だって食べたいの

幸まる

香ばしデニッシュ

領主館の子供用広間で、午後のお茶をする為に椅子に座ったのは、領主の末娘。

ふわふわの金髪に愛らしい顔立ちの、三歳のエミーリエだ。

丸いテーブルの向かい側には、一つ歳上の兄アントニーが。

二人の間に、エミーリエと良く似た美貌の領主奥方が座る。


普段なら楽しいお茶の時間のはずだが、エミーリエは目の前に出された茶菓子クッキーを見て、くりりと丸い新緑の瞳を曇らせた。



「お母様、オルガはもう厨房を辞めてしまったの?」


オルガはこの館の厨房で働く料理人で、ベーカリー担当の女性だ。


「そんな話は聞いていないけれど…。どうして?」

「だって、チョコレートナッツデニッシュじゃないもの。水曜は決まってチョコレートナッツデニッシュだったでしょ?」

「ああ、それはあなたが決まって夕食を食べなくなるから、お茶菓子から外してもらったのよ。……でも、だからってどうしてオルガが辞めるという話になるの?」

「コリーが言っていたもの。『オルガは赤ちゃんが産まれるから辞める』って」


奥方が、壁際で立っている侍女達をサッと見た。

その中の一人、アントニーの専属侍女コリーの目線が僅かに泳ぐのを、奥方は見逃さない。


コリーは子供達に人気で、仕事を卒なくこなす明るい侍女だが、噂好きなのが玉にきずなのだ。


「コリー? どういう経緯で娘の耳にそんな話が入ったのか、今すぐにおっしゃい」


美貌の奥方が低く言って微笑めば、周りの室温はぐぐっと下がったような気がするのだった。





「料理長、奥方様が隣の広間にいらっしゃってるみたいなんですけど」

「…………奥方様? 何の用で?」


別棟の食材倉庫で、若い料理人にそう声を掛けられて、厨房を仕切る料理長は怪訝けげんそうにした。


厨房の隣の広間といえば、使用人達が賄いを食べたり、休憩をしたりする為の場所だ。

通常、この館の主である領主一家の誰かが訪れるような事などない。

まだ小さなアントニーとエミーリエは、美味しい料理が出来る現場を見たくて、こっそり覗きに来ることはあるが。


大柄で目付きが悪く、どちらかと言えば無口な料理長が見下ろすので、小柄な若い料理人はわずかにひるむ。


「ええっと、オルガさんをすぐに呼べと仰って…」


料理長が眉根を寄せる。

在庫チェックをしていた冊子を、若い料理人の手に強く押し付け、足早に倉庫を出る。

倉庫を出た途端、午後の日差しが目を刺し、強く顔をしかめた。


気が急いて、光過敏性の目を庇うのを忘れた。

舌打ちして、目を擦りながら厨房を目指した。





厨房横の広間に、料理人のオルガを呼び出した奥方は、何故呼ばれたか分からず困惑顔のオルガにビシリと指を突きつける。


「オルガ、子が出来たことは祝うべきことです。簡単に諦めるなんて言ってはなりません」

「え? あ、あの、何のお話で……」

「子を産むなら仕事を辞めなければならないなんて、ナンセンスです。子を産んでもまた厨房に復帰できるよう、料理長にもきちんと話を通してあげますから……」

「ええ!? お、お待ち下さい、奥方様!」


オルガは両手を大きく振って、奥方の言葉を止めた。

本来ならば、使用人がそのようなことをするのは無礼だが、この話は急いで否定しなければ大変だと思った。


「失礼ですが、何か勘違いをなさっておいででは? 私は妊娠なんてしていませんし、仕事を辞めるなんて、これっぽっちも考えていません」


オルガの言葉を聞いて、今度は奥方が怪訝けげんそうにする。

一体どういうことかと、後ろに控えていた侍女のコリーを見た。

奥方の視線に慌て、コリーが口を開く。


「うそっ、だって昨日聞いたのよ。『妊娠して、このままでは仕事が続けられない。産むなら仕事を辞めるべきだけど、仕事を辞めたくないから子供を諦めるべきか…』って。下働きのと話してたじゃないの!」


