第3話 もの云わず詰襟カラスは語る

 観察と推理を展開し始めてから一週間。

 私は詰襟カラスに関するあらゆるものを紐解いていこうと、毎朝向かいの席に腰を下ろして文庫本を読みふけるに少年に注目し、灰色の脳細胞を総動員させて思考の迷宮で時を過ごした。

 とはいっても、言葉を交わすわけでは無いので、そこにある視覚からの情報を精査し、より深く読み解いていく作業を淡々とこなしていっただけだ。

 その結果、私が彼について知り得たものは、限定的ではあったがそれなりの形になった。

 それでは、詰襟カラスの人物像について、私なりの推論をまとめてみよう。


 彼の爪はいつも綺麗に切りそろえられていた。そこには清潔を好む性格と、また繊細な一面が垣間見えた。

 あまり日焼けしていないのを見る限り、運動部に所属している訳ではない。スニーカーから連想できたサッカーについては、授業でといったところだろう。翌日に履いていたスニーカーにはそういった汚れが見当たらなかった。

 ニキビ跡もない綺麗な肌だ。部活に入っているとするなら、文科系であろう。

 優しそうな印象だ。もし彼が笑ったのなら、いったいどんな感じなのだろうか。


 いけない、余計な主観が入ってしまった。容姿について捉える感性は十人十色。客観的推論を展開するのに必要ない。これは却下することにする。


 さて、彼は正面から見る限り、いつも綺麗に髪型が整っている。

 だが私は下車するとき彼の傍を通るので、少年を別の角度から観察することができた。

 そしてこの一週間の内に二度ほど、後頭部に寝ぐせ独特のハネがあるのを私は目にしていた。

 つまり少年は鏡で寝ぐせを直してから家を出ている。

 しかし、見えない部分の寝ぐせについては気が回っていない。

 それほど髪型に感心は無いものの、それなりに他人にこう見られたい、思われたいという意識はあるということだ。

 その他に、読書をする姿から推理できたこともある。

 彼は文学少年というにはまだ経験の浅い、あるいはまだ入り口にいるくらいの若輩者だ。理由は読むスピードが極端に遅いということ。そして恐らく彼はこの一週間同じ本を読んでいる。

 百パーセントではないが、カバーをしてある彼の手の中の文庫本は、厚みからして四百頁弱の小説に違いない。カバーに少し皺があるので、厚みとその皺で同じ本であるという結論に至った。

 そして、少年は時折、口元に手を近づけて、何やら思考しているような仕草を見せる。ひょっとすると手にしている小説はミステリーものなのかも知れない。

 手にした非日常を解明しようとして、自然と出てしまう癖といったところか。

 気付いてはいないが、そのような癖はきっと自分にもあるに違いない。それは他人が気付くことがあっても、己で感知することの無いそんな仕草なのだ。

 つまり私は、彼のそんな仕草を知ってしまった。

 もしかすると、彼も私のそんな仕草を知っているのかも知れない。


 いやいや、待って。また余計なことを考えてしまったみたいだわ。

 主観は切り捨てて、ここは客観的観測に基づく推論に軌道修正しないと。


 とにかく、ここにある状況で導き出せる推論はある程度行き詰まった。

 ここからは、ここに無い状況から彼を考察してみることとしよう。

 人のことを言えた義理ではないが、彼はいつも一人だ。

 今のところ待ち合わせて学校に行く相手がいないということは明白で、私が電車を降りたあとに誰かと合流するかどうかは、流石に私にも解らない。

 ただ文庫本に没入しているその姿勢を見る限り、憶測の域ではあるものの、このまま本を友として目的の駅まで行くのではなかろうか。

 そう考えると、彼の不自然な行動にも説明がつく。

 恐らく、同じように本を友として目的の駅まで行く私に、彼は何らかの親近感を覚えた。そう考えてもさりとて不思議ではない。


 さて、状況の整理がある程度着いたところで、ここから推理の醍醐味である、結論に向かうことにしよう。

 観察と論理によって矛盾点を洗い出し、その一つずつに的確な正当性を当てはめていく。そうすることで、昏い密林の中を蠢いていた得体の知れない影が、人食いジャガーではなくただの子ウサギであったことを証明できるのだ。

 私はこの一週間、彼を俯瞰しつくした。そして行きついた彼に関する論理的結論はこうだ。


 高校生になって電車通学を始めた少年は、大人しめな性格からか、交友関係が広がらず、大多数の学生がそうしているように、スマホを弄りながら通学していた。

 そしてある日、小説を読み耽る少女を見かけ、その集中力に何らかの関心を持った。それはスマホゲームに飽きていたという単純な動機からかも知れない。それでも少年は少女に感化されて、読書をすることに通学中の楽しみ方を求めた。

