればいいな、という気持ちがあった。
「……でね、今日はカバラについて勉強したんだ」
「そう……箒で空を飛んだりするのは?」
「いわゆる魔法っぽいのとしては、初歩のものらしいから、修行すればできるようになるって」
彼女には、馬車襲撃事件を除いて一部始終話してあった。
「そういえばね」
蜂蜜入りの冷しミルク珈琲を傾け、黒髪を耳にかき上げながら、学校で聞いた噂話をする。
「私が学校を休んでいる一週間の間に下級生が一人、失踪したの。初めて白木蓮に来た日、新条さんが下級生の質問から私を助けてくれたでしょう。その子だったの」
学校を出てしばらくは友人と一緒だったが、そのまま帰宅しなかったらしい。
「それでね、何かしら手がかりが欲しいの。これは聞きたくなかったんだけど、“曼珠沙華”っていうお店で女給をしていたのは本当なの?」
まるが常連客のふりをして様子を見てきてくれたので、裏は取れているが、本人からも聞いてきて欲しかった。そして佐和子が死んだ日、彼女は出勤していて、仕事が終わったのが午後十時だったという。
佐和子は俯く。長い髪が頬にかかって表情を隠した。
「ええ、本当よ。すごいのね、そんなことまで知られちゃうなんて」
「あの日、出勤していたってお店の人に聞いたの。何か思い出さない?」
悩んでいるのか、考えているのか。佐和子はしばらく俯いたままだった。
「ごめんなさい、何も分からないわ。記憶がぼんやりとしていて」
「そっか……新条さんのお母様に聞けば、帰宅していたか分かるかしら?」
前回聞き忘れていたことを思い出す。が、佐和子は顔を上げて硬い表情で首を振った。
「お母様は、お体が悪いの。夜は私が帰る前に寝てしまっているから、聞いても知らないと思うわ。お父様は夜勤も多いし、私には兄弟もないし」
何かまた考えているように黙ったが、首を少し横に傾けて、彼女は悲しそうに、
「倶楽部を作ったのは、私なのよ」
「新条さんが?」
意外な発言に、聞き返してしまう。
「覚悟をして女給の仕事を始めたつもりだったのに、まだ駄目だったのね、仕事がうまくいかなくてひどく落ち込んでいたの。気晴らしに通学途中にあるここに寄るようになったの。そしてここの常連だった小田桐さんや田中さんに出会ったのよ」
まるがここを行きつけにしているのは大分昔からだった、とは後で聞いた話だ。人間になりきるための人間観察の一環というのと、珈琲と洋食が安く食べられるから、らしい。
「うつろな顔をしてる女学生がいるって小田桐さんが心配してくれて、珈琲を奢ってくれたの。私、男の方にそんなに親切にされたことがなくて、つい、もう一度お話しするために、倶楽部の話を持ちかけたのよ。自分でもびっくりしたのだけどね」
日常生活に疲れたのは佐和子だけではなかった。彼もまた気晴らしを求めてここに来ていたので、話はすぐにまとまったらしい。
もっとも彼女に魅力がなければそうならなかっただろうと、史緒は思った。佐和子は美人だし、女の史緒から見ても、柔らかい雰囲気を、守ってあげたくなるような儚げなところがある。それでいて芯が強い。
「でもお願い……」
「言ってないし、言うつもりもないわ。大丈夫、安心して」
すがるような目に、頷いていた。
「小田桐さんには秘密にするから」
「ありがとう」
佐和子は感謝するように微笑して、その透き通った手で、史緒の手を包むように握りしめた。感触は当然ないけれど、何となく暖かい気がした。
何となく気恥ずかしくなって、史緒は話題を変えた。
「そうそう、私実はね、魔法をちょっとは使えるようになったんだ……」
つい白木蓮で話し込んでしまって、外に出たときは夕方の太陽が沈み始めていた。
まずいな、と焦りながら帰り道を急ぐ。出来るだけ早い時間に帰宅するように、まるに言われていたからだ。
事件のことがあったから、魔法の勉強は殆ど独学でやっている。まるは調査のために夜中まで帰ってこないこともしばしばだった。
史緒はふいに道を振り返った。何か人の視線を感じたような気がしたからだ。
しかしそこには日常の風景が広がっているだけだった。商店が並ぶ道に、行き交う商売人、勤め帰りらしい男性、銀座を歩いていそうなモガ。
「気のせいか」
呟いて再び歩き始める。しかし少しも歩かないうちに、また視線を感じた。冷え冷えとした感覚が背筋を襲う。瞑想を続けるうちに鋭敏になってきた五感が、それが嫌なものだと告げていた。
足を速めて歩こうとして、前方に奇妙な黒い影が見えた気がした。くるりと反転して、彼女は学校の方に引き返した。
それが追い込まれているということに、史緒は気付かなかった。
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