コリーは昨日、厨房に湯を貰いに来た際、オルガと下女の会話を確かに聞いたのだ。


隠しているつもりだろうが、最近どうも、オルガは恋をしている様子だ。

相手が誰かは知らないが、燃え上がって子が出来たのだとしても、何の不思議もない。

……はずだ。


しかし、オルガは大きく溜め息をついた。


「確かに話をしたけど、それは妹の話よ」

「……え? 妹?」

「そうよ。別のお屋敷でメイドをしてるの」


奥方は目を伏せて額に手をやり、コリーは目を見開いた。


「そんな…。てっきり、私はあなたの話なんだと思って……」

「誤解よ。もう! 妊娠なんてあり得ないわ」

「あら、あり得る話よ。だってオルガ、最近彼氏が出来たでしょ? いつになったっておかしくないじゃない」


奥方の前でのコリーのあけすけな言葉に、オルガの顔にカァッと血が上る。



「そんなわけないじゃない! どんなに待ってても彼はキスしかしてくれたことないのに……っ」


オルガの叫びと、「失礼します」と言って料理長が広間に入ってきたのは同時だった。



オルガの顔が更に赤くなった。

心底驚いたように目を見開いた料理長を前に、オルガの口からはもう何の言葉も出ない。


オルガの『彼』は、目の前の料理長なのだから。




はああぁ…と低く重い溜め息が奥方の口から吐かれて、広間にいた人々の視線が集まる。


「もういいわ。オルガ、勘違いで仕事の邪魔をして悪かったわね。……さ、行きましょう、コリー?」


立ち上がった奥方から明らかに冷気が漂っていて、コリーは笑顔を引きつらせながら連行されて行った。




「はい、散ってー。仕事仕事」


扉近くに野次馬で集まっていた使用人達を、副料理長が手を振って追い払った。

「なんだ、またコリーか」「オルガはとばっちりだな」と皆が口々に呆れ声を出して離れて行く。


オルガはまともに顔を上げられないまま、散って行く皆に混ざってしまおうと急いで扉に向かう。

しかし、視線を合わせずに擦り抜けようとしたのに、扉の前でオルガの腕はあっさり料理長に捕らえられた。


「今夜、起きてて」


側で突然ささやかれた一言に、思わず顔を上げた。

いつでも険しく見える彼の眼差しの奥に、見たこともない熱を感じて、オルガは真っ赤になって息を呑んだのだった。





日が暮れて、領主夫妻の私室。


従僕に上着を脱がせてもらいながら、この館の主である領主が妻を見遣った。


「聞いたよ、厨房にまで説得に行ったって?」

「ええ、これは急がなければならないと思いましたの。勝手をしたと怒ってらっしゃる?」

「まさか。ここの女主人は君だよ」


美貌の妻は満足気に微笑んで、子供達に「おやすみ」を言いに、侍女と共に部屋を出て行く。


館の使用人に関しては、重大な事でない限りは侍女頭と従僕頭、加えて総取締の執事が采配するものだ。

しかし、今回はそれを全て通り越し、女主人である奥方が乗り出した。

それもこれも、腹に宿ったかもしれない新しい生命を守る為の、慈悲深い想いからなのだろう。


「我が妻は、実に情に厚い賢母だな」


自慢気に従僕に言って、領主は大きく頷いた。




「お母様、オルガ、辞めないの?」


ベットの上で柔らかな布団に包まれて、眠そうな目をしたエミーリエが尋ねた。


「ええ、大丈夫よ。焼き立てのビターキャラメルデニッシュが食べられなくなるなんて、お母様だって耐えられないもの!」

「じゃあ、これからもチョコレートナッツデニッシュが食べられる?」

「勿論よ。クルミのシュガーブレッドも、クリームチーズとベリーのマフィンだって!」


食いしん坊の二人は、とろける笑みでコロコロと笑う。


「オルガの腕は、どこにもやれないわよね」




《 終 》

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だって食べたいの 幸まる @karamitu

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