 これも推測の域を出ないが、少年は集中しきっている少女の開いていた本から、簡単にそのタイトルを知ることができた。そして同じものを購入した。

 周りが見えないくらい没入できる小説とはいったいどんなものなのだろう。少年は単純にそう考えたのだろう。

 そして、普通に協調性のある彼は、なんとなく一人で本を読むのではなく、まるで図書館で本を読む感覚で仲間を求めた。

 当然本を読む仲間は私以外いない。彼は何の悪気もなく約二メートル先の席にてこちらを向いて座り、小説の世界に没入していった。

 当然私が嵌った小説だけに、少年は初心者なりに没入していったに違いない。

 そして、今もこうして、手を口元に当てて少し悩まし気な仕草を見せているのだ。

 つまりはこの少年は先駆者である私を模倣して小説に嵌った、取り立てて主義主張の無い小物だ。

 図書室で本を読んでいる名前すら知らない生徒と同じ感覚で、取り立てて気に掛ける必要もないエキストラなのだ。


 ふふふ、詰襟カラス君。まあせいぜいエキストラとして励みたまえ。


 こうして、詰襟カラス事件は私の中で論理的解決を迎えた。

 目的の駅が近づき、列車がスピードを落とす。

 私は手に収まっていた小説を閉じて、丁寧に鞄の中へしまった。

 ホームに差し掛かった列車は、さらにスピードを落として停車に備える。

 私は腰を上げて鞄の紐を肩にかけると、少年の座る側の扉へと一歩踏み出した。

 停車した列車の扉が軋んだ音を立てて開いて、私は彼のすぐ傍を通って下車しようとする。

 その時ふと、どうしようもない好奇心に襲われた。

 彼の読んでいる小説は、本当に私が読んでいるものと同じなのだろうか。

 もし違うのならば、いったい何の本を読んでいるのだろう。

 私は誰かに読んでいる本を覗き見られるのが嫌いだ。

 小説という非日常に、誰であろうと土足で踏み込んできて欲しくない。

 彼が本のタイトルを覗き見ていたのは、あくまでも私の想像の範疇だ。実際に目の前で軽々しく覗かれでもしたら、きっと不快極まるに違いない。

 だが、ここに来て、私自身が彼の読んでいる内容物に関心を持ち、惹きつけられていた。

 不躾な行為だ。承知しているのに視線が彼の手に収まっている文庫本に向いてしまう。


 いけない。いけないって解ってるのに……。


 そして私は見てしまった。

 小説の開いた頁に、わざと置かれたような手書きのメモ。

 そこには繊細な文字でこう書かれてあった。


「あなたのことが気になります」


 思わず息を呑んで、そのまま電車を降りると、すぐに扉は締まった。

 ゆっくりと進みだした列車を私は振り返る。

 遠ざかろうとする窓の向こうに、少年の横顔が見えた。

 はっきりと視線が合ったのを感じた途端に、少年は慌てて向こうを向いた。

 混乱した頭を整理しようと、私はその場で呆然と立ち尽くす。


 一体どうゆうことなのだ。


 下車寸前に目にしたあのメモを論理的に解釈するとするならば、あれを偶然の類と片付けてしまうのは、どう考えても理屈に合わない。

 彼は本を読んでいた。それは間違いない。

 それなのに、丁度私が下車しようとするタイミングで、あのメモを挟んであったであろう頁を開いた。

 そして、あのメモはどう考えても不自然な挟まれ方をしていた。

 メモに書き記されたあの文字。「あなたのことが気になります」という縦書きの一文は、文庫本を普通に読む文字列と同じ向きではなく横向きに、つまりはそれを目にするであろう誰かに、見易い向きに挟まれていたのだ。

 意図的に仕組まれたメッセージと考えて間違いないだろう。

 そしてそのメッセージに目を留める者とはつまり、彼の傍らを通り過ぎる誰かだ。

 あの駅であの扉から下車するのは私だけだ。つまり、多分、恐らくそれは私に宛てられたものに相違ない。

 メッセージを対象の相手の目につくように誘導した少年と、それを目にした私……。

 そしてすべてが繋がった。

 あらゆる事象から、この一連の不可解なことを纏め上げるとこういうことだ。

 私が詰襟カラスの存在に気付いた時点で、既に彼は意図的に行動を起こしていた。

 向かいの席に座る行為は、本を読み耽る私に自分の存在を認識させる行為に他ならない。

 もしかすると、私の気付くずっと前から彼はそこに座っていたのかも知れない。認識してもらえない日々が続いた彼は、少女の関心を引きつけようと、スマホではなく、文庫本を開くようになった。

 その目論見は功を奏した。周りに感心を持たなかった少女は、小説を手にした少年の存在にようやく気付いた。

 日常の一部に同化し、何の注意も向けられていなかった少年は、少女の中で非日常として認識されることに成功したのだ。

 今思えば、髪型をキッチリと整えていたのも、本を手にする爪を清潔にしていたのも、観察するであろう私を意識していたからではなかろうか。

 彼が私に見せてきた小さな非日常という仕掛け、それは恐らく、己に対する関心を深めさせて推理を展開させるための手段……。

 そして彼の試みは、まんまと成功したのだ。


「ちょっと、ちょっと待ってよ……」


 論理的推論が導き出した仮説は、主観によってさらに信憑性を増して、まず間違いのない結論へと導かれた。

 愛読する探偵小説ではない、恋愛小説のプロローグが、きっと自分の身に起こってしまったのだ。


「明日からどうしよう……」


 鈍行のローカル列車を見送って、私は胸に溜まったものを吐き出すようにそう漏らした。

 誰もいなくなったホームで私は呟く。


 この小説にタイトルをつけるとするならば……と。

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